Rescue me




1 Can you feel the power ?


「お客人」

 気取った余所行きの口調の声が、館を離れ庭を散策するマ・クベにかけられた。

振り返ると、シンプルな白いワンピースを着た若い女が東屋のテーブルに座っている。テーブルの上には白いティーカップ、読みかけの本を伏せて、きらきらと反射したコロニーの太陽の光を周りにちりばめながら、口元に意味ありげな笑みを浮かべてマ・クベを見ている。

「マ・クベ殿ですか?」

 初対面のはずの女が、マ・クベの名を呼んだ。マ・クベが名前を呼ばれた驚きを内心に隠しながら、そうですがと女に返事を返した。

「この別荘に飾る美術品を持ってきてくれたのでしょう? どうしてこんな所へ? 館の方には居辛かったのですか?」

 挨拶も抜きに、そう言って小生意気な表情をした女には見覚えがある。

 ジオンの公女、キシリア・ザビだ。一介の文官であるマ・クベには紹介してもらえなかったが、されなくても顔は知っている。

「ええ」

 キシリアの挑発的な言葉を無視してマ・クベがそう頷いた。せっかく館から遠ざかり、好奇の目と下らない質問から解放されたというのに、詮索好きの小娘に掴まってしまい、運がないと思っているのは、その表情から伺えた。しかも、わざと浮かべた表情で相手にその事を伝えている。

「貴女こそ、こんな所にいてよろしいのですか、キシリア様。貴女の部屋に飾る絵もあるはずですよ」

「ふふ、お互い自己紹介は必要ないということらしい。私もあの場にいたけれど、あまりにも下らなかったので抜け出したのです」

 マ・クベの質問に、キシリアがそう笑いながら言った。たわいない会話の間に、一瞬、青白い火花が散るような緊張が走った。

 どこまで深入りするか、どこまで適当にあしらっていいのか、どこまで持ち上げるべきか……。何気ないふりをして、お互い相手を探っている。

「貴女を知らぬ者はここにはいないでしょう」

「貴方を知らぬ者もね」

 キシリアの言葉を受けてそう言ったマ・クベに、キシリアが間髪入れず言い返した。

 ジオンの公女であるキシリアをマ・クベが知っているのは判る。だが、マ・クベの事をキシリアが、いや、この別荘に集まった皆が知っているというのはおかしな話だった。

「悪趣味な事。皆、そなたがどんな男か見たくて呼んだのだ。さらし者になると判っていて、よく来たのですね。平気なのですか? プライドが無いのか、それとも別の理由がおありになるのか?」

かなり失礼な事を、ずけずけとキシリアが聞いた。

 今日マ・クベがこの別荘に来たのは、表面上は「ザビ家の別荘に相応しい美術品を選ぶ」という役目を負わされての事だったのだ。それと共に、ちょっとした美術鑑賞会がある。とだけ伝えられていた。

美術品に詳しいとはいえ、マ・クベ自身も、どうしてそんな役を自分にさせるのだろう? と疑問に思っていたのだが、美術鑑賞会が始まってすぐに疑問は氷解した。

会には、マ・クベには見覚えのある政府や軍の高官と共に、「美術品の専門家」とやらがいて、マ・クベが選んだ物に、「だから素人は……」といちいちけちをつけては皆で笑いものにするのだ。

美術品を選ぶ。という名目のもと、実際はマ・クベを笑いものにするためにこの会は催されたのだということが嫌でも判った。

高官たちが、一介の文官に過ぎないマ・クベをわざわざこんな手を使って笑いものにし、キシリアに「さらし者」だと言われる事となった理由は、少し前に、ジオンを揺るがしたスキャンダルに関係があった。



そのスキャンダルは、ある官庁で、裏金作りが密告された事から始まった。

裏金を作るよう指示され、莫大な金額を作ったのも、それを密告して発覚させ、結果多くの有力な官僚を失脚させたのも、キシリアの目の前に居るこの男だったのだ。

「これ以上ジオンを裏切る事はできない」と口には出しながら、周到に準備していたマ・クベが仕掛けた駆け引きに、誰も太刀打ちできず、結局事は全てマ・クベのいいように運ばれた。

 不正に手を貸しながら、逆に上手くそれを利用して、証拠と引き換えに、自分に有利なよう司法機関と取引をしたのだ。そこで、自らの身の安全と、金銭面でかなり良い条件を手に入れたらしい……と事情通たちは囁きあった。

 マ・クベがザビ邸に呼ばれたのは、よほどそれが悔しかったのか、マ・クベにしてやられた恨みや鬱憤を、ここで非公式に晴らそうという卑小な理由からだったのだ。恨みを晴らすと言っても、せいぜい嫌味を言ったり、嫌がらせをするのが関の山だったが。

この件でマ・クベが犯した唯一の失敗は、あまりにも鮮やかにやりすぎた。という事だったかもしれない。

そんな経緯で、マ・クベは一部では相当名を知られていたのだ。だから、ザビ家の公女であるキシリアも、一文官にすぎないマ・クベの名と顔を知っていた。

安全な場所から、自分が絶対に正しいと思い、大勢でマ・クベを責め立てる人たちは、他人を痛めつける喜びに目をぎらつかせ、マ・クベ嘲笑いながらを口々にこう言い合った。「上司を売った恥知らずだ」「汚い手を使って上手い事金を手に入れやがった」「奴も犯罪者ではないか、なぜ捕まらんのだ!」と。

マ・クベを遠巻きにして、または直接、軽蔑の目を向けながら唾を飛ばして侮蔑の言葉を吐いては、嫌悪や嫉妬をぶつける。自分たちのほうがよっぽど醜い顔をしているのには気が付いていない。

その、普通の神経の持ち主なら耐え切れぬ針の筵を、キシリアの見る限りでは、何を考えているのか判らないポーカーフェイスで、マ・クベはのらりくらりとかわしていた。



「どちらでもご自由にご想像ください」

 キシリアの言葉にも、美術品を選ぶ席でそうしていたように、優美な柳の枝のごとく、当り障り無くマ・クベが質問の答えの明言を避けた。判らぬとでも思っているのか、口の端を皮肉げに吊り上げ、笑みらしきものを浮かべてはいるが、目は笑っていない。

「ふ……ん。はぐらかすのだな、用心深い事。貴方の事で、皆持ちきりです。『恥知らずのマ・クベ』と呼ばれる気分は?」

 マ・クベの防御が固いと見るや、自らの心の内も悟られるのは不味いとでも思ったのか、キシリアがティーカップを持ち上げ紅茶を一口飲んで表情を隠した。より失礼な質問を発し、射るような目でマ・クベを見る。

公女たる自分にマ・クベが逆らえぬ事をキシリアは知っている。先ほどからこの公女は、詮索好きな小娘のふりをして、マ・クベを挑発するような事ばかりを言ってはその反応を伺っているのだ。

マ・クベの方はマ・クベの方で、慇懃無礼な態度で表面上はキシリアを立てながら、その実、皆のイメージするような「恥知らずのマ・クベ」を演じる事によって、自らの本心を隠し、キシリアを追い払おうとしている。

キシリアは公女という立場を利用し、マ・クベは自分の悪評を活用し、建前を駆使して自分の本心を隠して、相手の本音を引きずり出そうとしているのだ。

 館から漏れる笑い声が、風に乗って二人の間を流れた。その楽しげな笑い声が、二人の間の切羽詰った一瞬の沈黙と緊張をより際立たせる。

「別に、なんとも思っておりませんな」

 キシリアの質問にも、表情一つ変えず、マ・クベがそう言った。

「なんとも思っていない? 呆れたな!」

 マ・クベの答えに、逆にキシリアの方が駆け引きを忘れて高い声を上げた。マ・クベのほうが一枚上手だったらしい。

「他人がどう言おうと勝手です。同様に、私がどう思おうと勝手なはずだ。反省を強いられるいわれはありません。それに、私は退職する身ですから」

 だが、マ・クベの方が優勢だったにもかかわらず、あえてマ・クベは自分の内心を吐露した。

キシリアの態度が綻んだのを合図のようにして、なし崩し的に状況が一気に変化する。

完璧に本音を隠し通してきたマ・クベの心境が変ったのだ。

この話は、これで最後にしたい。話すまで付きまとうつもりなら、さっさと気が済むようにしてやって、離れたい。

 何が彼にそう思わせたのかは判らないが、マ・クベがそう思って一気に言うと、何故かキシリアが目を輝かせた。

「退職してどうなさるのか?」

「長年の夢だった、美術鑑賞と歴史研究、読書三昧な生活を送りますよ」

 なぜそんな個人的な事を聞くのかと思いながら、半ば自暴自棄のようにキシリアの求めるままに質問に答えた。

 さあ、ここまで話したのだから、もう解放してくれ。と、拒絶のオーラを纏うマ・クベを面白そうに見ながら、キシリアがマ・クベの思惑をあからさまに無視して口を開いた。

「……そなた、噂通り面白い男。興味が湧きました」

 マ・クベが耳にしたのは、放して欲しいとの希望に反した、少し意外なキシリアの言葉だった。

 自らの良心には恥じる事はしていないが、世間一般にあまり芳しくないと思われている事をしたのは判っている。潔癖な若い女性なら、反射的に嫌悪を抱くものだと思っていた。それを、興味が湧いたと言われるとは、思ってもみなかった。キシリアが自分に付きまとうのは、会場にいた人々と同じように、安っぽい正義感と他人を責める快感のためだと思っていたのだ。

 マ・クベの内心の戸惑いを知ってか知らずか、キシリアは熱心に言葉を続けた。

「さるお方が、そなたの事を誉めていらしたのです。いけ好かないが、大した奴だと。そなた、そなたに汚い仕事をさせていた上司がとてもお嫌いだったそうですね。嫌な仕事をさせていた嫌いな上司に復讐して、しかも多額の退職金を奪い取り、長年の夢だった悠々自適の生活を送る……。その上良心の呵責は全く感じていない」

マ・クベが怯むほど、感心したようにキシリアが一気にそう言った。

「本当に、大したものだ……」

心底感嘆したように付け加え、ほーっとため息をついた。反論しようとマ・クベが口を開きかけると、またそれを遮るように、キシリアが言葉を続ける。

キシリアとの長期戦を避けたいと思って言ったマ・クベの言葉は、逆にキシリアを勢い付かせる事となり、判断ミスに内心舌打ちした。 

「貴方の事を買っていらした方は、こうも仰っていた。『あれだけの能力を埋もれさせるのは惜しい』……と」

キシリアの意味ありげな言い方に、口に出しかけた適当な言葉をマ・クベが飲み込んだ。確かに、さる政府高官はそう言って、マ・クベの退職を止めた。恐らくはその人が、どのような繋がりでかは判らないが、キシリアにマ・クベの事を話したのだろう。

キシリアが、ただの好奇心でマ・クベの事をいろいろ聞いているのではなく、マ・クベの思いもよらない事を考えているのではないかと思い、マ・クベは慎重に思考をめぐらせた。

 ザビ家の別荘にキシリアがいるのは当然かと思っていたが、今このタイミングでキシリアが自分と話しているのはわざとではないかという気がした。

 もしや、キシリア・ザビは、わざわざ私と話すためにここへ来たのだろうか?

 だが、何のために?

 マ・クベの中で、疑問符と共に、警戒音が鳴り響いた。慎重に行動せよ。と、理性が言っている。

「閣下の仰っていたのは、本当だったようですね。私も貴方の事を気に入った。悪いのは貴方じゃない。貴方の上司が馬鹿だったのです。貴方を使いこなせなかった」

 マ・クベにそう言いながら、キシリアが東屋を数歩出て芝生を踏みしめた。軽やかに数歩歩く。

「私、士官学校を卒業して、こんど軍に入るのです」

 エメラルドグリーンの美しい芝生が広がる庭を歩きながら、キシリアがそう言ってくるりとマ・クベに向き直った。

「単刀直入に言う」

 十以上も年上のマ・クベの目を、臆する事無く真っ直ぐ見詰めながら、キシリアが微笑んだ。優しげな微笑と違って、言葉は、拒否する事を許さない支配者の色が濃く出ている。

「そなたが欲しい」

 それは、愛の囁きのように、情熱的な告白だった。

興奮のためか、キシリアの頬はうっすらと桜色に上気して、唇の端を吊り上げるように笑っている。

何かに酔ったように潤んだ瞳はきらきらと輝き、その時のキシリアは神がかったように神秘的で美しかった。

マ・クベと駆け引きをしていた冷静沈着な姿をかなぐり捨て、本来彼女が持っている情熱に取り付かれていたのだ。

キシリアよりも顔の造成が美しい女など、マ・クベは何人も見てきた。だが、キシリアの身の内にある若さと情熱、煌くような才気が、その女達の薄っぺらい美とは比べ物にならないほど、その時のキシリアを美しく輝かせていた。

「貴方は多分、目的のためなら手段を選ばない男。でも、良心が無いわけではない。貴方は自分の中に確固とした判断基準を持っていて、それに従っているだけ。世間の常識に囚われる事無く、物事を実行できる強さをお持ちだ。貴方が大切だと認めたものには、大きな力を発揮するはず。その力を、私の為に使って欲しい」

 怖さを知らない子供の無鉄砲さで、全身全霊をかけてキシリアはマ・クベを欲している。

 これほどまで熱い感情をぶつけられたのは、初めてだった。相手の都合や、断られる事など考えていない。本能のままに相手を求めるキシリアがそこにいた。

 現実を知るにつれ、冷めた態度を取る事を覚えたマ・クベには、そこまで自分を曝け出す事のできるその若さが少し羨ましく思え、同時にその甘さに反感も覚えた。無防備な心を攻撃されたら、ひとたまりも無い。それを判っているのか?

「……初めて会った人間の事を、良くそこまで想像できるものですな。軍人ではなくて、精神科医にでもおなりになったらどうです? 仕官の件はお断りします。もう宮仕えはまっぴらなのでね」

 憑かれたように話すキシリアに、マ・クベが嫌味をこめて冷たく応じた。何故か、わざとキシリアを傷つけるような事を言っているのは判っている。軽くあしらえぬのは、自分の内心を探られるような事をされるのは好きではないからだ。世間知らずの小娘のままごとに付きあわされるのは真っ平だからだ。そう思ったからだ。と、自分に言い訳をした。

「私はそなたの主人たるに相応しくないと?」

 マ・クベの冷たい言葉に、キシリアの表情がすうっと変わった。熱くなって我を忘れた心に冷水を浴びせられ、キシリアがいつもの冷静さを取り戻した。だが、まだ熱の余韻が燻っているのか、不満そうにマ・クベにそう尋ねる。

「貴女よりも、美術鑑賞と読書三昧な生活の方に魅力を感じるからです。失礼」

 もう沢山だと、マ・クベが言外に言い捨て、くるりと背を向けた。

このおかしな女の相手をするくらいだったら、まだ館で馬鹿を相手にしている方がましだ。

 そう思ったマ・クベだったが、身の安全を求めるマ・クベの本能が、無意識のうちにキシリアを避けたのに気が付いていない。避けるのは、惹かれている心の裏返しだ。こんな小娘を、意識しすぎて上手くあしらえない。マ・クベにあるまじき事だった。

「それだけの能力を持っているのに、つまらない人生を送っているのですね」

 馬鹿にしたようなキシリアの声が、立ち去ろうとしたマ・クベの背を打った。思わずキシリアを振りかえる。

 このまま立ち去れば、おそらく二度とキシリアに会うことも無いだろう。長年の夢だった平穏無事な生活を手に入れられる。

なのに、小娘のそんなつまらない挑発に、何故立ち止まり、振り返ったのか。

気が付けば、足が止まっていた。その理由を自問自答し、はっと気が付いた。

キシリアのきらきらと光る美しい目が、マ・クベの名を呼んだ唇が、心に焼き付いて離れない。

戸惑うほど熱い情熱が、夢見るような表情が、思っている以上に自分に絡み付き、立ち去りかけた足を止めている。

理性と感情がばらばらになって、マ・クベの中で葛藤した。

自分はもう一度あの顔を見たいと思っている。触れると火傷をしそうなほど危険なくせに、危なっかしいこの女が気になる。支えてやりたいと、いや、支えてやってもいいと思いはじめている。

 馬鹿な……。と少し焦った。

生意気で我侭なキシリアが、気まぐれに伸ばした手を、払いのける事が出来ない。

それに気が付いた時、辛うじて表にこそ出さなかったが、内心動揺した。理性を離れて、感情が勝手にキシリアを受け入れ始めている事に狼狽した。

「自分を忘れるほど何かに夢中になった事がありますか? 涙を流すほど悔しかった事は? 身を切るほどに悲しかった事は? ……ないでしょう? 私はある」

 歌うようにキシリアがそう言い、マ・クベの内心の動揺を知っているわけではないだろうが、自信に満ちた表情で、マ・クベの返事を待った。

 確かに、この輝くような生命力を持った女なら、きっとそうだろう。

 思わずそんな事を思い、慌てて振り払った。マ・クベの理性も本能も、この女に近づくなと警告を出している。だが、一度意識し始めると。キシリアは急速にマ・クベの冷徹な理性さえも侵食していった。

「不感症みたいな生活はそろそろおやめになったら?」

 マ・クベに畳み掛けるように、まるで夜叉のように獰猛で美しい、危険な笑みをキシリアが浮かべた。

 マ・クベの背筋に、悪寒が走った。

 この女は、自分のために死ねと平気で言える女だ。豊穣と引き換えに、生贄を求める残酷な女神だ。

ただの小娘と侮っていたら、破滅すると判っていながら、それでも魅入られずにはいられない。そんな性質の悪い女に目をつけられてしまったのだということにようやく気が付いた。歯噛みしてももう手遅れだ。もうすでに深みにはまりかけている。こうなる前に逃げ出すべきだったのだ。

この女は危険だ。私を壊す。平穏無事な生活を壊す。刺激こそ無いが、何事にも煩わされぬ生活が望みだったはずではないか。この女はその対極に居る。

 一時の気の迷いで、人生を棒に振るのは馬鹿だ。

そう思って、歩き出す。

……そうするつもりだった。

「貴女には関係ないことです」

 無視して歩き出すはずだったのに、思わず返事をした自分の声が、信じられなかった。

 いつでも冷静に、スマートに生きてきた。仕事についてからは特に、周りの馬鹿な人間に付き合うのは愚かだと、上辺を取り繕う生活を送ってきた。

 だが、キシリアに気付かされた。自分が自分で思っている以上に満たされない生活を送っていて、それを不満に思っているという事と、自らの内に潜む、熱い何かを。

熱くなる事などないと思っていた。だが、自分の身の奥に潜む熱い何かが、少しずつ胎動し始めているのを感じる。

「私は自分がどこまでやれるのか、試したい。兄を超えたいという私の夢を叶えるのに、協力していただきたい」

 マ・クベがキシリアを無視しなかったのを見て、キシリアがまだ望みはあると力付けられてそう言った。

「私と同じ夢を見てくれ」

 一分の躊躇いも無く言うその声は、マ・クベにとって誘惑そのもののように思えた。

 私はこの女に惹かれている? 馬鹿な!

 老練な官僚達を手玉に取った自分が、年端もいかない一人の小娘に翻弄されていると認めるのは、プライドが許さなかった。

「何故私なのです? こんな汚れた男ではなく、貴女には、お父上がご立派な部下を用意してくれるでしょう?」

 抵抗するように、マ・クベがキシリアにそう言った。キシリアの顔がしかめられる。その言葉は、マ・クベの期待以上に時間稼ぎをし、キシリアの地を引き出す事に成功した。

「父上の世話にはならぬ! 奇麗事だけでは力は得られぬのだ。私は、苦境をチャンスに換える事のできる、お前のような力ある男が欲しいのだ!」

 父親の事は、キシリアのウィークポイントだったらしく、むきになって言い返した。父が薦める、育ちと気立てはいいが、毒にも薬にもならない男たちのことを考えると、キシリアの感情が高ぶる。

「私の周りにいるのは、私を枠にはめようとする男ばかり。女は与えられるだけ、待つだけの存在だと思っているのだ。冗談ではない。私は自分の欲しいものは自分で手に入れる」

 我慢ができなくて、愚痴めいた言葉がキシリアの口から出た。欲しいものは自分で得ると、キシリアにとってはあたりまえのことを言っただけで、過剰にキシリアのことを褒め称える男も、煙たがる男も、考えを改めさせようとする男もうんざりだった。キシリアは崇拝者が欲しいのでもなく、賛同して欲しいのでもなく、協力者が欲しいのだ。

「オデットのような女ばかり求めるジークフリートのような男どもにはもううんざりだ。舞台で三十二回転するのはオディールの方なのだぞ!」

よほど不満だったのか、子供のように激昂して言い張る。先ほどとはうって変わった子供っぽさが年相応に可愛くて、マ・クベが思わず笑いを表に出してしまいそうになった。

「オディールのような女はお嫌いか?」

 じっと、キシリアがマ・クベを見て言った。自分を理解してくれる男かどうか、試すように。

「……子供に興味はありませんな」

 あなたはオディールではなくて、まだ子供だとキシリアにそう言った。

 マ・クベの失礼な言葉に、キシリアが憤慨したようにきっと眉を上げた。

「判りました、ではこうしましょう。半年だけ私に付き合って下さい。その後は、辞めたければ辞めればいい。退職金は今お前が貰う金額の倍を私が出します。半年後には、お前は生意気な小娘が失敗するのを鼻で笑って、人生を充分楽しく生きていける分のお金を受け取って去っていけるという訳だ。いかがか?」

 キシリアがツンとした口調でそう言った。

 子供だと言われて怒ったふりをし、さっとマ・クベを落とすための戦法を変えて別の条件を持ちかけてきたのだ。まるでマ・クベの心の変化を見透かしているようだった。

 ぐらついているマ・クベには、ずっと年下のキシリアの青臭い誘いに乗ったという理由よりは、金目当てという理由の方が、自分を納得させやすいと踏んだのだ。

「札束で顔を張り倒すのですか?」

 最後の悪あがきのようにマ・クベがそう言うと、キシリアがクッと喉を鳴らして笑った

「貴方がよく言う」

 そう言って、確信に満ちた目でマ・クベを見る。

命令する事に慣れきった、支配者の目だ。眼差し一つで他人を従わせる、王者の目だ。

まだそれは中身を伴っていない未熟なものだったが、何れその足元に誰もが平伏すのを予感させるような眼差しだった。

「……判りました。半年間だけ、貴女にお付き合いいたしましょう」

 しぶしぶ……といったように、ついにマ・クベがそう言った。煩いほど鳴る内心の警告音を無視して。

 悪くない条件だ。破格と言ってもいい。半年すれば、辞めればいいのだ。と自分に言い聞かせた。

「ありがとう!」

 マ・クベの返事に、ぱっとキシリアが、喜びに満ちたあどけない笑みを浮かべる。

若い娘らしい、華やかで子供っぽいその表情に、マ・クベの口元に苦笑が浮かぶ。

面白い女だ。と今度は素直にそう思った、夜叉の様に危険で妖しいかと思えば、ジュリエットのように情熱的で無鉄砲。

そしてオディールのように人々を魅了するのかもしれんな。

キシリアの未来を予感して、マ・クベがそう思った。英雄が覇を競うこの時代を舞台に、誰よりも華麗に舞い、魅せる素質の片鱗を、キシリアの中に確かに感じた。

皆が心配するので、もう行きます。とキシリアが可愛い事を言い、さっと踵を返した。本当は、マ・クベが自分の部下になることを了承した旨を早く伝えたくて仕方が無いのだ。

 早足で駆けていこうとしたキシリアを、「ああ、そう」とマ・クベが呼び止めた。マ・クベの声にキシリアが振り向く。

「私は、オデットよりはオディールの方が好きですよ」

 マ・クベの急な言葉にキシリアが立ち止まり、マ・クベの言葉を理解すると破顔一笑した。貴女に期待している。というマ・クベの言葉に、精進する。と笑ってキシリアが答えた。子供からオディール見習へ昇格されたようだ。

 オデットのしたたかさも、オディールの脆さも、やがて気が付くだろう。

 それだけではなく、この先キシリアは色々な事を知るだろう。自分の甘さを思い知り、波にもまれ、涙を流し、歓喜に震えるだろう。

私が教えてやろう。新しい世界の扉を開いてやろう。約束をしたからには、少なくとも半年はきっちりと責任を果たす。

 マ・クベがそう思いながらゆっくりとキシリアに近づき、手を取って、気取って白い手袋越しにキスをする。

 これはあくまでも対等な立場で結んだ契約のキスだ。

 だから、膝はつかない。

それを不満に思う様子も無く、マ・クベのキスに、フフとキシリアが愉快そうに声を上げて笑った。するりとマ・クベの手から抜け出すと、ワンピースの裾をつんと上げて、振り向きもせずに館のほうへ走っていく。

そのすらりとして背の高い後姿を、マ・クベが目で追っている。館に入るまで目で見送ると、視線の向きを変えた。

ふと見た先には、大きな紫色のカトレアが咲き誇り、甘い匂いを漂わせている。その香りにひかれ、思わず目を向けてしまったのだ。

その姿が視界に入らなくてもその香りは人をひきつける。人はそこにその存在があることに気が付く。

誰もが見惚れ、無視できぬ大輪の花。それを見ながら、何故こんな事になったのだろう……。と思ってマ・クベがため息をついた。

 長年の夢だった生活と引き換えに、とんでもない爆弾を抱え込んだ気がした。




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