◆フォルトゥナの誘惑◆




 長い長い廊下をキシリアの執務室へ向かうマ・クベの耳に、無骨な軍事施設には到底そぐわない若い女性の弾んだ声が入ってくる。

「キシリア様、とってもお綺麗ですわ。メイクなさらないなんてもったいない!」

「そうですわ、私達いつも物足りなく思ってましたのよ。今日は私達がうんとキシリア様をお綺麗にして見せますから!」

部屋に近づくにつれ、今日のドレスにはこちらのルージュの方が似合うだの、ドレスの色は赤の方がいいのではなど、華やかなメイド達のくすくす笑う声が、少し開いたドアの隙間から漏れてくる。
 およそこの場に相応しくないその声に戸惑う様子も無く、何時ものポーカーフェイスでマ・クベがドアをノックし、入れという声に応じて部屋へ身を滑り込ませた。

「失礼いたします、キシリア中佐」

 手元の報告書に目を落としながら、陰気な顔をしているマ・クベの鼻腔を香水の甘い香りがくすぐる。

「マ・クベか。良い所に来た」

 辟易したようなキシリアの声に、思わずマ・クベが伏せていた目を上げ、次の瞬間驚いたように少し目を見開くと凍りついたように固まった。

「あ、まだ終わってませんのよ、キシリア様」

 手にパフや口紅を持ち、抗議するような声を上げたメイドを振り切って、キシリアがどこから持ってきたものか大きな鏡の前から立ち上がる。マ・クベの目に映ったのは、何時もの軍服ではなく、大きく胸元の開いた深い紺のドレスを身にまとったキシリアだった。

「お美しい……」

思わず漏れた感嘆の声は小さすぎて誰の耳にも届かなかった。無論マ・クベとて誰に聞かせるつもりでもないのだが。

近寄りがたいほど美しい。

何時もは一つに纏めている紅茶色の髪は、綺麗に結い上げた後肩までたらしている。端正すぎてややきつい印象をあたえる顔は、メイクで女らしい優しい表情を引き出され、柔らかいカーブを描いた細い眉に、カールした長い睫毛に彩られた切れ長の目、高貴さと凛々しさの中に覗く女性らしさが目を奪われずにはいられなかった。普段のキシリアを知っているものとしては、なおさらだ。

形のよい胸が薄い布地を押し上げ、ドレスから覗く白い胸元は目のやり場に困った。地球産のシルクを使ったシンプルなドレスは、滑らかな紺色の布地が豊かな胸と引き締まった腰に絡みつくようにぴったりと覆い、魅惑的な線を描いた。
 その柔らかな線は、マ・クベに特にお気に入りの北宋の壷を思い出させ、触れてみたい衝動を堪えた。

大胆に開いたスリットからは、締まった白い足が悩ましげにのぞく。白い肌が紺色に映え、艶かしい。

「もうよい。お前達はいつまで私を玩具にするつもりだ」

「だって、せっかくのキシリア様のお見合いですのに。相手の方がびっくりするぐらいお綺麗にしないと!」

 キシリアを座らせようと囲んで抗議するメイドの声に、聞き捨てならない言葉を見つけ、思わずマ・クベが呟いた。

「見合い……ですか?」

「父上が急に言い出してな……。お前はとにかく見合いをしろとの一点張りだ。用意のいいことにドレスだのこやつらだの送りつけてきてこの有様だ。午後は台無しだな」

うんざりした声でキシリアがそう言った。
 荒くれ男達の中で戦闘機だのMSだのしか相手にしない一人娘に業を煮やし、執務中の娘にいきなり見合いを命令して軍の施設にメイドを送りこむなど公私混同もいい所だが、キシリアの意思を全く無視したこの奇襲攻撃は、今の所確かに成功しつつあるように見えた。

 苦虫を噛み潰したような表情でさえも見惚れそうになるのと、キシリアの見合いという動揺に堪え、ことさらマ・クベが平静を装う。

「では、報告は……」

「後にする」

仕事上の事とはいえ、キシリアに会う事を内心一日中楽しみにしていたマ・クベとしては、かなり複雑な感情でやっとそう言うと、キシリアがマ・クベの内心など知らずに冷たく言った。

表面上はあまり変わらないが、内心かなり不機嫌なマ・クベが一層無表情になる。それが判ったわけではないだろうが、マ・クベの顔を一瞥し、キシリアが一瞬考え込んだ。

「いや……、やはり」

 鋭い視線をマ・クベに向けると、赤い唇が悪戯を思いついた子供のように笑った。マ・クベが不信そうにキシリアを見返すと、唇に笑みを含んだままマ・クベに言う。

「マ・クベ、一緒に付き合え。報告は車内で聞こう。いいな?」

「……承知いたしました」

有無を言わさぬキシリアの声に意図がつかめぬままマ・クベがそう言うと、キシリアが軽く頷いた。

「お聞きかい? お前達。同行するのはマ・クベだけでいい」

「いけませんわキシリア様!」

キシリアがそう言うと、メイドの間から抗議の声が飛んだ。
 今度の見合には、相手の身分や家柄を綿密に考えた上で、付き添いは誰だとか段取がどうとか鬱陶しい取り決めがすでに決まっているのだ。いきなりそんな勝手が許される訳が無い。
 第一、キシリアほどの者がマ・クベ一人を供にして出歩く事も考えられないし、見合いの場に部下とはいえ男連れで行く事も常識外れすぎる。

あまりにも破天荒なキシリアに向けられた黄色い抗議の声を鋭い眼光と首を振るだけで黙らせ、キシリアがデスクの上に置きっぱなしにしてあったハンドガンを指さした。
 側にいたメイドが信じられないと言う目でキシリアを見たが、メイドの表情にくすりと笑って構わず持って来いと指先で示す。銃など触った事が無いメイドがおずおずと両手でそれを差し出すと、マ・クベの見ている前で、大胆に足を椅子の上にかけ、スリットから露になった白い大腿にガンベルトで銃を留める。引き締まった足首の銀のアンクレットがさらりと揺れるのを、目をそらそうともせず遠慮なく見つめる。

「胸元に隠すよりはましだろう?」

 呆れて声も出ないメイド達にそう笑いながらからかうように言うと、行くぞ、とマ・クベに声をかけ、軍服とブーツの時と変わらない歩幅で歩き出す。

 キシリア様とベッドに入る殿方はさぞ驚かれる事でしょう……と残されたメイド達が目配せし、諦めたようにため息をついた。





「正直驚きましたな」

 キシリアが運転手さえ断ってしまったので、見合いの場所までエレカを自ら運転しながらマ・クベがそう呟くと、隣に座ったキシリアが苦笑した。

「私がまさか見合いをするとは思わなかったか? 可笑しければ笑うといい」

「いえ……。キシリア様も妙齢の女性ですから」

 キシリアが自虐的に呟くと、普段はそんな事などしないくせに、フォローするかのようにマ・クベが付け足した。
 心にも無い事を、とキシリアがマ・クベの言葉を内心一蹴する。

 マ・クベが女連れなのに興味津々な警備兵が、思わず見惚れてしまった相手がキシリアだと判って慌てて敬礼したり、同じくキシリアの部下のトワニングに「眼福ですな。役得お羨ましい」と冷やかし混じりに囁かれたり、噂を聞いて慌てて見にきたらしいジョニー・ライデンが思わず手にしていた工具を落としたりと、実際はキシリアが思っているほどおかしくも無かったのだが、キシリアが彼女の思ってる以上に男の目を引いているとあえて教えるほどマ・クベはお人よしではない。

「父は私に夫をあてがえば大人しくなると思っているらしい」

 ため息をつきながらキシリアがそう呟いた。

「女の幸せは結婚だと思っているのだ。……父らしい」

 唇に苦笑を浮かべたまま、頬杖をついて目を伏せる。
 コロニーの夕日がキシリアを照らし、その淡い光がキシリアを一層切なくさせた。
 密かに押しすめられている地球降下作戦の計画立案と実行に向けての準備、新しい軍事力の開発など、それを担う軍人として、自分も少なからず必要とされていると自負していた。
 だが父はあっさりと自分を国政から切り捨てようとしている。父にとってはキシリアの結婚でさえもパワーゲームの駒であり、戦略として必要なのかもしれないが、ザビ家の娘としてそこで役目を果たして退場するよりも、一人の有能な軍人として、それ以上に役を果たしてみせる自信がキシリアにはあった。
 それが父に認めてもらえないのは悔しい。
 これ以上血なまぐさい世界にかかわらせたくないというそれもまた父の娘を思う心なのだろうが、キシリアの求めているものは父の与えようとしているものではない。

「そうなっては私は困りますな。貴女以外にお仕えする気にはなれません」

 ちらりとキシリアに視線を流し、マ・クベがさらりとそう言うとまた何事も無かったかのように無表情になる。

「私が男ぐらいで大人しくなると思うか?」

「思いませんな」

「はっきり言う……」

 遠慮会釈ないマ・クベの言葉に、くすくすとキシリアが笑った。マ・クベの言う事は無礼ではあったが、歯の浮くようなお世辞などよりも実直で正確な意見をキシリアは好んだ。

 しばし笑った後、キシリアの唇から小さなため息が出た。確かに、父が自分を心配するのも無理は無いと思ったのだ。銃を持つ手の平はお世辞にも柔らかいとは言えず、筋肉のついた二の腕はドレスに似合うとは言いがたい。

士官学校を卒業して以来、必死に前へ進んできた。
 汗と埃にまみれた軍事演習を行い、物分りの悪い幕僚と喧嘩腰の議論をし、二十歳になったばかりの小娘に何ができると侮る部下を実力で黙らせて完全服従させた。
 女の幸せは望まないが、女であることを否定しているわけでも捨てた訳でもないのだ。なのに気がつけば、最近恋をすることも、男の肌に触れる事もない。それを思うと、少し気が滅入った。

「ですが……、貴女の御子にお仕えするというのも楽しい想像ですな」

 マ・クベが少し考えてそう言った。
 キシリアは否定するが、結婚はともかく、純粋に敬愛するキシリアの子が見てみたいという気持ちはあった。他の誰にもそんな事は思わないが、キシリアの子なら自分は無条件で忠誠を尽くすだろうという確信がある。

「ふ……。私は女の幸せなど望んでおらぬよ。ドレスの下に銃を隠してるような女にそんな資格はないし余裕もない」

 また自嘲気味にそう呟くと、視線を遠くのビルに泳がせた。
 すでに自分は血塗られた道を辿っているのだ。それも、誰に強制されたのではなく、自ら進んでその道を選んだ。
 覇道と家庭に収まる幸せと、相反する二つのものを手に入れられると思うほど自惚れてはいない。

 後悔は無いと思っていたが、それでも自分の中に少し戸惑いがあるのは否めなかった。
 ザビ家の一員として、軍や政治にかかわるのは当たり前だと思って生きてきたが、それは本当に自分が望んだ事なのだろうか? 自分の力を試したいという純粋な希望はあるが、それがこの道なのだろうか? それが運命だと思い込み、ザビ家という呪縛に囚われているだけなのではないか? と、ふと思う事がある。その迷いが自虐的にさせているのだと気がつき、少し反省した。

「手がかかるのはガルマだけで十分だ」

迷いを吹っ切るように冗談めかしてそう言い、肩をすくめる。来年の士官学校の入学試験はトップで合格してみせると張り切る弟の事を思い出すとキシリアの顔が優しくなった。

軍人としての冷徹さと、女としての愛情が同居しているその横顔をマ・クベが無言で見つめた。上官としては勿論、一人の女性として尊敬し、敬愛している無表情の奥にある思いを巧妙におし隠す。キシリアの為にした事に見返りなど求めてはいないが、キシリアが他の男のものになるのはさすがに辛い。

「他の生き方があると考えた事はおありですか?」

 キシリアの内心を見透かすかのようにマ・クベがそう言った。
 先ほどはああ言ったが、実はキシリアがどう転ぶか判らないとも見ている。兄のギレンと同じように冷徹だと思われているキシリアだが、本当はとても情が深い女性である事をマ・クベは知っている。
 彼女に育てられたガルマを見ればキシリアの愛情の深さがよく判るというものだ。
 必要と有れば冷徹な態度も辞さないが、彼女の言動の端々に含まれている細やかな情の深さからか、一部の部下にはギレン以上に慕われ、キシリア個人に狂信的なまでに忠誠心を持っている者も少なくない。
 その彼女が本当に愛する夫や子供ができれば、よもやとは思うが切り捨てられるのは自分達ではないか? という危惧が疑い深い性格のマ・クベに常に付きまとった。

このように他人の心を探るなどマ・クベにしては珍しい事であったし、キシリアも他人に内心を探られるのはあまり心地いいものではなかった。だが、マ・クベの問いに素直にキシリアが口を開いた。

「そうだな……。考えなかったと言えば嘘になる。だが、考えても今の私には無駄な事」

 自分の内心を正直に言えるのは、相手が信頼しているマ・クベだからこそだったが、仕事上の部下と上司だけの関係ではない信頼感がキシリアの口を素直にした。

「私を損得勘定抜きで欲しがる物好きがいるかどうかも判らんぞ」

 キシリア自身でさえ、もしするのならば自分の結婚を最大限に利用しようと考えているのだ。そんな相手がいるとは考えられなかった。
 自分を揶揄する気持ちを込めて冗談めかしてそう言うキシリアにマ・クベがちらりと視線を流す。

「無駄……とは思いませんが」

 キシリアの言葉に、小さくマ・クベが呟いた。

「何かお言いか? マ・クベ」

 その物好きが隣にいることなど露知らず、キシリアが聞き返した。

「いえ。後少々で着きます。ご準備を、キシリア様」

 止める事も、自分の心のうちを明かす事も適わない。相手の男に水爆でも落としたい不穏な気持を無表情の下に隠しながら、抑揚の無い声でマ・クベがそう促した。

 キシリアがマ・クベの顔を不信そうに見つめていたが、マ・クベは何も言わずエレカを走らせている。正面に向き直ると、キシリアがふと何かを考え込むように目を伏せた。内心の複雑さとは裏腹に静かな時がしばし二人を包む。

夕日が終わり、薄闇の中、見合い相手が待っている豪華な建物の明かりがだんだん近づいてくる。
 マ・クベが、Uターンしたい気持ちを鉄の自制心で押さえた。

キシリアに相手の男が白々しい愛想笑いを浮かべ、心にも無い言葉を吐くのに立ち会わないといけないかと思うと、想像だけで頭痛がしてきそうなくらい不愉快だった。
 最後にはもうどうなってもいいからどうにかして見合いをぶち壊してやろうと危険な事を考えはじめる。

「決めた」

 ジオン随一の策略家の頭脳で良からぬ考えをめぐらしていたマ・クベの耳に、パチンとキシリアが手にもった扇を閉じる高い音が聞こえ、思考を中断させられた。その音とともにキシリアが不意にそう呟く。

「は?」

 考えに没頭しすぎて、思わずキシリアが隣にいる事を忘れていたマ・クベが慌てて間の抜けた返事を返すと、キシリアが笑みを浮かべてマ・クベの耳元に囁きかける。
 悪戯っぽい笑みを浮かべて、マ・クベの目を見つめながら耳元に顔を近づけたキシリアの動きにふと空気が揺れ、漂う甘い香りがマ・クベの脳髄を痺れさせた。

「父上が私に無理を仰るのだから、私も勝手にさせてもらおう」

 耳元でひそと囁かれ、キシリアの息がマ・クベの耳元をくすぐった。マ・クベの脳細胞がその言葉を理解する前に、さっと離れて姿勢を正し、有無を言わせないキシリアの鋭い声がぴしりと命令する。

「マ・クベ。見合いは中止だ」

「は!?」

 先ほどの甘い雰囲気とはうって変わって、まるで戦場で命令を下すような口調で言われた言葉の内容の意外さに思わず素っ頓狂な声を上げた。
 マ・クベの視線に肩をすくめ、少し姿勢を崩したキシリアが気だるそうに手にした扇を弄びながら鷹揚に言う。

「適当に時間を潰して帰ります」

「キ、キシリア様!?」

 さすがにそれは不味いだろうと慌てるマ・クベの内心を十分理解しながら、さらにキシリアは命令する。

「理由はお前が道に迷ったと言う事にして父上に報告しなさい」

全くそれはもう百パーセントありえない無茶な言い訳だった。あまりの事にマ・クベが絶句していると、ちらとキシリアが抗議めいた表情を浮かべているマ・クベの方を見て唇の端を可笑しそうに吊り上げた。

「なにか言いたい事はあるか?」

 顔は笑っているが、聞いている割にはキシリアの声はマ・クベの反抗を初から許さない。

「…………ございません」

 減給どころでは済まないだろう……と一応色々と考えてはみたが、もとよりマ・クベがキシリアに逆らえるはずも無く、事の恐ろしさは十分理解していたが、そう言うより他は無い。

「ですがキシリア様、よろしいのですか?」

「かまいません。地球産の軟弱な男は好きではない」

 そうはっきり言い切ると、珍しく複雑な顔をしているマ・クベをまたキシリアが可笑しそうに見つめた。

「急に時間ができると、かえってどうしていいか判らないものだな。どうしてくれる、マ・クベ?」

 切れ長の瞳がちらりとマ・クベに視線を流し、挑発するようなキシリアの赤い唇にマ・クベの鼓動が一瞬高く脈打った。思いもかけず転がってきたチャンスになんとか自分を落ち着かせながら口を開く。

「……キシリア様、少し遠いですが私の知っているよい店があります」

 溢れてくる喜びを必死で無表情の中に押し込もうとするが、陰気な表情に喜色が混じり、声が弾んでしまうのは仕方が無い。

「そこでいい」

 あっさりとそう言うと、最初から行く気が無かったのではないかと疑惑の目を向けるマ・クベに気がつき、誤魔化すようにキシリアが視線をはずした。

「私も、半分くらいはちゃんと行こうという気はあったのだよ」

 そっぽを向いたまま済ましたようにそう言うと、後は焦らすように何も言わないキシリアに、マ・クベは鬼より恐ろしいデギン公王の大目玉も、待ちぼうけを食らう地球産の男の事も今は考えないでおこうと心に決めた。


                                   ENDE

141113 UP

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送