◆エンブレム無き騎士達◆
                  




 ぽた……。と閉じた瞼の上に水滴が落ちた。その衝撃で浅いまどろみの中にいたマイクロトフの瞼がゆっくりと開く。あたりはぼんやりとして周りがよく見えない。目を覚ましたばかりだろう……と思い目が慣れるのを待っていたが、いつまでたってもあたりは重苦しい薄明かりの中に有る。

 ああ、そうか……。

 とマイクロトフがぼんやりした頭で思い出した。マイクロトフがいるのは、ロックアックス城の地下牢だった。
 もうここに閉じ込められてだいぶ経つ。拷問こそされなかったものの、この数日間、誰との面会も許されず、食事は腐りかけたスープと古くなった黒パン、一日一回食事を持ってくる獄吏に話し掛けても言葉は返ってこず、言葉を交わす事も禁じられ、太陽の光を浴びる事さえ許されなかった。

 自分が徐々に弱っていくのが判る。騎士として強靭な肉体を誇るマイクロトフの体さえ、この地下牢は蝕んだ。酷い食事に、日光の不足と精神的な責め苦。なによりも堪えたのは、その湿気だった。湿気は水滴となり、ぽたりぽたりとマイクロトフの衣服を濡らす。たまらない不快感はそれだけでは無かった。あたりの湿気はマイクロトフの肺に絡み付くように呼吸を阻む。息が苦しい。まるで肺の中にコールタールを流しこまれたかのように重苦しく、不快だった。

 マイクロトフが視線を転じた。鉄格子の向こうからわずかな光が漏れてくる。それも頼りないろうそくの光だ。それはマイクロトフを酷く心細くさせたが、それでも無いよりはましだった。
 どんよりとした視界は変わらないものの、それでも目が慣れてくると、周りの様子がうっすらと見えてきた。今ちらりと視界を横切って行ったのは、地下に巣食うねずみや油虫だろう。マイクロトフに与えられて、手をつけていない腐りかけたキャベツのスープと黒パンを横取りしていったらしい。この部屋の、いや、地下の主は人間ではなく彼ららしかった。
 わずかに体を動かす気力も無いマイクロトフに比べて、彼らはちゅうちゅうと不快な声を出し、暗闇の中を傍若無人に走りまわり、時にはマイクロトフの体の上に這い登ってきたりさえした。両手を手首のあたりで少しも動かせないほどに縛られ、うまく追い払う事もできない。

 ここには昼も夜も無い。食事を持ってくる回数でかろうじてここに放りこまれてから何日たっているのか判断がついた。食事が運ばれてきたのが、一回、二回、三回……。

 そうだ、ここに放りこまれてから四日めだ。

 体力の衰えのせいか、思考がはっきりしない。切れた口の中の傷がずきずきと痛む。その傷の痛みで、マイクロトフは地下牢に放りこまれる原因となった四日前の出来事をまたぼんやりと思い出していた。





 

事の起こりは、息も絶え絶えにロックアックスにやってきた農民の使者だった。その農民によると、マチルダ騎士団領内のとある農村地帯で深刻な飢饉が起きているという事だった。

今年は気候に恵まれず、何時もなら実りの時期には黄金の穂をきらめかす麦畑が、今年は茶色く変色し、大地はカラカラに乾き、農業用の灌漑水だけで無く、飲料用の水にさえ事欠いた。普段なら、余力の有る近くの農村から食料を運んでくる所なのだが、あいにく今年は広大な騎士領内全体が不作に見舞われていたのだった。

だが、近年豊作が続いており、ロックアックスの倉庫や、各地にある騎士団の糧食用にと蓄えられた倉庫には食料が大量に保管されている。その倉庫を開放して欲しい。という話だった。

直ちに調査するに当たり人選が行なわれた。普段はマイクロトフほどの役職のものがやるような仕事ではなかったのだが、使者となった農民の話の余りの酷さに、マイクロトフ自らが調査する事を買って出たのだ。

 通常なら急いでも往復に6日はかかる所を4日後にマイクロトフは帰ってきた。昼夜を問わず馬を飛ばしていたのだろう、他の調査団員を置いて単身で帰城したマイクロトフは、目を血走らせ、髪を振り乱し、人馬一体となったケンタウロスのような姿で城内に飛びこんできた。走りすぎて泡を吹いている馬に水をやるようにとだけ言い残して大股で歩き出し、汗と埃りまみれの服を着替えようともせずにすぐにゴルドーに謁見を申し出る。

 食事中だったゴルドーは、時間を置くことを命令したが、マイクロトフは一刻を争う事だからと頑として譲らなかった。

美姫との食事を中断され、不機嫌だったゴルドーは埃まみれのマイクロトフを見て更に不快そうに口を歪めた。飢餓に苦しみ、死者まで出ている農民達を一日でも早く救おうと焦るマイクロトフと、不機嫌なゴルドーの押し問答という最悪な自体がここに勃発したのだ。更に不幸な事には、運の悪い事にたまたま仲裁役のカミューが遠出をして不在だったため、誰も二人をなだめる事ができなかった。

 今すぐロックアックスの食料庫を開け、糧食を分け与えるようにと進言するマイクロトフに、ゴルドーはそれは騎士団の糧食であるから出す訳にはいかぬ。と撥ね付けた。ゴルドーとて、食料庫の開放が必要な事ぐらい判っている。だが、食事を中断された挙句、埃にまみれた姿で現れたマイクロトフの無礼な態度に腹を立てていたのだ。

一刻も早く食料を持っていかねばならぬと焦ったマイクロトフにはそれが読めなかった。更に声を荒げ、なぜ糧食を出さぬのかとゴルドーを責める。マイクロトフのその態度に更にゴルドーは怒り、謁見の場は怒鳴りあいの場と化した。かたくなに食料庫の開放を聞き入れないゴルドーに対し、マイクロトフは私財を投げ打って食料を飢饉の村に与えるとまで言ったのだ。

「ロックアックスの食料庫は、騎士団を支えるためのものだ。敵に攻められた時、食料がなければなんとする? たかが一地方のために国全体を危険にさらす訳にはいかぬ」

 豪華なびろうどを張った椅子にふんぞり返り、ゴルドーがさも不快そうにマイクロトフを見下して言った。不快だった。本当に不快だった。こいつは主君たる自分をないがしろにしている。こんな事では騎士団に規律は保たれまい。自分が上である事を思い知らせてやらなければならぬ。そう思っているゴルドーにマイクロトフが更に噛みつく。

マイクロトフは主君をないがしろにしているなどと毛頭思ってないのだ。この二人の悲劇的なすれ違いは数年前から顕著になり始め、マイクロトフとゴルドーの衝突は今や日常茶飯事だった。

「領民を守らずになにが白騎士団団長か! 統治者たる資格が問われましょうぞ。ゴルドー様があくまで倉庫を開放なさらぬとおっしゃるならば、私の私財で食料を用意いたします。だが、それでは多くの民は救えますまい、どうか、どうか許可を!」

 たいていの騎士団員なら震えあがって目を伏せるはずのゴルドーの視線も、マイクロトフをひるませる事は無かった。逆に、マイクロトフの苛烈な光を帯びた瞳がゴルドーを睨み付けるように射抜いた。かつてゴルドーに有った、だが、今はもうないその光に気付かぬうちにゴルドーが焦る。

マイクロトフはゴルドーに無い物を全て持っている。若さも、その騎士としての高潔な精神も、人々の人望も。かつてゴルドーに有って今はもう無い物を持っている。

マイクロトフが騎士団に入ったとき、ゴルドーは思ったのだ。こいつもいずれ騎士が守るべき領民の愚かさに失望し、その騎士としての誇りも矜持もくすんで色あせていくのだと。だが、マイクロトフのそれは色あせるどころか、騎士として年を追うごとに益々光り輝いた。

 こいつは生まれながらにしての騎士なのだ。

 ゴルドーはそう思い知らされずにはいられなかった。騎士としての紋章も、誓いも、規律もマイクロトフには必要ない。そんなものは無くとも、騎士の精神はマイクロトフの中に生きているのだ。まるで呼吸をするかのようにやすやすと騎士としての精神を発揮し、周りの者を引きつけずにはいられない。

 そのマイクロトフが、今度は私財を投げ打って飢餓の村を救うと言う。

 そんな事は断じてさせるものか。

 ゴルドーは内心歯軋りした。領民の間におけるゴルドーとマイクロトフの人気は判りやすい。マイクロトフの人気が高まるほど、ゴルドーの権威や人望は下がる。いや、ゴルドーの人望が下がるからこそ、マイクロトフへの期待が高まるのかもしれないが。

強力な統率力と強さを持ってして、ゴルドーはこのマチルダ騎士団を外敵から守り、統治してきた。だが、その強固な統率力もほころび始めている。かつてのような戦いも無くなり、領民に騎士団の威信と活躍を見せる場は半減した。そんな中で、強欲で強引、自己の保身の事ばかり考えるゴルドーに人民の心は離れ始めていたのだ。ゴルドーが不正に蓄財し、農民から搾取している事は公然の秘密だった。それなのに、マイクロトフが私財を投げ打って農民を救うなどしてしまったら。

 豪胆なゴルドーの背筋がぞっと凍り付いた。人々はこぞってマイクロトフを褒め称え、逆になにもしなかった自分をけなし、貶めるだろう。

 あいつは、このわしの座を奪うかも知れぬ。

 無論、たとえ戦ってもまだまだマイクロトフに負ける等という事は有り得ないだろう。

 だが……。だが、未来はどうなる? このわしがさらに老い、剣も握れぬほどになったらこやつは良からぬことをたくらむやも知れぬ。

 若い頃はそれなりに名君で人望も有ったゴルドーだったが、長い平和はゴルドーの心を腐らせ、老いゆえの疑い深さと疑心暗鬼にゴルドーは取り付かれた。マイクロトフがその座を追い出すという妄想は、あたかも近い未来に実際に起こる事かのようにゴルドーの中で捻じ曲げられる。

「だまれ! この青二才が!」

 その疑念と嫉妬が爆発した。大股でマイクロトフに歩み寄ったかと思うと、怒鳴り声と共に、ゴルドーのこぶしが唸りを上げて飛んできた。岩のように硬いこぶしがマイクロトフの頬を殴りつける。突然の事に歯を食いしばる事もできず、マイクロトフの長身ははるか後ろに吹き飛んだ。
 尋常ではない強力だった。老いたとはいえ、なお逞しいゴルドーの太い腕から繰り出される拳は殺人的で、マイクロトフほど鍛えられた騎士で無かったらきっと死んでしまったに違いない。少なくとも、顎がばらばらに砕けることだけは間違いなかった。

 数メートルも殴り飛ばされ、床に転がされたマイクロトフを軽い脳震盪が襲った。一瞬視界が真っ白になり、気を失い掛ける。ばらばらになりそうな意識を必死でかき集める。ここで気を失う訳にはいかなかった。口の中で錆の味がする。頬の内側がざっくりと切れているらしい。だが、ゴルドーの強力で殴られて、これほどで済んだのは奇跡と言ってもよかった。口の中から溢れてくる血を手の甲でぬぐい、マイクロトフがふらつきながら立ち上がった。

「お聞き入れしていただくまで何度でも申し上げる! ロックアックスの倉庫の開放をお願いいたす!」

「黙れと言うのが聞こえぬか!? わしにこれほど逆らいおって! その口永久に黙らせてくれるわ! こやつをひっ捕らえよ! 地下牢にぶち込め!」

 それでもまだ口を開くマイクロトフについにゴルドーが逆上してそう叫んだ。その声にもマイクロトフは動じず、まっすぐにゴルドーを睨みつけている。

「ええい、はやくこいつをひっ捕らえぬか!」

 その声に、ゴルドーの命令に戸惑っていた騎士たちがばらばらとマイクロトフに駆け寄った。マイクロトフに縄をかけるのを躊躇っていたが、ゴルドーの命令に逆らう事はできない。「失礼します」と騎士の一人が小声で囁いてマイクロトフの自由を奪った。下手にマイクロトフをかばう仕草を見せれば、余計にマイクロトフを窮地に陥れてしまう。

 マイクロトフは、そうされている間もぴくりとも動かなかった。弁明もせず、逆らおうともせず、ただゴルドーを睨みつけている。ゴルドーの姿をその瞳に焼き付けるかのように、微動だにせず、ただ睨みつけていた。





 ぐったりと閉じていたマイクロトフの瞳が力なく開いた。薄暗い地下牢で何度思い返してみても、あの時こうすればよかった。などという事は思いつかぬ。ゴルドーに対する怒りも無く、ただ、己の無力さに対する脱力感だけが疲れきった体を蝕んだ。

 なぜ判ってもらえぬのか? 俺が……悪いのか?

 俺はゴルドー様に疎まれている……。

 人の事を悪く思うことなど無いマイクロトフでさえ、そう思い知らされずにはいられなかった。

 何故だ? 何故なのだ?

 悲しみさえ抱いてマイクロトフが自分にそう問い掛けた。ゴルドーのために、マチルダのために、自分はできる事を精一杯してきた。なのに、何故?

 まっすぐで若いマイクロトフには、ゴルドーの恐れや恐怖、嫉妬が判らなかった。マイクロトフがゴルドーの心のうちを知れば、何故そんな事を思うと驚き、何故自分を信じてくれないのかと嘆いただろう。マイクロトフに主君に逆らおうという心など毛頭ない。主君にとって代わろうという野心も抱いた事などない。マイクロトフにとってゴルドーは、敬愛する君主であり、尊敬する人であったのだ。
 ただし、かつては……の話である。マチルダを守るゴルドーにあこがれ、騎士になってから、その心がどんどん崩れ落ちて行くのをマイクロトフは感じずにはいられなかった。それがつらい、悲しい。

 かつての貴方を取り戻してください。俺を失望させないで下さい。

 お願いですから……。

 このままでは、俺は。

 そこまで考えた時、マイクロトフが何かの音に気が付いた。カツーン、カツーンという音が陰鬱な地下に響く。ブーツが石の階段を下りる音だ。その音がだんだん近づいてくる。よどんだ地下に燃えるろうそくの炎が外から入ってきた新鮮な風に揺れた。マイクロトフからは階段が見えないが、入り口の狭い窓から正面の石作りの壁に、ろうそくの光に照らされた人物の影が大きく写ったのは見えた。ろうそくの炎が揺れるたび、その人影もゆらゆら揺れる。その人影は靴音と共にゆっくりと近づき、マイクロトフの牢の前で立ち止まった。顔は逆光のせいでよく見えない。

「マイクロトフ、私だ」

 腐りかけた木と、鉄でできた扉の向こうからもう何日も聞いていない友の声が聞こえた。

「カミュー……」

 力の無い人形のようだったマイクロトフが、弾かれたかのようにベッドの上に身を起こした。信じられない。ここに来るのは誰であろうと禁じられているはずだ。半信半疑のままドアを見つめていると、鍵がはずされる音がし、金属がきしむ嫌な音と共にゆっくりと扉が開かれた。ろうそくの黄色い光と共に入ってきたのは、紛れも無くカミューだった。

「大丈夫かい、マイクロトフ? 君の親愛なる友が差し入れを持ってきたよ」

 そう冗談めかして言い、手にもった皮袋を少し持ち上げて見せた。皮袋の中には上等なワインが入っている。

「おまえ、どうやってここへ?」

 まだ信じられないという目をして、地下牢に入ってきたマイクロトフがカミューを見上げた。

「まあ、色々と苦労したよ」

 直接には答えず、不潔で汚い地下牢でも優雅さを失わないあでやかな笑みをマイクロトフに向ける。

 まるで城の晩餐会で姫君に微笑みかけるようなその笑顔は、一瞬マイクロトフがここは何処だか忘れるほどだったが、マイクロトフを安心させるかのようにその笑顔を浮かべた後は、反吐が出そうなほど酷い牢獄内を見回し、オーバーな仕草で肩をすくめて眉をひそめた。

「それにしても、ここは最低だな」

「カミュー、どうやって……」

 話題をはぐらかそうとしたカミューをマイクロトフは追求した。事と次第によっては、カミューまでもがここへ放り込まれる事になるかもしれないのだ。自分に会いに来てくれたのは嬉しいが、カミューが万一でも危険に晒される事があってはならない。

「ここの見張りをしているのは赤騎士団の団員だ。私が来た事は口が裂けても言わないよ。獄吏には少し薬で眠ってもらっている。あとで幾らか金貨でも握らせるさ」

 マイクロトフの追求に、仕方が無いと言うようにカミューが答えた。マイクロトフに心配をかけたく無かったのであまり言いたくはなかったが、言わない方が余計心配をかけそうだ。

「カミュー、大丈夫なのか?」

「心配ない。それよりも、あまりここに長くいられない方が問題かな? まぁ……時間的な問題もあるが、こう雰囲気が悪くてはね」

その言葉とわざとらしいため息に、やや潔癖なカミューがこんな場所ではどんな気持ちだろうと想像したマイクロトフが苦笑する。一瞬苦笑した後、真剣な瞳でカミューに一番気になっていた事を問い掛けた。

「……仕方あるまい。それよりも、糧食は?」

「ああ、お前の希望通り、飢饉が発生した地域全てに送り届けたよ。水も十分足りるよう手配した。安心していい」

 カミューがそんなマイクロトフを優しい瞳で見つめながらそう言った。ゴルドーを見るときのような少し険のある光も、普段の斜に構えた物憂げな光もそこにはない。カミューを知る者が見れば、驚くような優しい眼差しだった。カミューは、自分が生きるか死ぬかの酷い目に合わされても、他人のことを考えてやれるマイクロトフが心の底から好きだった。

「……ありがとう」

 カミューの言葉に、ほっとマイクロトフが息をついた。一番の心配事が片付くと、また次の心配事が頭をもたげてくる。ゴルドーとマイクロトフが衝突すると、一番迷惑をこうむるのは彼の親友だ。

「さぞ……、迷惑かけたのだろうな?」

 マイクロトフが済まなそうにカミューを見上げた。今回の事で、カミューがどれだけ自分を心配し、ゴルドーに頭を下げ、残された青騎士を安心させ、マイクロトフがやるはずだった仕事を肩代わりし、通常の業務の他に騎士たちを指揮して救援活動をし、山のような書類を片付けてどれほど神経と睡眠時間をすり減らしたのかは想像に難くない。

「気にしなくていいよ、マイクロトフ」

「ありがとう」

 精一杯の感謝を込めてマイクロトフがそう言った。さっきから「ありがとう」ばかりだな。とカミューに申し訳なく思う。自分がもっと器用だったら、いろんな言葉でカミューへの感謝を表現したいのだが、ありきたりの言葉しか思い浮かばない。

「ただ、一人で全てやるのは少々くたびれたがね」

 だが、当のカミューは気にしなくていいとさらりと言い、一言だけマイクロトフをからかうようにそう済まして言った。カミューにとって、どんな美辞麗句をちりばめるよりも、マイクロトフの心のこもった素朴な感謝の言葉が一番嬉しいのだ。

「済まない、恩に着る」

 また苦笑してマイクロトフがそう言った。「期待しているよ」とカミューがマイクロトフに笑いかける。お互い、信頼しあったものだけが浮かべることができる笑み。この国の腐った現状を見ても、絶望せずにやっていけるのは、お互いが居るからだ。

「その言葉は青騎士団の皆に言ってやると良い。彼らはお前を助けようと今回の事でずいぶん骨を折っていたからね。糧食を届けたり、井戸を掘ったり……。ゴルドー様は彼らの働きを見て見ぬ振りをしていたが」

 必死に飢えている人を助けようと牢にまで入ってしまった団長の意思を汲み、青騎士達は率先して働いた。騎士の仕事でないと嫌がるものも多かった井戸掘りも、敵と戦うだけが騎士の仕事ではない、領民のために働く事こそ騎士の勤めだと進んで行い、領民達に涙を流して感謝された。
 だが、青騎士達の行動が思ったより人気取りに効果があると判ると、ゴルドーはいつのまにか青騎士たちがやった事を全て自分が指揮してやった事にし、最終的には青騎士達のその功績を横取りさえしたのだった。
 それには、カミューと青騎士達、そしてゴルドーとの間で交わされた密約が有っての事だったのだが。

 だが、カミューはそのことはマイクロトフには黙っていた。やがて知ることになるとは思うが、どうしても今言う気にはなれなかったのだ。

「ああ……。青騎士の皆にも迷惑かけたな。ここを出て無事礼が言えるといいが」

「弱気になるなよ、マイクロトフ。大丈夫さ。明日にはここを出られる」

 ため息をついたマイクロトフを励ますように、カミューがそう言いながらぽんとマイクロトフの肩に手を置いた。人に触れたり、触れられるのをあまり好きではないカミューにしては珍しい事だった。マイクロトフにとっては何時もの事なので気にとめなかったが、それだけマイクロトフはカミューにとって大事な親友であったのだ。

「本当か!? 何故?」

 カミューの言葉にマイクロトフが飛び上がった。

「青騎士達の功績が認められたんだよ。彼らがお前を牢から出すようにゴルドー様に直談判したんだ」

 半分は真実で半分は嘘だった。青騎士達は、自分たちの功績をゴルドーに譲る代わりに、マイクロトフを牢から出すようにカミューを通じて取引したのだ。

「お前も力を貸してくれたんだろう?」

 マイクロトフが確信してそう囁いた。声がかすれたのは感謝のあまり涙ぐんでしまいそうだったからだ。カミューも相当苦労して力を貸してくれたはずだが、自分からは何も言おうとせず、マイクロトフのその言葉にも微笑を返しただけだった。

 カミューがふとマイクロトフから視線をはずし、かすかに俯いた。マイクロトフの視線に耐え切れなくなったのだ。マイクロトフは心の底からの感謝を込めてまっすぐにカミューを見た。見られているのを感じて、カミューが無意識のうちに軍服の襟をつまんで引き上げる。

 白い首筋につけられた赤いあざを見られたくない。

 ゴルドーがカミューに何を求めたかを知られたくない。

 ゴルドーは、青騎士との取引だけでマイクロトフを開放すると約束したのではなかった。それに加えて、カミューをも求めたのだ。そしてカミューはそれに応じた。後悔はしていない、だが、マイクロトフの視線を受け止める事はまだできない。

 自分の事などどうでもよかった。こんな事は初めてではない。カミューが騎士見習だったころからそれはもう始まっていた。もちろん、自ら望んだ事ではなかった。

ゴルドーとの行為など、カミューにとって何の意味も無い。ただ、マイクロトフがもしこの事を知れば、どんなに自分を責めるだろう。そう思うと、マイクロトフの視線を受け止めきれない。マイクロトフとの間に亀裂が入るのが何よりも恐ろしかった。

「本当に、カミューや青騎士たちにはどう感謝していいのかわからない。俺にできる事があるなら何でも言って欲しい」

 マイクロトフの顔が見られず、さりげなく俯いているカミューにマイクロトフがそう言っているのが聞こえた。その声に、カミューが伏せていた視線をゆっくりと上げ、マイクロトフの目を見て口を開いた。

「ならばマイクロトフ」

 マイクロトフと視線を合わせたまま、カミューは微笑んだ。

「なんだ?」

「ゴルドーに代わり、このマチルダ騎士団を率いてくれ」

 マイクロトフが不思議そうに促すと、カミューがはっきりとそう言った。

「カミュー! 何を言う!」

 カミューの言葉に、マイクロトフの顔がこわばった。カミューが言っている事は、この国で最も重い罪を受ける行為だった。主君を廃し、自らがその地位を奪う。騎士として最も恥ずべき行為であり、そんな事を少しでも考えていると誰かに知られれば、大逆罪として死刑にされるのは間違いない。それをカミューはマイクロトフに言った。

「お前も薄々は感じているはずだ。ゴルドーはお前を疎んじている。このままでは、お前は……」

 カミューは、ゴルドーに敬称を付けるのさえやめている。内心ではもうとっくにゴルドーを見限っているのだという事がマイクロトフにひしひしと伝わってくる。

「やめろ、カミュー!」

 マイクロトフが思わず叫び、カミューの言葉を中断させた。これ以上カミューに罪を犯させたくなかったのだ。そんな事を考えているだけでも死に値する。友をそんな危険に晒すわけにはいかない。だが、カミューはマイクロトフの言葉を無視して話しつづけた。

「ゴルドーはもう駄目だ。赤騎士団の皆も、青騎士団の皆ももうとっくにゴルドーには愛想を尽かしている」

「カミュー! それ以上は言うな! 俺はお前を罪人にはしたくない。この事は俺の胸の中に留めておく。頼むからそんな事を言わないでくれ。もし、俺以外のやつがそれを聞いたら……」

「そんなへまはしないよ。たとえ知られても構わない。本当の事だ」

 自分がどんな重罪を犯しているのかまるで判ってないのではないか? とマイクロトフが内心心配するほど、カミューは微笑さえ浮かべながらあっさりと言った。

「……お前の気持ちは嬉しい。だが、そんな事は考えられん」

「マイクロトフ、ではゴルドーの命令が騎士の精神と自分の心に反する事でも君は従えるのか? もしまた今回のような事があってもマイクロトフは見て見ぬ振りをする事ができるのかい?」

「……それは」

 マイクロトフは言いよどんだ。主君を倒す事など考えられないが、確かに、ゴルドーから自分の信条に反する事をやれと言われたら自分は出来るだろうか?

……今回のような事がまた有っても、また俺はゴルドー様に逆らうだろうな。

マイクロトフはそう思った。主君の命に従うことも騎士の勤めだと判っている。秩序を乱した罪は十分自覚している。だから黙って地下牢に入れられたのだ。

だが、主君の命に従うよりも、騎士がすべき事として最も大事な事が有るのではないか……とマイクロトフは思ったのだ。

しかし、ゴルドーは思わなかった。

致命的なすれ違い。ゴルドーとマイクロトフがこの国に居る限り、何度でもそれは起きる。今回はこれで済んだが、次はどうなるか判らない。

次はマイクロトフの命が奪われるかも知れぬ、自分が騎士の本望を尽くして死ぬのならそれでも構わないが、もっと怖いのは、罪の無い人々がまた苦しむかもしれない。と言う事だ。

俺は、どうすればいいんだ……。

マイクロトフが答えを出せずに俯いた。

「まあ、返事は急がないよ。ただ、これだけは覚えておいてくれ。私は何があっても君についてゆく」

 重い言葉や、恩着せがましい態度など嫌いだ。マイクロトフ以外の者にはこんな事を言う自分が許せないだろう。

「ありがとう、カミュー。その言葉だけで十分だ」

 カミューの言葉に、マイクロトフが俯いていた顔を上げ、微笑んだ。友の気持ちは純粋に嬉しい。これから先に何があるのかは判らないが、カミューだけは信じてくれる。それは、マイクロトフにとって千の味方よりも心強いものだった。

「もうそろそろ行かなくては……。マイクロトフ、君と別れるのは寂しいが、こんな所からは早く離れたいね」

「俺はこんな所で四日も暮らしたんだぞ」

「……尊敬する。私なら即国外脱出だね」

マイクロトフの言葉に、肩をすくめてカミューが言った。全くここは酷い所だった。

「カミュー、またそんな事を……」

 カミューの軽口にマイクロトフがまた眉をひそめる。優しそうな顔をして、不穏な事をさらりと言うのが彼の友人の危険な所だった。

「ああ……、話に夢中になってこれを忘れていたな」

 マイクロトフの渋面を無視して、カミューは手に持っていた皮袋を少し持ち上げた。せっかく持ってきたのに話に夢中になってしまい、ワインを渡すのを忘れてしまった。

 マイクロトフに皮袋を手渡すと、手かせをつけられた手で何とか皮袋を口まで持っていこうとするが、不器用なマイクロトフにはうまくいかない。

「心の底から残念だ」

 何度か失敗した後、とうとう諦めたのか、恨めしそうにその皮袋を見つめ、マイクロトフが落ち込んだ声で呟いた。そんなマイクロトフを見てカミューが優しく苦笑し、口を開く。

「では一口だけ」

 そう言うと、皮袋のワインを一口口に含んだ。そのままマイクロトフの目を覗き込む。悪戯っぽい光を浮かべたカミューの目を見て、カミューのしたい事がなんとなく判ったが、戸惑う間もなくカミューがマイクロトフに口付けた。

 芳醇な液体が口移しで流し込まれ、芳香と豊かな味わいが口一杯に広がる。食べるものもろくに無いひどい環境に置かれていたマイクロトフにとっては正に甘露だった。

「美味だろう?」

 唇を離すと、にっこりと微笑んでカミューがマイクロトフに言った。

「……一口で酔ってしまいそうだな。もう一口と言いたい所だ」

 少し疲れた表情でマイクロトフがそう言うと、ため息をついた。ワインはとても美味しく、カミューの心使いはもちろん嬉しかったが、ワインを一口しか飲む事しか出来ない自分の置かれた状況を思い知らされて、さすがのマイクロトフもため息が出たのだ。

「明日になれば、もう一口どころか、溺れるまで飲ませてやる」

 カミューがそう言い、マイクロトフの肩を励ますように軽くぽんぽんと叩いた。口調は明るかったが、内心では、マイクロトフにこんなため息をつかせるこの国とゴルドーに対して憤りを感じている。

 怒っていたのだ、カミューはとても。彼の親友をここまで酷い目にあわせたこの国とゴルドーに。表面上は冷静を装いながら、内心は静かな怒りで満ちていた。

「そうだな、ありがとう。感謝している」

 カミューの言葉に、気を取り直したようにマイクロトフがそう言い、にっこりと微笑んだ。

「お前のためだ、構わないさ。では、そろそろ行くよ」

 カミューも微笑み返し、そう言って牢を後にする。
 胸に一つの決心を抱きながら。



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