オフィーリア






誰かが入ってくる気配がした。部屋を横切る気配がし、やがて、水音がかすかに聞こえる。

一連の動きを無視して、ベッドにぐったりと横たわるキシリアにその誰かが触れた。キシリアは目を閉じ死んだように動かない。それが誰か判っているからだ

 ぐったりとしたその体を、男の腕が横抱きに抱え上げた。そのままゆっくりとバスルームへと行き、暖かい湯の張ったバスタブにキシリアの体を鎮める。

  白いバスタブの中に、キシリアの長い髪がふわっと広がった。そのまま湯の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。

 その時初めて、キシリアがうっすらと目を開いた。瞳にキシリアをここまで連れてきた青髪の男が映る。だが、その瞳は何も見ていない。

 キシリアの豊満な体は、男にされた陵辱の痕を痛々しく残していた。噛み付かれた痕も、キスの痕も、ギレンにされたすべてのことを記録しているかのように。

 かわいそうに、気の狂ってしまったオフィーリア。

 青髪の男、マ・クベが心の中でそう呟いた。空ろな瞳と、水に広がる長い髪は、マ・クベに一枚の絵を思い出させる。

「失礼」

 そう言って、マ・クベがキシリアの顔に水しぶきをかけた。キシリアの瞳が、はっと生気を取り戻す。水しぶきに目を閉じて顔を背け、やっと生きている人間の姿を取り戻した。

「なにをする!」

 怒気のこもった声でそう言い、キシリアがマ・クベを睨みつけた。キシリアの瞳が、ようやくマ・クベを見た。

「情けないお顔をするからです」

 キシリアの怒りにもポーカーフェイスでそう言った。マ・クベの顔には、キシリアの姿に対する驚愕も、同情も、何もかも浮かべてはいない。

 そうした方がキシリアが救われると判っているからだ。

「なれぬものだな、何度こうされても。それでも最初の頃に比べるとずいぶんましになった」

 マ・クベの言葉に、怒りを納め、キシリアが苦笑しながらそう言った。泣いても、怒っても、ギレンは何も変らなかった。なすがままにされ、笑う事しか出来ない。

 そのキシリアの手を、マ・クベが不意にぎゅっと掴んだ。

「マ・クベ……?」

 マ・クベにキシリアの不審そうな目が向けられる。キシリアの手を握りマ・クベは、俯いたままじっと何かを考え込んでいる。キシリアがもう一度声をかけようとしたとき、マ・クベの顔がゆっくりをキシリアを見た。

「逃げてしまえば宜しいではないですか」

 マ・クベがキシリアの目を見ながら、微笑を浮かべながらそう言った。

「え……」

「何もかも捨てて、逃げてしまえばこの苦しみから解放されます」

 キシリアのことを黙ってただ見守っていたマ・クベが、初めてキシリアにそう言った。

 逃げてしまえと。

 それは甘いささやきだった。

「だが……。いや、そうだな」

 キシリアの顔に戸惑いが浮かんだ。キシリアには全てを捨てて逃げるなど考えられなかった。だが、いままでずっと黙ってキシリアを支えていたマ・クベがそう言った気持ちを考えると、キシリアの心が激しく揺れる。

 逃げてしまえばどれほどいいか。

 今まで信じていた物全てが壊され、奪われた。これ以上ここに執着する必要がどこにあるだろう?

「もし、もしそうしたら…。お前は、私に、付いて来てくれるか……?」

 キシリアが、戸惑いながらそう言った。

「どこまでも」

 微笑を浮かべ、マ・クベがキシリアを優しく見ながらそう言った。キシリアの手を取り、そっとその手の甲に口付ける。

 キシリアの目に涙が溢れた。

 このようなどん底に有って、マ・クベの言葉が心から嬉しかった。


 肩を震わせ、嗚咽が漏らすキシリアを、マ・クベの瞳がいつまでも優しく見ている。


ENDE



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