6、我が良き片羽
「冗談はよせ」
尊大な口調で椅子に座ったまま、ギレンがそう目の前のキシリアに言った。
目の前のモニターには暗い宇宙が広がっていた。ほんの数時間前まで連邦とジオンの激しい戦いが起きていたこの宙域には、破壊された戦艦やモビルスーツの残骸や、散っていった兵士達やその遺品が大量に漂っているのだが、宇宙は広すぎてギレンの目には届かない。
ア・バオア・クーの司令室でギレンはただ一人上機嫌だった。地球での戦いでは、オデッサでは核を使い、激しい批判や物理的に自軍にかなりのダメージを負ったものの、連邦に辛うじて勝利し、じりじりと勢力圏を広げている。宇宙では攻め込んできた連邦を破り、連邦との勢力争いはジオンにかなり優勢になっていた。まだまだ先の事とは言え、ジャブロー降下作戦も現実味を帯びてきている。ジオンの国力は連邦に比べかなり小さい、もちろんこの先も頭の痛い問題は山積しているのだが、それら全てを忘れ、ギレンは勝利の美酒に酔いしれているかのように見えた。
そこで、急にキシリアが突撃機動軍をグラナダに戻すと言い出したのだ。
「いえ、グラナダへ戻ります」
他人行儀な口調で、キシリアが短く返す。
それは、当初のギレンの予定とは大幅にかけ離れていた。キシリアをグラナダに戻す前に、もっと働いてもらう予定だったのだ。
「急な事だな。まだ戦いが終ったばかりだ。これからお前にはまだ……」
勝利に酔いしれ、キシリアの態度が硬いことにギレンはまだ気が付いていないようだった。珍しく熱っぽい目をしていたが、自分がキシリアをでっちあげで捕縛しようとしている事などおくびにも出さず、なぜグラナダに帰るのかと心底疑問に思っているような態度を崩さない。内心を押し隠し、他人行儀な仮面を被って、薄っぺらい言葉を吐き出す。
「誰のせいだと思っているのです。私はもう兄上に付いてゆけません。父上の事も、私は何一つ納得などしていない!」
私を使うだけ使い、用が無くなれば捕らえようとしているくせに……。その不満が思わず声に出る。苛々とした声がキシリアの唇から発せられた。何度こんな駆け引きを繰り返せば気が済むのか。
「ずいぶんと機嫌が悪い」
フッとギレンが笑い、手にした万年筆を弄んだ。
「私は、私のやりかたでやらせていただきます」
「好きにするがいい」
キシリアがいくら睨みつけても、ギレンは相手にしない。低い声でそう告げても、ギレンの口からは投げやりな言葉しか出てこなかった。
「その余裕はなんなのです? 私は、貴方が判りません」
束縛するかと思えば、好きにしろと言う、罠にかけ、甘い毒で痺れさせておきながら、息の根を止めようとせず、飽きたかのように放り出す。
ギレンは何を考えている?
キシリア見るギレンの表情は、余裕の笑みを浮かべてさえいた。
ギレンが本気ならば、すぐさま親衛隊を呼び出して私を捕縛する事ができるだろう。暗い営巣に放り込まれるか、良くて父のように軟禁されるはずだ。
なのに、ギレンはそうしようとしない。何のつもりなのか、私など恐れるに足らずとでも思っているのか……?
そこまで考えてふと我に返る。
私は何をしているのだ?
キシリアが自分に問い掛けた。答えは見つからない。
なぜ自分がわざわざギレンに宣戦布告をするのかも判らなかった。自分が一時の感情に流され、馬鹿な事をしているという自覚はあった。しかし自分が止められない。
ギレンのする事全てがキシリアを混乱に陥れる。
最初キシリアを求めたのはギレンのはずだった。だが、気が付くとキシリアの方がずっとギレンの背を追っている。
もう貴方を追いかけるのには疲れた。
キシリアの心がそう叫んだ。その声はギレンに聞こえない。
「何度も言っている。私は、お前を手放す気はないと」
表情一つ動かさず、ギレンはそう言った。
キシリアがギレンに逆らうつもりでグラナダに戻るのだと知っているはずなのに、だ。
「貴方がそうだから、私は心を決めきれずに戸惑うのです」
キシリアが、ギレンに対する怒りと苦しみを感じさせる声でそう言った。
「貴方は私の心に無責任に触れてゆく。そして戸惑っている間に遠ざかってしまうのです。だから私は貴方についてゆくことも、離れる事もできない。ただ心に残る貴方の残像が気になって仕方が無いのです」
自分の気持ちを自分でコントロールできない。その恐ろしさは嫌というほど味わっている。だが、このまま流されて生きていくのは絶対に嫌だ。
「ギレンが好きにしていいというのなら、本当にそういたします。貴方が変らねば私は戻ってはきません」
キシリアが、ギレンの瞳をまっすぐに見ながらそう言った。
ギレンに対して怒りを感じ、この身を蝕む苦しみに頭がおかしくなりそうだ。だが、どのような時でも、一筋の甘さがキシリアを痺れさせる。
ギレンが憎い、そして愛しい。
「マ・クベは下から私を支えてくれる。貴方は上から私を呼ぶ」
キシリアがそう言い、一呼吸ついた。ギレンの目をじっと臆する事無く見つめる。
「私は、貴方もマ・クベも、両方必要なのです」
そう言って、キシリアは艶やかに笑った。
「欲しい物は手に入れます。貴方は私を足元に跪かせるおつもりらしいですが、私が大人しくそうするような女ではない事を思い知らせてさしあげましょう。跪くのは、ギレン、貴方の方です」
キシリアが言い放った言葉に、初めてギレンがおや? というような表情をした。
心に罪悪感を抱いた人間は動かしやすい。ギレンに抱かれながらマ・クベの事を忘れられず、それが足枷となって、キシリアはいつもの自分でいることができなかった。
マ・クベへの気持ちが断ち切れない事を負い目に感じていたキシリアが、なぜか急に自らの心を認めたのだ。
飼いならされた猫のようだったキシリアが、虎の本性を取り戻した様だった。
何かあったな。とギレンは無表情の下で素早く思考をめぐらせた。自分の思惑が少し崩れたのを感じ、完璧主義なギレンはやや不快に思った。キシリアの変化の影に、マ・クベの存在を感じる。
「それが、何が悪い。と、やっと吹っ切れるようになりました。貴方がそうして私の心を放さぬつもりなら、私も同じやりかたをしましょう。貴方に飽きられぬように、全力を尽くします」
逆らってでも、私の存在を貴方に教えてやる。私の事を判らせてやるとキシリアは言った。敵となってでも、無理やりにでも、私の事を考えさせ、無視できぬようにする。
キシリアの挑むような瞳に、ギレンの唇に笑みが浮かんだ。さっと素早く気持ちを切り替える。
大人しく抱かれる猫もいいが、牙をむいて逆らう虎を狩るのも、それはそれで心が躍る。
ギレンの嬉しそうな笑みに、今度はキシリアのプライドが傷つけられる。どうせこの男は、狩人が獲物を追う喜びしか考えていないのだろう。自分が追っている獲物に食い殺される事など微塵も想像していないに違いない。だから私を行かせるのだ。
「意外と……兄上も甘いようで」
そう言い捨てて、キシリアは踵を返した。ギレンの内心などどうでもいい。初めてギレンに抱かれた時のような、震えるような高揚感と、怖いという感情がない交ぜになる。
一歩一歩ドアへ近づくたび、気持ちが複雑に絡まっていく。
「止めても、お前は戻ってくるまいな」
キシリアの後姿に、ゆっくりとギレンがそう言った。
「ええ。貴方が変るまでは」
キシリアが振り返りギレンの顔をじっと見る。低い声で短くそう返事をした。
ギレンはキシリアの返事に満足そうに笑っていた。だからお前を選んだのだと、ギレンの目が言っている。
「お前も私と同じ修羅の道を選ぶか?」
そう独り言のように呟き、さも楽しそうに肩を震わせて笑った。ふっと息をつき、キシリアの顔を見る。
「何故だろうか? お前は離れていこうとしているのに、私はお前を近くに感じるよ。お前が私を見ているのが判る。逆らおうが、共に居ようが、お前は私のものなのだ」
諍いさえも、二人を近づける。疑う事も、逆らう事も、憎む事も、お互いを理解させる手段となる。
愛して生きること、憎んで殺す事、両極端の二つのドアの向こう。
そのどちらも私には同じ。
キシリアには、ギレンがそう言っているような気がした。
「これが、共に高みへ昇るお前と私のやりかたの一つなのだろうな。我が良き片羽よ」
そのギレンの言葉が、サイド3を出るキシリアの耳の奥にいつまでも残った。
「キシリアがな、グラナダに戻ると私に言った」
「キシリア少将が」とは言わず、ギレンはかなり砕けた言い方をした。
「さようで」
ギレンがどういうつもりなのか興味が無いのか、言われたマ・クベは無表情で短く返した。キシリア様が離れていくと知って、慌てて私を呼び出したのかと内心ではギレンの滑稽さを軽蔑している。
「貴様の差し金か?」
自らはデスクに尊大に腰掛け、マ・クベには椅子を薦めもせず、立たせたままそう言った。ギレンの何もかも見通すような鋭い目がマ・クベに注がれる。だが、マ・クベは鉄ででもできているかのようにその視線にびくともしなかった。
「キシリア様はご自分の身を守るためにやむなくご決断されたのです。不幸な誤解が解ければいつでもジオンの為に馳せ参じましょう」
マ・クベは、ギレンの質問には答えずにそう言った。ギレンの思惑は判っていると牽制し、あくまでもキシリアは自分の身を守るために行った、悪いのはそちらだと言外に匂わせている。
「その割にはずいぶんと挑戦的だったが」
「お父上のご不幸に心乱され、気が立っておいでなのです。お父上思いの方ですから」
ギレンの言葉に、マ・クベはデギンのことを口に出し、さらにちくりと嫌味を言った。キシリアが好戦的なら、マ・クベも好戦的だった。今までギレンにはさんざん辛酸を舐めさせられてきたのだ。
「たしかにな、暴れる猫のように手がつけられぬよ」
マ・クベの嫌味を気に解さず、ギレンは万年筆を弄びながらそう言った。マ・クベが無言でギレンの顔を見ていると、急にギレンのつまらなさそうな顔が一変した。デスクからゆっくりと立ち上がる。
「頭に血が上っているキシリアとは違って、冷静なお前なら判るだろう? 今の状態がキシリアにとって良くないとな」
そう言うギレンの顔は独裁者のものに変っていた。
私の力を持ってすれば、キシリアなどすぐに処分する事ができる。それが判らぬお前ではあるまい?
口には出さぬが、ギレンはそう言っている。
「キシリアを止めろ」
そのギレンの短い言葉ははっきりとした命令だった。果たせねば身の危険を感じるほど重く、相手のことなど何も考えていない無慈悲で残酷な命令。
どんな無理な内容だろうと、有無を言わさず従わせる気だ。言われたのがマ・クベで無く他のものなら、一秒でも早くその命令を果たしてその重圧から逃れたいと思ったであろう。
「私はキシリア様の部下、キシリア様の御為になるよう動くだけです。ただ一言申し上げるのなら、猫に引っかかれるのを恐れるお方に猫を飼う資格は無いかと思います。貴方のような方でも、恐れるのですな」
マ・クベは表情を変えず、独特のあの口調で静かにそう言った。言い終わると、伏せていた目を上げ、ギレンと目を合わせる。ギレンが自分を見ていることを確かめると、ふ……と馬鹿にしたような笑みを唇に浮かべた。
キシリアはギレンの言いなりになる人形ではない。それどころか鋭い爪を持った猛獣だ。それを忘れて、キシリアに牙をむかれてあたふたしているギレンを馬鹿にしている。自らの不手際でキシリアを怒らせ、謝る事もなだめる事も出来ずにこんな方法をとるしかないギレンを笑っているのだ。
「確かに私はキシリアには甘いようだ。それは認めよう」
マ・クベはギレンの及び腰を批判したが、ギレンはそれを自分はキシリアに甘いのだとさりげなく訂正した。
「お前は自らの主君を猫に例えるか? 身の程を知らん奴だ。もっとほかに言いたい事が有りそうだな。言ってみるがいい」
ギレンの一言が、政治的な問題を一旦横へ置いた男同士の戦いに変化する合図となった。
もともと私の腹を探るためにここへ呼んだのだろう。ならばご希望通りなにもかもぶちまけてやろうではないか。
そう思い、マ・クベが息を軽く吸って口を開いた。
「では申し上げましょう」
傲慢なギレンの言葉に、対抗しようと口を開いたマ・クベの声がほんの少し大きくなる。
「キシリア様を振り回してその関心を引こうとするのはお止めください。やり方がまるで子供ではないですか」
「別にそんなつもりは無い」
「それでは本当にそれでキシリア様が悲しまれると判らなかったと? 驚きましたな!」
憮然としていったギレンの言葉にマ・クベがわざとらしくそう言った。マ・クベはキシリアの気持ちを失うのを恐れ、こうして裏から手をまわすギレンを軽蔑している。それを隠そうともしない。
「そのお言葉で確信いたしましたよ。キシリア様が惹かれているのは貴方の才能だ。貴方ではない」
キシリアはギレンの人間的な部分に惹かれたのではない。マ・クベはそう言いきった。
もともとキシリアはギレンの事を好かぬと言っており、ギレンがそのような人間だから反発して離れたのだ。
キシリアがギレンに執着するのは、ギレンがキシリアの兄であり、キシリアの上官であり、政治上のライバルであるという、キシリアが越えねばならぬより上の存在だからだ。
才能や実力で自分を凌駕する存在であるギレンを超えたいと思う純粋な気持ち、ギレンの才能を認め賞賛する気持ち、一方で反発し嫉妬する気持ち。それらが複雑に絡みあう。
ギレンが男、キシリアは女であり、兄妹でなければその気持ちがふとした拍子から恋愛感情に変る事はあったかもしれない。だが二人は血が繋がっている。その枷があったおかげで、キシリアはギレンに対して恋愛感情を持つ事はありえないはずであった。二人は兄妹である以上、純粋にギレンをライバルとして追いかけるはずだったのだ。
しかし、ギレンはむりやりキシリアを抱き、有る筈だった枷を弾き飛ばした。
ギレンに抱いていた強烈な気持ちは、方向を変えられ男女のそれとすりかえられた。
一度交わってしまった後は体に引き摺られ、愛欲や憧れや同情を愛だと勘違いするように、キシリアも勘違いをさせられているのだ。ギレンの勝手でキシリアを巻き込んだのだ。と、マ・クベはキシリアとギレンの間をそう考えている。
その才能と、総帥という地位と権力が無ければ、何ともつまらぬ人間だ。
自分の無を埋めるために、愛した女を地獄に巻き込む勝手な人間。人の気持ちも判らず、簡単に踏みにじる最低な人間。他人を巻き込んだくせに、傷つくのが怖くて、傷つけるのが怖くて相手を避ける誠意の無い人間だ。
面倒を避ける貴方は人を愛する資格も人に愛される資格も無い。
そう思うマ・クベの気持ちが、声ににじみ出た。
「キシリア様は貴方を男として求めたのではない。だが、貴方は自分の中の虚無を埋めるためにキシリア様を抱いた。あのような形でなくとも、貴方とキシリア様の間にはもっと別のやり方が有ったはずだ。それなのにキシリア様を抱いたのは貴方の傲慢です」
貴方のような勝手で傲慢な方は、一人でいるのが相応しい。他人を求めてはいけない人間なのだ。
そのマ・クベの非難が、容赦なくギレンに浴びせられる。
「いちいち最もだな、マ・クベ」
ギレンはマ・クベの言葉に怒りもせず、苦笑した。その落ち着いた態度に、マ・クベの不快感が増す。
「だが、私は変わる。いや、「変えられる」のか? あれは本当に手間のかかる女だ。いろいろ考えさせらる。その手間がまた楽しいものだな」
「手間がかかる女だなどと軽々しく仰らないで戴きたい。キシリア様がどれほど傷付いて貴方から離れる事を決められたのか貴方は全く判っておられぬ」
自分に酔うようにそう言っていたギレンが、マ・クベの言葉にはっと表情を変えた。ほんの少しの表情の変化だったが、マ・クベは見逃さなかった。
「手厳しいな……」
ギレンがそう言って下を向き、苦笑した。
「やはり、必要だな、お前は」
小さくそう言って顔を上げたギレンには、迷いが無い。
「もし、モノクロの世界に居た男が、いきなり色を知ったら戸惑うだろう。知らぬが故の愚かな行為に笑われる事も有ろう。だが、男はもう色のない世界に戻る事は出来ぬ。知ってしまった以上、失う事など耐えられぬ」
ギレンの言葉に、今度はマ・クベがはっとした。
ギレンの言う「男」が誰の事なのかは明白だ。まさかギレンが自分にそんな一面を見せるとは思わなかった。
傲慢で血も涙も無い独裁者。そんなギレンに恐怖など感じない。
ジオンも、連邦も、ギレンの才能の光に目をくらまされ、盲目状態だった。その隙を突いてギレンは今まで成功する事ができたのだ。
人々がギレンという男に慣れ始めてくるこれからこそがギレンの正念場なのだが、マ・クベは既にこの男の中身が空虚な事を看破している。他の者も気がつくのも時間の問題だ。
たしかに天才だ、それは認めよう。だがそれだけの男だ。天才であるだけの男だ。周りを振り回すだけ振り回し、結局は何も積み上げる事が出来ずに自ら滅びるであろう。
それが、マ・クベの今までのギレンに対する評価だった。
だが……。
この男は本当に変り始めている?
その予感は、マ・クベを心からぞっとさせた。
「傲慢だろうが何だろうが、私はキシリアを手放す気は無い。後悔もしておらぬ。あの女は、私の知らぬ私を引き出す。私は変わる。私には無かった何かを得てみせる」
ギレンの言葉に、マ・クベは何も言えない。マ・クベをぞっとさせている嫌な予感は、今のギレンを知れば知るほど大きくなっていく。
「恐れているのはお前の方だろう。キシリアが惹かれているのは、確かに私の才能であるかもしれぬ。だが、私がそれ以上のものを手に入れたらどうするのだ?」
ギレンが一瞬言葉を止め、挑発するようにマ・クベを見た。
「お前は私に太刀打ちできぬ」
「私はキシリア様を信じています」
ギレンの言葉に、間髪要れずマ・クベが返した。嫌な予感はギレンに言い当てられ、半ば意地になって反射的に言い返した。
ギレンが才能だけでなく人間的にもキシリア様を惹きつける男になれば、私は……。
マ・クベがそこまで考かかったが、すぐにその考えを捨てた。キシリア様を信じるのだ。と自分に言い聞かせる。
ギレンにキシリアを惹きつける才能があるのなら、自分にはキシリアとの間に長い間培った信頼と愛情がある。その自信が、マ・クベを支える。
「勘違いするな。私はお前を排除しようとは思わん。お前はキシリアに必要な男だ」
ギレンの意外な言葉に、マ・クベの表情がほんの少し変った。警戒した目でギレンを見る。
「女王蜂は他者の奉仕と贅沢によって女王蜂となる。それと同じだ。あれは贅沢な女だ。何でも最高のものを与えられてきた。キシリアは手間隙かけて贅沢に作られた女なのだ。そんな女には男も贅沢に与えてやるべきだとは思わぬか?」
ギレンの能弁さが、マ・クベの苛立ちを助長する。言葉の内容を理解すれば、さらに別の苛立ちが生まれた。
「与える」
あくまでも上からしかものを見ることが出来ないのか、この男は?
私は「与えられた」物などではない。私はキシリア様を選び、キシリア様もまた私を選んで下さった。奉仕だとか与えただとか、貴方にそんな風に言われる覚えは無い。
マ・クベが悔しさと怒りをぐっと歯を食いしばって耐えた。
「あれは頭がいい。よほどの男などより度胸も行動力もある。加えてあの気性だ。ただの男では太刀打ちできまい。私はお前を買っているのだぞ」
「私を買っているですと……?」
もはやマ・クベは不愉快さを隠す事をやめていた。だが、マ・クベの不機嫌な声もギレンは全く意に介さない。
「お前はキシリアを愛しているな? ならば身を削ってでもキシリアに尽くすだろう。お前を糧にしてキシリアは美しく咲くのだ。その見返りにお前はキシリアの信頼と愛を得るだろう。私にはそれは得られぬものだ。」
「それが貴方の傲慢だというのだ!」
マ・クベの怒りが爆発した。唸るようにそう言い、激しくギレンを睨みつける。
見返りだとかそんなものを口に出すギレンが許せなかった。キシリアを大切に思う自分の心が汚されたとまで思う。
笑い、泣き、ここまで歩んできた二人の間のいろいろな物を、したり顔でまとめるギレンに心底腹が立った。お前に何が判るというギレンに対する反発が嵐のようにマ・クベを襲う。
「キシリアは変っただろう?」
マ・クベの怒りが限界に達しようとしている時、急にギレンが話を変えた。燃え上がったマ・クベに、冷水を浴びせ掛ける。
何のことだと苛立ちながらマ・クベがギレンの次の言葉を待った。感情の爆発を遮られて気分が悪い。
「美しくなった……とは思わぬか?」
意味有りげにそう言ったギレンの言葉に、マ・クベが虚を衝かれて表情を歪めた。
ギレンの言葉を否定したくてもできない。
美しくなった。と、ギレンが単に容姿の面で言ったのではないという事をマ・クベは察している。
確かにキシリア様はお美しくなった。悩み、苦しみ、一段と輝かれた。
マ・クベに「そなたを愛している」と言わせた時の、壮絶なまでに美しいキシリアの顔が浮かんだ。あの顔は、マ・クベが引き出したものだ。
だが確かに私一人ではキシリア様をああまでお美しくすることはできなかった!
マ・クベが、その事実に激しいショックを受けた。
キシリア様にはこの男が必要なのか?
この男が、足りない何かを得れば、キシリア様にとってこの上ない男になる。
マ・クベがその思考を慌てて追い出した。一瞬でもそんな事を考えてしまった自分が呪わしい。
マ・クベはキシリアを愛している。ただ男として女を愛するのではなく、キシリアの才能を愛し、それを育てることに意義を見出していた。キシリアの才能を愛しているゆえに、ギレンはキシリアのためになるのではないかという疑問はマ・クベを蝕んだ。
「私がキシリアに変えられるように、キシリアも私に変えられる。それでもお前は私一人の傲慢と言うか?」
マ・クベの迷いに畳み掛けるようにギレンがそう言った。マ・クベの心がさらに乱される。キシリアを独占したい気持ちと、ギレンを認めようとする相反した気持ちがないまぜになる。
「お前と私は役割が違うだけだ。お前はキシリアを支え、私はキシリアを導く」
「理解……できませんししようとも思いませんな」
そう言ったマ・クベの声は小さかった。ギレンの詭弁だと自分に言い聞かせるが、マ・クベ自身が美しいと思ったあのキシリアの顔がちらつき、思考が上手く纏まらない。
「そうかね? だが、キシリアは私を愛しているよ、お前がどう思おうとな」
マ・クベの混乱を楽しんでいるかのように、からかうような口調でギレンがそう言った。
「……貴方がキシリア様にとってどんな存在だろうが関係ありません。私は貴方がいくらキシリア様を傷つけようとキシリア様を救ってみせる。私は絶対に貴方にキシリア様を潰させはしない」
マ・クベが、最後の力を振り絞ってそう呟く。
「それでいい」
ギレンの満足げな声が会話の終わりを告げた。
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