部屋に入るとすぐに霧雨に濡れたシャツを脱ぎ捨て、バスタオルをシュナイダーの頭に放り投げる。放心したように動かないシュナイダーに業を煮やし、若林がシュナイダーの座っているソファーの脇にどっかと腰掛けた。そのまま手を伸ばしてシュナイダーの金色の髪をタオルで乱暴に拭きながら問い掛ける。

「何があった?」

「……いつもの通りだ」

 なすがままにされながら、しばしの沈黙の後シュナイダーがぽつりと答える。

「きちんと話せ!」

 叱るように一括して、人形のようなシュナイダーのシャツのボタンをもどかしげに片手ではずす。このままでは風邪を引く。サッカー選手の体を、いつまでも雨に濡れたシャツで冷やすわけにはいかなかった。

「何故俺を見てくれないのかと騒いで、一方的に俺を責めて、終わりだ」

 シュナイダーがあまりにも淡々と言い、若林のシャツを剥ぎ取る手が止まった。タオルを頭から被せられたまま俯き、その表情は伺えない。若林がシュナイダーの顔を覗き込むと、シュナイダーの濡れた前髪がはらりといく房か白い顔に落ちた。途方に暮れた青い瞳の上に、蜂蜜色をした濡れた髪がかかると、シュナイダーはずいぶん幼く見えた。

「シュナイダー……」

「欲しいと言うからやれば、何故くれたのかと言う、俺を追い詰めたくせに被害者面する。じゃぁ俺はどうすればよかったんだ?」

 話しているうちに感情が高ぶったのか、白い頬にうっすらと朱がさした。どうしようもない苛立ちに怒りさえ覚え、闇雲に若林に問い掛ける。それは自分で答えを出さなければいけないと判っているはずだ。答えを求めているのではなく、ただそうせずにはいられないのだろう。

「シュナイダー……。お前、ミューラーに抱かれたのか」

 若林が、シュナイダーの目を見ながらそう言った。シュナイダーの喉がこくりと息を呑む。シュナイダーの傷口をえぐる気は無かったが、シュナイダーの口からはっきりして欲しかった。もう、他人を間に入れて悶々とするのはご免だ。聞くのならシュナイダーの口から聞きたい。言うのなら自分の口から直接伝えたい。

「……ああ」

 シュナイダーも若林から目をそらさずにそう言った。小さな声で、でもはっきりと。

「何故!?」

 若林が思わず問い詰めた。友人としてならシュナイダーを責める気はない。だが、シュナイダーを好きな一人の人間としては黙ってはいられなかった。

「あいつが、俺を欲しいと言ったから。一度俺を抱いたら気が済むかと思ったんだ」

 ため息をつきながらシュナイダーがそう言った。感情の無いその声には、シュナイダーの心は伺えない。

冷たい雨の中で頬に触れる若林の指先が熱くて、まるでその熱に酔ってしまったみたいだった。頭の芯が甘く痺れ、ふわふわした夢心地の中では自分が驚くほど自然に若林に素直になる事が出来たのに。そのやり方を忘れてしまったかのように今は上手く心を開く事が出来ない。どうしていいか判らない戸惑いは、シュナイダーの心を閉ざさせた。

「それでどうなった? シュナイダー」

 若林の声に苛立ちが篭った。封じ込めても、嫉妬の炎はちらりと源三の心を炙る、それに加え、まだ感情を出そうとしないシュナイダーに苛立ったのだ。

 確かに自分の中に自分を預けてくれたのに。
 確かにその心に触れたと思ったのに。
 水に浮かんだ月のように、若林の腕の中をすり抜けて、シュナイダーは手の届かない所へいってしまう。

「お前も傷付き、ヤツも傷ついた」

 どうして言ってくれない?

思わず問い詰める口調になってしまう。先ほど見せたシュナイダーの涙が乾いてしまうとともに、シュナイダーの心はまた若林が入ってくる事を拒否している。

「本当は判ってるんだろう? そんなのは逃げだ。お前はミューラーから逃げるためにヤツに抱かれたんだ。お前は、欲しいと言われれば誰にでも抱かれるのか?」

 もう一度泣かせてやろうか?

 若林がそう不穏な事を考えた。優しく言ってもドアを開けないのなら、強引にこじ開けてでも、ぶち破ってでも中からシュナイダーを引きずり出してやる。

明日になればシュナイダーの心には平常に戻ってしまうだろう。そうすれば、十重二十重の壁の奥にある皇帝の心は、若林と言えど容易に入れようとはしない。

もう一度、今度は確実に。絶対に逃がしはしない。強情なシュナイダーの口を開かせ、その本心を聞きたい。このチャンスを逃すわけにはいかなかった。

「お前、俺を責めているのか? 俺にキス一つもしなかったお前が?」

 シュナイダーの声に怒気がこもった。自分でも何故だか判らないが、本心を見せる事が出来ないのが若林を苛々させていると判っている。シュナイダーでもどうしようもないのだ。だが、若林の挑発に、何の感情も浮かべていないように見えたその表情が明らかに変わる。かたくなに閉ざしていた心から、思わず本心がこぼれた。

「ならばワカバヤシ、お前は俺を抱いてくれるのか?」

俺はずっと待っていたのに!

あまりにも子供っぽい理屈だったが、若林の言葉が理不尽に感じて、思わず怒りに任せて、それがどういう意味かも良く判らずに言葉が先に出た。

「くっ……」

 シュナイダーに問い詰められ、若林の顔が少し歪んだ。それが、若林の拒否のサインだと思って益々苛立った。

「俺を抱けないのなら、俺のする事に口出しするな!」

 吐き捨てるようにそう言い、若林から顔を背けて拒絶した。最後まで受け入れてくれるつもりでないのなら、初めから優しくなんてするな。中途半端な覚悟で俺の心に入って来ようとするな。シュナイダーの後姿がそう告げている。

「皆勝手な事を言う。俺の事を好きだと言ったくせに、こんな筈じゃなかったと言ってそのうち皆俺から離れていく。勝手に近づいてきたくせに俺が愛してくれないと言って俺を責める、俺を捨てる。俺の心なんかお構いなしだ!」

 これ以上俺をかき回さないでくれ。という激しい拒絶。
 シュナイダーにとって、他人とは常に彼を苦しめる存在だった。ただ好きなサッカーをやりたいだけなのに、大好きなサッカーが上手くなりたいだけなのに、子供の時のように自由にサッカーが出来くなったのはいつからだろう?
 いつしかシュナイダーの周りに人は集り、彼の一挙一動はシュナイダー一人のものだけではなくなる。見た事も無い人が自分を応援してくれるのは嬉しかったが、父親が監督を辞めさせられたとき、シュナイダーを冷笑した人が、今では愛想笑いを浮かべてなれなれしく近づく。そんな奴も沢山いた。無責任に好き勝手な事を言い、期待し、思い込む人々の心無い言動はシュナイダーをずいぶん苦しめた。

パーソナルスペースを越え、図々しくシュナイダーの心に土足で入り込む男や女もいた。彼ら、彼女らの話す「カール・ハインツ・シュナイダー」は自分の事ではない誰か他人のようで、違和感と戸惑いが残った。執拗に自分の皇帝になるように求める人たちに、それでも応えてやろうとするシュナイダーの心は悉く裏切られた。

 貴方は私の求める皇帝ではない。
 こんな筈じゃなかった。
 どうして愛してくれないの?

シュナイダーなりに精一杯応えてやろうとした、裏切りたくないと誠意を持って心を開きかけた。だが、シュナイダーの心を踏みにじるように人々はそう言い、離れて行く。

「もうたくさんだ!」

忘れられない心の痛みにぎゅっと目を閉じ、悲鳴のようにシュナイダーは叫んだ。それは、シュナイダーを傷つけ、苦しめた全ての「他人」と言う存在に向けられているように見えた。

背を向けて拒絶するシュナイダーの背を、後ろから若林が抱きしめた。思わず手が伸びた。日に焼けたがっしりとした太い腕が、シュナイダーのしなやかな白い肩を抱く。

「……ッツ! 止めろワカバヤシ! 同情はいらない」

 シュナイダーが若林の腕を振りほどこうと本気で身をよじった。同情など受けるのはプライドの高いシュナイダーにとってこれ以上ない屈辱、そんな事をされるくらいなら蔑まれるほうがまだましだった。だが、若林の腕はびくともしない。猫科ではない、もっと大型で獰猛な肉食獣のような圧倒的な存在感がひしひしと感じられる。若林が本気なのが判る。シュナイダーの背に、熱い若林の体温が感じられる。薄い皮膚を通して、こんなにも他人の熱を感じた事は今まで無かった。

「なら、もうこれで最後にしろ」

 シュナイダーの耳元で若林が囁いた。若林の声が熱い。伊達や酔狂で言っているわけではない。本気なのだと言う事が嫌でも判った。戸惑いと焦り、そして、ほんの少しの期待が体と心に火をつける。いくら心が否定しても、体が若林を求める。

「どういう意味だ、ワカバヤシ……ッ」

 若林の熱い息が、シュナイダーの体を熱くさせる。若林の体と触れた所が、熱を持ち、熱く痺れていくような錯覚を覚えた。甘いうねりに、思わず声が出そうになるのを必死でこらえる。それでも、若林の名を呼ぶとき、少し声が乱れた。

「俺で最後にしろ、シュナイダー」

 少し照れたように、冗談めかして若林が囁いた。シュナイダーの心臓が、一層大きく脈うった。心なしか、密着した肌から感じる若林の鼓動も早い気がする。人に触れることも、触れられることも好きではなかったが、若林の言葉と、触れ合った肌が伝える快感に思わず若林の指に自分の指を絡めぎゅっと握り締め、呼吸を止める。

「お前の言うとおりだ。俺もお前の事を怒る資格など無い、お前から逃げていたんだからな。いつまでもお前が待っててくれていると思って甘えてた。俺がちゃんと言えば、お前は傷つかないで済んだかもしれないのにな。すまなかった」

 若林が、一瞬強くシュナイダーの指を握り返した。名残惜しそうに腕を緩め、シュナイダーを胸から解放する。おずおずと若林の方を振り返ったシュナイダーの肩を両手で掴み、ぐいと自分の正面へ体を向けさせる。

「お前が待っててくれたという事が俺のうぬぼれでなかったらいいと心から思うよ。本当にすまなかった。改めて言う」

 シュナイダーの心の奥まで届くようにまっすぐにシュナイダーの目を見て、心からの気持ちを込めて、若林が言葉を口に出した。

「好きだ。シュナイダー」

 そうはっきりと口にすると、張り詰めた糸のように真剣な表情が、はにかんだように微笑む。全く、自分がそんな顔をするなんて、普段を考えると予想外だったが。シュナイダーの前に出ると、若林もただの十五歳に戻ってしまう。

「若林……」

 あっけに取られたように呟くシュナイダーに、若林が苦笑した。自分の性格は判っている。傲慢で尊大。他人に煩わされるなどほとんど無い自分がこうも振り回されるとは思わなかった。だが、決して不愉快ではない。

「お前、俺にお前が抱けるか? と聞いたな」

 いつもの若林らしい不敵な笑みを浮かべると、シュナイダーが不思議そうに若林を見た。

こいつ、全く俺を舐めきって油断してやがる。

スキが無い様でいて、どこか抜けているシュナイダーの鈍さというか無防備さに内心少し呆れながら、若林がまた苦笑した。これでは、百戦錬磨の手だれやミューラーに付け込まれても仕方が無い。

まさか俺がそんな事をする訳が無い。と思ってるんなら、それは間違いだぜ。

もう一度にやっと笑うと、若林が立ち上がるや否や、シュナイダーの体を座っていたソファーから両手で横抱きにすくい上げた。

「あっ!」

 若林の内心など知らないシュナイダーが、素っ頓狂な声を上げて、抵抗できずに若林のなすがままにされた。不意打ちとも言える若林の全く予想外の行動に彼らしくなくうろたえる。

「答えは、『YA』だ」

 そう短く言うと、大股でダイニングを出る。どこに行く気かぐらいは、鈍感なシュナイダーでも判る。

「止めろ、若林!」

 思わず叫ぶが、体勢の悪さに思わず若林の首に両手を回してしがみつきながら言うので説得力全くがない。そのほうが余計若林を煽っているということはやはり判ってないらしい。

「挑発したのはお前の方だぜ。こちとらお前に会ったガキん時からずっと我慢してるんだ。やっと願いがかなうって言うのにその頼みは聞けねぇな」

 そう言いながら、器用に手と足でベッドルームのドアを開けた。かなり大きいサイズのベッドにシュナイダーを軽く放り投げる。ベットのスプリングが少し抗議の声をあげたが、シュナイダーを優しく受け止めた。

 まだ戸惑ってる様子のシュナイダーを押し倒し、瞳を覗き込む。覚悟を決めさせようと口を開こうとすると、シュナイダーが、若林の目を避けるように手で顔を覆った。

「頼むから……、止めてくれ……」

 細く、頼りない声。

「シュナイダー、何故だ?」

 若林の声に隠し切れない失望が滲んだ。シュナイダーも自分の事を好きだと思ったのは錯覚だったのか? 自分には抱かれたくないと言う事なのだろうか?

「俺はお前を失いたくない。失いたくないんだ」

 相変わらず、若林の目を見ようとせず、シュナイダーがうめくように呟いた。若林がはっとしたようにシュナイダーを見る。

「お前も、他の奴らみたいに俺から去っていくんだろう? なら、友達の方がましだ」

 そう言い、おずおずと手をずらし、若林を見返した。臆病な瞳に、シュナイダーの癒されてない心の傷が見えた。嬉しすぎて、自分の事ばかりに気を取られて急ぎすぎた。シュナイダーの事を考えてやれなかった自分に少し舌打ちする。

「俺を、信じろ」

 シュナイダーを安心させるように、力強く若林が言った。今は少し傷ついて弱気になっているが、本来のシュナイダーはしなやかで強い。前へ進む勇気が無いはずが無かった。

「俺は、目の前にお前がいるのに触れる事が出来ないなんて我慢できないぜ。今のままの関係なんて俺には蛇の生殺しだ。もう友達には戻れない。お前が俺にできる返事は、YAかNEINかどちらかだ。俺に大人しく抱かれるか、嫌なら死ぬ気で抵抗しろ」

 そう言って、シュナイダーの瞳を覗き込む。シュナイダーの目から、弱気な影が消え、目を伏せてはにかんだように微笑んだ。

「ずっと……、お前がそう言うのを待っていた」

 シュナイダーが、若林を受け入れる。微笑みながら、伏せていた目を上げ、若林を見る青い瞳が、少し潤んでいるようにも見えた。シュナイダーの言葉に若林の全身を歓喜が突き抜ける。また恥らうように目を伏せて微笑むシュナイダーの目を覗き込んで、悪戯っぽく言う。

「もう他の男にはついて行くんじゃないぜ?」

 半ば冗談のつもりだったが、生真面目にシュナイダーはこっくりと頷いた。

「判った。お前だけにする」

 シュナイダーがそう言うと、あとは我慢が出来なかった。シュナイダーの唇に口づけ、啄ばむようにその柔らかさを楽しむ。シュナイダーも目を閉じて若林のキスに応えた。二、三度、角度を変えて軽いキスを楽しむと、今まで押さえていた激情が解放されたかのように、獰猛にシュナイダーの唇を求めた。今まで遠回りしていた分を取り戻そうとするかのような息もつかせぬ激しくて長いキスに、シュナイダーが思わず甘い吐息を漏らした。

 ようやくお互いを解放し、キスに濡れた瞳でシュナイダーが若林を見上げる。若林がシュナイダーを欲しがっているように、自分も若林が欲しいのだと濡れた目が伝えている。

「もう、俺には若林が居るから……って断るよ」

 シュナイダーが若林を見てくすりと笑い、何か言おうと動きかけた若林の唇を引き寄せ今度はシュナイダーの方から口付けて黙らせた。

 舌を絡ませながら、若林の大きな手がシュナイダーのジーンズのウェストのボタンを性急にはずし、シュナイダーの細い指が若林のジーンズのファスナーを下ろす。脱がされたジーンズが、行儀悪く床に蹴り飛ばされても誰も気にしない。

 遠回りしてきた時間を埋めるには、夜は短すぎるのだから。



                      



「シュナイダー、行っちまったな」

 練習の帰り道、ぽつりとカルツが呟いた。ほんの少し前まで、この道は三人で歩いていたはずだった。だが今はもう、シュナイダーがいない。

「ああ」

 若林が返事を返した。これからはもう、この道を歩く時はシュナイダーがいない。少し前を行く二人の背中、すらっとしたシュナイダーとじゃがいものようなカルツの対照的な後姿を見ながら歩くのが好きだった。前を行くのは、もうカルツしかいない。そう実感すると、言いようの無い喪失感に襲われる。

「とうとう壊れちまったな、ワシらの関係」

 その喪失感を、カルツも感じているのだろう。二人の足取りは何時もより重く、言葉も少ない。そんな中で、淡々とカルツが言葉を続けた。

「ああ……」

 複雑な思いで若林が返事を返す。カルツをかなり微妙な立場に立たせてしまった。いままで友達だと思ってた三人のうち二人が、いきなり恋人になったと言うのだから。

「ま、俺はお前がシュナイダーの事を好きだなんてずっと前から知ってたんだけどな」

 暗い雰囲気を吹っ切るように、明るくカルツが言って見せるが、若林の表情は明るくならない。

「そうか……」

 気が抜けたようにそう言うと、カルツがちらっと若林の方を伺うように盗み見た。

「全く、変な三つ巴だったよなぁ」

 若林の様子がおかしいのは気づいているが、気づかない振りをして能天気に言い、両手を上に上げて背筋を伸ばし、ウーンとおっさん臭い声を上げて伸びをする。

「俺も、知ってた」

「あ?」

 若林の言葉に、数歩先を歩いていたカルツが若林を振り返った。

「お前が俺がシュナイダーの事が好きだと知ってたのは、お前がシュナイダーを見ていたからだろう? おのずと気が付く。他にもシュナイダーの事を見ている奴がいるって事をな。他のやつには隠しとおせても、俺には隠せねぇよ」

 若林がそうゆっくり言うと、カルツが無言で背を向けた。数歩無言で歩いた後、振り返らずに、まるで独り言のように呟いた。

「……ふん。それにしても、予想外だったぜ」

「何が?」

 もちろん、それが若林に向けられていった言葉だと判っている。聞き返すと、カルツが仏頂面で面白くなさそうに言った。

「お前さんはメンクイだろうとは思ってたが、まさかサッカー以外の事で他人に興味を持つなんて、まして愛とか恋とか言う意味では全く他人に興味が無いと思ってたからなァ」

「……おい」

 あまりな言いように、思わず小さく抗議しようと声を出すが、続きの言葉は出てこない。

「心当たりが無いとは言わせないぜ、ゲンさん?」

 そんな若林の様子に、間髪入れずカルツが突っ込みを入れた。三年も付き合っていれば、相手の性格も判りきっている。

「まァな」

 言い返せずに苦笑した。確かに、黄色い声を上げる女の子にも、秋波を送る女にも全く興味がなかった。むしろ邪魔だと思っていたぐらいだ。自分のペースを乱されるのを嫌い、相手がどう思おうと、出来ないものは出来ないときっぱりと断りつづけている。可愛そうだから……等という甘い感情も、下心も、自分がくだらない事で取り乱すのも悩むのも全くごめんだと思っていたのだ。

「まさかシュナイダーがお前さんを落とすとはなぁ……」

 感心したようにカルツが言った。そこまで感心されるほど俺は人でなしだったか? と自問自答してみるが、どうもカルツを否定できる材料は出てこなかった。

「自分で言うのもなんだが、俺は惚れた相手にはとことん弱いらしい」

 その自分が……と思うと、自分でも不思議なくらいだった。シュナイダーの事を考えると、理性が吹っ飛ぶ。みっともないほど取り乱す。ハイからローへ、ローからハイへ、めまぐるしく気分が変わる。くだらない事で嫉妬して、苛立って、大喜びする。まだまだ俺はガキなんだなァと思い知らされる。

「恐るべし、シュナイダーだな」

 にっと笑ってカルツが言うと、若林がカルツの肩をぽんと叩いて言い返した。

「……お前もだろ。正直、お前が本気になったら俺はお前に勝てたどうかわからん。何故シュナイダーに言わなかった?」

 ずっと不思議だった事を、ようやく若林は聞く事ができた。シュナイダーが一番心を許しているのは、カルツではないかと思っていたのだ。そのカルツなら、自分よりも上手くシュナイダーとやって行けるのではないか? 自分にとってはそれが救いになったのだが、何故、言わなかったのか。

「何回も言おうとしたさ」

 カルツが苦笑しながら俯いた。

「?」

 カルツの言葉の意味と、複雑な表情の意味がわからない。カルツの言葉を待つと、少し沈黙がおりた。

「シュナイダーの周りに集まってきた奴らは、奴を散々引っ掻き回して皆シュナイダーから離れていった。結局、あいつらが興味があったのは外面だけで、シュナイダーを理解してやろうなんて考えてなかったんだ」

 夕焼けが二人を照らし、カルツがぽつりぽつりと話を続ける。

「わしが、シュナイダーに好きだと言っちまおうとした時、あいつは俺が何を言おうとしているか悟って言ったんだ『お前を失いたくない』ってな…。だから、思った。いずれ恋人としてあいつのもとを去るより友達として側に居ようってな」

「おい、それじゃお前が辛すぎる……」

「まぁ、な……。でも、結局最後にシュナイダーの側にいるのはワシだと思ってる。その時言うさ」

 若林が選んだ道とは違う道をカルツは選んだ。さばさばした表情でカルツが言う。そんな表情ができるまでには、相当の葛藤があったのだろうと若林は思った。

「お前、それで良いのか?」

「ま、お前と違ってそういう愛しかたも有るって事ぜよ」

 若林が思わず問い掛けると、カルツが俯きながら苦笑して言った。

「結局、ワシはお前と違って、シュナイダーには逆らえなかった。……それに、お前も思ってたんだろう? 三人の関係を壊したくないって」

 そう言ってカルツが若林を見上げた。若林もカルツを見返すと、遠くの港へ視線を移し、まるで独り言のように言った。

「お前達と会って三年、最高だったよ。いつも三人でつるんでサッカーやって、試合で勝ちまくって、たまに馬鹿やって怒られたり。お前はすぐに俺をシュナイダーとおまえの間に入れてくれた。感謝している。お前達のおかげで、俺はどれだけ幸せな時間を過ごしたか言葉では言えない」

三人でいれば、怖いものなどなかった。子犬のようにじゃれ合って、サッカーをしていれば幸せだった。三年の年月は三人の背を伸ばし、周りの環境も徐々に変化していく。もう怖いもの知らずの子供ではない。シュナイダーの移籍も、三人の関係が変わってしまったのも、子供時代が終わりを告げ、新しい世界への変化を表している。

「もしかして、ワシに義理堅く遠慮してたのか? 馬鹿だな、ゲンさん」

 不意にカルツがそう言った。

「結局裏切ったけどな」

 若林は否定せず、小さく笑う。

「遠慮なんかしなくていい。わしがシュナイダーから離れていくかもしれないと思ってるのは、ゲンさん、お前も例外じゃないぞ」

「なにっ!」

「シュナイダーは怒ってる」

「何が!」

 若林を焦らすように、わざと詳しくはは述べずに言うと、案の定若林が噛み付きそうな勢いで食いついてきた。そんな若林を横目で見ながら、言ってやるだけでも大サービスだと、カルツがわざと難しい顔で重々しく言った。

「ハンブルクの最後の試合で全日本ユースにゴールされた事、翼、翼と騒いでシュナイダーをほったらかしにしてた事……」

 言葉を言ううちに若林が青くなるのを内心ほくそえみながら、更に畳み掛ける。

「シュナイダーも離れて不安だろうになぁ、薄情だなぁ、ゲンさんは」

「や、やばい……」

 顔面蒼白で若林がそう言うと、若林の様子を笑いをこらえながら見ていたカルツがふと前から思っていた疑問を思い出して問い掛けた。

「ゲンさん、結局ツバサの事はどう思ってたんだ?」

「翼? なんでここに翼が出てくるんだ」

 とぼけているのではなく、本当に不思議そうな顔で若林が問い返すと、驚きを通り越して、呆れた…と言う表情でカルツが若林を見上げた。思わずようじを取り落とすところだった。

「……ゲンさんの日本での恋人はツバサだったんじゃないのか?」

「はぁ? ……もしかして、シュナイダーもそう思ってたのか?」

 とんでもない! というその表情に嘘はない。益々呆れて、カルツは一瞬絶句した。

「……シュナイダーだけじゃなくて、チームメイトは全員そう思ってたと思うな、ワシは」

「違う! 俺はずっとシュナイダー一筋で……」

 言い返す若林をさえぎって、カルツが言い返した。

「あれだけ、ツバサ、ツバサと騒いでたらそう思うに決まってるだろうが! お前さんがシュナイダー狙いと知ってたら、逆に皆に袋叩きだったぜよ。上手くやったな。まぁ、ワシはゲンさんとツバサを見たときから違うんじゃないかとは思ってたんだが」

「誤解だ!」

 むきになって言い張る若林にカルツが肩をすくめ、祝い代わりに忠告してやる。

「これからは言動に気をつける事だな、ゲンさん。シュナイダーはお前の事を結構気が多いと思ってるかもな」

「俺はシュナイダー以外の奴に手を出そうと思わないぞ!」

 まだむきになってそう言う若林の頑固さに、カルツが笑った。

「じゃぁ、そう言ってやれ。シュナイダーが厄介なのはお前も身にしみて判ってるだろう?」

 笑いながらそう言うと、うっと一瞬若林の動きが止まった。

「あいつ、お前がしっかり捕まえとかないと本当に浮気するかもしれないぜよ。黙って嫉妬して、黙って機嫌損ねて、黙って浮気する。そう言う奴だからな。ま、せいぜい頑張れや」

 励ましているのか、冷やかしているのか判らない事を言ってぽんと若林の肩を叩く。

「……先が思いやられるぜ」

 トレードマークのキャップを深く被りなおしながらそう言う若林の声に、楽しそうな響きがあるのをカルツは聞き逃さなかった。




ENDE




2002 10月 最終話アップ

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