◆真夏の世の夢◆
それは、暑い夏の日の夜のことだった。達哉やみんなと遊び疲れて僕はぐっすり眠っていたはずなんだ。けして寝苦しくて起きたんじゃない。……いや、 思えばあのこと自体夢なんじゃないかと思うのだけれど。夢だと思った方がいいのかな? とも思うのだけれども。いったい、あの出来事は何だったんだろう?
「…………」
ふと少年は目が覚めた。目覚めているときに一瞬瞬きしたかのようにごく自然に瞼が開いたのだ。まだ小さい子供だ。愛らしい大きな瞳に、ぷっくりとした柔らかい頬、女の子と見まごうばかりのかわいい容姿をしている。
ぼく、だれかによばれた気がする……。そう思ってあたりを見渡すが、そこは 見慣れた自分の部屋ではなかった。彼がいたのは見たことさえない深淵。 あたりは真っ暗で、どこが上なのか下なのかも区別が付かない。
行かなきゃ、ぼく、よばれてる。……あさんがこまってる。あれ? ふと気がつく。
ぼくはだれによばれてたんだっけ? だれのところに行かなきゃならないんだっけ?
「どうしよう……」
心細くなってつい独り言を漏らす。見たことも聞いたこともない空間にひとりぼっちなことよりも、「僕を呼んだはずの困ってる誰か」の心配をするのがこの子の性格らしかった。
「あ!」
うれしそうな声がかわいい唇から漏れた。今日大好きな達哉とこの唇でこっそりキスをしたのはみんなには内緒だ。
……光が見える。先ほどまではなかったはずのうすぼんやりした光がむこうに見えた。とにかくあそこに行ってみよう。そうけなげに決心して光に向かって 歩き出す。早く行かなくちゃ。ぼくがおそくなったら、せっかくぼくをよんでくれ た人を助けてあげられなくなるかもしれない。
「とおいのかな?」
自分を元気づけるためにわざわざ独り言を口に出す。
「あれれ???」
奇妙なことが起こった。「遠い」と言う単語を口にしたとたんに、見えていた光が見る間にかげって頼りない物になる。まるで……光源が遠くに行ってしま ったように。
「ちかいのかな?」
試しというかついでに「近い」という言葉を言ってみる。光は見る間に明るさ を増し、この子のほんの十メートルほどの距離に近づいた。
どうやらここは、そこにいる者の思考によって変化する世界のようだが、淳がその事に気が付くより前にほかの事へ注意を向けた。「あ! 母さんだ!」
遠くの人影を見てぱっと目を輝かす。確かに光の中には女らしい人影があった。どうやら彼の母親らしい。母親を見つけたうれしさで、これがどういう現象なのかを不思議がることも忘れる。
光の中には、丸いテーブルと、彼の母親のほかに、頼りない光のせいで良 くは見えないが、誰かが彼に背を向けていすに座っているようだった。何かが照らすと言うのではなく、そこだけ球形に明るいのが奇妙だった。
何かおかしな雰囲気に、じゃましないように彼はそっと母親に向かって歩きだした。
これぐらいの子供なら当然すぐにでも駆け寄っていくだろうし、事実彼もそうしたかったが、彼には、普通の子供とは違って母親に対して何か遠慮するものがあるようだった。
母さんのじゃまをしちゃいけない……そう思っておずおずと彼の母親に近づく。
位置的には彼はテーブルと誰かもう一人の後ろ姿を挟んで母親の正面にいる。早く母親に自分がここにいることを気がついてほしいが、うっかり声をかけて母親に疎まれるのは怖い。
母さん、ぼくだよ。 母さんがぼくをよんだんじゃないの? そう心の中で必死で呼びかける。
「あら、淳じゃないの……。こんなところまで来てしまったの? いけない子ね」
その少年、淳の祈りが通じたのか、それまで険しい顔をしていた彼の母親が彼に気がつき、彼にそっくりな顔で優しく笑って手招きした。慌てて駆け寄ると、白く美しい腕で彼を抱きしめ、頬ずりし、愛おしそうに微笑んだ。普段とは違う母親の優しい態度にとまどいながらも喜びがこみ上げてくる。
「君の息子かい? 純子」
静かで、自信に満ちた男の声が発せられた。今度は母親の側から正面にその人物を見るものの、どういうことか、顔のあたりは薄暗くてよく見えない。ちょっと父さんのこえににてる……。そう淳は思った。
ただし、似ているのは声質だけで、彼の父親はもっと優しくて頼りないしゃべり方をする。声だけじゃなく、全体的にも……。
ううん、やっぱりちがう。淳は疑念を振り払った。
彼の父親とは似ても似つかないはずなのに、何であんなこと思ってしまったのだろう? 自分の目の前にいる一見紳士全としている男は、自信にあふれていて、優しそうだ。
……だが。どこか邪悪で禍々しい。淳は子供の嗅覚でそれを敏感にかぎ取った。
この人……こわい。なんだかわからないけど、イヤだ。
嫌なのに、怖くて見たくないはずなのに、なぜか魅了されて目が離せない。
「ええ、そうよ。もっとこっちへ、淳」
純子が男に視線をはずさないままそう返事をして、いっそう大事そうに、守るようにおびえた淳を自分に引き寄せる。
「君が呼んだのかな?」
再び男が静かに声を発した。耳に心地よい低くて良く通る声だ。
「まさか、どうやって? 第一貴方に呼ばれもしないのにこの子がここに来るなんてできっこないわ」
とんでもないと言った表情で、いささかオーバーに知らないというジェスチャーをしてみせる。
「かといって私が呼んだ訳でもない……、おもしろいな、君の息子は。淳君…… といったかね?」
そう言って淳の方へ視線を移したようだが、薄暗くてはっきりと彼の表情は伺えない。
「すぐに面白がるのは貴方の悪い癖よ」
忌々しそうに純子が言った。
「ふむ……その癖につけ込んだのは君だ。賭を持ちかけたのは君の方だよ、 純子?」
「…………」
無言で苦しい表情をする。年代物のテーブルの上には、同じくアンティークのトランプと、いくつかのチップが転がっていた。だが彼女の前にチップは見あたらない。
「そしてもう君は賭ける物がない。さぁ、どうするね?」
そう物憂げな声でどうでもよさそうに、彼女をからかうように言う。
「この子を……淳を賭けるわ」
男をにらみつけながら、聞き取れないほどの低音で、しかしはっきりと純子は言った。
「ほう! おもしろい。単調なゲームにいささか退屈していたところだ。自分の息子を賭けるか……女のエゴ丸出しだな、実に興味深いよ」
「うるさいわね……。淳は私の子よ、どうしようと私の勝手だわ」
すでに彼女の口癖となってしまった言葉を吐き捨てる。
淳は無言で母親の胸の中でその言葉をかみしめた。その前にも何か自分の話題が出たようだが、それよりも純子に今まで幾度となく言われてきた言葉で頭がいっぱいになる。幾度言われても慣れることのない言葉でつけられた胸の傷から鮮血がほとばしる。母さん、ぼくのこと……。
そこまで思って無理矢理思考を止める。それ以上のことを考えるのは、淳には残酷すぎる現実だった。
「私がどういう者かは知ってるはずだな……それでもその子を賭けるというか……、その子がどうなってもいいのだな?」
男がそう返した。男の声は上品だったが、ぞっとするほど残酷な響きを含んでいる。純子は無言で男を見つめ返すが、口を開く様子はなかった。先ほどの言葉を撤回するつもりはないらしい。隣で淳が蝋人形のように白い顔をして立ちすくんでいる。どこか遠くを見たうつろな目。
自分が必要とされてないと感じて、母親を苦しめる自分の存在を憎んでいる子供。
母親を憎みきれずに、彼は自分を傷つける。
「かわいそうに……」
「え!」
突然頭に響いてきた言葉に淳が思わず声を上げてしまった。
「どうしたの、淳? 何かあって?」
いきなり声を上げた淳に純子が不審そうに声をかけた。
「今、今何か言った?」
頭に響いてきた声は、もしやその場にいる誰かが何か言ったのだろうかと疑って問いかける。
「誰も何も言わないわよ、おかしな子ね」
そう言うと純子は不機嫌そうに淳を突き放した。さっきまでのやさしさが嘘みたいな母親の冷たい態度に淳の心が悲鳴を上げる。かなしいか おをしちゃだめだ! もっと母さんにきらわれるから、がまんしなくちゃ。
そう思って下を向き、ぐっと唇をかみしめる。そのまま数秒。
もうだいじょうぶだ……。そう思って涙がこぼれないように下を向いていた目線をあげると、さっきから淳をじっと見ていたらしい男の様子が見えた。
「さぁ、ゲームを再開しようか?」
淳の視線に気がついたのか、そうでないのか男はそう言って純子との勝負を再開した。
「フルハウス、私の勝ちよ」
純子が勝ち誇った声でカードをテーブルに投げ出した。
「残念。私もいい手がそろってたのだけどな…」
そうちっとも残念そうじゃなく男が言い、組んだ足の上に組んだ手を乗せた。あれから何ゲームか過ぎ、互いのチップは依然男の方が多い物の、先ほどとは比べ物にならないくらいに均等に配分されている。あれからの勝負は今までの負けが嘘のような純子のほぼ一人勝ちと言ってもいいような内容だった。いけるわ……。
表面上の演技を壊さないように細心の注意を払いながら純子が心の中でつぶやく。
「この子が……」
独り言のように男がつぶやいた。
「え?」
男の言葉に一瞬どきりとする。
「淳君が君にツキを持ってきたようだね」
「ええ、そうね、そうみたいだわ……」
純子が婉然と微笑んだ。内心の動揺をさとられないように、華やかに。
「君は急に勝ち出した。ふふ、急にね。どうやらこの勝負は私の分が悪くなってきたみたいだな。どうだい、淳君?」
そう言うと、自分の後ろでいるのかいないのかおとなしくしている淳を 振り向いた。
「何が言いたいのかしら? 淳、黙って!」
純子が男を牽制しながら、口を開きかけた淳を厳しい声で制止する。
「私は淳君の意見が聞きたいんだ、君は黙ってくれたまえ」
「淳は私の子よ! 淳のことは私が……」
ヒステリックに言いかけた純子の言葉が途中で止まった。
「黙りなさい、純子。私に逆らうつもりか?」
声を荒げた訳でもないのに、強烈な威圧感が純子を襲う。格の違いを見せつけられてさすがの純子もおとなしく黙った。よけいなことを言うなというにらみつけるような容赦ない視線で淳を促す。
「僕? う〜ん、大人の人のしてることはよくわかんないや! ねぇ、母さん 、僕それよりもおなか空いた。早くご用を済ませて帰ろうよ」
淳は明るい声でそう言うと、にっこりと無邪気な笑みを見せて微笑む、 それは、大人のしていることに退屈した子供そのものであった。
「え……ええ! そうね。帰ったら貴方の大好きなオムレツを作ってあげるわ」
不安そうだった純子がぱっと明るい顔をして淳に優しい言葉をかける。
「え! 本当? 母さん大好き!」
そう言って男の方を向き直り、ちよっと甘えた表情で小首を傾げて問いかけた。
「ねぇ、おじさん、まだご用は終わらないの?」
小さな子供だ。立っていても、いすに座った男とは身長差がだいぶある。大きな瞳で上目使いにじっと見つめながら、両手を後ろで組んで、伸ばした右足のかかとのあたりの位置の床を、左足のつまさきでトントンと蹴っている。退屈で仕方がないことが全身で伝わってくるかのよう だ。
男がそれを見てかすかに笑った。笑ったといっても口元から上は相変わらず伺い知ることができないので、口元の動きだけだ。本当はどうかわからないが、確かに笑ったという雰囲気だけは淳に伝わってきた 。
「君の息子もああ言ってることだし、私もこのゲームに飽きてきたところだ、そろそろ終わりにしようじゃないか」
「でも!」
純子が焦って言った。チップはまだまだ男の方がずっと多い
「ああ、心配しなくても良い。今までのゲームはチャラにしよう。新しい勝負方法を決める」
男がめんどくさそうに手をひらひらさせた。緩慢な態度だが、この男には妙に威圧感がある。
「…………なにかしら?」
純子が不審2期待8の感情を微妙にミックスさせた声で聞き返した。
「このカード」
そう言って男が裏返されたカードの山から一枚を抜き出した。そのカードを見てまた口元だけで笑う。
「RED OR BLUCK? 負けたときは……判っているのだろうな? 君はすべてを失う。女優としての地位も、その美貌も……。そしてその子は私の好きに遊ばせてもらう。……勝ったら、その時は君の願いを叶えてあげよう。さあ、どうするね、純子?」
上品だが禍々しい笑み。スーツを着た悪魔とは彼のことかもしれない。 とがったしっぽや恐ろしげな風貌をスマートに隠した現代の悪魔。しか し今も昔も悪魔の本質は変わらない。
「判ってるわ……」
赤い、美しい唇が苦しげに言葉を吐き出す。
「貴方はいつも選択を突きつける側で、私たちは貴方が差し出した選択肢を選ばされることしかできない……」
不意に純子が彼女らしくない弱気な表情でかすれた声を出した。だが、一瞬の後には自信に満ちたいつもの顔に戻り。まるで女王のように自信に満ちた声で言い放った。
「RED、よ」
「ご名答! 当たりだ」
楽しげな口調でだが、どこか投げやりに男が答えた。彼の関心はもうすでにこのゲームから失われているのは確かなようだった。彼にとってはシナリオを知っている喜劇の結末を見たにすぎないのだろうか?
「私の勝ちね、約束の願いは叶えてくれるのでしょうね!」
勝者であるはずの純子の方が余裕のない口調で問いつめる。
「かなえるとも! ただし……」
そんな純子を可笑しそうに男が見る。からかってやるつもりなのか、意味深に言葉をとぎれさせた。
「ただし? 何なの! 貴方は私が勝負に勝てば、かしわ……」そこまで言いかけて、はっと淳がいることに気が付いた、ちらりとうつむいたままの淳を見ると、それでも言葉を続ける。
「あいつと別れさせてくれるって言ったじゃない!」
終始落ち着いた態度の彼に対し、まんまと彼の思惑に乗った純子が 髪を振り乱して叫んだ。
「慌てるんじゃないよ、純子。誰も叶えてやらないとは言ってない。ああ、そんな顔をすると美貌が台無しだ……。何度も言ってるだろう? 私は君の顔を気に入ってると……」
取り乱している純子とは反対に、男はあくまでも落ちついた態度を崩さない。
「知ってるわ……だから私の賭を受けてくれたんでしょう……。ただし、何なのよ! じらさないで!」
焦る純子の姿が可笑しいのか、男はくっくっく……とさも楽しげに笑いながら横目で純子を見る。
「報酬をいただきたい。君とあの男を円満に別れさせることに対する報酬をね」
「なんですって!」
純子の目がつり上がった。この男がどんな者を要求してくるのかを考えると 空恐ろしくなるのを怒りでごまかそうとしているのだ。
「いやいや、君が自分で別れるのを渋る夫を説得するのに比べたら簡単なことさ。私はこれで十分だよ」男がそう言って立ち上がった。つられて純子も椅子から立ち上がる。
男が純子を見つめた。純子も魅入られたように男から目が離せない。視線が交わされた一瞬の沈黙ののち、男が純子の赤い唇に口づけた。純子の目が驚愕で見開かれるが、おとなしく目を閉じ、男を受け入れる。普段のプライドの高い彼女ならとうてい許されることのない行為だったが、純子はむしろ男が離れていくのを名残惜しそうなうるんだ瞳で見送る。
「ありがとう……」
濡れた声と濡れた瞳で純子は男を見つめる。母親でも、女優でもない女の黒須純子の目。
「礼を言うのはまだ早い。今回の勝負はいささかフェアじゃなかったようだからね。どんな結末になるかは私に任せてもらおうか。なに、君と君の夫は円満に別れさせてあげよう、ははは、これ以上ないほど円満に、後腐れなくだ。どうだい、私は親切だろう?」
そう陽気に男が言って大げさに腕を広げてみせた。陽気さの後ろに狂ったような悪意が見え隠れしているその後ろ姿を淳のおびえた瞳が映し出す。だが、純子は目先の何かに囚われていて、淳の見えてる恐ろしい本質が見えていない様子だった。陽気な男の態度とは裏腹に、淳とは別の思いで純子の顔からは見る見る血の気が引いていき、表情はこわばった。まさか…… 。
ゆっくりと口元がつり上がるその顔が淳の脳裏に、恐怖と ともにはっきりと刻み込まれる。その姿がゆっくりと名残惜しそうに消えていった…。
美しい彫像のように微動だにしない純子を楽しげに一瞥して、男はゲームの終わりを宣言する。
「さあ、これ以上はもう時間の無駄だ。勝負に負けた者はおとなしく退散するとしよう……」
そう聞こえたかと思うと、男の姿が煙のようにかき消えた。それまでじっと息を殺していた淳の目が驚きで大きく見開かれる。さっきまで聞き慣れた男の声が暗闇に響いた。
「今回のことは君の息子に免じて不問にしよう。二度はないから注意したまえ。ああ、言い忘れたが、報酬をもう一つ頂いていくよ。君はそれが自分の物だと言っていたし、どうやら君にはその価値が判っていないようだからね。実にもったいない」
「どういうことよ!」
はっきりしないいらだちと困惑に誰もいない空に純子が叫び返す。
「ハハハ……。それはすぐに判る。楽しみにしていたまえ。次のゲームの始まりだよ! それと淳君!」
突然呼びかけられた淳がびくっと体をふるわせた。
「君はいい子だ……、実におもしろい。純子はなぜ君がここに来たのかではなく、なぜ君がここに来られたのかを考えた方がいいようだな。またすぐに会いに行くよ、今度は君にだ。では、しばしのお別れだ!」
見られてる! ぞくりとした悪寒が淳の全身をなめあげた。視線を感じる。冷酷で残酷なあの男の目。淳がおびえた目で純子に助けを求めた。
「!」
純子の後ろにいたのは、さっき消えたはずのあの男。今度ははっきりと、淳を見て、笑った。
こんどこそあたりを覆っていた禍々しい気配が消えたのが淳にも判った。
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