「千年……!」

 うめくような声がイサビから漏れる。

 天には、二人で見上げたあの時と同じ月。だけど今、人影は一つ。


 一目見たときから欲しいと思った。

 ただ美しいというだけならば、ここまで心惹かれなかった。

 どんな女とも、どんな男とも違った、特別な光を放っていた。

 本当は気を引きたくて、でも自分ではほんの気まぐれのつもりでからかうと、ひどく噛み付かれてもっとちょっかいを出したくなった。

 子供のように珍しいものを欲しがっただけだと思っていたのに、気がつけば愛していた。後には戻れぬほどのめり込んでいた。

 泣かせたし笑わせた。怒らせたし、身も心も喜びで満たしもした。その逆も然り。

 女の癖に、男のようにイサビと張り合い、かと思うと、どんな女より優しくイサビを抱きしめた。

 たおやかで優雅。月の様に美しい外見とは裏腹に、腹黒く残酷で、あんな激しい女はいないとイサビが呆れるほどの気性。


 あんな女は二人とおらぬ。

 それを、失ってしまった。


 花びら舞う桜の樹の下、差し向かいで酒を酌み交わし、漢詩や書についての議論を戦わせた。

 共に夏の夜をすごし、明ける朝を恨んだ。朝もやの中、互いの衣を交換して、口付けて判れた。

 竹林へ続く道をゆく後ろ姿が、目を閉じれば瞼の裏に鮮やかに浮かぶ。

 心と心をぶつけて、血も涙も流してようやく思いを確かめ合ったのも。

 陀羅尼丸が震えながらくちづけを受け入れたのも、イサビが初めて抱いてやった夜も。

 イサビ殿だけが女のアタシを愛してくれたと照れたように笑った顔も。


 何一つ忘れない。

 だが、思い出はもう一つたりとも増える事はないのだ。


「あの時すでに、心を決めておったというのか」

 最後に口付けた時のことを思い出し、イサビの目から涙が伝った。

 酒を飲んでも飲んでもちっとも酔えない。体が冷え切って、暗く深い海の底に一人でいるように寂しい。

「なぜ、気付かなんだか」

 自分を責める声。

 冷えた体を温めてくれる、柔らかく温かな体はもう失われた。魂すらも手の届かぬ遠くへいってしまった。

「力尽くにでも浚ってしまえばよかったのじゃ」

 呟いたイサビの手から、朱漆で塗った杯が力なく落ちる。

 こんな事になるくらいなら、心を封じて、わしの事しか見ぬ人形にしてしまえばよかったのか?

 だが、そうできない事をイサビが一番良く知っている。陀羅尼丸は、陀羅尼丸だから愛したのだ。自分に逆らうような激しい女だからこそ。

「か弱き人間の癖に。なぜ、わしの言う事を聞かぬ」

 人を捨て、人々が怪の物と呼ぶ存在になってはや数百年。

 永遠の命を得て、地上と地獄を行き来し、強大な力を手に入れた。

 望むものは全て手に入り、怖いものなど何も無いと思った。

 それが、自惚れであった事をまざまざと思い知らされる。

 どんなに強い鬼を使役しようが、地を揺らし、悪霊を放って世を騒がせようが、女一人守る事も出来なかった。


 傲慢であったのはわしじゃ。


 何度も呪詛のように呟く後悔の言葉。たとえ何が起ころうと自分ならなんとかできるとたかをくくっていた。

 こんな事になるなど夢にも思っていなかった。

 自惚れるあまり、普段なら目もくれぬような格下の相手に足をすくわれたのだ。


 なんという傲慢じゃ。なんという愚かな自惚れじゃ。


 イサビが呟く。


 陀羅尼丸の封じられた地獄は、わしの行く事の叶わぬ外つ国。凶悪な地獄の植物が生い茂り、地獄の門は十八の守護印に守られて手も足も出せぬ。今のわしでは門に近づくのが精一杯。

 どうしようもない。ただこうやって、腐っている事しか出来ない。

 ひたすら待つことしか。

 真っ黒な絶望が、口をあけてイサビを飲み込んだ。

「人間は嫌いじゃ」

 呻くような言葉が漏れる。何も出来ない自分が情けない。

 深く暗い悲しみが、ゆっくりとイサビを蝕む。

 深海に落ちてゆくように、ゆっくりと意識が遠ざかり、瞼を閉じた。

「もう関わるものか……」

 冷たい、寒い。

 もう目覚めたくない。

 どこまでも深い絶望の海を沈んでいく。

 目を閉じたイサビは、ぴくりとも動かなくなった。

 ただはらはらと桜の花びらがイサビの上に降り積もる。


 桜の花が散り、代わりに叩きつけるような雨が山へ降った。

 桜の木の下で動かなくなったイサビの体の上を水滴が流れる。

 雨がやんだ。

 イサビはまだ動かず、手の上を虫が這って行った。

 やがて一羽の鳥がその虫を咥え、飛んでいった。

 狸だの、狐だのの肉を食らう獣が、イサビのはらわたを食いちぎった。イサビはまだ動かない。

 鳶が鋭く鳴いて狐を追い払い、目玉をえぐる。イサビはまだ動かない。

 イサビの体にはますます多くの虫が這った。

 やがて山の獣がイサビの体を食らいつくし、骨の周りにわずかに残った肉も、蝸牛だの蛆虫だの、地を這う虫どもが全て命の糧にした。

 あとは綺麗に残った骸骨が雨に打たれ、風にさらされた。イサビはまだ動かない。

 一体何百年そうしていたものか。

 日に照らされ雨が降って風が吹き、骨がぼろぼろに崩れ落ちて、イサビの全てが地と交じり合う。


 体が朽ちるままにしていたイサビは、自分の体が獣に食われ、虫に食われ、少しづつ、少しづつ地に還っていくたびに、自分が地中深く潜っていくのを感じていた。

 イサビの体は分解され、菌糸のように広がっていく。

 目玉は失われたが、外の様子は手に取るように判った。菌糸が広がる山中を、いや望めば山の外の様子も空の上のこともイサビにはわかった。

 肉体を捨て、地に還ったことで、イサビは自由になった。イサビの体は菌糸となって山を覆い、意識は今まで来た事もない地中深くへ、地中深くへと潜ってゆく。

 なにか目的があったわけではない。ただ深く落ちていった。

 己を細かく分解し、思念体となって土に沈んでいったイサビは、やがてざわめきに触れた。

 ざわざわ、ごにょごにょと沢山の人間の話し声が蠢いている。


 ざわざわざわ。

 ごにょごにょごにょ。

 死ね死ね死ね死ね。

 恨む恨む恨む、恨むぞ。

 妬ましい。なんて妬ましいんだろう。ああ妬ましい妬ましい妬ましい。

 

 しまった! と思った瞬間。


 うゎん! とイサビの周りを人の思念が取り囲んだ。

 沢山の虫が頭の中でぶんぶんと唸るように、男や女の醜く歪んだ顔、汚い罵り声がイサビの中に流れ込み、取り込もうとするのを反射的にはじき返す。

 淀んだ泥のようにイサビにまとわりついた思念がばっと弾き飛ばされ、そのあまりにも邪悪な気配に、数百年ぶりにイサビは意識を纏めた。

 

 目の前に、真っ黒な塊があった。恐ろしいほどの巨大な塊。

 ぐねぐね、ぐにゃぐにゃと行き場のない思念が蠢いている。


 気を抜けば、すぐに恐ろしい負の力が粘菌のように体を伸ばしてイサビを引き込もうとする。強い力を持つ思念体となったイサビを食らって、自分の一部にしようとする。

  

 なんじゃこれは!

 凄まじい破滅のちからぞ。


 目の前に広がるもののおぞましさに総毛立つ。


 地中に、これほどの力が眠っていたとは……!


 ざわざわざわ。

 ごにょごにょごにょ。

 死ね死ね死ね死ね。

 恨む恨む恨む、恨むぞ。

 妬ましい。なんて妬ましいんだろう。ああ妬ましい妬ましい妬ましい。


 恨み、つらみ、呪い、妬み、無念の思がイサビに強く伝わってくる。

 少しづつ、少しづつ、誰にも気がつかれぬまま、それは地中深くに澱のように溜まっていたのだ。

 ぐねぐね、ぐにぐにと、その塊はイサビに向かって盛んに動いた。まるでイサビに見つけられたのを喜んでいるように。


 これは……。

 目の前にあるもののあまりのおぞましさに驚いていたが、イサビはすぐに平静を取り戻した。

 規模は小さいが、同じものを知っている。

 人間の心の底に沈む澱。負の力。

 これは怨念……じゃな。

 イサビがその正体に気がつく。


 無尽蔵に湧く、破壊のちからが地の底に蠢いている。


 人から湧き出た怨念はより多くの怨念に引き寄せられ、大きく、大きくなっていく。まるで粘菌のように、怨念の塊は延びたり縮んだりしながら、地の底で巨大化し、はけ口を探しているように見えた。


 力じゃ……。

 

 絶望のあまりただ無気力に漂っていたイサビに、一つの欲求が生まれた。


 力が欲しい。


 自分を変える力が。


 心の奥底でずっと望んでいたものがここにある。 


 目の前で不気味に蠢く、どす黒い塊。人の中から吐き出され、誰にも省みられる事無く溜まっていった悪意の塊。


 目の前にあるこのおぞましいものを食らいつくし、さらなる化け物になってやろうではないか……!


 それは一種の賭けだった。肉体という殻を取り去り、自由になったが、その代わり、イサビの思念はむき出しになり無防備にさらされている。へたをすれば、力を得るどころか逆に怨念に取り込まれる。


 周りにある異物を全て取り込み、一体化しようと蠢く負の力の中心へイサビは飛び込んだ。


 

 山には嵐が来ていた。

 びゅうびゅうと風が吹き荒れ、雨が山の斜面に激しく叩きつける。

 恐ろしい音を立てて、雷があたりを昼間のように明るく照らした時、不意にぼこっと土が盛り上がり、人の手が生えた。

 雨に洗われながら、手だけでなく全身がずるりと地上へ這い出す。

 再び大きな雷鳴がとどろいたかと思うと、天にひびが入ったかのように稲光が光り、雷が落ちた。

 辺りが白く浮かび上がる。

「数百年ぶりの地上の雨じゃ!」

 激しい雨に打たれ、泥を落としながら、イサビが高笑いした。何も身に付けてはいないからだが雷鳴に照らされ、白く発光しているように見えた。

 いつのまにか、山がざわめいている。

 王の帰還を察した山の怪どもが、数千、数万と集まってきたのだ。

 闇の中で物の怪の気配がざわめく。

 あっというまに雨が嘘のようにやみ、月が出た。

 イサビがぶるっと体を震わせると、水が飛び散り、体が乾く。

 しずしずと山の怪の一匹が進み出て、恭しくイサビに衣を捧げた。

「待たせたのう。じゃがもう心配は要らぬ」

 衣に袖を通しながら、イサビはあたりを見回し言った。イサビの言葉に呼応して、山の怪どもがぐわっと喜びの声を上げる。山の怪の喜びの声が木霊し、うわんうわんと響いて山を揺らす。

「わしはぬしらの元へ還って来たのじゃ。無尽蔵に湧く、破滅の力と共にのう」

 イサビの言葉を聴かずとも、山の怪たちは、自分たちの王が以前とは比べ物にならぬほど力を増していることに気付いていた。


 山の怪たちのいつまでも続く歓喜の声は、山を揺らしながら木霊し、朝日が山を照らすとようやく収まった。




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