「すごい本の量……。足の踏み場も無いわ」

 私の寝室件書斎に入った彼女が目を丸くする。そうだろう。そこもかしこも黴臭い古本ばかり。積まれた本の山が何時崩れてくるか判らないほどにたくさんあるのだから。私も床を抜く前には整理しようと思うのだが……。それに、どう見てもインテリアとは言えないニューギニアの仮面だの、かなり大きくてはっきり言って邪魔な壷だのがごろごろと無造作に置かれている。いちおう私の大切な物ではあるのだが。

「ハハハ、私はこれに生涯を捧げてきたからね。私のすべてだよ」

 彼女の言葉に私はそう答えた。本当にそれは私のすべてだった。

時間も、お金も、私の生きる意味もすべて。その部屋は私の精神世界その物といっても過言ではなかったし、その部屋を見せるという事は、彼女に私の内面をさらけ出す事といっても過言では無かった。それなのに一体何故彼女に見せようと思ったのだろう? 私の研究を人に話しても笑われるのがオチだった。だからずっと人に見せるなんて事などしなかったのに。それを初対面の女の子に見せるなどとは、普段の私からすると正気の沙汰じゃなかった。

 パソコンのスイッチを入れ、書きかけの論文を呼び出す。さまざまな資料の画像なども交え、彼女に簡単に説明する。また笑われはしないかと心配だった。だが、自分の研究を誰かに見てもらいたいという自己顕示欲の方が勝ったのだ。

好奇心が強い子なんだろう。彼女は目を輝かせてパソコンの画面を食い入るように眺め、時折的確な質問をしてきた。私は自分の研究に興味を持ってくれて心底嬉しかった。こんなに嬉しかったのは初めてだった。ようやく自分を認められたかのように思って天にも昇る気持ちだったのだ。

「すごい……。ねぇ、もっとじっくり見たいわ。コーヒーでも飲みながらゆっくりね」

 だからそう彼女がパソコンの文字を目で追いながらそう言った時も、上機嫌で応じた。

「ハイハイ、判ったよ、コーヒーだね? 見てても良いけど変にいじらないでくれるかい? だいぶ出来あがってきた所なんだ。完成にはもちろんまだまだだけど。今ここでこれが消えたりしたら、私はショックで死んでしまうかもしれないからね」

 私はその時よっぽど気分が良かったのだろう。下手な冗談まで残してほんとうに上機嫌で書斎に彼女を残してキッチンへ向かい、コーヒーを淹れる。変に凝り性な私は、コーヒーミルを取りだして豆を入れた。

しっちゃかめっちゃかな寝室で寝るなどどうでも良い事は本当にどうでも良いのだが、コーヒーは別だ。豆からゆっくりコーヒーを淹れるのがいつもの私のやり方だった。

彼女を一人で私の部屋に残すのは無用心かと一瞬思ったが、すぐにその考えを打ち消した。私はこの短時間の間にすっかり彼女を信頼し切っていたのだ。彼女はそのくらい私の心を捉えていたし、せっかく私の研究に興味を持ってくれた人を疑うのは良くないとでも思っていたのかもしれない。

 時間をかけて良い香りのするコーヒーを淹れ、2つのカップに注いでトレイに置いた。コーヒーが飲みたいと言っていた彼女に渡そうとキッチンを出て、私は再び寝室兼書斎の前へと歩みを進める。

「ごめん、両手がふさがっているからドアを開けてくれるかい?」

 そう彼女がいる私の寝室の前で言った瞬間、私は部屋の中で変な音がするのが聞こえた。「ガッシャーン」という大きな音がした後、今度は「バキッ、バキッ」となにかを壊すような異様な音が中からするのだ。

 不吉な予感にさっと血の気が引いた。慌ててカップを置いたトレイを置き、ドアを開ける。中から何かで押さえていたのかなかなか開かない。力ずくでドアを開けたとたんむっと熱気が私を襲い、焦げ臭い匂いが鼻についた。

電気をつけてない暗い部屋のなかで、パソコンのモニターがぼんやりと光っている。何事かと思う私の目に、その光を前にしたややうつむき加減の彼女の後ろ姿が目に入った。

 不吉なその音は、彼女の手元から聞こえる。

「何をしているんだ!」

 私は慌てて彼女の肩を乱暴につかんで私の方を振り向かせた。私の大事な論文に何かあったらただではおかない。瞬間的にそう思った。私にそんな攻撃的で暴力的な一面があったのかと驚いたのは後の事で、その時は私の論文に万が一の事があったらとそれだけで精一杯だった。

「!!」

 私の嫌な予感は的中した。水浸しの上、床に叩きつけられたらしいパソコンのハードディスクが転がっており、彼女の手には真っ二つに曲げられたフロッピーディスクがあった。パソコンの置かれたデスクの上や床中に曲げられたたくさんのフロッピーディスクが散乱している。

「ハードディスクを壊したの。この中の貴方の論文は全部だめになったわ。紙は全部燃やしてやった。フロッピーディスクもこの通り、全部おじゃんよ」

 彼女がこわばった表情で、それでもはっきりと私の目を見てそう言った。私は全身から一気に血が引くのを感じた。悪寒がしそうだった。

 なんと彼女は私がコーヒーを淹れている間に、彼女は私の論文が入ったハードディスクを壊し、プリントアウトしてあった物は燃やし、バックアップしておいたフロッピーディスクを壊したというのだ! 私はなんの為に彼女がそうしたのかは判らなかった、いや、彼女の事情なんてそんな事はどうでも良かった。

 彼女を乱暴に半ば突き飛ばし、私は慌ててモニターの前に向かった。必死でマウスを動かそうとしたが、私の必死な気持ちに反して、判ったのは私の論文、データ、その他諸々まで全部がもうこの世には無いと言うことだった。

 あまりの事にめまいがした。ふらつきながら何か残ってないかと慌ててあたりを見まわすと、私が大事にしていた大きな古代の(と私が思っている)壷の中に紙の燃え滓が入っている。どうやらこの壷の中にあたりにあったノートやプリントアウトしてあった紙をすべて突っ込んで燃やしたらしい。焦げ臭いと思った匂いの原因はこれだったのだ。

後から思うと、火事になるかもしれないのになんて事をする子だろうと呆れたが、その時はもちろんそれどころじゃなかった。自分の書いた論文や大切な資料が全て灰になったショックや、その事実を認めたがらない自分の心、目の前に付き付けられる現実が私を混乱させた。

「なんて事を……、なんて事をしてくれたんだ……。この研究は、私の、私のすべてだったのに……」

 私は怒りと喪失感のあまりかすれた声でそう言った。頭がクラクラする。怒りで血液が沸騰しているようだ。色々な感情が頭の中でぐるぐる回って何がなんだかわからない。

嘘だ、なんでこんな事をする? 私の今までの苦労は? バカにしてきた奴らを見返す計画は? 真実を明らかにしようと頑張ってきた私の努力は?

 答えは目の前にあった。全て、私が大学の時から培ってきた物は全て消えたのだ。嘘じゃない、現実だ。いや、あんなに頑張ったのにそんな事ある訳が無い、そんな酷い事が現実に起こるはずが無い。消えてない、消えてないさ、私の大切な論文は……。私の人生は無駄になんかなってはいない。

 私が青ざめながら混乱した頭で事実から逃避しようとぐるぐると非現実的な事を考えていると、そんな私を見て彼女が我慢しきれなくなったのか、こわばった表情が怒りの表情に変わった。

「貴方がこんなくだらない物に夢中になってるからよ!」

 彼女が叫んだ。先ほどのように少しの怯えも無く、今度ははっきりと私にそう言った。  私の努力を、生き方を、心を、くだらないと言う一言で全て否定したのだ。

 両手を広げて彼女がそう叫んだ瞬間、豊満な胸が薄い布ごしに大きく揺れる。それは不可抗力だったのだが、この後に及んでまだ挑発されているような気がして私はますます怒りに震えた。

「くだらない……だって?」

 彼女の言葉に殺意さえ芽生えた。逆に今度は心がやたら冷たくなったのを感じた。

 私の人生の全てをかけた論文、私にとっては私その物でも有ったその論文を台無しにされ、挙句のはてには「くだらない」とまで言われて私は逆上した。こんなに腹が立ったのは初めてだった。私のどこにこんな感情の塊があったのか判らないが、気が遠くなりそうなくらい頭がくらくらした。恐ろしいほど冷たくなった心が今度は凄い勢いで沸騰しはじめる。体が熱くなり、熱いエネルギーが怒鳴り声となって口から出た。

「そうよ! くだらないわこんなもの! こんなものじゃ無くて私を見てよ!」

 私の怒鳴り声に負けじと彼女がそう叫んだ。そう言いながら両手でワイシャツの襟元の合わせ目をぐいと押し開く。ボタンが幾つかはじけ飛び、彼女の白くてなまめかしい二つの胸のふくらみが露わになって目に飛びこんでくる。

「君はよくもそんな事が言えるな! これは私の人生のすべてだったんだぞ! 君は私の人生の全てを台無しにしたんだ! どう償うつもりだ!」

 目の前が真っ白になりそうだった。私を挑発する目の前の小娘がたまらなく憎くて許せなかった。何故こんな事をするのだ。何故私の一生を見ず知らずの小娘に台無しにされなければいけないのだ。

私を馬鹿にしているのか? 許せない、絶対に許せない。

絶対にこの償いはさせてやる、絶対に私の受けた悲しみを、苦しみを、怒りを、失った物の大きさの分だけ彼女を傷つけてやる。そうしなければ私の腹がおさまらないと本気で思った。人をこんなにも憎み、傷つけてやろうなどと思ったのは初めてだった。

人間としての理性はもうとっくにはじけ飛び、ただ彼女を傷つけて復讐してやりたいと悪魔のような事を思った。

 同時に、彼女に刺激された雄としての性が私の中を暴れまわり始めた。これだけ挑発され、馬鹿にされている女を組み伏せて征服し、蹂躙して許しを乞わせてやりたくないのか? お前は腰抜けかと雄の心が耳元で囁いた。その時の私はもはや人間では無かった。欲望を押さえ切れないけだもの、最低のクズに成り下がったのだ。

私の中の攻撃的で暴力的な部分が膨れ上がり、私を支配した。もはや燃え滾るような怒りではなかった。私は彼女を傷つけて復讐する事だけしか考えてなかった。恐ろしいほど冷たい思考でその事だけを考えていた。私は今までの人生の中で無かったほど冷酷に彼女にどうやって罰を与えるかという事だけを考えていた。どうすれば彼女を最大限に傷つけられるかを考えていた。

私は、そんな恐ろしいことを考えていたのだ。

「そんな物の代償ぐらい私で払ってみせるわ! 」

 私の問いに彼女がそう叫んだ。自分が怒りに無表情になり、唇が痙攣しているのが判る。

私はこの時何をするか自分でもわからなかった。彼女を殺さない。という保証も出来なかった。普段は偽善者ぶって目を背けていた自分の中にこんなに熱い部分や暗黒があることを私は初めて知った。彼女はそんな私をみて更に挑発したのだ。私の目をはっきりと睨み据え、戦いを挑んできたのだ。

「そんなもの……」

 腹のそこからまた熱い塊が突き上げてきた。眼球の奥が熱い、私は再び怒りで逆上した。もう何がなんだか判らなかった。妙に冷めた部分と、感情が暴走して燃え滾る自分で真っ二つになりそうだった。今度は「そんなもの」呼ばわりされ、私は彼女に完璧になめられていると思った。こんな小娘に馬鹿にされるのはプライドの高い私にはとうてい許せない事だった。私の頭の中は彼女に復讐してやる事でいっぱいだ。彼女を傷付けることにためらいは無かった。もう我慢ができない。

 彼女の声は怒りで溢れそうになった心のたがをはじけさせるきっかけとなり、彼女の言葉で押さえていた最後の理性の糸が切れた。いや、理性などとっくに吹き飛んでいたから、どこへ行くか判らなかった怒りを彼女の方へむけさせるきっかけとなったという方が近いだろう。

 怒りのあまりなすすべも無く震えていた私は、彼女の声が合図となり、復讐のために彼女を傷つけようと口を開いた。

「『私で払ってみせる』と言ったな! 償ってもらうぞ!」

 私を馬鹿にして挑発させた事を後悔させてやる。私の力を思い知らせ、泣き叫んで許しを乞わせてやる。

本気でそう思い、私はそう叫ぶと、彼女の細い体を乱暴に抱き上げ、ベットの上に乱暴に放り投げた。彼女をめちゃくちゃに傷つけてやりたかった。

 彼女をベッドに押しつけ、シャツを強引に左右に押し開いた。ワイシャツのボタンが飛ぶブチブチッという不快な音か響く。驚いたことに彼女は抵抗しなかった。私の全てをばかにし、台無しにした事を償わせてやりたかった。私の中にいるもう一人の自分、私が必死で隠していたずるくて嫉妬深くて攻撃的で暴力的な世の中の全てを呪う獣のようなもう一人の自分が私を支配し、私は彼女を激情に任せて抱いた。



                        ◆◆◆


 全ては嘘のようだった。昨日の事はひょっとして夢じゃないかと疑った。

 酷く気分が悪い。最悪だ。

 朝、目がさめるとベットの上には私一人しかいない。彼女の姿はどこにも無かった。夢ではない証拠に、二つのカップ、割られたフロッピーディスク、脱ぎ捨てられたワイシャツ、彼女が使った食器。

 なんだったのだろう。何故いきなりこんな事が起こったのだろう?

 まだうまく飲みこめずに私の頭は混乱した。私の全てが消え去った事、怒りに任せて彼女を抱いた事、全てがぼんやりとしていて現実感が無い。これは夢だと思いたかったが、現実はそれを拒否した。彼女がいた証拠ははっきりと残っているのに、彼女の姿はもうどこにもいない。

「…………」

 私は頭を落ち着かせようとタバコを咥えた。だが、ライターが無い。何時も愛用していた銀色のジッポ。「大切な物は目に見えない」と英語で彫られたあのお気に入りのジッポがないのだ。ため息をつくと、私はしかたが無く咥えたタバコをごみ箱に投げ捨てた。火をつける方法などいくらでもあるが、もう吸う気になれなかった。

 その時、ふと気がついたのだ。私がとても寂しがっている事を。たまらない喪失感に襲われていることを。

 私は少し自問自答した。

 立ちあがり、パソコンを少しいじる。私が大学の頃から書いてきた論文はやはり全て無くなっていた。ハードディスクは完全に壊れてしまい、きれいさっぱり何もない。あの論文に関することが全部無くなったら、本当にこっけいなほど私の中には何も残らなかった。

 ハードディスクの中のデータは全部やられた。バックアップ用のフロッピーディスクも構想をまとめたノートも、資料も、何も残っていない。さすがに大量の本は残されているが。と思ったら何冊かは窓の外に投げ捨てられていた。全部捨てるには時間がなかったのだろう。

 全く、なんて子だ……。

 そう呆れて苦笑しながら彼女の事を思い出した。昨日で出し尽くしたのか、彼女がした事に怒りはもう全く無かった。残っているのは、倦怠感と虚無感、そして寂しさ。憑き物が落ちたかのように、あれだけあの論文に執着した私の気持ちは冷め切っていた。

 変わりに私の心を占めるのは、彼女の事。

 彼女の眼差し、彼女の声、彼女の長い黒髪、彼女の細い手首。

 私の中に残っている彼女の記憶の破片が幻のように私の頭に浮かんでは消えた。

 彼女の存在の残り香がするコーヒーカップや、シャツを見るたび心の奥がうずく。彼女が確かにいたという証拠は、見るたび今はもう彼女がいないと言う事を私に思い知らせた。

 私は頭を抱えた。私は彼女の名前も知らない、住所も、電話番号も。

もう会うことはないだろうと思うと、たまらなく寂しかった。その時気がついたのだ、私が寂しがってるのは、私の全てをかけた論文が消えてしまった事なんかではなく、彼女がいなくなってしまったからだと。

 彼女にあんな酷いことをしたにもかかわらず、そんなずうずうしいことを考えている自分がたまらなく嫌だったが、考えずにはいられなかった。

 何故彼女があんな事をしたのかは判らなかった。彼女が何故突然姿を消したのかも判らなかった。彼女に怒りに任せてあんな事をしてしまったのは済まないと思ったが、冷静になって考えると、やっぱりあれは明らかに彼女がそうなるように仕組んだ事としか思えなかった。何故あんな事をしたのか私にはさっぱり判らない。だが、彼女にとっては多分あれも一つの刺激的な遊びだったのだろうか? うだつの上がらない新米教師をからかって夢を見せてくれただけなのだろう。そう結論付けた。そうとしか思えなかった。

最初から判ってたはずだ。あんなきれいな子が私を相手にするはずがないと。そう思うと、彼女が何も言わずに消えた事が返って良かったと思えた。少しでも彼女が思わせぶりな事をすれば私は余計に苦しんだだろう。無駄だと判っていても私は恋焦がれただろう。

どうせ手に入れなれないのなら、求めない方がましだ。住所も電話番号も知らない。もう会わないのなら大丈夫。一週間で忘れられるさ。ほんの一瞬夢を見たと思えば良い。大丈夫、資料は残っているんだし、私の頭の中に論文の構想はちゃんと残っているんだから、また書けば良いさ。

 私は無理矢理そう思いこみ、感情や思い出の全てを心の奥に閉じこめた。昨日の暴力的で攻撃的な自分を認めたくなかった。自分の中にそんな部分が有ると認めるのは面倒だったし嫌だった。

昨日の自分はまるで他人のようだ。夢みたいで現実感がない。彼女に酷いことをした罪悪感はあったが、そんなに私を苦しめるほどでは無かったのだ。それも私が残酷な人間のようで怖かった。忘れよう。昨日の事はなにもかも忘れるんだ。私はいつもそうやって生きてきた。苦しい事はいつも心の奥に閉じ込めて見ないフリをしてきた。今までもそれで大丈夫だった、これからも大丈夫だろう。

 ソンナイキカタヲシテ、ナニヲエラレルトイウノカ?

 クルシマズニナニヲエヨウトイウノカ? ナントイウムダナジンセイカ?

 私の中で何かがそう囁いたのを私は完璧に無視した。いや、聞こえないフリをした。

 夢はもう終わったのだ。また現実が始まる。

 激動の金曜が過ぎ、月曜にはまた私は何時も通りに学校に出た。土曜日と日曜日は荒らされた部屋を掃除し、本を片付けた。

改めてすごい量の本に驚き、いかに自分が人間らしい生活をしてなかったかに驚いた。

ただ一つ変わったのは、あれほど私の心を魅了したマイヤ人の夢がすっかり色あせてしまい、私が必死に集めた土器や文献も、ガラクタにしか見えなくなった事だった。
 私はなにをやっていたんだろう? と思うと、どうしようもない気持ちになった。私はすっかり夢から冷めてしまい、空っぽだった。マイヤ人の夢で自分を誤魔化すのはもう限界だと本当はずっと前から気がついていた。ずるずると止められなかった私の心に終止符を打ってくれたのは、間違いなく彼女だった。いかに自分が間違った事に人生を無駄にしてきたかと思うとたまらなかった。それが自分で認められずに今までずるずると生きてきたのだ。

でも、私にはそれしかないのだ。ほっておくとまたこれを書き出すのは目に見えていた。私にはこれしかないのだ。たとえ無駄だと判っていても。

 ナントイウムダナジンセイカ? カエタイトハオモワナイノカ?

 私の中でまた何かが囁いた。彼女に会ってからこのささやき声は日増しに大きくなっていく。歪んだ私の心を正常に戻そうとする力がそう囁く。

だが、その声をも私は聞かないフリをしてこれからも生きて行くだろう。彼女が与えてくれたこんな生き方から抜け出せたかもしれないきっかけも私には無駄だった。もう駄目だ。私は駄目な人間なのだ。倦怠と虚無とに取り付かれた私の心は自浄作用を失い、一人ではもう立ち直れない……。

 私は金を稼ぐためにのろのろと教室に入った。そんな事を考えてうつむいたまま黒板の前の教台に昇り、いつものように出席簿の名前を読み上げていく。上から順番に生徒の名前を呼んでいくと、色々な返事が返ってきた。だが、どれもこれも私には同じ用にしか聞こえない。無駄な事だ。そう思いながら生徒の名前を呼んでいく。本当にその時は人間としても、教師としても最低だった。

「……黒須純子」

「はい」

 そう思いながら私は上の空で出席簿を読み上げた。休みがちでほとんど私の授業に出た事の無い生徒の名前を、どうせまた返事が返ってこないのだろうと思いこんで呼んだ私の耳に信じられない声が返ってきた。

 聞き覚えのある声に慌てて目を上げると、私の目に映ったのは間違い無くあの時の彼女だった。

ジャズバーで会い、私の部屋で一夜を過ごし、私の心を壊して行った彼女が他の生徒と同じくセブンスの制服を着て教室の机に座っていた。

なんということだ? どういう事なのだ? 

私とは縁の無い華やかな世界にいるとばかり思っていた彼女が、いきなり私の日常に飛び込んできたのだ。何がなんだか判らなくなって頭が混乱する。

 たくさんの生徒のいる教室からいきなり真っ暗な空間に放り込まれたような気がした。

生徒たちの騒ぐ声もまるで別の世界の出来事のように遠い。その時の私は、艶然と微笑む彼女の姿しか見えず、彼女の声しか聞こえなかった。

 私は再び自分が激動の渦に巻き込まれたような錯覚を覚えた。なんと言う事だ、なんと言う事だ……。

 混乱しながらも、これは神が私に与えてくれた最後のチャンスだ、そう思った。

 真正面から彼女に向き合い、もう現実から逃げないと言う事を決意した。だが、それは人生を変えたいなんて高尚な理由からでなく、ただもう一度彼女に私を見て欲しいという理由だったのだが。

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