◆Woman In Black◆



「止めて」

 女の声が車内の静寂を破った。女は喪服のような黒いドレスを身につけており、髪を高く結い、顔には服と同じ色の薄いベールを付けている。

美しいが、どことなく不吉さが漂う姿が、先の見えぬ今の時代の象徴のようだった。

 市内を走るエレカが女の命令で止まり、女は座席から身を乗り出し、窓から外を食い入るように見た。

 窓の外に、街頭TVの大きな画面がある。その画面いっぱいに広がる街並みは、酷いものだった。

 映されているのは、グラナダの風景だ。けたたましいアナウンサーの声と共に、カメラはグラナダの街並みを映していく。

高層ビルは崩れおち、辛うじて残っているものも、いまにも天からおちてきそうな状態だ。いまだ白煙を上げている建物も多く、それらは下手するとすぐに火の手が上がる。

人々で賑わったストリートは、店は略奪され、ショーウインドウは蜘蛛の巣のようにひびが入り、激しい砲火によって、剥き出しになった鉄筋はひしゃげていた。

道路の表面が皮がめくれるように抉り出され、地面から顔を覗かせた壊れた水道管から水が溢れている。その水に、かつてジオンの兵士だった、今は野良犬のような男たちが群がっている。

かつて美しかったグラナダは、無骨な侵略者によって破壊され、混乱と絶望の渦に巻き込まれていた。侵略者達も、いまだ秩序を取り戻せず、ここでは勝者と敗者の区別ははっきりとしない。

「傷ついたジオンの兵を、連邦軍がなぶり殺しにしている百メートル向こうで、追われるはずのジオンの残党に連邦軍人が殺されています。ここは全くの無法地帯です」

 緊張した面持ちで、アナウンサーがそう言った。

ジオンだろうと連邦だろうと関係ない。力と知恵、そして金を持っているものが、弱者を虐げて生きていく混沌の世界がそこに広がっていた。

いや、グラナダだけではない。暴力性こそなりを潜めているが、連邦とジオンの戦いの混乱にまぎれ、世界全体がそうなっている。

女が耐え切れずに目をそらすと、また違うものが目に入ってきた。

女の目線の先には、傷ついたジオンの兵士が居た。学徒兵なのか、まだあどけない顔に不釣合いな軍服を着て、壁にもたれて座っている。立っていられないのだ。その片足は、銃ででも撃たれたのか、ぞんざいに巻かれた包帯に血が滲んでいた。

惚けたようにぼんやりと空を見ているその瞳は、まるで百を超えた老人のように倦怠感に満ちており、空ろだった。面倒を恐れてか、周りは誰も彼に話し掛けようとはしない。

その光景を見ていた女が、我慢ができなくなったようにエレカのドアを開けようとした。

「いけません。キシリア様」

その手を、声と共に男の手が制止する。男の手の薬指には指輪があった。レースの手袋の下、女の左手の薬指にも、真新しい結婚指輪が光っている。

 凍りつくように冷たい男の声が、重ねた手よりも女のことを制止した。

「時間は取らせぬ、すぐに……」

 その中身を全部与えてやるつもりであるのか、ハンドバッグを握り締め、キシリア様と呼ばれた女がすがるように男を見た。男は女に敬意を払うような言葉使いをしていたが、かつて支配していた男の声から発せられる威圧的な雰囲気に、支配する方だった女は躊躇していた。かつて上司と部下であったキシリアとマ・クベの関係は、グラナダの陥落と逃亡によって、何かが確かに変化した様だった。

「貴女がここでそんな事をして、何になると言うのです? あのような人間は彼だけではありません」

 表情一つ変えぬまま、キシリアの感傷を切り捨てるようにそう言う。

「私の無能のせいだ」

 小さく呟いたキシリアの声を、マ・クベは無視した。

「ウラガン、出せ」

 マ・クベがそう言うと、またエレカが動き出す。

「彼女が何を言っても耳を貸すな。いいなウラガン」

「はい……」

 マ・クベのきつい言葉に、運転を任されていたウラガンが、返事をしながらバックミラーでちらりと心配そうにキシリアの様子をうかがった。

 キシリアはマ・クベの言葉を聞いても、身じろぎもしない。考え込むように、何か別のものをじっと見つめている。

「言ったはずです」

 穏やかな口調とは裏腹に、キシリアの手をきついほど握ってマ・クベが口を開いた。

 キシリアが自分を責めているのが判っているからだ。

 ジオンを捨てるくらいなら死んだ方がましだと思うような女だ。そのキシリアが、ジオンを捨てて自分についてきてくれるという事を、半ば強引にでは有るが承諾した時、このまま死んでもいいと思うほどの歓喜がマ・クベを支配した。

 だが、生きる道を選んだマ・クベには、キシリアの心に永遠に残るであろう傷を癒し続けなければならないという試練がある。

 ジオンを捨てたその咎を、貴女一人に負わせはしない。

 マ・クベがそう思い、ゆっくりと口を開く。

「キシリア・ザビはザンジバルで死んだ」

 マ・クベの言葉に、ぴくり……とキシリアの体が動く。

ザンジバルに移る途中、ギレンに忠誠を誓うものによって襲われたキシリアを、マ・クベが、多大な犠牲を払って救ってくれたのだ。

とても指揮できる状態ではなかったキシリアに変わって、マ・クベはザンジバルにキシリアの影武者を乗せて、連邦と、そしてシャアを欺き、自らはキシリアを守って、グラナダに潜伏し、サイド6へ逃亡してきたのだ。

キシリアが目覚めた時は、全てが終わった後だった。

自暴自棄になるキシリアに、初めてマ・クベがキシリアに手を上げた。「いいかげんになさい!」と頬を叩かれ、呆然としているキシリアに、マ・クベは言った。「そんなにご自分の身を粗末になさるのなら、貴女の身は私が貰います」と。

マ・クベが部下でなくなった瞬間だった。

その言葉が、キシリアにはっきりと現実を思い知らさせた。

マ・クベが居なければ生きてさえいなかった。連邦から隠れる事も、こうして脱出する事も叶わなかった。

食べるものもままならない人たちが居る中で、「貴女には絶対に不自由はさせない」とマ・クベは言い、事実その言葉通り、キシリアは絹のドレスまで着ているのだ。全てはマ・クベの力で、キシリア一人では何もできない。

自分の無力さを思い知り、いかに今まで自分が傲慢だったか、マ・クベがどんなに自分の事を大事に思っているのかを知った。

そのマ・クベが、キシリアを、アクシズにも、サイド3にも行かせるつもりはないと言ったのだ。

もう二度と、貴女の命が危険に晒される所を見たくない

私の手の届かぬ所に居て欲しくない。

ジオンを捨てて欲しい。と。

かつてのキシリアなら、絶対に諾とは言わなかっただろう。即座に平手打ちが飛んだはずだ。

だが、キシリアの心は揺らいだ。

「あなたを愛している」と言うマ・クベの瞳が、あまりにも痛々しかったから。

……だから、ジオンを捨てた。

「お前が望むなら」と答えた。

私はこの位でしかお前の恩に報いてやれぬ。

キシリアは、心の中でそう呟いた。

だが、ぎりり……と罪悪感がキシリアの胸を万力のように締め付けた。

ジオンを捨て、マ・クベを選んだこの罪は、一生キシリアを苦しめるだろう。夜はうなされ、昼は罪悪感に苛まれるだろう。

だが、私はこの男と共に生きてゆく。

マ・クベの手の暖かさを感じながら、キシリアがそう思った。自らもまた、この男を必要としていると気が付いた。

 美しい彫刻のように無言のキシリアを、ウラガンがまた心配そうにちらりと見た。

「ここに居るのは、私の妻です」

 いつも冷静なマ・クベの声が、少し熱を帯びた。そのかすかな熱にウラガンが気付く。

「私の妻」という短い言葉の中に、どれだけの思いが込められているのかをウラガンは知っている。そう呼べるのが、数日しか続かなかった可能性があった事を。

キシリアは知らぬが、自らの身と引き換えに、キシリアを守ろうとしたマ・クベの危機があった。連邦の内通者によって危険を知らされ、最悪の事態を覚悟した。その時には、自分を囮にして、キシリアを逃がそうとマ・クベは考えていたのだ。幸い危機は回避されたが、その事を知っているから、ウラガンには、マ・クベがキシリアとの結婚にこだわった気持ちが痛いほど判る。

明日をも知れぬ命だからこそ、愛した人との確かな絆が欲しかったのだ。

キシリア様が私の妻になってくだされば、私はいつでも死ねる。

そう言って、マ・クベはウラガンの前で笑った。マ・クベの身を心配するウラガンにも、自分の事は省みず、キシリア様のことを頼む。としか言わなかった。

キシリア様は、マ・クベ大佐をお恨みになるのではないか? とウラガンは心配していた。あの事は絶対に言うなと命じたマ・クベの気持ちを知らず、キシリアに未練を残させて苦しませないようにするため、わざときつく言った言葉で、万が一キシリアがマ・クベを恨んだのなら、命令を破って、キシリアに口止めされていたことを話そうと思っている。

三人が各々の気持ちを知らず、沈黙の車内に、それぞれの思いが錯綜した。

「貴女のお命を救ったのは私だ。貴女は私のものだ」

 そう言いながら、マ・クベがキシリアの手を握る力は、もう痛いほどだった。

 不安なのは、この男も一緒なのだと、ふとキシリアが気付いた。

「貴女も、ご了承くださったはず……」

「だが……」

 理性では判っていても、感情が納得できないキシリアが、何か言いたげに言葉を濁した。だが、そのまま言葉は続かずに、キシリアは唇を噛んだ。

「辛いのですか?」

 キシリアの様子を横目で見ながら、静かに、マ・クベが言った。とても穏やかで、何かを諦めきったような、悟りきったような声だった。

「辛いのなら、私を恨みなさい」

 そう言って、目を閉じる。キシリアが、無言でマ・クベを見た。

「貴女を奪った、私を」

ゆっくりと閉じていた目を開けると、マ・クベを見るキシリアと視線がぶつかった。口にはかすかな微笑さえ浮かべながら、キシリアの目を見ながらそう言った。

辛い事から逃げたかったら、私を恨みなさい。

私はどんなに貴女に恨まれようとも、貴女を手放しはしない。

マ・クベは、そう言っている。

マ・クベの言葉に、不意に泣けてきた。

捨てよう。ジオンのキシリア・ザビを捨てよう。

心の底からそう思った。後ろを振り返るのはもう止める。この男と共に生きてゆく。

キシリアの頬に一筋、涙が伝わった。

低い嗚咽が、喉の奥から生まれた。

その感情は瞬く間にキシリアの体内に広がり、我慢ができずに、肩を震わせて泣いた。

マ・クベは何も言わない。

キシリアが、自らの半身を捨てるために流す涙を、ただ見つめている。

二度とこの手を離さぬとの思いを込めて、キシリアの手をしっかりと握りながら。

ENDE


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