その瞬間、闇が飛び出したかと思った。
だがそれはそれは闇ではなく、一匹の黒猫。
業斗童子だ!
「エビス! お出ましだ」
「へぃ!」
短い会話を交わす。瞬く間に辺りが暗闇に包まれた。煌々とあたりを照らしていた明かりは闇に負け、墨を流したような濃い闇が広がる。
これが、業斗童子の闇か!
俺がそう思ったのもつかの間。
恐ろしい事に、この闇は粘っこく四肢に絡みつき、俺の動きを封じようとする。
まずい……!
動きを封じられ、俺が焦って後ろを振り返ると、五嶺様が魔法律書を広げ、詠唱を始めているところだった。
魔法律書の開いたページから光が溢れ、五嶺様を照らす。
その顔は不敵に微笑み、業斗童子との戦いを楽しんでいるように見えた。
五嶺様の手がすばやく動き、印を結び終えた時、俺の耳にばさばさという羽音が聞こえた。
何事かと上を見ると、なんと、山伏装束の鶏が俺達の前に下りてきたのだ。
な、なんだありゃ!!
「暁、闇を払え!」
「承知!」
服を着た鶏に俺が度肝を抜かれているのをよそに、その鶏は五嶺様の命令に従い、喉も張り裂けよとばかりに、高らかと朝を告げる鳴き声を上げたのだ。
コケコッコー! と一鳴き、二鳴きすると、俺の体の自由を奪っていた粘っこい闇が溶け、俺は自由を取り戻す。
闇が薄れた!
やったと思ったのもつかの間。
「駄目だ。業斗童子の闇を完全には払いきれぬ」
五嶺様が悔しそうに呟いた。五嶺様が呼び出した使者のおかげで闇の粘度は下がったが、いまだ俺には何も見えず、圧倒的不利なのは変わり無い。
業斗童子と契約するには、条件は一つ。
業斗童子を捕まえる事。
五嶺様は、結界を張り、その中に業斗童子を閉じ込める作戦を考えた。結界内が狭ければ狭いほど、業斗童子を捕まえやすくなる。
だが、その作戦には問題点が一つあった。
業斗童子は、力こそ弱いが、自在に闇を操る。
その闇は広い場所ではただの闇だが、密度が濃くなると、まるでコールタールのように粘り、俺達の動きを封じるのだ。
それでは、狭い場所で戦うなど、業斗童子の思う壷。
五嶺様は、闇を払う方法と、もう一つとっておきの秘策があると仰っていた。
闇の中を何かがすばやく動く気配がする。業斗童子だ。
闇の中の黒猫。あれを捕まえるだなんて、とうてい無理に思えた。
後ろを振り返ると、闇の中で金色の瞳が二つ輝いていた。
闇を見通す猫の目。
五嶺様!
全身に痺れが走り、体が震えた。
そうだ、俺は五嶺様さえいれば何でもできる。
「見えますか、五嶺様!」
俺が怒鳴ると、後ろで五嶺様が動く気配がした。
「ああ……。見える!」
力強い五嶺様の声。ざっとすばやく五嶺様が動く気配。
五嶺様はまだ諦めてはいない。
ならば俺も戦うのみ!
俺は目を閉じて体から余計な力を抜いた。
五嶺様の煉を感じることに集中する。
闇を完全に払いきれない事はあらかじめ予測していた。作戦は第二段階にきている。
「エビスっ!」
五嶺様の声と同時に、俺は札を投げる。
「裁判官恵比寿花夫の名において、破魔の術を施行する!!」
業斗童子はギャッと声をあげ、煉と札が反応して一瞬辺りが明るくなった。
当たった!
俺が喜びに高ぶっていると、不意に突き飛ばされた。
さっと頬の辺りに痛みが走る。業斗童子の鋭い爪が俺の頬をかすった。五嶺様が突き飛ばしてくれなかったら、きっと俺の目はつぶされていたに違いない。
「油断するな!」
五嶺様の叱咤に、すぐに俺は立ち上がる。
再び五嶺様の煉を感じることに集中する。業斗童子の攻撃に怯える暇は無い。いくら鋭い爪が俺を引っかいても、俺は身じろぎもしなかった。
「見える」五嶺様が業斗童子を追い込み、俺が札を投げる。単純だが難しい作戦。
五嶺様が攻撃できれば一番良いのだが、闇を見るだけで五嶺様はかなり煉を使ってしまう。業斗童子への直接の攻撃は、俺がやる必要があった。
いや、俺がそうさせてくれと言ったのだ。当初は、五嶺様お一人を戦わせ、俺は煉の補充だけをすればよいと五嶺様は仰った。
でも俺は、一緒に戦いたいと食い下がったのだ。
俺は業斗童子の姿が全く見えない。だから目を使う代わりに、五嶺様の煉の流れを読む。
五嶺様の煉なら読める。そうして、五嶺様の視線の先に居る業斗童子を見るのだ。
五嶺様がどこを狙っているのか、どう動くのか、先読みして動けるものなどこの世で俺一人しか居るまい。
俺は五嶺様のパートナーだ。俺のプライドにかけて、俺は五嶺様の手となり、五嶺様の思うとおりに札を投げてみせる。
「五嶺の孺子、やるではないか! その達磨も、よく主の意を読む!」
何度目か札が当たった後、業斗童子の声が近くで聞こえ、俺は肩に鋭い痛みを感じた。
業斗童子のその声は、楽しげな響きを含み、業斗童子も俺達との戦いをかなり楽しんでいるのだと判る。
暗闇に二つの金色の目が光る。その目が、すっと闇の中の何かを追った。
ああ、来る。
そう直感して俺は札を握り、札を投げるモーションを取る。
五嶺様の声。
正確に俺は言われた方向へ札を投げる。
業斗童子の動きが、明らかに鈍っている。
だが、俺達の疲労も濃い。投げた札も全部が全部当たる訳ではない。
「仕方が無い。嫌だがアレを使おうかねぃ」
五嶺様が仰って、懐から出したものをばっと業斗童子に向かって投げつけた。
うわっぷ!
五嶺様が投げた粉が俺にまでかかり、げほげほとせきをする。粉の匂いが鼻の奥に絡みつく。
なんだこりゃ!?
「エビス、三連!」
「ヘイッ!」
五嶺様の短い言葉だけで、俺は全てを理解する。
当たれ!!
強く願いながら俺が投げた札が、三枚とも業斗童子に当たった。
業斗童子の動きがおかしい。明らかにスピードが落ちている。闇は夜明け前ほどに薄れ、急に走り出しては壁にぶつかる業斗童子や、ふらふらと酔っ払ったように歩く業斗童子が丸見えだ。
あの粉のせいだ、きっと。
なんだ五嶺様、そんな物持ってるんだったら早く使えばよかったのに。
俺がそう思っていると、不意に闇が消えた。
業斗童子が、闇をその体内に納めたのだ。
すなわち、負けを認めた。
明かりの下に居たのは、一匹の闇色の猫。
五嶺様が嬉しそうに微笑んで、猫を抱き上げた。
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