「何の用だ? 俺はもうお前には用がない」

 冷たい瞳と冷たい声。ミューラーの前に立ったシュナイダーは、冷徹にそう言った。

「シュナイダー。頼むからそんな事言わないでくれ」

 ミューラーが足元にすがり付かんばかりにそう言い、まるでキリストに祈るように両手を組み、おろおろと頭を振った。この時のミューラーにとって、シュナイダーは神にも等しかったに違いない。だが、ミューラーの神は、無慈悲に口を開いた。

「お前の望みは叶えてやれない。近づかないほうがお互いのためだ」

 顔色一つ変えずにそう言うと、ミューラーの顔が悲しみに歪んだ。

 目をそらすな。

 そうシュナイダーが自分に言い聞かせた。これは俺への罰なのだから。甘んじて受けなければならない。

「じゃぁ何故俺に抱かれたんだ?」

 血を吐くような悲しみがその言葉にあるのを聞くと、シュナイダーの心臓に握りつぶされるような痛みを感じる。心に幾重にも鎧を着せても、人を傷つけたという痛みはシュナイダーを粉々に砕き、ミューラーの悲しみが剥き出しになった心に切りつける。

「お前の気が済むかと思った。それだけだ」

 ことさら冷静を装ってそう言うと、ミューラーが頭をかきむしった。正直に答えたのは、せめてものシュナイダーの誠意だった。それが正しい事なのかは判らない。優しい嘘をついた方が良かったのかもしれない。だが、本当の事を言ってミューラーの断罪を受けるべきだとシュナイダーは思ったのだ。

悲しみと恨みでぞっとするような光をたたえ、ミューラーの目がシュナイダーを凝視する。狂人の目がシュナイダーを絡め取った。

 もう止めてくれ。もう許してくれとシュナイダーの心が懇願した。もうこれ以上は耐えられそうもない。こんなぼろぼろになった姿は、自分であれ、他人であれ、見たくなかった。昨日までのシュナイダーだったら、重さに耐え切れずにここで逃げ出していたかもしれない。

「お前は残酷だ。二度と与えないつもりならいっそ突き放してくれ。こんなに苦しいのならお前を知らないほうがまだ良かった!」

 ミューラーの狂った目はシュナイダーを離さない。そう呪いの言葉を吐くと、苦しげにうめいた。一瞬シュナイダーが苦痛に顔をしかめた。目をそらしてしまいそうになるのを必死にこらえ、大きく息を吸う。

ミューラーに抱かれた夜、歓喜のあまり涙さえ流し、シュナイダーにすがり付くミューラーを見て、シュナイダーは自分の過ちの大きさに気が付いたのだ。取り返しのつかないことをしてしまった。自分の取った無責任で軽はずみな行動が、ここまで人を傷つけるとは思わなかった。

 自分の全てをさらけ出し、愛してくれと懇願したミューラーの気持ちを踏みにじった。自分がどれだけ不誠実で傲慢だったか、結果的にミューラーの心を弄び、自分の心の中にいる思い人をも裏切る事になったか。

 もう会えないと言った時のミューラーの表情はずっとシュナイダーを苛んだ。

 ミューラーも苦しんだように、シュナイダーも苦しんだのだ。

 ミューラーにそれが理解できなかった訳ではない。ミューラーには、すでに自分以外を思いやる余裕など無かった。幼い二人は感情に折り合いをつける術を知らず、駆け引きなど更にできるはずも無く、ただひたすらに相手を傷つける。

「勝手な事言うな!」

 耐え切れずに思わずシュナイダーが叫び返す。シュナイダーを責めるミューラーの声に耳をふさぎたかった。その狂った姿を見たくなかった。ミューラーの苦しみはシュナイダーにシンクロし、さらに、その苦しみは自分が与えているのだとシュナイダーの良心をさらに苛んだ。

「若林か? お前は若林が好きなのか? あいつが好きなのはお前じゃない。ツバサ・オオゾラなんだぞ!」

 絶望のあまりミューラーが叫び返した言葉は、シュナイダーがもっとも触れたくない現実だった。傷口を抉り出すミューラーの言葉に、シュナイダーの声が怒りで震えた。

「そんな事判っている! だが、お前には関係ない事だ」

 息もつかずにそう叫ぶと、酸欠にでもなってしまったかのように肩で荒い息をした。きつい光を受がべた目だけがミューラーを睨みつける。

「警告する」

 心のどこかの機能が麻痺するのがわかる。冷たい声が淡々とミューラーに降り注いだ。ここで決着をつけなければならない。初めからこうすべきだったのだ。傷つくのを恐れたために広げたお互いの傷口を更に切り開き、全てを出し尽くさねばならない。

「これ以上俺に近づくな。お前に抱かれたのは間違いだった」

 一呼吸置いてそう言うと、ミューラーの顔が更に苦痛で歪んだ。

シュナイダーは血まみれだ。自らの傷口から流した血と、ミューラーの返り血で真っ赤に染まっている。生々しい人の感情は、奇麗事では済まされない。人の愛情を求める時、それを拒絶する時、相手に誠実であればあるほど、傷つき、血を流す。

「警告を無視した時、お前が俺や俺の大事な人たちに危害を加えようとした時、俺は容赦なくお前を攻撃する」

「頼む、シュナイダー、お願いだ。俺を見てくれ、お願いだ」

 そう言うとシュナイダーはミューラーに背を向けて歩き出した。プライドも何もかもかなぐり捨て、シュナイダーの背中に喘ぐようにそう言うミューラーを、少しだけ振り返った。

「俺は、ゴールキーパーとして以外、お前には興味はない」

「なら、俺がキーパーとして若林を超えれば、お前は俺を見てくれるのか?」

 シュナイダーの言葉に、ミューラーの目が、狂人のものから人のものへと代わった。苦痛と絶望にのた打ち回る人間が、かすかな希望にすがる時の目だ。

「…………」

 シュナイダーが無言でミューラーを見つめ返した。中途半端な優しさがより一層の不幸を招くと判っていたが、無駄な事だと突き放す事は出来なかった。

「シュナイダー、俺は若林を越えるぞ。今だって負けているつもりは無いが。誰が見ても判るように、俺の方が上だと言う事を思い知らせてやる」

 ぎらぎらと生気が蘇った目で、ミューラーがそう吼えた。妄執としか言えないその光は、シュナイダーを蝕み、自らのいる狂った世界へ共に堕とそうとするかのようだった。

「筋違いだ。もし恨みがあるのならそれを引き受けるのは俺のはずだ」

 それだけ言い、またミューラーに背中を向けて歩き出す。その背に、ミューラーの叫び声が投げつけられた。

「恨む? お前を? シュナイダー、お前はまだ判っていないのか? 俺はお前を好きなんだ。恨めるはずが無いだろう!」

 まるで悲鳴のようなミューラーの声。悲痛なその声にいっそ責めてくれたほうがどんなに気が楽だったか判らない。我慢できずに思わずシュナイダーがミューラーを振り返ると、ふらふらとミューラーが近づいてきた。

 これはミューラーから逃げた俺への罰なのだ。

 シュナイダーの心臓がぎりぎりと痛んだ。

 だから、俺が苦しむのは当然だ。

 ミューラーの手がシュナイダーの顎を捉え、強引に上向かせて口付けた。ツッ! とミューラーが苦痛のうめき声を上げる。ミューラーの唇から一筋滴り落ちた血をシュナイダーは何の感情も浮かんでいない瞳で見た。

キスはシュナイダーの罪と同じ血の味がした。

「言ったはずだ。容赦しないと」

 冷徹にそう言うと、今度こそシュナイダーは振り返らなかった。

「ふ……っくくくく。あっははははは」

 シュナイダーに噛み付かれた唇からは、鮮血がぼたぼたと落ちた。服が汚れるのも気にせずに、ミューラーが笑い出す。狂ったような高笑いは、シュナイダーが消えた闇に吸い込まれ、返事を返すものも無い。

「シュナイダーが、やっと俺を見た」

 喜びにぎらぎら光る目をして、ミューラーが呟いた。体を繋げても、自分を見ていないシュナイダーには渇望しか得られなかった。憎しみでも、軽蔑でも何でもいい。ようやくその青い瞳に自らを焼き付ける事が出来たのだ。今度こそシュナイダーはその本当の感情をぶつけてくれた。今度こそシュナイダーはミューラーを見たのだ。魂と魂がこすれ会い傷口からは鮮血が溢れ出した。それがどういう結果であっても。悲しいほどに純粋な思いは、ミューラーを飲み込みどうしようもなく狂わせた。

 それでもいい。

 それでもいいんだ。

 笑い声はかすれた空気音に変わり、やがて嗚咽に代わる。ミューラーの瞳から、透明な涙が一筋流れた。壊したくなど無かった。悲しませたくなど無かった。だけど、近づけば近づくほど相手を傷つけ、自分を傷つける。それでも惹かれずにはいられない。炎に焦がれて自らを焼く蛾のように。

「お前を傷つけたくなど無いのに」

 小さく呟いたミューラーの声は、誰にも届かずに闇へ解けた。

 ミューラーの涙の上に冷たい雨が一滴落ちた。その一滴はシュナイダーのように清涼で冷たい。冷たい雨の雫が重なり、ミューラーの火照った体を癒した。

雨はやがて全てを洗い流し、やがてその体を冷たく冷やしてゆく。

                                         
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