◆S.O.S◆




 プロローグ ― S.O.Sが聞こえる 

   

 どうしてかしら?

 頭に流れる、あの曲。

 たった一度あの薄暗い部屋で聞いた曲が今でも蘇る。

 このクソみたいなゲームの最中に、繰り返し繰り返し私の中に流れる。

 真っ暗な藪を歩くとき、

あの子の首筋から大量の血があふれ出た時、

少しだけあたしの心を動かした男の子のまだ暖かい唇にキスしたとき、

……いや、ずっと前からだわ。

ずっと前から、

あの曲は繰り返し私の中を流れる。


                    ◆◇◆


 1、キングとクィーン ― The winner takes it all. The loser has to fall ―


最初の威嚇するような銃声に続き、今度は最初の音と明らかに性質が違うマシンガンの銃声が響いた。
 ハンドマイクで増幅された、ぱららら……という玩具のような音が遠くから聞こえる。嘘のような、本当の音。
 あれが玩具の音ならいいとこのクラスのほとんどは思ったはずだろう。

そう思ってないのは、少なくともマシンガンの誰かと、私。私はこのゲームで奪う側に回ろうとしている、あのマシンガンの誰かが私の想像どおりのあいつなら、あいつは最初に決めた目標を達成しようとしているだけだろう。命令をプログラムされた機械のようにただ黙々と。

 今の音は、多分二人をやめさせようと最初に聞こえた銃声とは明らかに違う。本当にあの二人を殺そうと思って放たれた弾丸の音だ。

私じゃないならきっとあいつだわ。そしてあいつなら……。

思ったとおりに、マシンガンの銃声と、ご丁寧に止めまで刺したらしい銃声が二発響いた後残ったのは2人の死体だった。
 このゲームを止めさせようと『説得』した二人は無残に血だまりの中へたおれた。それは、二人の計画が駄目になった。と言う事だけでなく、このゲームにおいて、二人が叫んだ計画ができない事あると言うのを逆に皆に知らしめた。
 ゲームのルールを無視して全員で一致団結し、ここを逃げ出すその計画は、確かに選択肢の一部として不可能では無かった。にもかかわらず、二人がそうなった今では、絶望的な雰囲気が全生徒の間にそれが全く不可能であるかのような錯覚を覚えさせ、その選択をさらに実現困難にさせた。もはや本当に不可能に近いまでに。もう誰もそんな事を声高に叫ぶやつもいないだろうし、そんな事を言われて信じるやつもいないだろう。

 よかった、死んで。

 光子が心の中でほっと安堵した。
 誰かがやらないのなら自分でやりたかったぐらいだった(もちろん「殺り」たかっただ)が、何分適当な武器を持っていなかったのだ。
 最初の銃声が聞こえた時、二人が死ぬのなら構わないが、このままあの二人に逃げられては困る! と思わずあたりに何か武器が無いか見回した。
 その後すぐ二回目のあの銃声が聞こえたのだ。少なくとも、光子と同じ事を思った人物がもう一人はいる。そしてそれはあいつに違いないのだ。

王、キング、最も強いカード

その人物の事に思いをはせ、光子が唇をかんだ。このゲームにおいて、他者が強い事は脅威だ。それが自分よりも強いかもしれない場合はなおさら。

あんたは、このゲームに乗る方に賭けたのね。

光子はそう確信した。このゲームに乗るか、それとも政府と戦ってこのゲームをぶち壊すか。
 光子が思っている人物はどっちに転ぶか判らなかった。だが、今はもう確信している。あんなに鮮やかに、攻撃的にこのゲームを進められるのは一人しか居ない。そしてそれは光子の考えている人物に間違いないだろう。
 あいつはこのゲームに間違いなく乗っている。光子と同じく「やる気」になっている。
 それは、すなわち光子にとってはその人物の攻撃から自分を守らなければならない事、その人物を攻撃して殺さなければいけないという事だ。それはとても困難で危険だ。

それでも光子はこのゲームを終わらせたくはなかった。いや、終わってしまっては困る。
 万一皆があの二人の話に乗ってしまうような事があれば一大事だった。(もちろん、その時はその時で自分一人が生き残れるように画策するつもりだが、自分にとっては、一人一人潰していく方がやりやすいように思えた)

あいつはなぜこのゲームを続けていく事を望んだのかしら?

光子は少しの時間だけそう思い、一瞬の後その思いを振り払うように首を振った。それは考えたって意味の無い事だ。考えなければいけない事は他にもたくさんある。

このゲームを勝ち抜き、かつての仲間たちの屍を踏みしめて、殺し合いの王国の支配者になる事。

あんたが勝つとキング、私が勝つとクィーンね。

自嘲気味に光子が心の中でそう呟いた。最強の存在は二人もいらない。死体の山の上に作られた王座は一つしかないのだ。

あたしは、正しい。絶対、負けない。

光子がそう心に強く思った。これまで生きてきたうちで何度もそう思ってきたように、強く。

弱者から強者へ、奪われる方から奪う側へ、支配される方から支配する方へ。

あたしは絶対に勝ってみせる。このくそったれなゲームと、このくそったれな人生に。

これまで奪われた全てを取りもどし、あたしの存在と生きてきた全ては無駄じゃ無いと証明してみせる。あたしを蔑んできたやつらをざまあみろと見返してやる。いつでも私に唾を吐いてきたこの世界を壊してやる。

そうすれば、今度こそあたしは救われる。誰にも頼らずに、自分一人であたしはあたしを救ってみせる。

そう思った次の瞬間、光子はおどけたような皮肉げな笑みを浮かべた。その笑みが誰に向けられたものなのかは判らないが。

……なあんちゃって。

あたしの人生、そんなに力むほど上等なものじゃない。
 出来なかったら出来なかったで、どうでもいいわ。

ひょっとしたら、あの笑みは自分や母親、その他いろいろなものをひっくるめて全部に対して向けたものかもしれない。

 

 ああ、またあの曲が頭に流れてくる。


                    ◆◇◆


2、たった一人の宇宙人 ― You seem to far away though you are standing near ―


人が動く気配と、軽い物音でふと目を覚ました。あたりは薄暗い。ベッドで目を覚ました光子の目に最初に映ったのは、よく鍛えられた上半身だった。

鍛えてはいるが、まだ大人になりきっていない少年独特の線の細い体を、綺麗だわ。とまだはっきりしない頭でそう思い、光子は視線を上に上げていった。

引き締まった腰のあたり、形よく筋肉のついた二の腕、骨ばった肘と手首。男の癖にほっそりした長い指で、ペンをくるくる回している。

「起きたのか?」

 まるで美術室にある彫刻みたいに均整が取れた体に見とれていると、光子の頭上から声が振ってきた。その声でぼんやりとしていた光子の意識が戻る。

 しまった!

 光子が反射的にがばっと跳ね起き、あたりを見回した。

 財布は? 服は? 強姦されてないかしら? 変なビデオや写真に撮られたかもしれない!

 なんてどじな事してしまったのかしら。

 光子が自分で自分を毒ついた。
 光子のような女の子にとって、他人の部屋に必要以上に居る事や、ましてやそこで眠り込むなど無用心の極みだった。寝ている間に何をされるか判らない。だから、いつも「ビジネス」が終わるとさっさとその場を離れたのに。

 ちくしょう!

 もう一度誰にとも無く毒ついて、光子は長い髪をかき上げながらあたりを見回した。
 ここは何処で、あたしは誰といた?

「隣で騒がないでくれないか? 考え事をしてるんだ」

 もう一度、先ほどと同じ声がした。大声を上げているわけでもないのに、人を従わせる力のある声だった。その聞き覚えのある声に光子が平静に戻った。

「桐山……」

 そうだった。桐山と一緒だったんだ。

 脱力すると同時に、得体の知れない警戒心を光子は感じた。上手く言えないが、こいつは危ないというか、隙を見せてはいけないと本能的にそう思ったのだ。
 だが、桐山が今光子に危害を加えるわけではないと言う事も判る。それなのに何故桐山を危険だと感じたのか不思議だった。

 改めて光子は桐山を見ると、桐山は光子とベッドに入った時のまま、大きくてふかふかの枕を背もたれにして、上半身を起こしていた。
 左手には何か雑誌のようなものを持ち、右手でペンをくるくると器用に回している。
 光子は黙って桐山を見ていたが、桐山の方は光子に何の興味も持ってないようだった。ただ目の前の雑誌をいつもの表情で見つめながら、時々ゆっくりと瞬きを繰り返している。光子が話し掛けなかったら、桐山はいつまでも光子を無視していそうだった。

 やがて、桐山の動きが一瞬止まったかと思うと、右手のペンでさらさらと何かを書き出した。手に持った雑誌に何かを書き込んだ後、全く興味がなくなったのか、その雑誌をぽんと床に放り投げる。

 何をしているのかしら?

 桐山の行為が理解できなくて、光子も行動を起こすのを少し躊躇った。
 光子と寝た男達は、たいていもう一度光子としたくて心にも無い甘い言葉を吐くか、何枚かの札をちらつかせるかのどちらかだった。
 桐山の行動はそのどちらでも無く、全く無視されるなんて初めてだったのだ。

 そもそも、誘ったのも光子の方だった。
 光子はお金が欲しくて、桐山はお金を持っている。
 光子にとってはそれで十分だった。桐山は女の子には不自由していないだろう。それなのに何故自分とこうしたのか桐山は桐山なりになにか理由があるはずだが、そんなことは知りたくないし、光子の経験によると、そんな事を知っても害になる事はあれ得することは何も無かった。光子は桐山と寝て、桐山は光子にその対価を払う。ギブ・アンド・テイク。それだけだ。

 それだけの筈だったのに、桐山といた数十分の間、光子は余計な思考が次々と頭をよぎっては思わず口に出して桐山に質問してしまいそうだった。
 それはとても危険だ。
 桐山は怖いものなど無い人物だったが、自分の事を詮索されるのは嫌がっている。

もしかしたら、桐山が光子の誘いに乗ったのはこんな理由かもしれない。
 桐山の周りに群がる他の女の子なら、桐山は簡単に抱けただろう。だが、桐山の彼女を自称したい愚かな彼女達は、桐山に余計な事を詮索し、ちょっかいを出したに違いない。「家に連れて行って」「側にいて」「あの女を近づけないで」etc.etc...

桐山は、光子がビジネスと割り切って余計な事を詮索しないと思ったからこそ光子の誘いに乗ったのかもしれなかった。

契約が成立した後、桐山山が光子を連れて行ったのは、小奇麗なマンションの一室だった。
 ポケットから鍵を取り出すと、無造作にドアを開けて光子に入るように促した。どうやら、そこは桐山個人のマンションらしく、綺麗に掃除はされていたが、殺風景な所を見ると、たまにしか使っていない部屋のようだった。
 しかも、驚いたことにはそこは桐山とその仲間達がいつもたむろっているマンションとは別の部屋だったのだ。
 いろんな意味で内心光子は驚いた。
 自分の自由になる部屋を二室も持っている事、多分部屋の中の雰囲気から推測するに、この部屋のことは沼居や月岡も知らないだろうと言うこと。
 ここだけでなく、他にも誰も知らない隠れ家として、いくつか他のマンションを持っていてもおかしくなかった。

こいつ、誰も信用してないのかしら?

と光子は思った。わざわざ仲間達の知らない部屋を借りるのは何のためだろう? 何か重大な秘密でも隠されているのかと部屋の中を見回してみたが、そこには共通点の何も無いいろいろな物が無造作に置いてあるだけで、特に秘密が隠されているようには見えなかった。
 ラジオ、テレビ等の家電製品や、ギターやフルートなどの楽器類、さまざまなジャンルの本や光子に何か良くわからないものまでがただ無造作に「置いて」あった。それが長い間使われていないと言うことは、少し被った埃や、置いてある位置でわかった。
 あまりにも不自然なそれに疑問を感じずにはいられなかったが、賢明にも光子はそれらを桐山に問うことはなかった。

桐山との行為は、光子の経験によるとかなり上手い部類に入った。
 この年頃の男の子にありがちな自分勝手さも、性急さもなく、逆に光子の方が焦らされて懇願した。
 一度だけ閉じていた目を開けて光子が桐山の表情を伺うと、多少辛そうに眉を寄せたりはするが、いつもと変わらない桐山がそこにいた。

桐山と目が合った。瞬間感じたのは心の中の一番やわらかい所を、ざらついた舌で舐められるような変な違和感

ぞっとした。幼い時、真っ暗な洞穴を覗いた時のような恐怖を感じて慌てて目を閉じ、快楽だけに没頭しようと意識を集中した。
 様々な事を経験してきた光子には、多少のことでは驚かない自信があったが、この桐山の目には恐怖した。

なぜ、あんたはそんなに平静でいられるの?

まるで、桐山が人間ではない別の生き物のように思えたのだ。
 別の星から来た宇宙人みたいなそんな感じを覚えた。
 とにかく、自分とは違う何か。話が全く通じない恐怖のようなもの。
 普通、その行為をする時は、原始的な欲望の前にその人間の本性が暴かれ、どんな人間でも多少コントロールが効かなくなるものだ。
 桐山にはそんなことが全く無かった。桐山が行っている光子との行為は、愛の儀式でも、欲望のはけ口でさえも無かった。まるで化学の実験のように無機質で乾いている。そこには、「人間らしさ」が徹底的に欠けていた。桐山の目を思い出すと、吐き気さえ覚えた。

何で判らなかったのかしら?

光子が桐山に抱かれながら自問自答した。

あの目は光子を映すけれど、光子を見てはいない。一度足りとも、桐山は光子を人間として見た事など無かった。
 光子だけではない。沼居も月岡も、たぶん自分の親さえも、自分さえも。

こいつは私達とは違う種類の人間なんだわ。

いや、人間でもない。かといって鬼や悪魔でもない。鬼や悪魔と言う存在も、桐山に比べればまだ人間に近かった。なぜなら、そこには明確な意思がある。
 だけど、桐山の中には何も無い。桐山の瞳の奥には、何も無い。ぽっかりと開いた暗闇だ。



シーツもまとわずベッドから裸のまま抜け出し、無言で光子は桐山が放り投げた雑誌を手にとった。締め切ったカーテンの隙間から夕日が差し込んでくる。
 カーテンを締め切って薄暗かった部屋に、一筋の濃いオレンジ色の光が入ってきた。光子がその光を目で追っていくと、光はまっすぐ桐山を目指すように照らし、軽く目を閉じた桐山の顔に陰影をつける。端正なその表情は、とても美しかった。

ふと、光子が何か小さい音で曲がかかっている事に気が付いた。その音源が近くにあるラジオだと判ると、片手に雑誌を持ったまま手を伸ばし、ラジオのボリュームを上げた。

So when you’r near me darling

can’t hear me S.O.S

The love you gave me,nothing else

can save me, S.O.S

 少し懐かしい感じのする曲だった。あまり音の良くないラジオから、胸を締め付けられるような切ないメロディが薄暗い部屋にそっと流れる。
 桐山はじっと動かない。光子も何も言わなかった。
 桐山を照らすオレンジの光がだんだん下へ下がって、薄れてゆく。夕暮れ時の寂しさと、桐山と、かすれたラジオの曲。光子はなんだか無性に懐かしい昔を思い出して、涙が出そうになった。

この時間がいつまでも続けばいいと思ったが、曲は終わり、DJの声がラジオから聞こえてきた。
 ラジオから流れてくる言葉は英語で、もちろんこの国ではそのラジオのプログラムは聞く事も禁じられていたし、まともにすれば聞く事も出来ない。どうにかしてアメリカの電波を拾っているらしかった。

「この曲……」

「アバのS.O.S」

光子が言いかけると、目を閉じたまま桐山がすぐに答えた。
 別に、この曲が好きとか好きでないとかそういう感情はまるで無く、辞典の該当のページを開いたところに載ってる文章を読み上げたような口調だった。

「凄いわねこのラジオ、どうやって……」

「少し手を加えたんだ。欲しければ持っていけばいい」

光子がまた言いかけると、また桐山が即答した。
 「米帝」のチャンネルを聞く事が出来るそのラジオは明らかに法律違反だったのだが、桐山にはそんな事関係ないらしかった。
 欲しがる人はかなり高価な金を払ってそれを手に入れる貴重品だろう。それを、いともあっさりといらない。と言った。
 それに、桐山の言う「少し手を加えた」がどれほど技術が要る事かは判らなかったが、たとえどれだけそれが難しい事でも、桐山はあっさりと言うに違いない「少し手を加えた」

所詮桐山にとってそれはその程度でしかない事なのだ。いや、これだけでなく、どんな事でも。

この執着心の無さは、美徳では決して無いだろう。

光子は何も言えなかった。
 どうしてだか判らないが、心の奥が寂しかった。
 少し自問自答して、それが桐山が何にも執着を抱かない事、自分に少しも執着してくれないからだと判って驚いた。
 でも、どうしようもない。「寂しい」なんてとっくに忘れていた感情が蘇り、光子は少し慌てた。桐山と居るとペースが乱れる。それは光子にとって良くない事に思え、気持ちを切り替えようと焦った。

それきりその事を考えるのは止めようと思い、思考を変えようと光子は先ほど桐山が放り投げ、自分が手に取った雑誌を広げた。
 最初に開いたページはちょうど桐山が見ていた所だった。
 ずっとそこを開きっぱなしにして折り目がついていたのだろう。そこには、でかでかとした字で「この問題が解けたら一千万円!」と書いてあり、下には難しそうな数式が並んでいた。
 それには光子も見覚えがあった。最近やたらとテレビや雑誌で取り上げられている企業のキャンペーンで、数式の天才と呼ばれている有名な数学者の出した問題を解いたら一千万円をくれると言う内容だったはずだ。絶対誰にも解く事ができないと言う触れ込みで、共和国内だけでなく、この国には珍しく世界中に告知していると言う話だった。
 そのページには、光子にはさっぱり理解できなかったが、まるで、雑誌についているクロスワードパズルを解いているかのように、無造作に桐山の字で難しそうな数式が並んでいる。
 Aと書いた後に、数式が書いてあった。
 Aって、アンサーの事かしら? そう思った光子が、先ほどから目を閉じてじっと動かない桐山にようやく声をかけた。

「この問題、解けたの?」

「ああ」

「一千万円もらえるって書いてあるわよ」

「興味ないな」

あっさりと桐山は返事した。
 頑張ったんだ、すごいだろう? やった! このお金で君の好きなものなんでも買ってあげる。
 光子の知っている男の子と言う生き物なら、そう答えるはずだ。だが、桐山の口からはそんな言葉は一度も出てこなかった。

桐山にとっては、問題が解けるまでは興味があった。
 これは、久しぶりに桐山の興味を長時間引き付ける物だった。だが、答えが判ってしまったそれにはもう興味は無い。
 長時間とは言っても、絵を描くより、バイオリンが弾けるようになるより長いと言う程度だったが。問題が解けて嬉しいと言う達成感も何も無かった。ただ問題を解いて、終わり。
 興味があるというのも誇張であった。ただ目の前ににあったからやったと言う方が近い。便宜上興味という言葉を使ったが、本当はたまたまそれが目の前にあって、それをやってみるのも悪くない。と思ったにすぎない。
 そしてそれを表す言葉は日本語にはない。その感覚は、桐山以外の日本人(たぶん世界中の誰にも)には判らないからだろう。

そうだわ……とまた一つ光子は気が付いた。
 桐山の言う事には、感情が何一つ入っていない。
 たとえば、酷い怪我をした人が居る、桐山は「病院に行ったほうがいい傷だな」と言う。
 桐山は、事実しか言わない。可愛そうだな、痛そうだな、とか、その怪我を見てどう思ったかを言わない。いや、言えない。

何故なら、何も感じていないから。感じていない事を言う事は出来ない。最初から判らないのだ。

あんたは空っぽなのね、桐山。

光子はそう思って俯いた。光子は、自分が桐山の事をかわいそうだと思っている自分に気がつき、驚いた。

私が? 桐山をかわいそうに思っている?

何故? 桐山はこのあたりでもかなり大きな会社の息子で、容姿端麗、勉強も出来る。
 欲しいものはすぐに手に入り、やろうと思って出来ない事などほとんど無いだろう。その桐山を、よりにもよって何故私が?

ああ……。と光子が小さくため息をついた。

何もかも乱暴に奪われた私と、最初から何も持っていない桐山。どちらがより哀れかしら?

ふとそんな事を思った。二人に共通するのは、他人の同情など要らないと言う所だろう。

光子は他人にそんな風に思われるのはまっぴらだったし(利用はするけれど)、桐山においては、何故同情されるのかも判らないに違いない。

今なら良く判る。なぜ桐山がこの部屋の事を仲間に言わなかったのか?
 それは、誰もこの部屋の事を聞かなかったから。
 何故桐山が自分に誘いに乗ったのか?
 それは、ただ私が誘ったから。(そしてそうするのも悪くないと思ったから)

先ほど、桐山の事を宇宙人みたいだ。と思った感覚がまた蘇ってきたが、今はそのわけが良く判る。
 桐山の中には何も無い。その瞳の奥には、ただ真っ暗な闇が広がるだけだ。
 その闇が怖い。闇の中に吸い込まれそうで怖い。
 だから光子はそれを見る事が出来なかった。だってそれは、本当は闇ですらない。何も無い、虚無そのものだったから。
 あんまりそれを見つめつづけると心が壊れてしまう。それを恐怖するのは、人間としての本能だろう。
 桐山の虚無は、光子の心を裸にした。
 桐山の瞳の奥のは空っぽで、底すらない。桐山の瞳を覗き込んでも何も無くて、何故か覗き込んだ自分が見える。
 桐山を見ているのに、桐山の瞳に映る自分が見える。忘れていた(または忘れようとした)自分が見える。見たくないのに見えるから目をそらす。原始的な恐怖は、閉じ込めていた光子の他の記憶も呼び覚ます。忘れていた感情をほんの一時だけ取り戻す。幼いころ、とっくの昔に死んだ光子を蘇らせる。ただし、それはやっぱりゾンビに過ぎないのだ。

でも……と光子は思った。

常識も思考もまるで違う世界に一人で放り込まれるのは、どんな気持ちなのかしら?

この地球上にたった一人しか居ない宇宙人は、どんな気持ちなのかしら?


                                                                                               NEXT

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