後ろから小気味よい音がする。

 地を駆ける馬のひづめの音。かなりの乗り手じゃな。とぼんやりと思った時、不意に名を呼ばれて振り向いた。

「イサビ殿!」

 馬上で手綱を引き、嘶いて立ち上がる馬を宥めながら声をかけた女は、陀羅尼丸だった。

 見たことのない馬具をつけた、闇のように黒い大きな馬に跨っている。

「陀羅尼丸、何事じゃ?」

「不躾に夢の中へ入り込んだのをお許し下さい。一目だけでもお会いしたくて」

 切羽詰った様子で早口で言うのに不吉を感じ、イサビは顔を険しくした。

「イサビ殿、アタシ、勤めを果すため西へ行かなければなりません。お別れを言いに参りました」

 全速力で走っていたところを止められ、興奮している馬のひづめの音に陀羅尼丸の声がかぶさる。

 夢じゃと。とイサビは呟いた。あたりは一面濃い霧に覆われ、自分と陀羅尼丸以外にはなにも見えない。

「別れとはどういうことじゃ。西へ行くじゃと?」

「そう、地獄へ! あやつに捕まらないように、地獄に逃げ込むんですよぅ!」

「地獄へなど何を考えておる! わしが守ってやるからどこにも行くな!」

 イサビが叫ぶが、陀羅尼丸は首を振る。

「お言いつけに逆らい、挙句にてめぇのしでかした事に落とし前も付けられずにぬけぬけとイサビ殿の隣にはいられません。自分が許せないんですよぅ」

「下らぬ見栄を張るな! わしの元を離れるなど、絶対に許さんぞ!」

 吠えるように叫んだイサビに、陀羅尼丸は辛そうに顔を背け答えなかった。

「アタシは自分のしたことに落とし前をつけてきます。イサビ殿、二度もお言いつけに逆らって申し訳ありません。アタシ、自分の勤めが終われば、きっと、イサビ殿にお許しを乞いに参りますから。アタシの勝手な我侭、許してくださらないとは思いますが、きっと会いに行きますからねぃ……!」

 もう行かなければ、あやつに捕まってしまう。と焦って叫ぶ。

「陀羅尼丸、待て。行くな!」

 手綱を引き、待てと叫ぶイサビを胸が痛くなるような瞳で見つめる。イサビを振り切るように背を向けると、振り向きもせずに馬を走らせた。

 追おうとしても、体が動かない。

 叫ぼうとも声が出ない。

 悪夢。

 焦りと苛立たしさで気が狂いそうになるが、手足が鉛のように重い。

 蹄の音が遠ざかると同時に、意識が再び薄れていった。








 くわっと閉じられた目が開かれる。

 ただ事ではない気配があたりに漂っている。

「何事じゃ!」

 深い眠りに落ちていたイサビがただならぬ気配に目を覚まし、すぐに立ち上がると叫んだ。すでに異変を感じ不安がった山の怪がイサビの周りへ続々と集まって来ている。

 予感を感じ、イサビが庵の外へ出ると、外は逢魔が時のようにほの明るい。

 空を見上げたイサビが呻く。

 禍星が消えておる……!

 不気味な赤気が空に揺らめく。月の位置が示すのは真夜中だというのに、天は不吉な赤い色をしており、強い風に雲が早く流れる。

 それが意味する事は、ただ一つ。

 先ほどの悪夢が脳裏に蘇り、爪が食い込むほどこぶしを握り締めた。

「地が呻いておる。天がのたうっておる……。ぬしの仕業じゃな、陀羅尼丸!」

 地を這うような低い声。イサビの周りの空気がざわざわと震え、肌の上に見る見るうちに班が広がる。

 山神の怒りに、キイキイと山の怪が不安と恐怖の声をあげた。

 両の眼は瞬きもせずに空を見上げている。瘴気が濃くなり、イサビの立っているあたりを中心に、大小さまざま、赤や茶色の茸が急速に顔を出し、恐ろしい速さで広がって行った。

 額には第三の目がひらき、微動だにしないイサビのなかで唯一血走った目玉がぎょろぎょろと動く。

 あれほど止めたと言うに!

 声にならない言葉が、念となってイサビから放たれる。そのあまりの強さに中てられ、強風に吹かれたように物の怪たちがばたばたと倒れる。

 怒りと、止められなかった自分への不甲斐なさが体内を荒れ狂う。

 それでも正気を保っていられたのは、陀羅尼丸の身を案ずる気持ちのほうが強かったからだ。


 どろっとした赤い空に浮かぶ、あばただらけの巨大な月。

 嘲るかのように、どんよりと陰鬱な光をイサビに投げかけていた。






 

 五嶺の総本山でイサビが見たのは、床に描かれた見たことも無い陣の上で、白い直衣を抱きしめて涙を流す小男の姿だった。

 頭首の悲願は果されたはずなのに、五嶺一族は涙に濡れ、あちこちで嗚咽の声やすすり泣きが漏れる。

 陀羅尼丸はどこじゃ。と問うても首を振るばかりで話にならず、わきおこる嫌な予感を振り切るように早足で、陀羅尼丸から片時も離れる事が無かった側近のエビスを探す。

 神降ろしをしていた時そのまま、まだ焚いていた香の香りが漂う本堂でイサビはエビスを見つけた。

 直衣を抱きしめたまま呆けたようにしていたかと思うと、わっと泣き叫ぶ。

「エビス! 陀羅尼丸はどうした!」

 子供のように泣きじゃくるエビスの首根っこを捕まえ、イサビは乱暴に転がした。エビスと呼ばれた小男はイサビを見つけると、責めるような目でじいっとイサビを見つめる。

 見覚えのある白い直衣と青い袴が床に散らばっている。エビスが思わず離してしまったそれを急いでかき集めて大事そうに胸に抱くと、ふわっとよく知った香りが鼻腔をくすぐった。

 認めたくはない事実を突きつけられる予感に吐き気がしそうだ。

「ご、五嶺様は、禍星を退けるため、御身と魂を犠牲にされました」

 上目遣いで、ようやくそれだけの言葉を振り絞るように言うと、ヒィィィッと悲しげにエビスは泣いた。地獄の亡者の鳴き声よりも悲しげに。

「なにも残ってはないのか?」

「捧げられたのは、五嶺様のすべてです。髪の毛一筋も残さず、全てを捧げられました」

「何者にじゃ?」

「遠い遠い西の地獄より来たという下級の使者にです。イサビ殿には申し上げておりませんでしたが、五嶺様に邪な思いを抱き付きまとっておりました」

 イサビの第三の目にぎろりと睨み付けられ、ヒッとエビスが息を呑んだ。

「も、もちろん、五嶺様は相手になどしておりませんでしたが、ですが、ですが……。俺はお止めしたのですが。この国のものはイサビ殿を恐れ、五嶺様に力を貸してくれるのは、そいつしかいなかったのです」

 この秋津島には、わしに逆らってまでぬしの望みを聞くものはおらん。

 そう言った時の絶望に満ちた陀羅尼丸の顔が思い浮かぶ。

 止めようと思ってやったことがあだになったと知り、イサビの胸に後悔がひたひたと押し寄せる。

 そのような者に頼るほど、陀羅尼丸は切羽詰り、追い詰められていたのか!

 なぜそれに気がつかなかったのかと自分を責める。

「なぜそのような事を聞かれます?」

「知れた事。陀羅尼丸の魂をそいつより取り戻す」

 エビスが問うと、イサビはきっぱりと言い切った。

「…………無駄です」

「なぜじゃ」

「五嶺様は、御魂を捧げられたのではありません」

 エビスは呟いて、エビスの側に転がっていた、見たことのない分厚い本を弱々しくイサビに手渡した。

 赤茶けた山葡萄色の皮の表紙に、金色の文字。表紙にも中にも、見たことも無い西の文字が書かれている。

 エビスが渡したのは、地獄の悪魔の種類や、呼び出して使役する方法、地獄の様子が書かれている、グリモワールと呼ばれる西洋の魔術書だった。

「西の悪魔は、力の代償に、五嶺様の肉体を求めました。殺すつもりはないと言った。でも嘘でした。五嶺様の全てを奴は食らったのです。五嶺様はそうなることを予想していらっしゃったので、地獄の馬と契約し、せめて魂は取られまいと、そして勤めを果されるために地獄へいかれました」

 無表情でグリモワールのページをめくるイサビを見ながらエビスが呟いた。

「五嶺様の御魂は、遠い西にある地獄の最下層、そこの氷の下で星の歪みを封じる要となるそうです。もし五嶺様の御魂を奪えば、無理に押さえつけられた力が弾け、この世に大きな災害をもたらします。五嶺様のご意思に逆らい、五嶺様の御魂を氷の底より奪うのはおやめ下さい。その様な事をすれば、五嶺様はきっとイサビ殿をお恨みになるしょう」

「馬鹿者め、なぜ止めなかった!!」

 エビスが話終わるまで静かに聞いていたが、たまらず怒りに満ちた声で叫ぶと、エビスは悲しげに首を振った。

「イサビ殿とエビスは違うのです。共に滅びよと命じられれば、誤った事と判っていても、俺は喜んで従います」

 ですが! と涙に濡れた目でエビスは怒り狂うイサビを見上げた。

「イサビ殿、俺は五嶺様が肉体の全てを捧げられ、俺の前からかき消すようにいなくなってしまった時に初めて、それが間違いであった事に気がつきました。もし次に五嶺様の御身に危険が迫る事あれば、俺の命にかけても、俺は必ず五嶺様をお救い致します。五嶺様のご意思に逆らってでもです! それが俺の罪滅ぼし……!」

 エビスの目から新たな涙がぽろぽろと零れ落ちる。主を守りきれなかったという後悔と苦しみがエビスをさいなむ。

 主を止められなかったというのが罪ならば、エビスは十分すぎるほどの罰を受けた。

 生涯ただ一人と決めた主人を無くしてしまったエビスの心は空になり、死ぬまで、誰もいない荒野を主の名を呼びながら彷徨う苦しみに苛まれるのだ。

「五嶺様は、お力をお貸しくださらなかったイサビ殿を恨むなと申された。こたびの事は、自身の傲慢が招いた事、ご自分の野心の炎に燃えつくされるのなら本望と仰っておいででした」

 言葉が出ないイサビを、エビスがすがるような目で見て呟く。

「五嶺様の事を、愚かな女だとお思いになりますでしょうか」

 イサビは答えない。

 エビスは再び目を伏せて口を開いた。

「印を結び、神降ろしの呪言を唱える五嶺様は、それはそれはお美しかったのです。ご自分の野心とお命をかけ、何者をも恐れずに突き進むお姿は、魂を奪われるほど美しかったのです」

 黙ったまま立ちすくむイサビの目から涙が一筋流れる。

 内に秘める激しい炎で、自らをも焼き尽くしてしまった女のために。

「好きなように生きて、好きなように死んだのう……。ほんに身勝手で我侭な女じゃ」

「え?」

 黙り込んでいたイサビが突然独り言のように呟き、エビスが急な言葉に首をかしげた。

「わしやぬしを傷付け、地獄に叩き込んだ。だがわしは陀羅尼丸を憎めぬ」

 遠くを見ていたイサビが、ふとエビスを見て小さく笑った。

「愛しておるのじゃ」

 イサビの言葉に、エビスの目から涙がとめどなくこぼれる。

「ありがたきお言葉です。五嶺様は、イサビ殿は絶対に自分を許してはくださらないだろうと……!」

「ぬしは陀羅尼丸の事を許すか?」

「俺はもう一度五嶺様にお会いできるのなら、なんだってします!」

 エビスが叫ぶと、もう一度イサビが笑った。

「そう、あやつは好きなだけ我侭を言えばよいのじゃ。なにをしようと、すべてねじ伏せてやろうほどに……。今度こそ、あの傲慢な女に、わしから離れる事は出来んと思い知らせてやるのじゃ」

 イサビの静かな声に秘められた悲しみの深さと意思の強さ。その力強い声が、取り乱し悲しむばかりのエビスに力を与える。

「イサビ殿が、強い方でよかったです」

 泣き笑いでエビスがそう言い、少し黙り込んだ後口を開いた。

「五嶺様は、俺に五嶺家の後を頼むと言われました。今はそれだけが俺の生きる理由。五嶺家千年の礎を築き、早くお役目を終えて、五嶺様のお側へ行きたいのです」

 顔を上げたエビスの表情は凪いだ海のようだった。今まで涙に暮れていたのが嘘のような落ち着いた顔。自分のする事を思い出し、主の最後の言葉に忠実に従う事を決心したのだ。

 自分のすべき事を見つけ出したエビスは、心の支えを取り戻して口を開く。

「死すれば、エビスは千年でも、万年でも、五嶺様をお待ちいたします」

 千年。

 エビスの言葉に、ぐらりと足元が崩れるような錯覚を覚える。永遠の命を持つイサビでさえも、気の遠くなるほどの長い時間。

「わしは待てぬ!」

 イサビが低い声で唸り、先ほど投げ捨てた本をつかんで早足に去った。


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