「……判ったから、もう泣くな」

 どれくらい泣いた物か、気がつくと私の頭を優しく兄の手が撫でていました。驚いて兄を見上げると、複雑な表情の兄が私を見下ろしていました。

「興が冷めたようだ……。あいつもな」

 そう言うと、兄は顎で檻の方を指ししめし、また複雑な表情で私を見ました。私は慌てて檻の方を見ると、先ほどの一瞬でエネルギーを使い果たしたのか、兄の言うように興ざめしたのか、あれほどいきり立っていたオオカミはまた檻の奥の方でぐったりと身を横たえ、まるで先ほどの事など無かったかのように目を閉じてじっとしています。

「恐がらせたな」

 兄はそれだけ言うと、ふいと私に背中を向けました。そのまま一人でずんずんどこかへ行ってしまいます。私はあっけに取られて泣くのも忘れ、兄の後ろ姿を見つめるばかりでした。

 ひょっとして兄様。

 私が泣いたものだから困ってらっしゃるのかしら……?

 余りにも意外な出来事に私はひとりぽかんとしていました。ですが、数瞬後、またわんわん泣き始めたのです。

 だって、私は迷子になったまま一人取り残された事に気が付いたのですもの。

 

その日起こった出来事はそれだけではありまでんでした。私はわんわん泣きながら城内をうろうろしている所を見つかり、侍女にこっぴどく叱られました。目はウサギのように真っ赤です。恐い目に会うわ、怒られてふてくされるわで、私は大変不機嫌に儀式に臨みました。祝詞を読み上げるのをぼんやり聞いたり、聖職者やお父様達が頭を下げたりするのを見ながら、私の退屈が最高潮に高まった時、それは起こりました。

 儀式も終わりに近づき、あとは、オオカミの人形をハイランド王家の代表としてお兄様が切る振りをするだけです。兄は皆の注目を浴びながらつかつかと出てきました。

 聖職者がうやうやしくやたら飾り物の付いた儀式用の剣を兄に捧げます。あとは、それでオオカミの人形を切る振りをするだけです。皆は、やれやれ、これで帰れる……。と気を抜き掛けた時でした。

「くだらん!」

 その場に兄の大音声が響きました。

「下らん決め事を阿呆どもが馬鹿面さらしてありがたがっている。せめて俺が少しでも面白くしてやろう」

 兄はそう言うなり、あっけに取られている参列者の中へオオカミの人形を台座ごと蹴飛ばしました。人形は真っ二つになりながら激しい勢いで着飾った親戚達の間へ突っ込んで行きます。悲鳴や怒号が飛び交う中、兄は楽しそうにそれを見ると、

「こんななまくらが役に立つか!」

 そう言いはなって今度は手に持った宝剣を乱暴に投げすてました。「不敬な!」悲鳴のような叫び声を上げて聖職者が慌てて剣を拾いに太った体を揺らしながら追いかけて行きます。それを見ると兄はげらげらと笑い、そのまま狂ったような薄笑いを浮かべて祭壇を飛び越し、祭壇の後ろに祭られていたオオカミの檻の前に来ると、腰の剣を抜き放ちました。

「こんなくだらん事をしているからいつまでたってもなめられる! ハイランドは……、俺は強いという事を教えてやろう。この国を、否! この世界を制するのは俺だ!強いものが勝つのだ!」

 そう言うと、恐ろしい事に檻の鍵を剣で叩き壊したのです!

「さぁ、出て来い、俺はくだらない儀式などやるつもりはない」

 兄が恐ろしい笑みを浮かべてそう言うと、檻から銀色の獣が矢のように飛び出して来ました。くだらないけれど平和だった豪奢な城の中の一室は、一瞬にして地獄絵図に変わりました。普段は取り澄ました貴婦人の絹を裂くような悲鳴、あちこちで「逃げろ!」という声が悲鳴と共に飛びかっています。

怒声や鳴き声、恐怖のあまり動けない人を叱咤する声。誰彼構わず押しのけて、他人を踏みつけて扉へ殺到する靴音、誰かが倒れる音、それを踏みつけるもの、陶器が割れる音や物が倒れる音の中で、狂ったような兄の嘲笑だけがやけにはっきり聞こえていました。

「ジル! ジル!」

 呆然としていた私は、その声ではっと我に返りました。気がつくと、母が必死の形相で私を呼び、すばやく暖かい胸の中で守るようにぎゅっと抱きしめました。

「大丈夫よ母さま」

 そんな大惨事の中で、私は少し愉快な気さえしていました。普段は取り澄ましたりおためごかしを言い合っている大嫌いな親戚が、こんなに必死な形相で辺りも構わず逃げようとしているのです。
 いつもはツンと済ました叔母様のスカートがびりびりに破けて下着が丸出しなのも、いつも自分は強いと自慢していた従兄弟が一番先に逃げ出したのも、私はこっけいでしかたがありませんでした。

「だって兄様が負ける訳無いもの」

 私は笑いながら母にそう言いました。じっと大人しくしておけばあんな獣など兄様が倒してくれるのに、みんな何を慌てているんだろう? わたしは母の胸の中でくすくすと笑いました。

「ジル! あなたは恐く無いの!?」

 そんな私を、母は恐さの余り錯乱したと思ったようです。私の目を見ながらそう言い、ゆさゆさとちいさな私の体を揺さぶりました。

「…………?」

 そう母に言われてみて、私ははっと我に返りました。たしかにその時私は錯乱していたようです。周りで何が起こっているのか、まるで他人事のように思っていた私は、室内の様子を見て愕然としました。

 めちゃくちゃに倒された椅子や祭壇、床には割れた皿や陶器が散らばり、倒れたろうそくが床を焦がした跡が有ります。カーテンはボロボロにやぶけ、怪我をした人のうめき声が聞こえます。
 ようやくやって来たらしい衛兵が呆然とした様子で立ちすくみ、参列者たちの沢山の目が、部屋の中央に立つ兄と、その足元に転がっている大きな狼の死体を、恐れと穢わらしいものでも見るような目で見ていました。

「お前は狂っている! 我々を殺す気か!」

 怒りの余りぶるぶる震えながら叔父様が兄を指差し、立派なひげを震わせてそう叫びました。血走った目でお兄様を糾弾する叔父様が恐くて目線を変えると、同じ目をした従兄弟が見えました。はっとして辺りを見まわすと、誰もが同じ目をしてお兄様を憎々しげに睨みつけ、あるいは恐怖で凍り付いた目で見つめていました。

 兄は冷笑を浮かべながら広間の真中に立っていました。足元には血まみれになった銀色のオオカミの無残な姿が転がっています。やはり、飢えて狂暴になったオオカミでさえも兄の敵ではなかったのです。純白の鎧は返り血で赤く染まり、手に握った、血でべっとりと汚れた剣が私の恐怖心をなお煽りました。それは他の人も同じだった事でしょう。

 ああ、どうしよう……。私は恐怖に怯えながらも困り果てていました。恐くて恐くて、涙があとからあとからぽろぽろと出て来ます。私は小さくしゃくりあげました。私はその時無条件で兄の味方だったのです。もちろん兄は味方など誰も要らなかったのでしょうけど。

兄が窮地に陥っている事ぐらい私でも判りました。何故そんな事をしたのだろう。そう思いながらはらはらと私は兄を見つめました。そして私はもう一つ心配していたのです。

 もうこれ以上兄を怒らせないで……。と。皆は親戚のくせに兄の恐ろしさがわからないのでしょうか? そんな目で見れば見るほど、怒りで罵倒すればするほど、兄の憎悪はそれを吸収して膨れ上がり、なおも破壊してゆくのに。

 何故それが判らないの? と私は泣きながら必死に叔父を見ました。もちろん叔父は私の必死な視線に気がつくわけも無く、狂ったように唾を飛ばしながら兄を罵倒していました。

 兄は静かにその罵倒の声を聞いています。私は心臓が凍り付きそうな思いで兄を見ました。やがて、兄の両方の唇のはしがにいやりと釣りあがり、邪悪な三日月型を形作りました。

 ああ、もうだめだ! 私は恐ろしさに目をつぶりました。次の瞬間、兄の刃が一閃し、跳ね飛ぶ叔父の首が瞼の奥で見えました。それは、間違い無くこれから起こる出来事のはずだったのです。

「大丈夫よ、心配しないで」

 私の耳元に甘い息とともに囁かれたのは母の声でした。私の横に座り、ずっと私を抱きしめていた母はもう一度私を安心させるようにぎゅっと抱きしめると、おもむろに立ち上がりました。

「ルカ!」

 広間中にまるで鞭のようにぴしりと母の声が響きました。沢山の目がなにごとかと母を見ます。母は衆目の中、この国の王の妃らしく、堂々と皆を見まわしました。

「あなたに大切な儀式を汚した罰を与えます」

 母の声と姿は威厳に満ちており、兄でさえも逆らいがたい響きを持っていました。母の向こうにいる、お父様の妹の夫の三番目の弟の奥さまの息子さんがごくりと唾を飲みこむのが見えました。皆が固唾を飲んで見守る中、母は場違いなほど優雅で美しい微笑みを浮かべながらこう言ったのです。

「ジルがあなたのした事に恐がって泣いています。泣き止むまで貴方が責任を持ってジルの子守りをなさい」

 それからはもう、皆なんだか拍子抜けしてしまっていました。これが正しかったのかよく判りませんが、母の言葉で一応決着がつき、また内容が内容だったため、叔父は馬鹿にされたと顔を真っ赤にし、馬鹿馬鹿しいと捨て台詞を吐いて広間から出て行きました。母に命を救われたとも知らずに。
 はりつめたような緊張が破られ、それが合図の様に衛兵や侍女が広間に入って来て後片付けを始め、入れ替わりに参列者達がぞろぞろと出て行きました。こうなれば兄も暴れようがありません。不貞腐れたように赤く汚れた剣をぶんと振って乱暴に血を落すと、側にあった高そうなテーブルクロスで血を拭い、かちんとさやに収めました。
 母の言った事は一見馬鹿馬鹿しかったけれど、兄と叔父の戦意を喪失させて、あの場を収めるのにこれ以上の方法は無かったでしょう。母は見事に叔父と兄を救ったのです。

ぞろぞろと扉の方へ出ていく人の波を掻き分け、なおも泣きじゃくる私の手を引きながら母は兄に歩みよりました。そして、不貞腐れたかのようにそっぽを向く兄に母はこう言ったのです。

「ルカ、ジルを向こうに連れていって頂戴」

 なんと、母は本気だったのでした。


 母にああ言われた兄は、口答えしようと一瞬口を開き掛けましたが、なにも言わずに母に少し頭を下げ(たように見えましたが、ほんの少し身じろぎしただけにも見えました)、まるで私を荷物でも抱えるかのように小脇に抱えて歩き出しました。いきなり視界が反転して何事かと驚く私に一切なにも言わず、ひたすら兄は大股で歩いて行きます。私のお腹の辺りに兄の力強い腕が回され、いとも軽がると抱えられてしまったことに少し驚き、嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分でした。

 兄はずんずん城の廊下を歩いて行き、やがて私を下ろしました。
 兄は私を下ろすと、壁にもたれて床にそのままどっかと座り込みました。そのまま、私など眼中に無いかのように青空を見上げています。

「……いい加減に泣き止め」

 隣に座った兄の不機嫌そうな声が聞こえてきます。腹の底から這い出てくるような低い声に、私は益々怖くなって泣きじゃくりました。

 そこは城の見張り台で、心地よい風が吹く中、上には真っ青な空、下にはハイランドの城下町が良く見える素敵な所だったのです。

 だけど、私はそんな素敵な所にいるにもかかわらず、しくしくと泣き続けていました。

 そのまま、どれくらいの時間がたったかしら?

「いいかげんに泣き止まんと、こっちにも考えがあるぞ」

 いいかげん私に付き合うのに飽きたのか、大あくびと共に兄が独り言のようにそう言いました。そう言われても、泣き止もうと思って泣き止める訳では有りません。それでも私が何とか泣き止もうと努力すると、ひっくひっくとしゃっくりみたいなものが止まりませんでした。兄はそんな泣き虫な私を見て呆れています。

 どうしようと思えば思うほど止まりません。私は悲しくて、よけい涙が出てきました。そうするともう止まりません。私はまたしくしくと泣き始めてしまいました。

 その時でした。

 ぐいっと力強い腕が私の腰を攫い、急に兄のひざの上に横抱きに抱かれました。兄の顔が上にあり、私を見下ろしています。何がなんだか判らないうちに、兄の顔が近づいてきて、兄の唇が私の唇にそっと触れました。驚いて目を見開いた私の目のほんのすぐ側で、目を閉じた端正な兄の顔があります。兄の前髪が私の頬に触れ、とてもくすぐったいのです。でも、私はそれどころではありませんでした。キスなどした事が無い私は、いきなり兄にそうされてびっくりするわ、息苦しいわで目を白黒させていました。少し身じろぎすると、息が苦しくて真っ赤になっている私にようやく気が付いて、兄が私を離しました。

 兄とのはじめてのキスだったのに、ロマンチックな思いに浸る事も出来ず、わたしは顔を真っ赤にしてはあはあ息をしていました。

「俺は他に女を黙らせる方法を知らん」

 兄はそう言うと、また何事も無かったかのように私を無視して城下を眺めていました。

 私は平然としている兄の横顔を見ながら、この人は私の気持ちも考えないで、なんて酷い人なんだろう……とやっぱりぼんやり考えていました。涙はいつのまにか止まっています。
 それから後の事は、何故か良く覚えていません。

 思い出話はこれで終わりです。

 今? 今はどうしているか? ですって? 

 兄はもうこの世にいません。

 壮絶な戦死を遂げたと聞いています。
 
 兄の魂は救われたのでしょうか? それだけが気がかりです。

 ……今でも、兄の薄い唇の感触をはっきり思い出すことが出来ます。時々思い出しては、甘い余韻に浸り、幼かった頃と兄の事に思いをはせます。

自分の生まれにまつわる話は聞いていますが、私はルカ・ブライトの血の繋がった妹だと断言できます。証拠など有りませんが、私の中に流れる血は、確かにお兄様と同じ物です。私にはわかるのです。

兄の唇の感触を忘れる事の無いまま、別の人の妻となった私は、やはり罪深いルカ・ブライトの妹、地獄に落ちるに相応しい罪深きジル・ブライトなのです。

ですが、私はそれでいいのです。

神に背いても、罪に穢れても、兄と一緒なら、私はそれで構わないのです。

この世の皆が兄を忘れても、私は忘れる事はないでしょう。たとえ私の命が果てても、私の魂は兄を忘れる事は無いでしょう。どのような姿になろうとも。私の魂は兄を探し出すでしょう。

その時こそ、今度こそお兄様と一緒になれるかしら?

百万年後、現世の因果が巡り巡って、またお会いできる日まで、ほんの暫く、私は兄を待つのです。

                                    
 ENDE

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