「ならぬ」

 ゴルドーの冷たい声が空気を震わせた。少しの沈黙の後、ジジッと蝋燭の芯が焦げる音がした。豪奢な調度品に囲まれたゴルドーの自室は、カミューには馴染み深いものであった。ただ、思い出したくない出来事ばかりだったが。

「今後、このような事が無い様、マイクロトフには私から言っておきます」

 カミューがさらに食い下がった。マイクロトフが牢に入れられて三日、カミューは、夜も更けた頃に、この二度とは来たくなかったゴルドーの部屋に一人訪れた。
 もちろん、彼の親友を牢から出すようにゴルドーに懇願しに来たのである。だが、カミューの願いはいともあっさりとゴルドーに拒絶された。これまで何度となくカミューと青騎士達はマイクロトフの開放を懇願してきた。だが、その何れも聞き入れてもらう事はできなかった。

 たとえ、カミューがゴルドーの自室にまで来て懇願してもそれは同じ事だ。

「フン、死にかけの農民に食料だと? 一体いくらかかると思ってるのだ?」

 カミューとマイクロトフの必死な思いをあざ笑うように、ゴルドーが鼻で笑った。

「ではゴルドー様は彼らを見捨てると仰るのですか?」

 自分とマイクロトフだけでなく、守るべき民さえも馬鹿にしきっているその態度に、さすがのカミューも腹に据えかねる。声に怒りが混じりそうになるのを必死にこらえ、ことさら冷静に言った。

「誤解するな。食料を出さぬと言っているのではない。何れは出す」

「ですが、被害は広がる一方で……」

 カミューが言いかけるのを強引に遮り、ゴルドーが言葉をはき捨てた。

「役立たずの農民など、くたばってしまえば良いのだ」

「!」

 あまりのことにカミューの動きが一瞬止まった。軽く目を見開き、一瞬我を忘れ、非難するような目でゴルドーを見る。そんなカミューの表情を横目で見て、それでもゴルドーは言い放った。

「どうせ先に死ぬのは働けぬくたばりぞこないの老人や子供だ。そいつらが死んでから食料を出しても遅くは有るまい。その方が安く済む」

「ゴルドー様、どうかお考え直しください。それは王者たるものの考えではございません!」

 思わずカミューが叫んだ。ゴルドーに期待していたわけではないが、これほど腐りきっているとは思わなかった。これ以上失望する事も有るまいと思っていたが、更なる失望のどん底に叩き落される。騎士としての誇りも矜持もない、権力にしがみつくだけの腐りきった老人。それが今のゴルドーだった。

「ならぬと言ったらならぬ。貴様も牢にぶち込まれたいか」

 これが最後の返答だ。とゴルドーが言外に込めて言い放った。

「カミュー、わしはお前の事を気に入っている。昔に免じて今の言葉は忘れてやるから早く去ね」

 ゴルドーがはき捨てるようにそう言い、カミューを睨みつけていた目を机の上の書類に移した。そのままカミューを見ようともしない。

 昔に免じて、ね。

 カミューが皮肉げにそう思った。思い出したくない過去がその言葉には込められている。もしゴルドーが、その過去を好意的に捕らえているのだったら、カミューとの間に重大な溝があると言わざるをえない。カミューの方はもうあの時の事を二度と思い出したくも無いのだから。

「ゴルドー様、青騎士達が各地で井戸を掘っていること、ゴルドー様もお聞き及びでしょう」

 カミューが落ち着いた声でゴルドーに話し掛けた。ゴルドーはカミューのその声を無視している。だが、無視できずに目線は書類の方へ向けながら返事を返した。

「聞いておる。騎士のくせに土にまみれて働くなど、あやつらも団長に似てそろいもそろってうつけぞろいだ。騎士の風上にも置けぬ」

 馬鹿にするかのようにゴルドーは言ったが、内心穏やかではなかった。青騎士のしていることなど愚か者のする事だと思っている、自分がしようとも到底思わない、だが……。

「ですが、民衆には神のように感謝されております」

「フン、そのくらいの事でか? わしが一言命ずれば、水も食料もいくらでも用意できると言うのに、おめでたいやつらだな」

 ゴルドーの声が始めて揺れた。嫉妬と羨望。その醜い感情が声にも表情にも出ている。最初は青騎士達の働きを馬鹿にしていたのだが、カミューの言った通り、それは民衆の人気取りに絶大な効果を発揮した(青騎士達はそんなつもりは毛頭無かったのだが)それでゴルドーは内心穏やかではなかったのだ。だが、馬鹿にした手前二番煎じをするわけにはいかず、内心苦々しく持っていた。

「青騎士達が、今回の働きを、ゴルドー様の指示の元で行ったことにしたいと申しております」

 カミューは、そんなゴルドーの内心の動きを全て察知していた。微笑さえ浮かべて、ゴルドーの心に誘惑の矢を打ち込む。その微笑みは決して好意的なものではなく、むしろ軽蔑の色さえ浮かべていたが、ゴルドーはそれには気がつかず、カミューの発言の内容にぎょっとしてカミューの顔を見上げた。

「なに?」

「公的に発表する際は、今回の事は青騎士団と白騎士団の合同作業、または白騎士団のみの働きという事にしても良いと。……引き換えに、マイクロトフを牢から出していただきたい」

 さらりとカミューは言った。もちろん、カミューがそう言えたのは、事前に青騎士達との綿密な打ち合わせがあったからだ。

「ほう……」

「今後、この件については私も青騎士達も一切口外いたしません。どのようにされましても抗議もいたしません。ゴルドー様のお心のままにどうぞ」

 カミューが止めを刺すようににっこりと微笑んだ。自分が綺麗とは言いがたい取引を持ちかけていることは十分承知している。だが、その事を忘れさせる綺麗な微笑みだった。

「……わしに捧げたこの剣に誓えるか」

 しばらくの沈黙の後、ゴルドーが唸るようにそう言った。カミューの勝ちだ。ゴルドーはカミューの撒いた餌に食いついたのだ。カミューの微笑みに麻痺され、良心の痛みを感じることなく、恥も騎士としての誇りも捨てて、虚栄心を満たすために無様に食いついた。

「もちろんです」

 カミューの微笑みが一層艶やかになった。ゴルドーを軽蔑すればするほど、逆にカミューはゴルドーに優しくなった。ただし、偽りの優しさと、偽りの微笑だ。

 こいつは誠意を込めて接するに値しない人物だ。

 そう思えばカミューは何でも出来た。優しい嘘を囁く事も、軽蔑している相手に微笑を浮かべる事も。

「ふむ……、だが……」

 ゴルドー舐めるようにカミューを見つめた。その目に、我慢しがたい好色そうな光がちらつき始め、脂ぎった欲望を隠そうともせず、カミューに向かって下卑た笑みを浮かべた。

「これだけでは足りぬ。所詮民衆どもの人気などなんの足しにならんしな。わしが少し命令すればそんな事はたやすい。それをお前達がどうしてもと言うからこの話を受けてやるのだ」

 偉そうにふんぞり返り、傲慢な口調でそう言うと、下卑た目でちらりとカミューを見つめた。本人は偉そうにしているつもりなのだが、かえってゴルドーを卑小で下卑た存在である事を暴露しただけだった。

「では、何を?」

 カミューがゆっくりと言った。その口調にたっぷりと皮肉が篭っているのをゴルドーは見抜けない。欲望と傲慢で曇った目は、自分の都合のいいものしか見えないのだ。

「判っておろう。お前も今ではずいぶん増長して冷たくなったが、昔の縁、忘れたとは言わせんぞ」

 ぐふふふ……とゴルドーが好色そうに笑ってみせた。

「おまえがどんなにわしに可愛がられ、引き立ててやったか忘れたわけでは有るまい?」

 ゴルドーが立ち上がり、カミューの肩に手をかけた。襲ってくる吐き気と、その手を振り払ってしまいたい強烈な欲求に耐え、カミューが静かに言う。

「ゴルドー様、私などより若くて美しいものなどいくらでも居りましょう」

 そう言いながら、さりげなく身をずらし、ゴルドーの手から逃れた。触れられた部分をすぐに洗い流して血が出るまでこすり落としたかった。

「わしは、お前がいいのだ」

 それを、ゴルドーはカミューが恥らっていると受け取ったらしく、益々好色そうな笑みを浮かべ、カミューに顔を近づけて囁いた。生臭い息に呼吸が詰まりそうだ。

「さぁ、あの黄金のひと時を再び楽しもうではないか……」

 ゴルドーがそう言い、両手でカミューの肩を掴んだ。

 カミューは、ゴルドーの考える事を全て見通していた。嫉妬と羨望、自尊心、それらを上手くくすぐり、笑顔で心を麻痺させ、良心を捨てさせる。

 ゴルドーがカミューの出した条件だけで満足するとは考えていなかった。考えたくは無かったが、こうなる事も予測はしていた。

 カミューは拒まない。

 これでマイクロトフが救われるのなら、拒否はしない。

 私はゴルドーをマイクロトフと同じ人間として扱わない。獣以下の人間に何をしても、何をされてもかまうものか。

 この吐き気も、嫌悪感も、石のように心を冷たくすれば耐えられる。マイクロトフに会う前の私に戻ればいい。

 あの頃、毎夜ゴルドーに抱かれ、死んだ方がましな屈辱を受けていた頃に比べればなんでもない。

誠意を尽くして接するに値しない人物には、何でもできる。

カミューは自分にそう言い聞かせた。

だが、本当は今でも夢に見る。何も知らないあどけない少年だった頃、強引に犯された恐ろしさ、何年にも渡り犯され続けた屈辱、見て見ぬ振りをするばかりではなく、好色と嫉妬、軽蔑の眼差しを向ける周りの人たち、いわれの無い侮辱、無力な自分……。
 それらの記憶は、色あせることなく、十年以上経った今でもあの時の生々しさで何千回もカミューを蝕む。夢の中でカミューは子供で、泣き叫んで許しを乞うてもだれも救ってくれない。

上手く隠し通せているが、カミューの奥にはそのとき芽生えた人間不信が今でも深く根を張っている。

肉体は生きていても、精神的にはとっくに死んでいたカミューを救ったのはマイクロトフだった。マイクロトフだけは、カミューの事を、汚いものでも見るような目や、下卑た目で見る事はなかった。無邪気な笑顔は、カミューに暖かい血を取り戻し、人間らしい感情を蘇らせてくれた。

だから、マイクロトフの為なら何でもしよう。

そう思うカミューの気持ちに嘘は無い。だが、マイクロトフに、ゴルドーを打倒するように言ったのは、マイクロトフのためだけではないのだ。

カミューは救われたかった。夜になると襲ってくるこの苦しみから救われたかった。ゴルドーを倒せば、この苦しみから開放されるかもしれないと思ったのだ。

だが、本当にそうだろうか……?

ゴルドーに抱かれながら、カミューはそう自問自答した。

ゴルドーに恨みが無いと言えば嘘になる。だが、ゴルドー倒したからといってどうなるのか。もはやゴルドー個人などどうでもいい。

もし、ゴルドーが死んでも、この苦しみは自分を放さないのではないか?

そう思って、カミューはぞっとした。ならばどこまでこの男は自分を苦しめるのだろうか。どうすれば自分は救われるのだろうか。

答えの出ぬまま、密約の交わされた夜は更けていった。


世が夜が明けてすぐ、マイクロトフを牢から出すように命令が下されたが、何故ゴルドーの態度が変わったのか知る者は少なく、ゴルドーとカミューの間に何があったのか知る者はさらに皆無だった。
 カミューは、何も言わなかったのだから。




 

あの事件をきっかけに、カミューはゴルドーを廃しマイクロトフを君主につけようと画策していた。あの時、マイクロトフが諾と言っていれば、今ごろあの椅子に座っているのはゴルドーでなくマイクロトフであったはずだ。


 良くて騎士位を剥奪して国外追放、悪くて死刑。

一年前、マイクロトフが牢に入れられたとき、その処分は厳しいものだった。

マイクロトフが述べたのが正論だったにもかかわらず、また、マイクロトフが青騎士団団長という高職に付いていたにもかかわらず、ゴルドーに逆らったと言う理由でいとも簡単に牢に入れられた。あの時、ゴルドーはマイクロトフを不敬罪で処罰しようとさえしたのだ。

はじめ伝えられたその処罰に、逆にゴルドーに対する騎士達の不満と不信は募った。マイクロトフがこれまでマチルダに尽くしてきた事、反逆など考えるはずが無い人物である事は皆が知っている。ゴルドーは、マイクロトフが邪な思いを持っていると邪推する事は出来ても、自らの傲慢な行いこそが自らの首をしめているとは判らない男だった。

青騎士達は、自分達の団長が理不尽に処罰されそうな事に爆発寸前だった。今すぐにでもゴルドーの首を取りに行きかねない青騎士達に、逆にカミューの方が宥める役に回った。そこでカミューは確信した。ゴルドーを廃し、マイクロトフを君主につけることは可能であると。また、マチルダに居る限り、そうする事でしかマイクロトフは自分の身を守れないと言う事を。今回は上手く乗り切っても、同じ事はまた繰り返されるだろう。そして、その時にまたマイクロトフを助けられるとは限らない。いや、殺される確立の方がはるかに高い。

カミューは思った。

騎士の鏡のようなマイクロトフは、自らの身を守るために主君を廃す等と言う大罪はとても犯せないだろう。そんな事をするくらいなら、死んで自らの身の潔白を証明する方がましだと考えるはずだ。

だが、私は容赦しない。騎士たる事に誇りはあるが、主君が騎士として仕えるに値しない人物ならば、忠誠を尽くす必要は無い。

だから、私が手を汚そう。私がマイクロトフの為にこの国を手に入れてみせる。マイクロトフは綺麗なままこの国の君主となればいい。

マイクロトフのことだから、そうする事は出来ないと少々はごねるだろうが、誰も引き受けるものが居ないとなれば、マチルダのため、皆のために引き受けるはずだ。

マイクロトフはそういう男だ。マイクロトフを多少は騙す事になるが、それしか方法は無い。

…………

…………

全ては一年前に起き、カミューが密かに進めてきた事だ。

だが、それは実現する事もなく、マイクロトフが知る事も無かった。


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