結局、化粧もせず、小袖と緋袴だけの姿でイサビの元へ現れた五嶺を見て、一瞬だけ、おや? という顔をしたが、イサビはそれについては何も言わなかった。
座れ、と指差されたあたりに、イサビと向かい合って正座する。
「ぬしは穢れた冥府の水を口にしてしまったでの、これより数日かけてぬしの体を浄化する。ぬしの体の中に入ったケガレを抜くのじゃ。わしの与えるもの以外は口にするな。よいな?」
はい。と素直に頷くと、イサビが鷹揚に顎をしゃくった。
「脱げ。体を診る」
一瞬戸惑ったが、小袖から腕を抜き、上半身を露にする。
五嶺の白いからだに、イサビの指が触れる。
イサビの指が脈を計るように首筋を押さえ、動くなと一言言って鍼灸針のような針を刺す。時折ぴりっとするのは、煉が反応しているせいだろう。
「綺麗な体をしておるな」
「え……」
唐突に言われて、顔が真っ赤になった。
「少し胃と肺がやられておるが」
あ、体ン中の事かぃ。と自分の勘違いにまた赤面する。アタシなにヘンに意識しているんだろうと思うと、少しいらっとする。
「今の人間の体は、毒まみれじゃ。臭くて臭くてとても食う気になれんと物の怪どもが愚痴っておるが、ぬしはかなりの上玉じゃな。食われぬように気をつけるがよいぞ。ほれ、ぬしの匂いを嗅ぎつけてもう来おった」
楽しそうに笑いながら、開け放った戸の向こうを指差すので、何気なく振り返った五嶺の顔が引きつった。思わず、ひっと声が漏れる。
闇がざわめいていた。
それが、沢山の異形の化け物たちが蠢いているからだと気がついたのだ。
「夜は闇が濃いでの、穢れた化け物どもが出るゆえ一人で出歩くなよ」
イサビは何でもなさそうに言うが、闇の奥におぞましい化け物が何千何百と蠢くのを想像すると吐き気がした。
「女、生娘、良い匂い。女、食う」
「食べたい、食べたい」
一つ目のぐにゃぐにゃした蛸のような生き物、牛や馬の頭に人間の体を持った化け物。女の顔をした巨大な蜘蛛などがひしめきあい、五嶺を見て涎を垂らしながら小さく囁いている。
「ああ、あっちへ行け物の怪ども。これは食い物ではないぞ」
イサビが言って、手で払う仕草をすると、キャーと悲鳴を上げて化け物たちは我先にと逃げ去った。だが、よっぽど五嶺が美味しそうなのか、しばらくするとじわじわと戻って来ては五嶺を見て涎を垂らす。
五嶺がその化け物に気を取られていると、イサビが不意に独り言を漏らす。
「ふむ……。まこと帰すには、惜しいのう」
じろじろと見る目が医者としてのものではないと気がつき、むっとした顔で急いで小袖を着なおす。
「アタシは五嶺家に戻り成すべき事がございますので帰らせていただきます!」
「五嶺……?」
思わず叫ぶと、イサビが顔をしかめた。
「ぬしゃ、陰陽の五嶺家の娘か?」
「はい」
頷くと、イサビは、ああ……と声を上げた。
「……最初にどうして気がつかなんだか。あの強欲な五嶺の頭首は息災か?」
「父のことでしたら、ずいぶんと前に亡くなりました」
「何!? 奴は死んだか! んむ、そういえばたしかぬしが家を継いだと言っておったの?」
「ええ、今はアタシが五嶺家の頭首です」
「だがしかし奴は生まれたのは息子であったと……」
驚きに目を見開いたイサビの顔がみるみるうちに厳しくなる。
「ぬしは、あれの実の娘か? ぬしに兄はおったか? 例えば死んだりした……」
「……アタシは先代頭首の一人娘です。父にはアタシ以外の子はおりません」
「…………」
恐ろしい顔で黙り込んだイサビに、悪い予感が広がっていく。五嶺の父は有能でやり手だったが、目的のためなら平気で嘘をつき他人を騙し踏みにじる、外道と言っていい男だった。その父が何をしたのか、とても嫌な予感がする。
「ぬしが母の腹にいる時のことじゃ。ぬしの父がわしの元に訪れ、さる外法を伝授して欲しいと言うてきた。その代償に、腹の子が娘ならばその娘をわしにやると」
イサビの低い声を聞きながら、五嶺はじっとイサビを見つめる。
「わしの子を生む女をくれると言うた!」
イサビが、ぎんと五嶺をにらみつける。
「だが、ぬしの父はわしを謀り、生まれたのは男と言うたのじゃ」
イサビの言葉に、絶望のあまり全身から力が抜けるような気がした。
イサビは下手をすれば六王並の力を持つ地獄の死者だ。普通なら五嶺などとても扱えない格上の相手。そのイサビを謀るなど、なんて事をしてくれた! と死者を罵るが、いくら罵っても事態は何も変わらない。
「わしを騙したな!!」
激しく五嶺を責めるイサビの目、声。ぎゅ……と緋袴の裾を掴み、どう言い訳しようかと頭をめぐらせる。
下手をすれば殺される。
手のひらに汗をかく。喉が渇き、唾を飲み込むと喉がひりひりした。
「わしが奴との取引に応じたのは、自分の娘を売るほどの強欲ぶりが愉快だったからじゃ。女など欲しくは無いが、わしを騙したことは許せぬ。人間の分際でわしを虚仮にしおって!! 絶対に許さぬぞ……」
呻くようなイサビの声。イサビの怒りに、あたりの空気が震え、先ほどまで庵の外でざわついていた化け物たちはイサビを恐れて凍りついたように動かない。動けば機嫌の悪いイサビに即座に皆殺しにされると知っている。
「五嶺家に繋がるもの全て滅ぼしてくれる」
地を這う様な低い声で呪詛の言葉を漏らしたイサビの前に、五嶺ががばっと平伏した。
「申し訳ございません。先代頭首の行った事、謝っても謝りきれませんが、現頭首のアタシが代わりにお詫びいたします。ここから戻れば、いかようにも償いをさせていただきますゆえ、どうかお許し下さい」
「だまれ! ぬしも父同様よく滑る舌を持っているようじゃな」
イサビの叫び声と共に、強い風で吹き飛ばされるような力を感じた。
思わず姿勢を崩した五嶺が必死にイサビを見上げると、立ち上がったイサビが、ぞっとするような冷たい瞳で見下ろしていた。
思わず恐怖に固まると、薄く笑って五嶺の前に片膝をつく。
「ぬしのような生意気な女は、物の怪どものエサにしてやろうか?」
顎をくいと持ち上げられ、ネズミを弄ぶ猫のような残酷さでイサビは言った。イサビがふっと一吹きするだけで、自分の命など消し飛んでしまう。圧倒的なまでの力の差と恐怖をひしひしと感じる。
けれど、もっと怖い事は別にある。
だから口を開くことができた。
「それでお気が済むのでしたらどうぞそうなさってください。ですがお願いです。五嶺の家をお許しください。咎はアタシ一人で。どうか、どうか……!」
五嶺にとって、一番最悪の事態を避けようと、再び必死に平伏して懇願する。
アタシの返答次第では、イサビは本当に五嶺に縁のあるもの皆破壊しつくし、殺しつくすだろう。
それだけは避けねばならぬ。
地獄の使者にとって、人間など取るに足りない存在。消す事には一欠けらの罪悪感など感じぬだろうし、虫けら同然の人間に騙された怒りも相当なものだろう。
アタシがおらずとも、エビスがいれば五嶺家はなんとかなる。
エビスへの信頼もあって、プライドの高い五嶺がイサビに向かって畳に頭を擦り付ける。
「自分の身より五嶺家のほうが大事か?」
「アタシは五嶺の頭首です。先代の不祥事をアタシが償うのは当然のこと」
五嶺がきっぱりと言い切ると、その返事が気に入らないのか、イサビが顔をゆがめた。
もっと取り乱し、命乞いをするかと思ったのに五嶺は違った。
「いらつくのう……」
呟いて、平伏する五嶺の髪の毛を乱暴に掴み、顔を上向けさせる。
五嶺が、自分の命より五嶺家のほうが大事だと口にするたびに、心の奥から苛立ちが沸き起こる。裏切られたような気さえして、このままでは引けぬとムキになる。
「ぬしも人なら自分の命のほうが大事じゃろう? もっとはいつくばって命乞いをしろ。さすれば五嶺家を皆殺しにしてもぬしの命だけは助けてやるぞ」
苦痛に顔をゆがめる五嶺の唇を、酷薄そうに笑いながらぺろりと舐め、耳元で囁く。
イサビは五嶺を気に入っていたのだ。その五嶺に逆らわれ、可愛さ余って憎さも百倍になる。
「さぁ、五嶺家を捨てると言うのじゃ。人なら人らしく奇麗事などぬかさず、もっと下種で下劣な本性を出してみよ」
アタシを救って。と一言言って自分にすがり付けば、どんな女にするよりも優しゅうしてやるというのに……!
思い通りに行かぬ苛立ちが、イサビの攻撃性を高める。
「アタシ、は、どうなってもかまいません。どうか五嶺をお許し下さい……」
イサビの気持ちなど判らぬ五嶺が、息を乱しながらも、はっきりと言った。
まだ言うか……!
イサビの怒りが爆発する。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!! 下らん人間の分際でわしに逆らいおって! ぬしのように強情で腹の立つ女は初めてじゃ」
わしはぬしを大事にしてやりたいのに、なぜ逆らう!?
ぐっと片手で細い首を掴まれ、五嶺が苦痛に顔をゆがめた。爪が肌に食い込み、赤い血がにじむ。それでも五嶺は許しを請わない。
「ぬしなど、もののけどもの慰み者にしてくれるぞ。おぞましい化け物どもに犯され、生きながら食い殺されるか? 蜘蛛や牛の化け物に孕まされ、生んだ子を目の前で食われるような目にあわせてやろうか?」
イサビが手を離すと、五嶺が激しく咳き込んだ。胃からこみ上げてくるものを必死に堪える。
座っている事も出来ず、畳の上で海老のように体を丸くして苦痛に涙を流し、はあっ、はぁっと荒い息をつく。
ようやく苦痛の波が引いた頃、ふと、肩の皮膚に違和感を感じる。
首をひねると、小さい餓鬼のような化け物が、五嶺の首筋の傷から伝う血を、汚らしい舌を伸ばしてぺちゃぺちゃと舐め取っていた。その餓鬼を他の餓鬼が掴んで引きずり降ろし、五嶺の血を争って舐めている。
「痛っ!」
餓鬼は興奮したのか、五嶺の首筋の傷に噛み付き血をすする。怒りに任せて餓鬼を掴み、退魔の呪文を唱えて畳に叩きつけると、そいつはあっさりと血と肉をぶちまけて息絶える。
ざまあみろ。と思ったのもそこまでだった。
死んだ仲間の肉を、小さな餓鬼どもが群がって食っている。その餓鬼を、鋭いくちばしを持った一本足の妖鳥がばくんとついばむ。
「…………ちっ!」
顔を上げて周りを見回すと、沢山の異形の化け物が五嶺を取り囲んでいた。
五嶺の血の匂いに興奮したのか、あちこちで共食いをしながら、じわりじわりと輪を狭めてくる。
「どうじゃ、けがわらしいであろう! この地獄に耐え切れるか?」
嘲るようなイサビの声に、生臭い息の音がかぶさった。
人間の顔をした犬が、五嶺を見て興奮している。その股間にそそり立ついやらしい肉を見て、嫌悪に顔を背けた。
魔法律書があれば……! と思うが、たとえこの場にいる物の怪を追い払ったとしてもイサビに歯が立たない。
思わず目をそらしたのが命取りだった。がっと手首をつかまれる感覚とともに、乱暴に畳に押しつけられる。
「ひ……!」
馬の頭をした男が、五嶺に覆いかぶさっていた。ぬっと無遠慮に手を伸ばし、五嶺の小袖の胸元を掴み乳房を露にする。
白い乳房に興奮して白目をむく馬の口からだらだらと涎が溢れ、露になった五嶺の乳房にぼたぼたと落ちる。馬は長い舌を伸ばして、べろり……と五嶺の乳房の先を舐め、袴を乱暴に引きちぎる。
「さぁ、早く命乞いをしろ! 本当に食われるぞ! 早よう言わんか!!」
「先代を、五嶺家をお許し下さい!」
恐怖に顔を引きつらせながらも叫ぶ五嶺に、イサビの顔色がすうっと変わる。先ほどまでの激しい怒りは失せ、その目は恐ろしいほど冷たい。
「……後悔に泣き叫ぶがよいぞ」
そう言って、物の怪どもに、その女を好きにしろ。という合図のように手を振る。
ざっと黒い塊に見えるほどの沢山の化け物が五嶺に襲い掛かった。白い体は瞬きする間に汚らしい化け物が覆いかぶさり、五嶺のいた辺りが蠢く黒い小山になる。中で女の体を巡って壮絶な争いをしているのか、化け物の悲鳴とともにどすぐろい血が流れ、山がもぞもぞと動く。
本当に、死ぬ気か!
「陀羅尼丸っ!」
イサビの苛立ちが最高潮に達して叫んだ瞬間、ざあっと崩れるように物の怪が一斉に女の体から離れた。
「……だめ。女、食えない、イサビ様のもの。残念、くやしい」
化け物たちは悔しそうに呟き、後退りながら、一匹、また一匹と闇に消える。
よほど五嶺の体が惜しかったのか、人の顔をした犬は物ほしそうにくんくんと鼻を鳴らして五嶺の匂いを嗅ぎ、股間を漲らせていたが、イサビに睨まれるとびくっとおびえ、名残惜しそうに何度も振り返りながら闇へ消える。
物の怪どもが去った後には、粘つく体液と血で体中を汚し、五嶺が目を閉じて横たわっていた。小袖も袴も引き裂かれ、かろうじて布切れが体にまとわりついているだけの白いからだが、うち捨てられたかのように畳の上に転がっている。
白い皮膚に、噛み付かれ食いちぎられた傷跡、鋭い爪で引っかかれた傷跡がいくつも這い、痛々しく赤い血を流す。
ひょっとして死んでいるのかと思うほどその体は動かなかったが、やがて小さく息をしているのが判り、イサビがほっと安堵する。
化け物どもが一匹残らず消えると、浅い息をつきながら、弱々しく五嶺が目をあけた。
いたぶられた時間が短かったおかげで、大きな傷は無いようだった。むしろ、おぞましい化け物に体中を嬲られた心の傷のほうが大きいだろう。
五嶺は気丈に起き上がり、うっと呻いて口を押さえた。
必死に縁側まで這って、庵の外へ吐瀉する。
胃の中が空になるまで吐いたあと、わずかな布を体にまとわりつかせた姿のまま仰向けになって息を整える。
「判らぬ! なぜぬしはそこまでするのじゃ」
イサビが言うと、五嶺は薄く笑った。
自分でも、意地を貫き通し命までかけてしまった事に驚く。五嶺家を守ろうと、ただ必死だった。それだけではなく、イサビに奴隷のように屈するのはどうしても嫌だったのだ。
「イサビ殿、五嶺家とアタシを慕い命を賭けてくれるものたちは、アタシにとって命より大事。五嶺を捨てれば生きられるといっても、それは死より辛い生。アタシは五嶺を捨てた自分を絶対許さないでしょうからねぃ」
焼き討ちで死んだ社員の無念、自分を信じてついてきた社員への思い。それを裏切る訳にはいかない。
そう思うと自分でも不思議なほど力が湧く。
裂けて千切れた緋袴の間から、五嶺の白い太腿が露になる。足の付け根に近い肌に紅い何かを見咎めて、イサビが強引に足を開かせた。
「このあざは?」
「……生まれた時からあります。父は誰にも見せるなと」
抵抗する気力も無く、なすがままにされながら五嶺は答えた。
白い太腿の内側に、うっすらと赤いあざが浮かび上がっている。
普段は見えないが、動いた後や興奮した時など、激しく血が巡った時に浮かび上がるあざ。理由も聞かされぬまま抱えた五嶺の秘密についてイサビは何か知っているらしい。
「あ……、んん……っ」
イサビが指先でそのあざに触れると、びくっと五嶺の体が震えた。体中を貫くように激しい快感が走り、不意打ちに思わずはしたない声を上げる。
ぼんやりとしたあざに見えたそれが、イサビに触れられるとはっきりと浮かび上がり、何かの記号のような凡字のような印となる。
「ち……。そういう事か。もののけどもがぬしを食えぬのも道理」
その印を見て、イサビは全てを理解した。
「ぬしはわしの女だからじゃ。その印は、わしの名を表しておる。すなわち、ぬしがわしのものだというしるし。ぬしの父とわしが交わした契約の契約印じゃ!」
事態が飲み込めぬ五嶺は、無言でイサビを見つめ、こくんと小さく息を呑んだ。
「ぬしの父は、ぬしは男じゃとわしに嘘をついておきながら、一方で約束通り、娘のぬしがわしのものであるという呪をかけた」
「おそらくは、イサビ殿に嘘がばれた時のため……でしょうねぃ」
五嶺は力を振り絞り、起き上がってイサビを見上げる。
「小ざかしいまねを」
吐き捨てるようにイサビが言った。
「ぬしの父は、野望のため、保身のためと二度もぬしを売ったのじゃな。いざとなればわしにぬしを差し出し命乞いをする気だったのか。やつのしそうな事よ」
ふんと鼻を鳴らして笑い、五嶺の前にひざをついた。
「それとも、ぬしを哀れに思い、わしに差し出すのをやめたのか?」
イサビが五嶺の顔を覗き込む。
血に汚れ、髪の毛の乱れた酷い有様だが、自分の意思を貫き通したその表情は凛として美しかった。
呆れるほど強情な女よ。とまじまじと見つめる。先ほどは逆らわれて腹を立てたが、冷静になった今は、面白い女じゃ。と興味を引かれる。
「それは、ありませんねぃ」
大きくため息をついて五嶺は言った。
「他に跡継ぎが生まれて、アタシに利用価値がなくなれば、きっと父はアタシをイサビ殿に差し出したことでしょう。父はそういう男でした」
「……興が失せた。やはり人というのは下らなく下種な生き物じゃ。腹を立てるほうが馬鹿らしい」
イサビはすっかり先ほどまでの激しい感情を失い、五嶺の体に手をかざした。五嶺の傷からぽこぽこと茸が生え、ぎょっとする。
「あ、傷が……」
傷が治ったと驚く五嶺を、イサビが横抱きに抱き上げた。抵抗する力も気力も無い五嶺は、半裸のまま大人しく抱き上げられる。
「実の父に道具にされたぬしも哀れよの」
「……哀れまれるのは嫌いです」
「ぬしゃ本当に命しらずの生意気な女じゃな。呆れるわ。あんな目に会い、そんなぼろぼろの姿でまだ強がるとは……。まあよい、ぬしに免じて、今後一切五嶺家には危害を加えぬと誓おう」
イサビが言うと、安心したように大きく息を吐き、腕の中の五嶺の体から力が抜ける。
呆れ顔のイサビに抱かれ、どこに連れて行かれるのかと思えば、湯殿だった。温泉が引かれた露天風呂に、着衣のまま、イサビは五嶺を抱いて湯の中に入る。
先ほどの荒々しさとはうって変わって、イサビが優しく湯の中に降ろすのに五嶺が戸惑う。
「……さぞ生意気な奴だとお思いになったでしょうねぃ」
イサビの手が、裂けた布切れとなった着物を脱がせるのをそのままに五嶺は呟いた。
「いや。ぬしのような骨の有る女は、うむ、嫌いではないぞ……」
言いながら、五嶺の顔に飛び散った血を拭い、綺麗にした。
粘ついた粘液に汚された体を丁寧にイサビが洗う。
「痛むところはあるか? 気分は悪くないか?」
おそるおそると言った様子のイサビの言葉に、五嶺が思わずイサビを見上げた。
「イサビ殿、もしかしてアタシに酷い事をしたと後悔してらっしゃるのですか?」
「そうじゃったら悪いのか!」
図星を突かれ、やけになったように言ったイサビを、信じられないといった顔でまじまじと見る。
「鬼よりも酷いことをするかと思えば、アタシみたいなのにもお優しいし、おかしなお方……」
「わしはのー、短気なんじゃ。頭に血が上ると何をしでかすか自分でも判らぬ。ぬしにはやりすぎた。でもな、ぬしも悪いのじゃぞ! こんなにわしを怒らせた女は初めてじゃ!」
だからお相子じゃ。許せよ。とふくれっ面で呟くイサビに、アラそれは申し訳ございませんでしたと言って五嶺は笑った。
五嶺が笑うと、イサビの胸の奥が甘く疼く。逆らわれると余計に怒りが募るのと根は同じく、微笑まれると嬉しさも倍になる。
「怒って……、恨んではおらぬのか?」
「さほど。どうしてでしょうかねぃ? 自分でも不思議なんですけど。いつもなら、いかに自分が悪かろうと根にもって絶対仕返ししてやるんですけどねぃ」
そんな事をあっさりと言われ、イサビのほうが戸惑う。
「ぬしゃ、わしが怖くはないのか?」
「いいえ」
言った後、五嶺は可笑しそうに笑った。
「腹の中で悪態つきながらにっこり笑っておべっか使うなんて朝飯前のこのアタシが、どうしたことかイサビ殿の前では妙に素直になっちまうんです。さんざみっともないところ見られて、今更取り繕っても無駄だからでしょうかねぃ。イサビ殿の機嫌を損ねれば殺されるかもしれないってのに、まったく困ったもんだ。イサビ殿が五嶺家に手を出さないとお約束してくださったから、気が大きくなってるんでしょうかねぃ?」
イサビ殿の前では調子が狂う。と五嶺は言った。
「アタシ、イサビ殿の素直さに引きずられているのかも……」
「わしはいつでも泣きたければ泣き、怒りたければ怒るぞ。悪いと思えば謝る」
後は自分でせい。と言って手ぬぐいを渡す。暗くて見えないせいか、人に奉仕される事に慣れているせいか、五嶺はイサビに大人しく体を洗われていた。さすがに男に体を洗われた事は無いだろうが。
「五嶺の裏切り行為にも関わらず、イサビ殿のお慈悲でアタシの命を助けてくださった事、感謝しております」
「それはもうよい。今は別の事が、あー大事じゃ」
世間知らずのお嬢様育ちゆえに、ここで自分が襲われるなどと夢にも思っていない傲慢な瞳で自分を見上げる五嶺に思わず目をそらす。
なぜ助けたって、そんなの下心があるからに決まってるじゃろうが。
ここでよからぬ事をしてしまえば、一時はよいが結局は大魚を逃しかねんと打算的になり欲求を必死で抑える。
「イサビ殿も洗ってさしあげますよぅ」
イサビの葛藤を知らず、五嶺はそう言って、イサビの衣を強引に剥ぎ取る。あっけに取られているイサビの目の前で衣を湯の外へ投げた。
「そんな驚いた顔しなくてもいいでしょうに。イサビ殿がしてくださった事、お返ししているだけですよぅ。闇夜ですしねぃ」
五嶺の言葉に、わしゃ夜目が利くんじゃが。と思ったがもちろん黙っておいた。
「なんという呆れた女じゃ……」
「別に女と思ってくださらなくて結構。女の恥じらいなど捨てましたからアタシ怖いものなどありませんねぃ」
それに……と言いかけて、五嶺は言葉を飲み込んだ。「初めて会った気がしない」と言おうとしたのに気がついたのだ。
傲慢といわれればそれまでだが、イサビが自分に酷い事をしないと知っている。
なぜ自分がそう思うのか判らない。いくら格上の地獄の使者だからといって、ここまで許す訳が無い。
イサビに媚びているつもりもない。
アタシは頭がおかしくなっちまったのか? それとも、もともと男に肌を晒すのが平気なあばずれなのだろうか?
ただ事ではない状況があった、それよりも一番大きいのは相手がイサビだったということ。
アタシはなぜこんなに自然にイサビ殿が心に入り込むのを許す……?
前世の因縁とやらのせいだろうか?
アタシは本当にイサビ殿に恋をするのだろうか?
自問自答しながらイサビの体を洗ううちに、ふと手に何かが触れた。
「アラなんですこれ?」
手に触れた柔らかいものをふにふにと握ると、イサビが悶えた。
「ぶ、無礼者! どこを触っておるか!」
「これ尻尾ではないですか?」
「触るな!」
「ここも洗いますねぃ」
「ちょっ、あまりそこをいじるでない……!」
初対面の男と混浴した。なんて言うと、エビスが卒倒するだろうねぃ。と並んで風呂に浸かりながら五嶺は星の瞬く空を見上げた。
20071209UP
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