ささめごと









「どういたしましたか五嶺様?」

 一点を見つめる主の視線をエビスが追うと、庭の木にいる赤いなにかに気がついた。

「あ……」

 池に大きく張り出した桜の枝の先に、泥人形に苔の生えたような、山葡萄色のお化けみたいなものがぶら下がり、足をばたばたさせていた。

「あれは、何でしょうか?」

 当然、この世のものではない。かといって、霊にも見えない。その手の知識はかなりあるつもりだが、見たことの無い物の怪にエビスが首をひねった。

「さぁねぃ」

 じいっとそいつを見つめながら、気のなさそうな返事を五嶺はした。

「なにしてるんですかねあんな所で」

 まりものお化けは、懸垂の要領でようやく木の枝に取り付き、枝にしがみ付いている。

「猫がよくやる奴だ」

 言いながら五嶺が立ち上がった。主の五嶺が立っているのに、エビスが座れる訳が無い。慌ててエビスも立ち上がる。

「いきがって木に登ったはいいが、降りられないってやつだよ」

 興味なさそうな顔で庭に下りる五嶺は、玉砂利を踏みしめるじゃりじゃりという音をたてながら池に近づく。

 池の淵で枝を見上げると、五嶺は信じられない行動に出た。

「ごっ、五嶺様!!」

 思わずエビスが目を見開き叫ぶ。

 五嶺は、ぽいと雪駄を脱ぎ捨てると、そのまま池の中へ歩みを進めたのだ。

 ざぶ……と池の水をかきわけると、鯉がさっと逃げ出す。

 いくらあまり深くない池とはいえ、水はお世辞にも綺麗とは言えず、五嶺が歩くたび底の泥が巻き上がる。それに今は十二月だ。池の水は死ぬほど冷たい。

 膝の上まで水に浸かりながら、ざぶざぶと池の中央まで歩みを進め、木の枝に手を差し伸べる。

「さぁ、おいで」

 まりものお化けは、木にしがみついたまま震えてる。業を煮やした五嶺は、チッと舌打ちをして、むんずとまりものお化けを掴んだ。

 強引に掴まれたまりもは、キーキーと抗議の声を立てながら暴れる。

「ああ、こら、抵抗するんじゃないよ」

 思わず落っことしそうになり、胸元でまりものお化けを抱えなおす。

「怖くないからおとなしくしろぃ」

 ぎゅ。と優しくまりものお化けを抱きしめると、危害を加えられることは無いと理解したのか、ようやく暴れるのをやめ、キーと小さい声を立てて五嶺を見上げた。

「もう大丈夫だからねぃ」

 こちらを見上げるまりものお化けににっこりと笑ってみせると、すっかり大人しくなって身を預ける。

 あまりの事に、一連の五嶺の行動をあっけにとられて見ていたエビスが、ようやくはっと正気を取り戻した。

 池から上がって歩き出した五嶺に慌ててついていきながら口を開く。

「五嶺様、すぐにお召しかえを! 風邪でも引いたら大変です」

「ああ、そうしておくれ」

「冬の池に入るなど!」

 信じられない! という風にエビスは叫び、五嶺を責めるような目をした。

 普段は落ちた筆さえ拾わないが、たまにこんな事をするから驚かされる。さすが、ドブ川に落ちてた俺を拾ったお方だ。と妙なところで感心するが、五嶺一人の体ではないのだ、こんな事をされては困る。

「俺に命じてくださればよかったのに」

「お前じゃ届かないだろうに」

 あっさりと反論され、エビスがうろたえる。

「きゃ、脚立とか持って行きますよ」

「長い間怖い思いをさせたらかわいそうだろぃ。アタシがやったほうが早い」

 そう言いながら、五嶺はまりものお化けを地面に降ろした。「さ、お行き」と軽く背を押しながら五嶺が言うと、名残惜しそうに何度も後ろを振り向きながら五嶺家の庭の奥へ消えて行く。

 エビスは慌てて五嶺を暖かくした部屋に上げ、濡れた袴を脱がせ綺麗に足を拭いたあと、足湯と暖かい飲み物を用意した。五嶺は座っているだけで、当然のようにエビスの世話を受けている。

「……どうして判ったんですか」

 暖かい日本茶を手渡しながら、いい香りのする足湯にゆったりと浸かる五嶺にエビスが話しかける。

「なにが?」

「さっきの奴が木から下りられないって」

 そういえば五嶺様は、どうやってドブ川で死にかけている俺を見つけたのだろう。と、十年ごしの謎を思い出しながらエビスが聞いた。

 五嶺様には、助けを求めている声をキャッチする力でもあるんだろうか? と首をひねる。

 普段は鬼畜な癖に、ときおり観音菩薩かと思うほど慈悲深い所をみせるので驚かされる。一体どっちが本当の五嶺様なのだろうと思うが、どちらも五嶺なのだろう。

「どうしてって……」

 自覚は無いらしく、五嶺が首をかしげた。

「……なんとなくだよ」

 呟く五嶺の声を聞きながら、エビスは、本当に不思議なお人だよな。と内心で呟く。



 たたたっと庭を走り回る熟れた山葡萄色の影をよく見かけるようになったのはそれからだった。

 五嶺家には結界が張られ、危害を加えるような悪霊や、浮遊霊の類は近づけないようになっている。だが、そのまりものお化けは、明らかに五嶺家の庭で数を増やしていた。

 害は無いようだが、増えられても困る。一体どうしたものかとエビスが思案しだした時、再び庭をじっと見つめる五嶺に気がつく。

「アラ楽しそうに集会だ」

 見てごらんと指差す先に、まりものお化けたちが輪を作っていた。輪の真ん中で、演説をするようにキーキー言う奴が一匹、周りを囲んで座り野次を飛ばすようにキーキー言っている奴が数匹。

「なんだか増えてませんか? 奴ら」

「害も無いようだからほっとけぃ」

 興味なさそうに五嶺が言うと、二人に見られているのを知ってか知らずか、まりものお化けたちがさっと挙手をした。

「……多数決?」

 エビスが首をひねる。どうやら全会一致で何かが決まったらしい。まりも達は拍手の後、一匹が立ち上がり、周りに励まされた後、たたたっと五嶺の元へ向かってくる。

「伝令ですよ五嶺様」

「どれどれ」

 まりものお化けは、恭しく五嶺に向かって小さな手紙を差し出し、五嶺は笑って腰を屈めた。

 最初は笑いながら手紙を開いた五嶺だったが、読み進めるうちに顔が曇る。

 手紙を読み終えると、ん? と困ったように首をかしげた。

「手紙にはなんと?」

 我慢できなくてエビスが問うと、ちらっとエビスへ目線を走らせながら五嶺が口を開く。

「アタシに、こいつらの王様のお嫁さんになって欲しいらしい」

「ええ!?」

「つきましては一度お会い頂きたい。だってさ」

 エビスが丸い目をますます丸くし、口をぽかんと開ける。

 エビスの主人は女であったが、世間では男として通している。まさかこんな形で求婚者が現れるとは夢にも思っていなかったのだ。

「妙に気に入られちまったねぃ」

 驚いたのはエビスだけではない。当の五嶺も戸惑ってため息をついた。

 自分が普通とはだいぶ変わった身の上である事は自覚しているが、まさか物の怪から求婚されるとは。

「こいつらの王様って、身長二メートルほどのマリモですかね?」

「そうかもねぃ」

「……困りましたね」

「困ったねぃ」

 二人で途方にくれるが、良い考えも浮かばない。

「こいつらはかなり力のある使い魔だ。となると、こいつらの主人は、相当位の高いお方ってことになるよ」

 二人の困惑を知らず、まりも達は一仕事終えたというようにお互いの肩をたたき会い、茂みの奥へ消えていく。

 その後姿を見送りながら、エビスが呟いた。

「……なんとか穏便に断る方法はないものでしょうか」

「まぁ、先方がアタシを気に入ると決まった訳でも無いし」

 エビスは、気に入らない訳無ぇです。と思わず口に出しかけたがやめた。昔から、普通の人間とは違う、浮世離れした人だなぁとは思っていた。物の怪の妻になる。という、普通なら笑い飛ばすような話も、ありえるかもしれん。と思ってしまうのだ。口に出したら本当のことになりそうだから黙っておく。

「気に入られたらどうするんですか?」

 不安げな顔をして、エビスが五嶺を見上げる。これまで五嶺に浮いた噂が無かったのは、男として通している事がまず第一、加えて、苛烈な性格と高嶺の花すぎて近寄りがたい。本人にその気が全く無い。という点が大きかったのだが、物の怪の王に強引に迫られるという状況は初めてでどう転ぶかわからない。

「マリモのお嫁さんは嫌だねぃ……」

 五嶺は肩をすくめたが、何とかなると高をくくっていたのか、まだその声には切実な響きは無かった。

 


 その夜、暑くて暑くて目を覚ました。

 寝る時に、エビスが五嶺の体を過剰に心配して、暖かい寝床を作ってくれたが、この暑さは異常だ。

 うっすらと目を開けると、明るい日の光が目に飛び込んできた。まぶしくて慌てて目を閉じる。

 あれは冬の弱い日の光ではない。

 おかしいと五嶺の中で警告が鳴る。そろそろと目を開けて起き上がると、案の定そこは自分の寝室ではなかった。

 見たことも無い、荒れ果てた庵の畳の上に、いつもの青い袴と着物姿で寝ていた。

 日の高さからして朝だと判るが、その日の光は真夏のものだ。風通しの悪い庵の中はすでに蒸し暑く、寝ている間にたっぷりと汗をかいていたようで、五嶺は顔をしかめた。

「…………どこだぃ、ここは」

 ひとり呟くが、返事は無い。無意識のうちに魔法律書を探して袂を探る。

 魔法律書が無い事に気がつくと、急に落ち着かない気持になった。

 気候はどうみても夏なのに、五嶺は冬用の袷をきっちりと着ている。あまりにも暑くて、袴と上着を脱ぎ、襦袢姿になってため息をつく。

「夢かねぃ」

 それにしては暑い。

 座っていても埒が明かず、五嶺は庵の出入り口から顔を出して外を眺めた。

 日はさんさんと降り注ぎ、蝉がみんみんと鳴いている。

「嘘だろぃ……」

 頭を抱えたい気持ちのまま、部屋の外へ出る。襦袢姿を人に見られたらどうしようと思ったが、どうも人の気配がしないので、構わず歩き出す。

 どこもかしこも荒れ果てた庵には、予感はしていたが人っ子一人居ない。

 喉は渇くし、暑いしで途方にくれると、ちょろりと山葡萄色の影が前を横切った。

「あ!」

 思わず声をあげると、五嶺家の庭で見たまりものようなお化けも立ち止まる。

「ここはどこかねぃ?」

 話しかけるが、まりもは首をかしげた。

「アタシ、家に帰りたいんだけどねぃ……」

 キーキーと五嶺に向かって返事をするが、何を言っているのか判らない。地獄語で話しかけても、返ってくるのは理解不能の言葉ばかり。

「……喉が乾いてるんだけど、水ないかぃ?」

 ついに意思の疎通を諦めた五嶺が、だめでもともとと普通に話しかける。

「キー?」

「みーずー。お水」

 しゃがんで、床に指で水という漢字を書きながら言う。こちらの言葉は判るのか判らないのか、まりものお化けは五嶺の襦袢のすそを掴んで引っ張る。

「おいおい、アタシは水が一杯欲しいだけなんだけどねぃ、一体どこまで行くんだぃ」

 喉を潤すだけの水が欲しかったのに、まりもは庵を出てちょこまかと歩いてゆく。

 素足のまま少し歩いた後、キー! と誇らしげに指差す先を見て、五嶺が思わず声を上げる。

「きれいだねぃ」

 そこにあったのは小さな泉だった。

 木に囲まれた岩の隙間からこぽこぽと水が湧いている。湧き出した水は下に溜まり、涼しげに太陽の光を反射していた。透き通った水に手を入れると、ひんやりと冷たく、水を手で掬い急いで口にする。

 生き返るねぃ……。

 冷たい水を口にしただけで、ずいぶんと気力が回復した。

 水がどこかに流れていくので、興味を持って下流へ行くと、川に出た。岸から、清流に泳ぐ魚が見える。

 川に足を浸すと、冷たくて気持ちが良い。ばしゃ! とわざと水しぶきを上げ、日の光に輝くきらきらと輝く水滴を眺める。

 だあれも、いないよねぃ。

 きょろ……とあたりを見回すが、人どころか、さっきのまりもさえ姿を消している。

 思い切ってさっと襦袢を脱ぎ捨て、そばの木の枝にかける。

 蝉の声がする森の中に真っ白な女体。もし誰かが見ていたのなら、水浴びをしに天女が降りてきたのだと思うに違いない。

 裸になり、キラキラと輝く水面に足を入れ、ゆっくりと真ん中へ歩みを進める。

 水が冷たくて心地よい。川は思ったより深く、適当に深い場所へ行くと、ざぶ。と頭まで水に浸かる。息が苦しくなった頃、ぷはぁっと水面に顔を出す。

「気持ち良い……」

 思わず呟いた。

 自分のおかれた状況が全く判らないのに、冷たい川の水に身を浸すと、全ての憂いを忘れるほど気持ちが良い。あまりにも非現実的すぎてどうしようもなく、かえって日ごろの憂さを忘れてしまう。

 こんなに気分が良いのは久しぶりだった。

 アタシ、疲れてたんだねぃ。としみじみ思いながら水に浸かっていたが、冷たい水はすぐに体を冷やす。さっきまで暑くてたまらなかったのに、ぶるっと体をふるわせる。

 もうそろそろ上がろう。と体から水を滴らせながら立ち上がり、髪を扱いて水を落とす。岸へ上がって何気なく襦袢に伸ばした手を慌てて引っ込めた。

「っつ……!」

 思わず悲鳴を上げかけた。

 襦袢の上に白蛇が這って、赤い目で五嶺をじっと見つめている。

 そろ〜と襦袢に手を伸ばすが、蛇はするすると五嶺に近づき、鎌首をもたげて取らせまいとする。

 一瞬途方にくれると、よこからにゅっと手が伸びて、二、三度あっちへ行けというように手をはらう仕草をする。

 五嶺には反抗的だったその蛇はその手には大人しく従い、蛇を追い払った手が無造作に襦袢を掴み五嶺へ放り投げる。

「ほれ」

 蛇よりも、誰かに見られていたほうがショックだった。

 おもわず素で驚いた顔をしてその誰かをじっと見る。

 墨染めの衣を無造作に身に纏ったその人物の、銀色の長い髪が日の光に輝く。






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