◆獣王の謝肉祭◆


 あれはいつの頃だったかしら? まだ私がお兄様の背の半分も無いほどに幼くて、お兄様も成人の儀式を済ませていない頃だったから、もうだいぶ昔の話ですね。

 今でも忘れる事のできないあの出来事は、城の中庭で儀式の最中におこりました。

 その儀式とは、お兄様が獣の紋章を受け継ぐ時に行なわれたものでした。獣の紋章に見たてたオオカミに敬意と祈りを捧げ、ハイランド王国とブライト王家の繁栄と末永い守護を願う……というものなのですが、その中で恐ろしい過程があります。
 獣の紋章に見たてられ、祈りを捧げたオオカミを最後に獣の紋章の継承者が戦って倒すというものです。これは、新しい継承者が紋章を持つに相応しい強い者である事を獣の紋章に知らしめ、また、この命を獣の紋章に捧げる。という意味が有ります。

けれど、もちろん本物のオオカミと戦って殺したりなどしません。本物のオオカミそっくりに作った人形を切るだけです。昔は本物のオオカミと戦ってその命を獣の紋章に捧げたそうですけれど、今はもう人形を切るという形式だけのものに変わっていました。それでも、幼い私にとって、それは思わず目を伏せてしまうような残酷な儀式だったのです。

 私はブライト王家の一員であるにもかかわらず、血の匂いがするブライト王家の皆がとても苦手でした。誰かに言うと叱られると思ってずっと黙っていましたが、ブライト王家の男はみなとても強いのですが、残酷で血を好み、人をものとしか思っていないところが有ります。そこが私はとても嫌いでした。私がもし親戚の誰かに嫁げなどと言われたら、舌をかんで死んだほうがまし。なんて思いつめていたほどです。今となっては笑い話ですけれど。

 ハイランドの王家がそうだからなのか、それともそんな人間が集まったからこうなったのかは判りませんが、同じくブライト王家独特の儀式も血の匂いのする残酷なものでした。先ほど申し上げたオオカミを殺す儀式や、ハイランドの王が戴冠する際に、自分の妻を殺す。なんて恐ろしい儀式まであるんですよ。もちろん人形を使うのですけれど。

 前置きが長くなってしまいましたね。とにかくそんなものだから、私はもともと儀式の類がとても嫌いでした。あの出来事が起こった獣の紋章の儀式の時も嫌で嫌でしょうがありませんでした。綺麗なドレスを着るのは嬉しかったですけれど、怖くて大嫌いな親戚はたくさん集まってくるし、侍女たちは忙しくて遊んでくれません。すねた私がいくら構って欲しくても、「ジル様、良い子にしておいてくださいまし」としか言わない物だから、私、腹を立ててしまって隙を見て部屋を逃げ出したのです。

 部屋を逃げ出してからは楽しくて仕方がありませんでした。みんな忙しそうにぱたぱたと走りまわって、私が廊下の大きな柱の影に身を隠していると、目の前を器に盛りつけられたたくさんの果物が運ばれていったり、儀式に使うのでしょう、見た事も無いような大きな香炉が運ばれていったりするのです。いつもと違う雰囲気に私はすっかり興奮してしまい、さらに奥の方へと忍びこんで行きました。幸い、みんな忙しくて私のようなおちびちゃんがちょろちょろしても気がつきません。台所の裏に積まれた野菜や肉の多さに驚いたり、儀式に使うために倉庫から出された綺麗な絨毯や蝋燭立てが干してあるのを見たり。

 そうしている内に、私はすっかり城の最奥にまできてしまったのです。北向きのそこは、ひんやりとしていて日の光も余り届かず、なぜかそこだけ人っ子一人いませんでした。忙しい城の中でそこだけぽっかりと人がいないのが珍しくて、私は身を隠すのはやめておおっぴらにそこら中を探検し始めました。

 そこは変なところでした。地面すれすれの所に鉄格子のはまった窓があったりして、幼い私はなんでそんな所に窓があるのだろう? と不思議がったのですが、今から思えばあれは地下牢の窓だったんでしょうね。そんな所だったので誰も近づかなかったのでしょう。

 私が更に探検を続けていると、建物の陰になっている所に檻があるのに気がつきました。私がそろそろと近づいていっても、檻の中からは声一つしません。怖かったですが、好奇心の方が勝りました。

 私は恐る恐る檻の中を覗きこみました。明るい場所にいた私が檻のある日陰に入ると、目がなれてないせいでよく見えません。何処にどんな生き物がいるのか判らなくて、私は更に顔を近づけました。

 数回目をぱちぱちさせた後、そこにあるものを見て自分の心臓がドキッとするのが判りました。目がなれてきた私の目に映ったのは、伏せたままこちらをじっと見つめる大きな獣でした。

 多分、今日の儀式に使われる予定のオオカミだったのでしょう。こんな大きくて恐ろしい獣を見た事が無かった私には、本当に獣の紋章が私の前に姿をあらわしたのだと思いました。

 私の何倍もありそうな大きな体、私などひと叩きで吹き飛ばしてしまいそうな鋭い爪の生えた手。なによりも、薄暗い影の中で光る二つの目。

 私が無防備にきょろきょろと檻の中を見まわしていた時も、この獣は私の事をじっと見つめていたのかと思うと、恐ろしさに体が凍り付きました。この獣は、やろうと思えば檻の中からでも私の首を噛み千切るか、その鋭い爪で引き裂いた事でしょう。

 自分の命が、圧倒的な他の何者かの前に無防備にさらされ、生死を握られていた。

 それはものすごい恐怖でした。早くここを離れなきゃ。と頭では思うものの、体がちっとも動きません。魅入られたようにオオカミの瞳を見つめ、私はその場に立ちすくみました。

 多分、何日もえさを与えられてないのでしょう。私を見る目には狂気のような飢えと殺気がありました。食べられる! と瞬間思いましたが、やがて、オオカミが本当はそう思っていないのではないか。と考え始めました。オオカミはこちらを見たままぴくりとも動きません。じっと私を凝視したままです。その目は、私を食べたくて仕方が無いが、そうする気は無い。と言っていました。

 なぜかしら? そう思いながらしばらくオオカミと見詰め合っていると、私はある事に気がつきました。

 こちらを見つめるオオカミの瞳は何処か見覚えがあったのです。

 ああこれは……。

 お兄様の目だわ。

 私は直感的にそう思いました。そのオオカミの瞳は、ルカ・ブライトのものと同じでした。蒼く澄んだその瞳は、純粋で美しく、とても孤独な光を帯びていました

 私はお兄様の目はとても綺麗だと思います。

 残酷で残虐な瞳。どす黒い狂気と嫌悪。捕らえた捕虜を次々と切り殺す時の怒りと憎しみ、狂気に酔い、人間らしい心を一切捨てた時のお兄様の瞳は破滅の結晶のよう。悪にしろ善にしろ、この世にこんな純粋なものがあるのかしら?

 あれから何年か経ち、お兄様の行なった惨劇に目を伏せながらも、そんなお兄様を見ていつも思い出すのはあの時の綺麗な蒼いオオカミの瞳でした。私は、お兄様の瞳の奥にあるなにかを、美しい。と思っている事は誰にも知られたくありませんでした。お兄様の残虐非道な行為を見ながら、それでもお兄様を美しいと見とれているなど知られたくありませんでした。私は弱く、偽善者だったのです。

兄に惹かれている……。

 ええ、そうです。私は兄に惹かれていました。私はルカ・ブライトを愛していたのです。無残にも殺されてゆく罪の無い人よりも、凶刃を振るう兄のほうが私には遥かに大事でした。

 

 その時も……。本当は恐くて仕方が無いのに、心の奥は妙に冷静でした。その獣の瞳を見ながら、私はぼんやりとお兄様のことを考えていたのです。

 お兄様は、この世の全てを呪って生きていらっしゃいました。お兄様は復讐しているのでしょう。

 お母様とお兄様を見捨てたお父様を。

 お母様とお兄様を酷い目に合わせたこの世界を。

 そして、一生許す事のできない男の血を受けた体を持った、お母様を救うことのできなかった無力な自分を。

 どれだけ強くなっても、どれほどの物を手に入れても、お兄様の魂が安らぐ事はないのでしょう。お兄様は厳しい人だから、一生自分をお許しにはならない。この世界を壊しながら、一生自分を傷つけて生きてゆくの。自分を誤魔化して生きてゆく事のできない人なのです。

 みんなお兄様の事を狂っていると言うけれど、お兄様は狂ってなどいません。いっそ狂ってしまった方が楽になるでしょうに。お兄様は恐ろしいほど冷静にご自分のなさった事の意味を知ってらっしゃるわ。

 人々の怨念と呪詛、恨みと憎しみ。

 それらを全て受け入れてお兄様は待っている。

 自分が神に罰されるのを。

 もし神がいるのなら、どうしてあの時助けてくれなかったのか? どうしてこんなに酷い運命を与えたのか?

 もし神がいるのなら、この俺を止めてみよ。

 お兄様はそう思ってらっしゃるのだと思います。お兄様が安らぎを手に入れられるのは、きっとその身から一滴も残さず血が流れ去り、冷たい躯となった時だけ。

 お兄様は誰よりもお強かったから、誰もお兄様を楽にしてはくれない。狂う事もできない。逃げる事もできない。この世にルカ・ブライト以上に強い人がいるでしょうか? お兄様より強い人などどこにもいない。お兄様は誰かに罰され、殺されたがっているのに、誰もお兄様に勝てる人はいない。

 誰もルカ・ブライトを楽にしてはくれません。

 血を分けた私でさえも。

 それはどんなにか苦しいでしょう。でも、お兄様は逃げたりなさらなかったわ。

 もちろん、それでお兄様のした事が許されるとは思ってはいないけれど。

 幼い頃の私がはっきりとそう思っていた訳ではありませんが、狂ったように兄が罰されたがっているのはうすうすと感じていました。

私ではお兄様を救えなかったけれど、お兄様は私だけは特別に思ってくださっているのは判っていました。時折城の中庭で遊んでいる私にふらりと近づいてきては、私の顔を見つめてこう言うのです。

「お前は母によく似ている」

 ……と。兄の目にはあのオオカミと同じ、狂ったような残酷さと残虐さがあって怯えたのだけれど、その奥に私に対しては他の人となにか違う感情を持っていると言う事は本能的に判りました。そうね、それは血を分けた肉親としてのカンだったのか、恋する女としてのカンだったのかは判らないのですが。

 もちろんそれは、兄にとっては私がうぬぼれて調子に乗ればすぐにでも首をはねられる程度の些細な感傷だったのでしょうけれど。

 私はお兄様の「特別」だということが判って、私がどんなに誇らしく嬉しかったか!

 お兄様が見ているのが私ではなく、母だったとしても、お兄様が必要としているのが私ではなく、私の体に流れる母の血だったとしても。

 私は嬉しくてたまらなかった。

 オオカミの目は、それと同じでした。どうしてかは判らないけど、兄が私の事を少しは特別だと思っているように、オオカミの目も「お前は襲わない」と言っていました。なぜでしょうね? こんな無力なちびを食べては、獣の王の沽券に関わると思って見逃してくれたのかしら?

 それが判ったので、私はとても恐ろしかったけど、魅入られたようにオオカミの目を見つめていました。

 遠くで大勢の人の話声がします。馬のいななく声や、金属のぶつかり合う音がします。

 でもここは、オオカミと私と二人っきり。

 どれぐらいそうしていたでしょう? ほんの一瞬のことかもしれないけど、私には永遠と思えるほどに長く感じました。

「おい、何をしている」

 まるで石のように動かない私の背後から、不機嫌そうな声がかけられました。その声を聞き、また私の心臓がどきりと言いました。振り返るまでの一瞬、どんなに私が期待に満ちていた事か。

「おかしなやつだな。食われたいのか?」

 振り返ると、そこには、私の兄、ルカ・ブライトその人が立っていました。

 輝く純白の鎧に身を包み、腰には愛用の大剣を下げています。しゃがんだまま逆光が眩しくて私は目を細めながら必死に兄を見ようとしました。その姿が可笑しかったのでしょう。咎める表情の兄の顔が少しだけ緩みました。

「た、探検してたの……」

 兄に叱られる事を恐れ、しゃがんでいた私はおずおずと立ちあがりながらそう言いました。もう目が慣れたはずなのに、まだ眩しくて兄をまともに見る事ができません。心の臓が早鐘のようにドキドキしています。その時、私は先ほどまで兄様のことを考えていました。そこで本物の兄様が現れてきた物だから、急になにか後ろめたいような、知られたらいけない事をしているような気になったのです。

 今から思えば……、私はもうその時から兄に対してそういう想いを抱いていたのでしょう。無意識のうちに「うしろめたい」なんて思うほどですから。

「どけ、食われるぞ」 

 そんな事を私が思っている事を露とも知らない兄はそう言うと、手を伸ばして私の腕を掴み、無造作に自分の所へ引き寄せました。その力は強くて、その手の動きは乱暴だったので私は少し痛かったのだけれど、嬉しい気持ちの方が勝りました。

 兄は私を自分の後ろへ引っ張って行き、安全な位置にいるのを確認すると(この世にルカ・ブライトの後ろ以上に安全な場所があるのかしら?)、今度は自分がその獣に興味を抱いたらしく、檻の中を覗きこみました。

 次の瞬間、また私は心臓が止まるほどびっくりしたのです。

 兄が檻に顔を近づけた瞬間、オオカミは恐ろしい唸り声とすごい勢いで兄に飛びかかってきました。

 ガシャン! とオオカミが檻に激突するすごい音が響きます、狂ったような唸り声を上げ、目を血走らせ、狂気に狂ったオオカミの目が兄をぎらぎらと見つめています。檻の隙間から、かみつこうと大きく開いたオオカミの鋭い牙が生えた真っ赤な口が見えます。頭を横に傾げ、上あごと下顎の間に鉄格子を一本はさんだまま、飛び出した長い口をがちがち言わせて兄に噛み付こうとしていました。
 その勢いは鉄格子まで噛み千切るのではないかと思ったほどで、兄が身を引くのがもう一瞬でも遅かったら、頭蓋骨ごと食いちぎられていたことでしょう。
 オオカミは狂ったようにガシャガシャとすごい音を立てて檻に激突してきます。オオカミのあまりの力に、鉄の棒が曲げられ、オオカミの方も傷ついて血を流していました。激情に自らをも傷つけるオオカミの狂気さえ感じる血走った瞳と、だらだらと血の混じった赤い泡と涎をたらし、唸り声をあげるその姿に私はとても恐怖を感じました。その迫力に、ぱっくりと開けた赤い口と、鋭い牙に自分が食べられる錯覚さえ覚えたのです。

「ッ……、この畜生が!!」

 今度は、オオカミの突然の攻撃から一瞬早く身をかわした兄が低い唸り声を上げました。すさまじいまでの怒りが兄から立ち上っているのが子供の私でも判りました。腰の剣を抜き放ち、オオカミの頭を叩き割ってやろうと振り上げた瞬間……。

「うわぁぁぁぁぁぁぁん!!」

 私は大声を上げて泣いていました。今から思えば、そんな気が立ってる兄の前で大泣きするなんて正気の沙汰じゃないのですけれど。その時はもう恐くて恐くて仕方がなかったのです。兄の気に障ればたとえ私だって簡単に切り殺したのでしょうけど、その時はそんな事を考える余裕などありませんでした。ただ、得体の知れない恐怖に泣きじゃくっていたのです。

オオカミも恐かったし、オオカミに激怒する兄も恐かった。私はこのオオカミが好きになっていました。そのオオカミとやっぱり大好きな兄が戦おうとしているのもとても恐かったのです。ただもう恐くて、止めて欲しくて、兄のマントを握り締めながら私はわんわん泣きました。

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