◆CHARM EYES◆



 すいこまれそうな大きな黒い瞳、長いまつげに縁取られたそれは、深い神秘的な光りをたたえて私を誘う。漆黒の奥に隠されている彼女のすべてを知りたいと、その瞳の虜になったのはどの瞬間からだったのだろうか? いや、出会った瞬間からもうそれは決まっていたのだろう。ただ私はそれを認めるのが怖くてみっともなくじたばたしていただけで。

 もう私は彼女から眼を離すことができなかった。私などが彼女にふさわしい訳がないと何度も自分に言い聞かせたが、彼女の瞳は私のそんな自己防衛をやすやすと打ち砕き、私を好きな様に動かした。

自分の心が彼女によって屈服させられるのは、肥大した自尊心を持った私にとっては屈辱であったが、そんな事はもうどうでも良かった。油の切れた機械のように動かなくなっていた私の心は、彼女によって揺さぶられ振り回されて動き出した。

見る者を魅了せずに入られない魔力を持った瞳。猛獣使いが猛獣を従わせるのに必要なのは眼の力だという。そんな魔眼と呼ぶにふさわしい瞳を持った少女。黒須純子がその瞳で日本中の男を虜にするほんの少し前に私と彼女は出会った。



                        ◆◆◆


 ほんとうに久し振りに行きつけのジャズバーに行ったのは、私の研究が行き詰まっていたからだった。当時私は人類の歴史が故意に書きかえられたものとしか思えず、人類のほかにマイヤ人の作った超古代文明があると信じて疑っていなかった。

ただの新米教師が論文を書くというのは時間的にも資金的にも大変で、思うようにできなくて悩んでいたのだ。 

私は幼い時から考古学に興味を持っていたが、教育者だった父には逆らえずに流されて教師になった。この仕事に興味がないわけではないが、やっぱり自分のやりたい事とは違うという違和感にずっと悩まされていた。

父に逆らう事もできずに流されている自分に嫌気がさし、好きな事が思うようにできないという事に嫌気がさしていた。

嫌な現実に比べて、隠されたマヤ人の文明があるという空想は魅力的だった。古代のロマンに思いをはせ、想像力を自由に羽ばたかせる。それは嫌な現実等よりも何倍も魅力的で、私は瞬く間にマイヤ人に関する論文を書く事に夢中になった。

真実を明らかにしたいという純粋な正義感と、私が新しい歴史を発見して、それが認められれば、父も私を見なおすだろうという思いが交錯した。

私の論文が認められれば、「考古学などバカな事に現を抜かすな」などと二度と言われないだろう。それだけではない、沢山の人々が私に賞賛と賛美を与えるだろう。そういう夢想はたいそう楽しかった。学校の成績は良かったが、どことなく地味だった私にとって、人に認められて有名になるという事はとても手が届かなくて魅力的な事だった。

私は父に逆らえずに教育学部に進学させられた大学時代から、もうマイヤ人の研究に夢中になっていて、それが私のすべてだった。

マイヤ人のことを考えていれば、何もかも忘れて夢中になれる。もしかして世界的に認められるかも……。という人には言えない恥ずかしい思いに浸るのに夢中で、大学の友人の誘いはすべて断っていた。

 私が居心地が良いのは、派手なコンパの席ではなく。黴臭い書庫、

誰にも省みられていないような古書屋の片隅、

足の踏み場もないほど本が散らばった私の書斎。

 私がやりたいことは、他の学生のように女の子に現を抜かしたりすることでなく、マイヤ人に関する新しい論文の構想を練ったり、これまでの世界史の常識を覆すような新しい事実を公表するために証拠の資料を集めたりすることなのだ。と思い込んでいた。

ようするにそれは言い訳で、地味な私は人と付き合うのが苦手だったのだ。それを自分の中ですり替え、自分で自分に言い訳していた。

そんな学生時代を送り、私は若者らしい事は一切しなかった。何人かの女の子には相手に押し切られるような形で付き合った事があるが、私が空っぽなのを知るとやがて離れて行った。空っぽの青春にもかかわらず、私は心の中では遊びや女の子に現を抜かす回りの学生を卑下していた。本当は羨ましかったくせに。

今に見ていろ。と思うだけでなにもできない自分を認めようとはしなかった。

そして、やはり父には逆らえずに嫌々ながらもどうにか教師になり、父が亡くなった後も吹っ切れずにただ惰性と経済的理由で教師を続けていた。不満だらけでつまらない人生だ。それも自分が招いたせいだと認めたくは無かった。

 そんな環境で論文を書き始めたのは良いが、教師という金を稼ぐだけの時間に1日の大部分を取られ、思うように論文を書く時間が無い。資金的にも苦しい。私は切羽詰っていた。何もかも行き詰まっていた。時間も、金も、マイヤ人という夢想で自分を誤魔化す事も。

 どうしようもなくて私はグラスを一気に空けた。嫌な現実を忘れるために、今度は酒に頼ろうとしている。情けない……。

バーテンにお代わりを言おうとすると、不意にざわと人の動く気配がし、バーの雰囲気が変わった。

何事かとあたりを見まわすと、ピアノがおかれた小さいステージに一人の女性が立っており、初老のピアニストがピアノの前に座った。これから歌が始まるようだった。

 私は、いや、そこにいた誰もが彼女に目を奪われた。彼女は人の目を引きつけずには居られないなにかを持っていた。ステージに出て来るだけでもうその場にいたすべての人間を支配してしまったのだ。

「すごく綺麗な人だ。大人の女性という感じだね……。幾つぐらいだろうね?」

 カウンターの隣に座った男が視線を彼女の方に向けたまま私に話し掛けてきた。彼もここの常連で、私の勤めている学校で事務をしている人だ。たまにここへ来ると会う。来るたびに一言二言言葉を交わすぐらいの仲で、取りたてて仲がいいと言う訳ではない。

まあ、私には仲の良い同僚などという者自体いないのだが。彼と同じく私も彼女から目が離せずに見ていると、ピアノの前に男が座り、歌手らしい彼女は少しのどの調子を見るようにせきをしている。

「違いますよ、まだ高校生ぐらいじゃないですか……? 私はあまり感心しません。未成年がこんな時間に、こんな所で……」

 私にはその女性がまだ未成年にしか見えなかった。たしかに大人びた容貌や雰囲気を持っているが、まだ高校生ぐらいだろう。

「高校生! 橿原君、君の目は節穴かい? あんなに大人っぽいのにそんな訳無いじゃないか。だから君は彼女の一人もできないんだよ! 結構女子生徒に人気があるのに、君はそういう事には無頓着な朴念仁だなぁ」

 少し酔って上機嫌な彼が私をからかうように言った。職場では先輩だから私は苦笑い以外なにも返せない。

私が人気があるのかどうかはは判らないが、私が女子生徒に良く声をかけれられのはまだ生徒達と年が近いからだろう。うだつの上がらない新米教師の私は、ある女子生徒に面と向かって「ほっとけない」とまで言われた事もあるからなぁ……。

 私は、彼からまた件の女性歌手の方へ視線を移した。少し悲しげなピアノの音に会わせて彼女が歌い出す。

腰のあたりまで流れる豊かな黒髪、深い緑色のシンプルなドレスは、よほどプロポーションに自信が無いと着れないだろうというデザインだったが、とても良く彼女に似合っていた。スリットの入ったドレスから覗く長くて綺麗な足に、周りのみなが目を奪われている。

 女性としては背が高い方だと思うが、顔半分を黒髪でおおい、神秘的な雰囲気を漂わせている。だが、その場に居る男を虜にするには、彼女の片目だけで十分だった。

黒髪と、白い肌に赤い唇。蟲惑的なくちびるからは、つややかで伸びのあるアルトの歌声がつむぎ出されている。

曲名は「calling you」
 あなたを呼んでいる……と切ない感情を全身で振り絞るように表現して歌う彼女の姿に、私は目を奪われた。彼女の美貌や、その形などではない……。その全身から迸る激情に目を奪われた。彼女の体から、真っ赤なオーラが揺らめいて出ているいるような錯覚を覚えるほどだった。私には……、私には無い……。石のように固く、冷たくなってしまった私の心に比べて、彼女はなんと生き生きしているのだろうか。

自分が彼女をじっと見つめている事に気がついた私は慌てて目をそらした。私は求めてはいけない、期待してはいけない。求められぬ苦しみを味わうのも、期待して裏切られる苦しみを味わうのも御免だった。

そんな苦しみを味わうのだったら、私は何も望まない、何も期待しない、ただ平穏に日々を過ごしたい。彼女の激情に憧れてはいけないのだ。

太陽に憧れる地中の虫は、太陽を一目見てしまったとたん死んでしまうだろう。だから憧れてはいけない、分不相応なものを望んではいけない。私は冷たく暗い地中でただ平穏に日々を過ごしていきたいのだ。だから目をそらした。

 求められて得られぬときの苦しさよ、努力が報われないときの自尊心の軋みよ。

 私の肥大した自尊心は、私の望みがかなえられぬ事、私が認められぬことで多大な苦しみを私に与えた。他人へ賞賛を送りながら嫉妬に気が狂いそうになったり、何故自分が認められぬのかと世間を呪ったり。

私の自尊心は私を狂わす。そんな苦しみを味わうくらいならなにも望まない。

 だが、本当にそんな事ができるのだろうか?

 私が彼女から目をそらそうとしたほんの一瞬、ほんの一瞬だけ、彼女が私のほうをちらりと見た……ような気がした。



                    ◆◆◆


 それを見たのはほんの偶然だった。

彼女の歌で気分が高揚し、なぜか帰りたくなくって何時よりずっと多くアルコールを飲んでしまった。店に長居している間にタバコを切らしてしまい、何時もならきりがいいとこれで帰る所なのだが、やはりもう少しこの興奮の余韻を味わいたくて、まだ帰らないでおこう。と思ったのだ。

かなりのヘビースモ−カーである私は、タバコが無いと一時も我慢できなかった。店の人が買ってくると言う申し出を断り、酒を飲んで火照った体を冷やすのをついでにタバコを買いに店を出る。普段の私なら考えられないくらいに積極的な行動だった。

アルコールよりも、彼女の歌に酔ってる事に苦笑しつつ、店のちょうど裏手にある自動販売機まで行くことにする。

店を出て店の裏口の前を通り、換気のためか開いていた裏口のドアのあたりをなんとなく眺めながら通りすぎ、汚い路地裏でボーッと光る自動販売機でいつものタバコを2箱買って、また裏口のあたりを通りかかった。

 その時、ふと人の声がするのが聞こえた。見るつもりは無かったのだ。声がするからふとその方向を見ると、先ほどと同じく店の裏口が開いていて、中の様子が伺えた。そこにはさっき歌っていたあの綺麗な女性と、派手で高そうなスーツを着た男がいた。男は彼女のほっそりとした腰に手を回し、今まさに彼女の唇に口付けようとしている瞬間だったのだ。

さっきは人なんていなかったのにと慌てて目をそらしたが、ちょうどこっちを向いていた男の方が気が付いたらしく、キスしようとしていた一瞬動きが止まった。

「どうしたの?」

 その気配を感じたのだろう。いぶかしげに彼女がそう言う。彼女の表情はこちらからは後姿で見えない。そう言うつもりは無かったが、濡れ場を覗き見した居心地の悪さに私はそそくさと歩みを速めて、その場を後にした。

 早く忘れよう……。

と思うが、あの二人の姿が瞼に焼きついて離れない。地味に生きている私にとって、今日はびっくりする出来事が多すぎた。彼女の歌も、あのシーンも。

 あのふたりはどんな会話を交わすのだろうか? ……私には全く想像がつかなかった。あらためて自分の想像力の貧困さに驚いた。

本当に、何一つ想像できない空っぽな私の心。

 私は……私はなんというつまらない人間なんだろう?

 私の頭に彼女の姿が浮かんだ。私と正反対の少女。迸るような生のエネルギーをもってきらきら輝いていた。

彼女の目にはこの世はどのように映っているのだろう? 彼女の心はどの様に感じるのだろう? 

それを……知りたいと思った。

 大丈夫、こんな感情はすぐに忘れる。欲するな。私には縁が無い。手に入れられないものに憧れるな。私は自分にそう言い聞かせた。

私の脳裏によみがえる彼女の艶然とした微笑み、緑のドレス、ハイヒール、白い顔、美しい黒髪。彼女に触れる事を許された男、男を従わせる女。赤い唇、色々な感情の嵐。

 それはほんの一瞬、マイヤ人よりも確かに私の心を魅了した。 

ほんの一瞬、自分とは全く縁の無い華やかな世界に偶然触れたのだと思った。今から思うと、一瞬どころか私を変える長い夜はまだ始まったにすぎなかったのだが。

 いや、彼女にとってはこの激動こそが当たり前の日常に過ぎなかったのかもしれない。

 その後はなにごとも無く店に戻り、奇妙な余韻に浸りながらウーロン茶でしばらく酔いを冷ました。

びっくりしたせいかすぐに酔いは覚めてしまい、そろそろ時刻も遅かったので、まだなんとなく帰りたくなかったが仕方なく帰宅する事にする。



                        ◆◆◆


「ふ……う」

 店を出て駐車場に向かう途中、私は複雑な思いでため息を付いた。

夢を見ているようだった。彼女の歌も、彼女のキスを見てしまった事も。私は私とは全く関係の無い世界に触れて少し高揚していた。だが、店を出ればまた現実が始まる。酔いはもうすっかり覚めた。

ほんの一瞬、誰かの違う世界に触れても、私の世界は何も変わらない。

家に帰ったら、マイヤ人に関する論文の続きをしよう。そう思って自分の車に乗りこもうと車のキーをポケットから探る。

マイヤ人に関する論文を書く事、これだけが私の楽しみのすべてだ。私の生涯をかけたこの論文は、まだまだ先は長いがやっと最初の構想がまとまり始めていた。

 もうすぐだ、もうすぐ私の全精力をかけた論文が完成する。骨組が出来れば後は詳しく肉付けしていくだけだ。私の論文が世界史の常識を塗り変えるかもしれないと言う興奮と、私の論文が認められるかもしれないと夢想するのは、私の生きてる上での唯一の楽しみだった。

そのためならば、給料のほとんどを本につぎ込むのも、時間のほとんどを割かれて、生活に支障が出るのもいとわなかった。もちろんこれだけでは終わらない、マイヤ人と古代の歴史については、書きたいことや疑問が山とあるのだ。論文の一番重要な構想を練る事は、その全貌と、重要な論点を示すきわめて重要な一歩だ。

「イン・ラケチ」と私が名づけたこの論文は、私の生きているすべてと言ってもいい。それがもうすぐ全貌を現す、大きな一歩を踏み出そうとしているのだ。私の頭はその事でいっぱいだった。もし火事かなにかで、私の論文が無くなってしまったら、私は気が狂うか、ショックのあまり死んでしまうに違いないとさえ思う。

 私はこの論文のためにすべてのものを犠牲にしてきた。この世の中のまだ知られていない真実を明らかにしようという使命にすべてを捧げてきた。それが、もうすぐ……。

「ねぇ……」

 自分の思考に没頭してあたりが見えてなかった私に、誰かが声をかけた。若い女の声。驚いてあたりを見まわすと、少し離れた駐車場の柱の影に、ほっそりとした人影が立っている。

「困ってるの、乗せて下さらない?」

 駐車場の柱の影は、街灯の光が届かなくてよく見えない。薄暗い影から、私のほうへ向かってその少女がゆっくり歩いてきた。光の中へ出て、私に近づいてくるにつれ、その少女が誰なのか私にもわかってきだした。

 先ほど、ピアノに合わせて歌っていた女性シンガーだ……。

 先ほどとおなじドレスを着ているが、おかしなことに荷物らしき物は何も持っていない。

 何故……? ここに……? 私の頭の中を疑問符ががけ巡った。私の乏しい想像力では、彼女が私の前に現れる理由と彼女と私の関連性がさっぱりわからない。

 判らないものだからどうして良いか答えが出せない。沈黙を守っていると、その少女は更に近づいてきた。

「ねぇ? 聞いてらっしゃるのかしら? 乗せてくださるの? くださらないの?」

 大人びた口調と高飛車な声の響き。私はおかしくてつい口の端を少し上げて笑ってしまった。私には、子供が精一杯背伸びして無理して虚勢を張っているように見えたのだ。

「不快だわ、やめて! もういいわ!」

 私の些細な表情の変化を敏感に捉え、馬鹿にされていると思ったのか、怒った声を残して彼女はくるりときびすを返して行ってしまおうとした。確かに今の行動は良くなかった。私は慌てて彼女に許しを請うた。

「すまない、君をバカにしたつもりではないんだ! 気を悪くしたのなら謝るよ」

言った瞬間、私は自分で出した自分の声に吃驚した。私の声は、普段の私らしくなく、妙に取り乱した変な声になってしまっていたのだ。よっぽど動揺していたのだろうか?

 しかし、自分でも良くわからないが、そのかいあってか彼女がゆっくりと振り向く。

「気を悪くしたわ……。お詫びに乗せて頂戴」

 まるで女王のようにそう言うと、彼女は私の言葉を待つように口を閉じた。いきなり知らないどころか先ほど濡れ場を覗いてしまった女の子にそんな事を言われ、もともと臨機応変なんて上手いことできない私が困惑して言い掛ける。

「でも、君は……」

「だから困ってると言ったでしょう!」

 ぐずぐずと言い掛けた私の言葉は途中で遮られた。どうせ上手いこと等言えないとすぐに察知したのだろう、彼女が飲みこみの悪い私にイライラしてヒステリックに叫んだ。

正直、うへぇ……と思ったが、ここはおとなしく従った方が身のためだと助手席のドアを空ける。第一、こんな所で訳ありの女の子をほっておく訳にはいかない。

「ち、ちょっと待ってくれるかい? 今、荷物を……」

 助手席には、私が骨董屋だの怪しげな個人だのから仕入れたマイヤ人の遺跡のかけら(と私が思っている)が入った大切な箱やその他色々な資料がおいてあった。私の給料のほぼ一ヶ月分のそれらの入った大切な箱をどかそうと私は助手席をごそごそと探ったが、彼女はそんな私を無視し、一瞬早く手を伸ばすと、いとも簡単にぽいと後部座席にその大切な箱を投げ捨てた。

「あ…………」

「早く出してくださらない?」

 さっさと助手席に乗り込んだ彼女が私を見もせずにそう言うと、私は無言で運転席に座って車を出した。

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