緊張の糸が切れた純子が椅子に崩れ落ちる。

「母さん!」
 慌てて淳が母親に駆け寄る。あの恐ろしい男に何かひどいことをされたのかと心配したのだ。
「ばれてたのかしら……」
 ぼんやりと虚ろにつぶやく。ひどく精神的な疲労に襲われ、心配げに駆け寄る息子を見て力無く微笑んだ。
「良くやったわね、淳」
「母さん、僕……僕……、怖かったよぅ!」
 母親の言葉に安心して押さえていた不安や恐怖が涙とともにどっとあふれ出した。わんわん泣きじゃくる淳を抱きしめるが、純子の心はここにない。

なんだかすごく嫌な予感がするわ……そう思う自分に気がつく。

何をおびえてるの? 純子。自分で自分に問いかけた。
「私は勝ったのよ……、そう、私は勝ったんだわ!」
 むしろそう思いこむように力強く宣言して、嫌な予感を振り払おうと試みる。 自分を強く持とうとして、自分にすがって泣きじゃくる小さな体温を抱きしめた。

大丈夫よ、安心なさい……。その母親の態度で、淳がいっそう強く母親にしがみついた。

その拍子に淳が隠し持っていた何かが服から転げ落ちた。 床に落ちたそれがカシャンと軽い音を立て、純子が白い手でそれを拾い上げた。それは……。
小さな手鏡。
「良くやったわ! 良くやったわ、淳!」

純子がきつくきつく泣いている淳を抱きしめた。なぜ純子がいきなり勝ちだしたのか? 

淳がなぜ母親の後ろではなく、あの男の後ろにいたのか? 

すべてはその鏡で説明が付く。
「僕、あの男の人に、嘘ついた……。ごめんなさい、ごめんなさい!」
 恐怖が一応収まった後も淳が泣きじゃくるのは、あの男に淳が行ったいかさまに対する罪悪感からのようだった。いくら子供とはいえ、自分が悪いことをしたということぐらいは判っている。
「いいのよ淳。貴方は悪くないの! 貴方は悪くないわ! 母さんは貴方にひどいことをしようとしたのに! あんな男に貴方を引き渡そうとしたのに……。貴方は母さんを救ってくれたわ……。ごめんね、ごめんね淳!」
 そう言って優しく淳の髪をなでる。
「優しい子……」
 つぶやくと、愛おしげに淳を抱きしめる。そっと、優しく……。
「貴方を呼んで正解だったわ……。淳は母さんを助けてくれたもの、ね? 淳」
 そうゆっくりと、むしろ彼女が息子に甘えるように囁いた。
「ひっく……僕を……僕を呼んだのはやっぱり母さんなの……?」
 泣きはらした目をした淳が母親を真剣な瞳で見つめる。
「そうよ……淳のことを呼んだの。そうしたら淳は来てくれたわ……いい子ね、淳 、いい子ね!」
 淳がおずおずと遠慮がちに聞き返した。
「僕、母さんを助けてあげられた?」
「ええ! 淳は母さんを助けてくれたわ! 貴方は私の大切な子よ……」
 純子が心からそう言った。
「よかった……」
 そう言って心からうれしそうに微笑む。いかさまに手を貸したことも、あの男をだました罪悪感も、感じた恐怖もすべては母親の一言でうち消されて報われる。

母さんがぼくを必要としてくれた。母さんにとって僕はいらない子じゃないんだ。

母親の言葉で淳はようやく自分の存在を許すことができる。あの男はなにもかも知っていたのだろう、この子がどんなに罪を犯しても母親のその言葉を得るためならかまわないと思うことを。

どうして自分が呼んだ訳でもないのにこの子が自分の支配する空間に入れたのかを。

すべては……母親を慕う彼の気持ち、狂おしいほどに母親を求めてるのに得られない悲しみ、そ れのみにあることを。そして、純子が彼の思いに気がついていないことも。

今、淳のことを心底大事に思ってるのは彼女の嘘偽りない真実。しかし、彼女はすぐにそのことなど忘れてしまう。数日すれば彼女は再び淳を疎ましく思うのだ。

悲しいその事実を淳は知っているのだろうか? 否、知っていても 彼は母親のために罪を犯す。

報われるのがほんの一瞬でも、母親のために、ただそれだけのためにかれはいくらでも犠牲になる。


 純子は負けが込んできたのを見て、必死に誰かに助けを呼んだのだろう。 そして母親のその声を聞いて彼は来た。彼だけは純子の声を聞き、やって来ることができた。

彼女の元へ来た淳を優しく抱きしめるふりをしながら純子は小さな手鏡をその汚れを知らない小さな手に渡した。

「良いこと、淳? この鏡であの男のカードを母さんに見えるようにして頂戴」

 頬ずりするふりをしてそう囁いた。真実の言葉を聞くはずの耳に。
 そして、彼は母親のために嘘を隠した。思いやりに満ちた優しい言葉を紡ぐはずのその口で。
 達哉のことが大好き! お姉ちゃんのことが大好き! そう表現するのに使われるはずの体を、目を、表情を、足を、腕を。自分と母親の犯した罪を隠すために必死に使って演技した。
 ぼくはわるい子だ……。
 自分が汚れてしまったことを淳は知っている。そしてそれが許せないことも 。そしてそれでも後悔をしてないことも。

ぼくはお母さんと同じつみをおかしたことを心のそこでよろこんでる。

 たつやはそれでも仲良くしてくれるかな? おねえちゃんはぼくをきらったりしないかな?

「どうして……見逃してくれたのかしら」
 ぽつりとつぶやいた純子の言葉に淳がはっと我に返る。
「母さん! あの人、あの男の人は誰なの?」
 なぜ母親とあんな恐ろしい男が知り合いなのだろうか? と不安と疑問がよぎる
「あいつは……這いよる混沌……よ」
 多分誰に問いかけられているのかも判っていないほどに自分の思考に没頭している純子が虚ろに答える。

あの男は……何をたくらんでいるのだろうか?

彼の気まぐれはいつものことだが、自分を謀ろうとした人形をおめおめ見逃すほど甘くはない。
「ハイヨルコントン?」
 聞き慣れない単語に淳が首を傾げた。淳の言葉にこんどは純子が我に返る。
「だめよ淳! その名前を口にしてはだめ! 忘れるのよ……、忘れるの」
「あの人! 最後に僕のこと見てたよ! 僕のこと見てた!」
 得体の知れない恐怖で半狂乱になって淳が純子に訴える。
「淳、あいつの顔を……見たの……?」
 ごくり……と息をのんで純子が問いかける。
「見たよ! あの顔は、あの顔は! 父さん……え? ちがう、どんな顔だったんだろう、はっきり見たはずなのに思い出せないよ!」
 淳が苦しげに眉をひそめた。思い出せない不快感でどうにかなりそうだ。記憶のどこかに鍵がかけられたように引っかかっている。誰かが意図したのか、思いだそうとすればするほど、記憶は虚ろに、意識は遠くなってゆく。

激しい睡魔にも似た感覚に淳は飲み込まれていった。夢うつつに純子が言う のがかすかに聞こえる。
「それで良いのよ、淳。忘れなさい……。さあ、こんなところからは早く帰りましょう」
淳の記憶に残っているのはそれだけだった。





「ん……」
 朝の光が瞼の上で踊っている。淳はその誘いに応じて目を開けた。

見慣れた自分の部屋、見慣れた自分のベット。
「??? なんだろう、これ」
 枕元におかれた古びたトランプ。
「ジョーカーだよね、これ」
 何でこんな物が置かれているのだろうと首を傾げる。自分の物が偶然枕元に落ちたにしては見覚えがないし、第一古すぎる。
「でも綺麗だな。怖い顔してるけど」
 そう淳はつぶやいてベットから出た。黄色と黒を基調とした仮面に角が出ている。角の先には花が咲いていて、顔の部分は片目。赤い唇をつり上げて 笑っている。
「あはは、僕と同じだ。似てるかも」
 綺麗だったし、片目を隠してるのが自分と同じで気に入ったのか、淳はそのカードを自分の宝物入れの中にしまった。
「淳、朝ご飯よ、起きてるのなら早くいらっしゃい」
 子供のことだ、純子の声とキッチンから漂うオムレツのにおいにそのカードのことなどはすぐに忘れてしまう。
「は〜い」
 淳が元気に返事をして、部屋を飛び出していった。彼にはやることがいっぱいある。こんなカードにはいつまでもかまっていられない。
 キッチンには珍しく上機嫌な純子と優しく微笑む彼の父親。
 そういえばかえったらオムレツを作ってくれると言ってたっけ。そう思い出して幸せな気持ちに包まれる。

どこで言ってたのかな? まあいいや。

 そう思っ て目の前のオムレツの攻略に専念する。
 今日はみんなと何をしてあそぼう?

 幸せな一日の始まり、でもそれは、同時に悪夢の始まりでもあったのだ。何者かの意図する運命の輪に巻き込まれたことを全能ならざる身は知ることができない。

その悲しさ、その愚かさを誰が責めることができるだろう? 

マリオネッテは自分の出番が来るまで箱の中で何も知らずに眠ることしかできないのだ。何も知らずに……。

そして悲劇は彼らにとってあまりにも突然に降りかかる。運命の糸がこの日から織り込まれていることなど、すべては予定されていたことなどとは知らない。

 誰も知らない、何も知らない。
 悪魔の嘲笑がすぐ近くに迫っていることを誰も知ることができない。

                                  
ENDE

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