「手下が騒ぐから来てみりゃ、珍しいお客さんだぜ。どうやってここに来た?」

 突然現れた余所者を見て、赤い肌をし、鎌を持った悪魔は驚きもせずに笑った。

 イサビのいた地より、遠い遠い西の地獄の悪魔だ。





 厚い氷で出来た円の中にまた氷の円がある。

 外から、カイーナ、アンテローナ、トロメーア、ジュデッカ。

 全部で四つの同心円状の氷で取り囲まれた中心のまた中心、地球の重力が全て集まるところに、魔王ルシファーが氷に半身を埋め、鎖で繋がれている。

 この地獄の最下層へは、地獄の門を通った後、さらに八つの地獄を潜り抜けてこなければ来られないのだが、地獄の再奥に一人立つイサビは息一つ乱さず、目の前に立ちふさがる赤い悪魔を見つめている。

「大したもんだ、第九地獄まで入ってくるとはね。ここまでくるなんざ、六王並の力を持ってると思って良さそうだ」

 あからさまに怪しい侵入者を捉えようとはぜす、その悪魔は、おかしなことに面白がって話しかける。

「東から黒い髪の女がここへ来たじゃろう。知らんか?」

「ストレートだね、あんた。永遠の淑女を探してここへ来たって訳かい?」

 からかうように言ったが、イサビはにこりともしないのを見て肩をすくめ、赤い肌をした悪魔は少し考えて口を開く。

「ローマ教皇がまだイノケンティウス三世だった時に、東から黒髪で黒い目のえらく綺麗な女がここに来たぜ。ありゃ、あんたの女?」

「その女が傲慢で腹黒の生意気な奴だったら間違いなくわしの女じゃ」

「あー、じゃ間違いねぇかな」

 癖毛をくしゃくしゃとかき回しながら頷く。

「その女が地獄の馬に乗っていきなり押しかけてきやがったんだ。誰が女に星を動かす魔法律を教えたのかって大騒ぎさ。地上が荒れれば地獄も困るだろうって、舌先三寸で自分が星の歪みを直す要になることを承諾させやがった。いくら星を動かした罪と相殺するったって、大した女だよ、自分でコキュートスに入っていきやがったんだからな」

「こきゅうとす?」

「ここだよ。涙も凍る第九地獄コキュートス、『嘆きの河』ってんだ。一番罪の重い罪人が閉じ込められる地獄さ」

 とん、と持っていた鎌で厚い氷をつく。捕らえなければいけない相手に親しげに話しかけるこの悪魔も、また非凡だった。

 摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄のようなもんじゃな。とイサビが想像する。イサビのいる地にある八寒地獄の最下層だ。大蓮華地獄という別名は、寒さのあまり亡者の肌が破れて赤くなるところから来ているのだという。

 そのようなところで一体何をしておるのじゃ。と、腹を立てる。

「今度はこっちが質問するぜ。どうやってここまで来た?」

 イサビが指差した先に、穴が開いているのを見て悪魔が絶句した。

「まさかと思うが、氷に穴を開けてきたんじゃないだろうな?」

「そのまさかじゃ。こそこそと道を通るよりは氷をぶち抜くほうが早いじゃろうと思ったのが当たったのう。まあ難儀はしたがの。ぬしらも意外と無用心じゃの」

「冗談じゃねェ! こんな事知れたら管理不行き届きで俺が処罰される! 頼むから早く用件済ませて帰ってくれよ。氷の穴は俺が塞いどいてやるからさ!」

「じゃが、地獄の抜け道の事はこの本に書いておったぞ」

 イサビが懐から取り出した本を見て、悪魔がさらに目を見開いた。

 なぜそんなものを持っているといぶかしみながらページをめくると、みるみるうちに顔色が変わった。

「グリモワールじゃねぇか! なんだってこの書をあんたが持ってるんだ。コイツは、悪魔の大公爵、アスタロトの書庫から盗まれた、相当の代物なんだぜ……」

 これはやべえ。と悪魔が首を振る。地獄の秘密を書いたこの本が地上に出たのもまずいが、よそ者のイサビに見られたのは輪をかけてまずい。

「なるほどな、その本で禁魔法を知ったんだな。女をそそのかしたあの三下にアスタロトのコレクションが盗める訳がねぇんだがな〜。てっきり盗んだのはあの仮面野郎かと思ったが、違ったのか……」

 自分の世界に入り込み、ぶつぶつと呟く。悪魔に放っておかれ、短気なイサビが苛立った。

「そんな事情は知らんしどうでもいいわい。それより陀羅……いや女はなんの罪でここに堕ちたのじゃ?」

「罪というか……、星を動かした代償にさ、あの女は地球の重力を司る場所で要になってるんだ。星がゆがみを治すまでな」

 立ち話もなんだし、座ろうぜ。とその悪魔はイサビに向かって友達のように言い、イサビを氷の影に手招きした。寒いよなここ。と愚痴ると、イサビが無言で酒壷を差し出す。先ほどから目をつけていたそれを嬉しそうに受け取り、悪魔は酒壷の中身をぐいと煽った。

「何があったか大体は聞いているぜ。あんたの女、損をしすぎたね。大した力もねぇ三下が分不相応な仕事を請け負いやがって、星の運行をそうとう歪めちまったんだからな。いつ出られるかは女次第だけど、あと百年や二百年じゃとうてい無理だ。下手したら千年以上かかるほどゆがめちまったからな。でもまぁあの女ならきっと早いよ」

 ん、美味い。この酒は面白い味だ。とイサビににやりと笑うと、悪魔は上機嫌で話を続ける。

「野郎、こっちで相手にされねェもんだから、他所の縄張りにちょっかい出してるって話は聞いてたんだが。女はなんであんたがいるのにわざわざ西の三下と契約したんだ? あんな仕事、あいつに出来るはず無いんだが、やりやがったって事は、よっぽど女の体が良かったのか、他に誰か手を貸した奴がいるか……。ま、真相は闇の中だ」

「女を返せ」

 不機嫌な声で言ったイサビに、相手は眉をひそめた。

「返すも何も、その女が自分で選んだんだぜ? 地上がどうなろうと知らねぇが、氷を壊されるのは困る。この氷の底にゃ、俺の大将もいるんだ。氷を壊す気なら、俺はアンタを阻止する」

「わしを見逃しているのはなぜじゃ?」

「あんたは敵じゃない。ここを攻撃してやろうって気なんかねぇ。用さえ済ませりゃいいんだろ? 興味が無いのは見て判るよ。まー俺も面倒には巻き込まれたくない」

 そう言って肩をすくめた。

「俺は女に一目置いてる。美味い酒も貰ったし、あんたとは戦りたくねぇんだ。それでもやるかい? 別にこっちは構わんぜ。次期悪魔長と名高い俺とやりあうやつはここらへんじゃ居なくてな。ちょうど退屈してたところだ」

 肌身離さず持っているらしい鎌を撫でながら、悪魔は好戦的な目で言った。まるで喧嘩を楽しむ悪戯っ子のような口調だったが、手元の鎌は幾多の血を吸って黒光りしている。

 こやつ、かなりの手練じゃな。

 イサビのすっと細めた目に殺気が宿った。

 いくら自分でもこいつとやり合えばただでは済むまい。侵入者である自分をすぐに捕らえぬのは、それなりの自信があるからなのだ。と判断する。

 イサビが口を開きかけると、天井からさあっと明るい日が差した。思わず二人で上を見上げる。

「おっと、あんた運が良い。見ろ、光が差してきた。ひとつ取引をしようぜ。グリモワールを返してくれれば、あんたの女を見せてやる。あ、あそこにいる六枚羽のが俺の大将だ。天井の穴は、大将が天国から堕とされた時に開いた穴さ。ルシファーって知らないか?」

「興味ないの」

「ストレートだね、あんた。……ま、いいや」

「その本ならもう要らぬ。全て頭に入っておる」

「本当かよ……。あんた、こっちの地獄の秘密を知っちまったとばれたら総力をあげて消されるぜ」

 頭を振りながら、自分の部下らしき小さな悪魔達に何事かを言いつける。あたりを羽ばたく悪魔たちに巨大な鏡をいくつも持たせ、空中でその角度を調整すると、天からの光を鏡が増幅し、強い光となって氷を照らした。厚い氷が、光を当てられて透きとおり、奥まで見えるようになる。

「ほらあそこ。地上の重力を司る場所にあんたの女は居る。押さえつけられた力を少しづつ解放して、正常に戻してるんだ」

 指差した先に姿を認めると、イサビが目を見開く。

 陀羅尼丸!

 白い直衣姿は、夢の中で会ったままだった。

 イサビに付き従っていた山の怪の一匹が飛び出し、小さなこぶしで氷を叩く。イサビに、早く氷を割ってくれとキーキー催促するが、イサビがゆっくりと近づくと、陀羅尼丸との間を邪魔せぬように静かになる。

 両手を軽く広げている。右手と左手に日輪と月輪を持ち、巨大な魔方陣の中心で静かに横たわっているのは、紛れも無く自分の腕の中からすり抜けた女。自らが魔方陣を構成するパーツとなり、気の遠くなるほどの時間を氷の下で過ごす。

 髪を束ねる紐を無くしたのか、髪は解け、扇状に広がっている。その表情はぴんと張った糸のように緊張して厳しいが、とても美しかった。

 厳かで美しいその姿は、完成された一枚の絵を思わせる。

「良い女だったんだな。アンタほどの男にここまで追っかけてきてもらうなんてな」

 食い入るように女を見つめるイサビの表情を見て、赤い肌にくせっ毛の悪魔はからかうように言った。

「せっかくはるばるとここまできたんだ、教えてやる」

「ぬしはすいぶんとお喋りじゃな」

「俺、けっこう好きなんだそういうの」

 悪魔なのにキューピッドなんて気持ち悪ィ! とげらげら笑って悪魔は続ける。

「女がここへ来たとき、あんまり平気な顔をしてるから、怖くねぇのかって聞いたんだ。なんせ、地獄の氷の下に千年だぜ? びびらねぇほうがどうかしてる。そしたらな、その女、笑いやがった」

 その時の驚きを思い出したのか、声に熱が篭る。

「逢いたい情人がいる。千年経てばその人に逢えると思えば耐えられる。だとさ。あてられるねぇ」

 その言葉に、イサビが一瞬目を見開いた。しばし目線を彷徨わせ、何かを考え込むように目を伏せる。

 自分の言葉が、思い通りの効果をもたらしたことをその顔を見て察し、悪魔がにやっと笑い言葉を続ける。

「『今は許してもらえないだろうけど、千年もすれば、アタシの愛したひとはアタシを忘れるから、その時に逢いにいく』んだとさ。大事な女なら、待ってやりなって。無理やり起こしたって、嫌われるだけだぜ。なにも永遠の別れじゃないんだ、あとでいくらでも女に償ってもらえばいいじゃねぇか?」

 伏せていた目をあげたイサビの顔を見て、悪魔はにやっと好戦的に笑った。

「それでも、やるかぃ?」

 ずっと黙り込んでいたイサビが、呆れたように首を振って口を開いた。

「ほんに身勝手で我侭な女じゃ。このわしに千年待てじゃと? ふざけおって。これほど近くにおるのに、抱けぬなど……!」

 厚い氷が二人を隔てる。イサビがやろうと思えば、その氷は砕くことができるだろう。

 だが、二人の間にあるものは氷だけではない。

「うつけじゃ……。わしは相当なうつけじゃ。ああくそ、腹が立つ」

 ぶつぶつと独り言のように呟き、八つ当たりのように悪魔をぎろりと睨んだ。

 その目の恐ろしさに、一瞬悪魔がひるむ。

「好いたおなごの言う事じゃ、それぐらい笑って聞いてやろうではないか、ええ? 寛容な心での!」

「こ、怖いよあんた……」

「わしがどれだけ想っておるか、思い知るがいいわ……。絶対に逃さんからの。陀羅尼丸はわしの女じゃ!」

「ああ、その。ごちそーさん……」

「ぬしの厚意には感謝するぞ。わしはこのまま帰る。ずいぶんと騒がせたな。そんなものしか礼ができぬが酒はもらってくれ」

「なんで人間の女を選んだ? なんで人間の女をそんなに愛したんだ? って最初不思議だったけど、愚問だった。あんたらお似合い。あんたが凄く辛くて苦しんでるのはわかるんだけど、でも、なんか羨ましいな」

 きっと……と悪魔は続ける。

「何度生まれ変わっても、女はあんたに恋をするよ」

「あんな女、受け止めてやれるのはわししかおらん」

 イサビがきっぱりと言うと、あんたたちにゃほんとあてられるよなーと悪魔がまた頭をかいた。

「そんなに好きなのに何度も失うの怖くないのか?」

「もう二度と失わぬ」

「あんたほどの男がこうと決めたんだから、そうなるんだろうな」

 人に恋をした地獄の住人が愛するものとずっと側にいようと思えば、可能な限り意思を残した状態の魂を、天へ行かさず自分の元に留める。ということがまず頭に浮かぶ。それだって完璧ではない。肉体を失った魂の劣化は避けられない上、魂のままいつまでも成仏できず現世に縛り付けられるという状況が辛くないはずが無い。……しかも、輪廻の輪に還るべき魂を手元に置くのは大罪。

 そんなこと、イサビも十分判っているだろう。

 これほどまでに愛している相手を、そんな辛い状況に置くはずが無い。と思う。

 ならどうする。

 女を自分と同じ不死にでもするか?

 こいつなら、本当にやるかもしれねぇな。

 小さなこぶしで氷をたたき続ける山の怪をつまみ上げるイサビの後姿を見ながら悪魔は思った。

 できるはずが無い。と普通なら一笑に付す所だろう。だが、悪魔はイサビが元は人間の身で不死を得たという事は知らなかったにも関わらずそう思った。

「そっとしておけ……」

 嫌がって暴れる山の怪が、イサビの表情を見てはっと動きを止める。

「陀羅尼丸は、いずれわしの元に戻って来る。しばらくの辛抱じゃ」

 自分に言い聞かせるようにイサビはそう言う。

 誰が一番辛い思いをしているのか悟った山の怪は、力なく頷いた。









 山に沈む夕日が、荒れ果てた庵の縁側に座るイサビを照らし、茜色に染めた。


 日が昇り、日が沈んで一日。

 春が来て、夏を迎え、秋が過ぎて冬になり、また春が来て一年。

 心が浮き立つような色の山桜が咲き、目の覚めるような新緑が山を覆い、鮮やかな紅葉が山を染め、静謐な白が山を覆う。

 それを気が遠くなるほど繰り返す。

 

 人の世に戦が起き、飢饉がおき、帝が何代も代替わりする。

 滅び、生まれ、再び滅び。

 輪廻の輪が周り再び生まれ変わるのを待つ。


 あなたに会いに行く。という言葉を信じて。


 いつ来るのか、いつ来るのか待てども、ぬしは、まだわしの前に姿を見せぬ。

 待てと言うたのは、ぬしではないか陀羅尼丸。


 あれからまた数百年が過ぎた頃、数えるのを止めた。


 もう、待つのは飽きた。


 本当にわしがぬしを忘れれば、ぬしはわしに会いに来るのか……?

 わしはぬしを許さぬぞ。絶対に忘れてなどやるものか。


 思い出を、記憶の底に錘をつけて沈めてやろう。ぬしを騙すために。


 来い。


 ぬしの事を忘れたふりをしてやるから、来い。


 早く。

 早く……。


 意識が沈んでいく。

 日はとうに沈み、墨を流したような闇がイサビを包む。


 うとうととした後、ふと気がつくと、暖かな女の膝に頭を載せているのに気がついた。

 唐衣を身に付けた女が、イサビに膝枕をして、優しく髪を撫でている。

 生きている女ではない。

「少し、眠る」

 疲れた顔で言い、イサビは目を閉じた。


 目が覚めればぬしの事は忘れる。




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