カミューが感慨深げに閉じていた目を開けた。ふと昔の事を思い出していたのだ。一年前、マイクロトフがゴルドーの逆鱗に触れて地下牢に放り込まれた事を。

 カミューはその時に完璧にゴルドーを見放した。もしこれからもゴルドーがこの国を統治し続けるのなら、自分はこの国も見離すだろうと思った。その時決心したのだ。

 この国をマイクロトフにやろう。と。

ゴルドーがこの国を支配する事を、ゴルドーと白騎士達意外は誰も望むまい(白騎士の中にもゴルドーに疑問を持つものが居ると聞いているが)。やつはこの国に寄生する害虫だ。その害虫が、よりにもよってこの国にとり、いや、カミューにとって最も大切で尊いマイクロトフに害しようとしている。カミューは怒っていたのだ。おそらくはそうされた本人よりもはるかに。自分にされた事よりも、彼の親友にした仕打ちの方がカミューを怒らせた。

害虫も自分をわきまえて遠慮していれば良いものを……。

カミューが辛辣にそう思いながら自分の君主を見た。相変わらず豪華な椅子にふんぞり返ったゴルドーの前には、あの時のようにこわばった表情をしたマイクロトフが立っている。一年前、マイクロトフが食料の開放を求めた時もきっとああだったのだろう。

ああ、それとも図々しく害を成すからこそ害虫か。

これから起こる事を想像してカミューが皮肉な笑みを浮かべた。とうに盛りの過ぎたゴルドーが、小悪党らしく国政に口を出したりせず、蓄財や女だけに興味を示していれば、カミューはゴルドーを上手く操る自信があった。国政をカミューとマイクロトフに任せ、お飾りの君主として好きな事をしていれば、ゴルドーの君主としての寿命は延びたはずだ。

 大人しくしていれば寿命をまっとう出来たろうに、自分で自分の首をしめるか。つくづく愚かな御仁だ。

自らが使える君主を情け容赦なくそう評した。君主に対する忠誠心や敬愛などもうとっくにカミューには無い。ゴルドーがカミューにしてきた事を思えば当然だが、それが無ければ騎士として失格と言うなら、騎士の称号などいらない。

だが、もうすぐそんなしがらみから開放されるだろう。マイクロトフも、自分も。

唇に皮肉な笑みを浮かべながらカミューはゴルドーを見た。カミューの位置からは、椅子にふんぞり返ったゴルドーと、その前に立つマイクロトフが良く見える。

城の大広間では、青、赤、白の騎士団幹部がずらりと並び、ルカ・ブライトに追われた難民達を救おうとゴルドーに直訴するマイクロトフとを固唾を飲んで見守っていた。

一年前のあの時と同じだ。

ルカ・ブライトに追われて難民達がマチルダとの国境近くに来た時、マイクロトフの願いどおりにゴルドーが兵を動かしていたら、あの難民達はルカ・ブライトに虐殺される事は無かったかもしれない。一年前のあの時はなんとか人々を救う事が出来たが、今回はマイクロトフの願い空しく、沢山の弱い人々が意味も無く惨殺されていった。

救えたかもしれないのに、それが出来なかった。いや、救おうとさえしなかった。マイクロトフが一番恐れていたとおりの結果。

ルカ・ブライトの狂気は、もっと多くの命を欲している。ほっておけば、これ以上の血が流れるだろう。これ以上の犠牲を無くすために、兵を動かす事を懇願するマイクロトフを見るゴルドーの目は、あの時と同じく冷たい。

マイクロトフ、もしあの時と同じように、ゴルドーが許可しなかったら君はどうするつもりなんだい?

答えは判っていたが、心の中でカミューは問い掛けた。

不意に心臓のあたりにきりりという痛みを感じた。肉体的なものではなくて、心理的な痛みだ。まだ少年だったカミューにゴルドーがし続けた事。失望と絶望、嫌悪感。あのときの感情が蘇る。心を石のように冷たくして逃れたあの感情。マイクロトフがいなければ、とっくに壊れていたかもしれなかった。
 ……だが、悪夢はまだカミューを蝕んでいる。マイクロトフには話していない。

亡霊に取り付かれているのだ、私は。ゴルドーという亡霊に。

カミューが目を閉じた。ずっと押し殺していた感情が心の底からじわじわと蘇ってくる。だが、あのときの記憶と感情が蘇っても、カミューはもう何も感じなかった。

マイクロトフ、お前は私を自由にしてくれる。お前が教えてくれたのだ。俺が苦しみから解放される方法を。

永遠に離れる事ができないと思っていたゴルドーの亡霊から開放される。

一年前のあの時には判らなかったその答えが、今、カミューの目の前に示されようとしていた。

カミューの閉じられていた目が、ゆっくりと開いた。

今度こそマイクロトフは自由になるだろう。そう確信していた。

マイクロトフが、ゴルドーと決別しようとしている。

そして、カミューも。

一人では、何処へ行こうともカミューはゴルドーの亡霊から離れる事はできなかっただろう。だが、マイクロトフの存在がカミューを救った。

カミューの瞳にマイクロトフとゴルドーが映る。

救いの時は今、来るのだ。

開放の儀式が始まる。この世の終わりを告げるラッパの音。天使達の奏でるその音がカミューにははっきり聞こえる。





自分のため以外に兵を動かすつもりは無い。そうゴルドーははっきり言った。それを聞き、マイクロトフの表情が変わった。マイクロトフの中で何かが動く。何かが壊れる音を聞いたような気がした。

こわばった表情でゴルドーを睨みつけたまま、白い手袋をした手が吸い寄せられるように胸元へ動く、マイクロトフを見下すような目で見ていたゴルドーの目が驚きで見開かれた。

マイクロトフの手が胸のエンブレムを掴む、ゴルドーの口が何かを言いかけるように開いた。

騎士団の栄光と誇りの象徴。マイクロトフが命よりも大切にし、目指してきたもの。ゴルドーにとっての道具。腐れ切った権威。ゴルドーにとって、いや、この国の全てのものにとってそれを捨てるものが居るなど到底信じられなかった。盲目的にそれを信じ、この世界を壊すものが居るなど、到底考え付きもしなかった。

だが、マイクロトフがそれを引きちぎり、手首が翻った。

マイクロトフが世界を壊す。他人から与えられた、自らの信じていたもの、自らを支えていたもの、自らの住んでいたこの世界の秩序を。マイクロトフが聞いたのは、あるいは世界が壊れるその音だったのかもしれない。

この古い世界の安穏に慣れきった人々の中で、マイクロトフだけが、それをする事が出来た。

破壊と構築。今この瞬間に、マイクロトフは与えられた世界を壊し、自らで考え、自らの世界を自らで作り出す。

その手からエンブレムが綺麗な放物線を描いて宙を飛んでいく。ステンドグラスから入ってくる光にエンブレムが反射して、まるでマイクロトフの手から光が飛び出したかのようだ。

その光は、小さなビック・バン。

世界が変わる。

マイクロトフは自らの壁を破り、

ゴルドーの世界は崩れ、

カミューは解放される。

カミューの心の中に今までの色々な感情がどっと押し寄せてきてめちゃくちゃにした。マイクロトフの声が遠くに聞こえる。見えるが見えない、聞こえるが聞こえない。ただ、天使達のラッパの音と共に亡霊が消えていく。

眩暈がする。

色々な記憶や感情の糸がカミューの脳裏を交差して行く。

カラン……。という、エンブレムが床に落ちた乾いた音でカミューが現実に戻った。

ほんの一瞬の出来事だろうが、カミューにとってはまるでスローモーションのように全てがゆっくり見えた。

やれやれ……。やはりお前にはかなわないな。

カミューの唇が優雅なカーブを描き、笑みを形作った。美しく、傲岸不遜の笑みだった。

あと一年も待てばこの国をお前にやったのに。

 そのカミューの秘密を、マイクロトフは知らない。

この先知る事も無いだろう。

 

唇に笑みを浮かべながら、カミューの手が動いた。少し伏目がちなその表情は、何もかも諦めたようにも、マイクロトフの事を呆れているようにも見えた。

いかに緻密に計算し、物事を進めても、マイクロトフの思いつきのような思い切った行動の方が事態を動かした。

人間がいくらあがいても、神の思し召しに逆らう事は出来ないのだな。

結局はなるようにしかならない。

カミューはそう思い、少しため息をついた。

だが、神ならぬこの身を嘆いていても仕方が無い。全てを見通せるなど逆に面白くもないのではないか? 自分に恥じぬように、後悔しないように精一杯生きていけばいい。

エンブレムを投げ捨てたマイクロトフのように。

カミューの手も、胸元のエンブレムを掴む。

唇に浮かべた穏やかな笑みが、一瞬何かに挑むような野性的な笑みに代わった。だが、次の瞬間にはまた何時もの少し気だるい表情のカミューに戻っている。

さぁ、神は次にどのような運命を私たちに用意しているのかな?

少なくとも退屈はしなくて済みそうだ。マイクロトフ、君と居れば。

不意に可笑しくなって、カミューの唇にまた笑みが浮かんだ。マイクロトフと居れば、恐れる事は何も無い、何でもできる気さえする。何時もは斜に構えて世界を見ている自分が、そんな気分になったのが可笑しかったのだ。

俺もマイクロトフに影響されたかな?

そう思いながら自らもエンブレムを投げ捨てる。

悪夢から解放される鍵はここに合ったのだ。

躊躇いは全く無かった。後悔などなにもなかった。カミューはようやく開放されるのだ。ゴルドーの亡霊と、自らが作った心の檻から。

ゴルドーの亡霊は、私の心が創ったものだ。

その事にようやく気が付いた。その事に気が付かなければ、たとえゴルドーを殺してもカミューが救われる事はなかっただろう。

他人が作った世界が絶対だと信じ、そこから出る勇気がなかった。それ故にその中でいつまでも苦しみ続けたのだ。

だが、もう恐れる事は無い。この先永遠に。

カミューはもう自らの心に決着をつけたのだから。

気に入らなければ、壊せばいいのだ。

ゴルドーの居る今の世界が気に入らないのならそこから出て行けばいい。自らの新しい世界を見つければいい。

与えられたものに依存するのは容易く、自ら作り出すのには血のにじむような努力が要る。気に入らないのであれば壊してしまえばいい。自らの世界を自ら作り出す勇気があれば。

それをマイクロトフは教えてくれた。

カミューが微笑んだ。十数年間分の心に溜まった澱は、馬鹿のように口を開いて、目をむいているゴルドーの元に捨てていこう。

今からは、自らの望む世界を作っていくのだ。

愉快でたまらない。思わず満開の笑みがこぼれた。

カラン……。ともう一つエンブレムが落ちた。

それがまるで合図になったように、あちこちで小さな光が反射する。カラン、カランと軽快な音を立ててあちこちで新しい世界が生まれて行く。次々と捨てられていくエンブレムに太陽の光がキラキラと反射し、笑顔のカミューと、信じられないと言う表情で目をむいているマイクロトフに降り注ぐ。

世の中、案外馬鹿が多いものだな、マイクロトフ。

そう軽口を叩いたカミューに、俺と、お前もな。とにやりと笑って返す。

ぐずぐずしてはいられない。怒り狂ったゴルドーはすぐにでも追いかけてくるだろう。

だが、住み慣れた国を出る愚か者の群れの足は軽い。

安定と引き換えに、希望を得た彼らの行き先は未知の世界。いつだって、夢をかなえるのは、無謀な行動力を持った、真っ直ぐな愚か者だと決まっているのだ。

忌まわしい過去から逃げることをせず、自らと向き合い、

権威や与えられた世界に頼ることなく、それを破壊する勇気をもつ者。

その先にこそ新しい世界は開かれる。

投げ捨てたエンブレムは、何かの終わりと世界の始まりを示す。

騎士達は自らの存在で騎士たる証を立てる。

エンブレム無き騎士達に栄光と祝福を。

そして、新しい世界が開かれ、伝説が作られる。



ENDE

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