「さぁ、捕まえたよ、業斗童子」
「我が眷属の力を借りたか。考えたな」
五嶺様に抱っこされながら、業斗童子が呟いた。
「貴様達との戦い、久々に楽しかったぞ」
基本的に猫だからおっかけっこが好きなんだろう。と俺は勝手に思った。
使者との戦いは、いかに使者に好かれるかが大切だと五嶺様は仰っていた。俺たち非力な人間の求めに応じてくれるのは、地獄の使者が俺達の事を好いてくれるからだ、と。
同じ使者でも、呼び出される執行人によって、働きがまるで違う場合だってある。
五嶺様の腕の中で、業斗童子が、抱かれた胸に手を付いて上半身を起こし、五嶺様の顔を見上げる。
業斗童子はエメラルド色の美しい目を細め、ぺろりと親しそうに五嶺様の頬を舐めた。五嶺様がくすぐったそうな顔をする。
「ゴウト、くすぐったいよぅ」
業斗童子は目を細め、ぺろぺろと五嶺様のお顔を舐め、五嶺様がくすぐったがって笑った。
五嶺様は、かなり業斗童子に気に入られたに違いない。
「五嶺の頭首よ、お前を我が主と認め、力を貸そう。闇に姿を隠すものがあれば、我を呼び出すがいい。どこに隠れようが、我が瞳に映らぬものは無い」
ようやく五嶺様の腕の中で落ち着いた業斗童子がそう言った。
業斗童子の瞳は、何をも見透かす。どんなに巧みに霊が身を隠そうとも、その瞳から逃れる事は出来ない。そしてその体より出でる闇は俺達を邪悪なものから隠し、かつ悪霊をがんじがらめに取り込むのだ。
圧倒的な力でねじ伏せるタイプではないが、戦略を重んじる我々にとっては、どうしても欲しい使者だった。業斗童子が居れば、戦略の幅がぐっと広がる。
「……ありがとう」
五嶺様が微笑むと、俺がすかさず登記用のインクを差し出す。
「では、登記を」
猫の手にはペンも筆も持てまい。と思っていたら、業斗童子は、前足をインクに浸し、五嶺様の魔法律書にぺたりと乗せた。
紙の上に、猫の足跡がちょんと押されている。これで登記は完了だ。
かんわい〜。
なんかそんなほのぼのした雰囲気があたりに漂った。五嶺様の顔も満足そうだ。
五嶺様に濡れた手ぬぐいで優しく前足を拭ってもらいながら、業斗童子が俺に話しかける。
「達磨、貴様もお手柄だぞ。お前を見ていたら、我も陀羅尼丸に使えるのも悪くないと思ったのだからな」
猫に上から物を言われる俺って一体……。と思ったが、俺は卑屈に微笑んでおいた。ちきしょーもう五嶺様のこと陀羅尼丸呼ばわりかよ。うらやましい。
俺の卑屈な笑みが消えるか消えないかのうちに、ばささっと羽音が聞こえた。
「いやいや、面白いものを見せていただきましたぞ! 業斗殿も五嶺殿も見事、天晴れ天晴れ!」
手にうちわ、片刃の高下駄で興奮した様子で駆け寄ってきたのは、五嶺様が最初に呼び出した使者。ちなみにこのカラス天狗ならぬニワトリ天狗(?)は、最初鳴いただけで、あとは「そら、そこだ!」だの「ああっ、惜しい」だのと、楽しい観戦をしていただけだった。
「お前さんもご苦労だったねぃ」と五嶺様にねぎらいの言葉をかけられて、胸をぐいとはって誇らしげにしている。
なんだここは、動物園か??
疲れでぐったりとしている俺は、猫が喋り鶏が服を着るという非現実的な光景をぼんやりと見ていた。
業斗童子にやられた傷からじくじくと血がにじみ、俺は鈍い痛みに顔をしかめた。
業斗童子はしばしごろごろと喉を鳴らしながら五嶺様に撫でられていたが、やがてすっくと立ち上がった。まるで挨拶するように五嶺様の手を舐めて優しく甘噛みし、門の向こうへ消える。
ミッションコンプリートだ。
周りのみなも、一仕事終え安堵のため息をつく。
「若、よう我慢されましたなぁ」
にこにこと笑いながら魔具師の爺が言った言葉に頷く五嶺様の顔が引きつっているので、俺は首をかしげた。
登記を終えた五嶺様は、一言も喋らずに、余裕なさげに足早に自室へ急ぐ。俺も小走りでついてゆく。今日は相当煉を使い果たした。この後、布団に潜って泥のように眠るはずだ。
自室の入り口で、不意に五嶺様が崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「ご、五嶺様!」
慌てて俺が膝を付き五嶺様に手を差し伸べると、五嶺様が俺の手をぎゅっと握った。
「エビス、もう、駄目だよぅ……」
俺をすがるように見つめる五嶺様の目がとろんとしている。先ほどの凛々しさはかけらも無い。
顔を上気させ、肩で息をする姿のなんと色っぽい事か。
な、何が? 一体何が?
俺はパニックに陥った。
「エビスぅ……。んっ」
ああ、そ、そんな甘い声で俺の名を……。と、どぎまぎしていたら、一匹の猫が五嶺様に近づき、ふんかふんかと着物の匂いを嗅いだと思うと、その場でごろんと転がった。
だらしなく酔っ払ったように、五嶺様のお着物に身を擦り付ける。
あっ!
さっきのあの粉、マタタビか!
俺はようやく理解した。五嶺様が投げたのは、マタタビの粉だったのだ。まさか五嶺様にまでその効き目が現れてたとは!
魔具師の爺の言葉がやっと判った。部下に醜態は見せられぬと五嶺様はずっと耐えてらっしゃったのだ。きっと自分の部屋の前にきたもんだから、安心して緊張の糸が切れてしまったのだろう。
「は、早く寝てしまいましょう。朝になれば戻るはずですから」
「ぅん……」
俺の言葉に、五嶺様は子供のように素直に頷く。
か、かわいい……。
立ってられないらしく、四つんばいで部屋に入ると、五嶺様はあらかじめひいてあった布団に寝転がった。
目をうっすらと開け、唇をかすかに開き、布団の上でぐったりと横たわる姿のなんと扇情的なことか……。
「ぬ、脱がせますよ」
俺は声をかけ急いで袴の紐を緩める。五嶺様はかすかに身じろぎして、俺が袴を脱がせやすいようにしてくれた。
俺がそうするのは珍しい事ではないのだが、今日ばかりはなんだかいけないことをしているような気になって仕方が無い。
足袋を脱がせ、上物を脱がせ、襦袢姿にするとだいぶ楽になったらしい。本当は寝巻きに着替えさせたいところだが、それは無理そうだ。仕方が無いがこのまま寝てもらおう。
「では、お休みなさいませ」
正座で深々と頭を下げ、立ち上がろうとすると、五嶺様がじっと俺を見ていた。
「エビス……」
「はい」
「お前、傷だらけだねぃ」
俺の顔にも体にも、業斗童子につけられた引っかき傷があちこちにあった。戦っていた時は気がつかなかったが、今はじんじんと痛む。
呟くように小さくそう言って手を差し出すので、思わず手を伸ばすと、五嶺様が俺の手を取り、口元へ持っていく。
ぺろ……と一舐めされた後、はむっと優しく甘噛みされた。
え!?
俺の心臓が一瞬止まりそうになった。
それで力尽きたのか、五嶺様はすうっと目を閉じてしまう。
い、今のはありがとうだ。
猫のありがとうだ。
呆然と俺は五嶺様に甘噛みされた自分の指を見つめた。五嶺様の歯型かかすかに残っている。夢じゃない。
五嶺様、俺に素直にそんなこと言う(?)なんて、よっぽど酔っ払って訳わかんなくなってるんだなぁ。
あ、でも、嬉しいぞ。かなり。
嬉しくて、じわっと涙が浮かんできた。
俺なんかに、本当にもったいない。
五嶺様のお役に立てたこと、五嶺様にありがとうって言ってもらえたこと、思わぬゴホウビがもらえた事。みな嬉しい。
五嶺様に噛みされた指先がじんじんとしびれて熱を持っている。ちろっと動いた五嶺様の舌の赤い色や、柔らかい唇の感触が生々しく残っている。
大きすぎるご褒美を頂いてしまった。
ぼけーっと俺は五嶺様の部屋の前で立ち尽くしていた。
きょろきょろとあたりを見回して誰もいないことを確かめると、そっと指先を唇へ持っていった。
終
20060714 UP
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