Dragon’s Dream






 理想を掲げる事はたやすいのです。

 ただ理想の追求を許された人間は少ない。

 限りなくゼロに近いのであります。


「すいません、退部した身なのに風間さんをこんな所に呼び出して」

 佐久間がそう言ってぺこりと頭を下げた。

海王卓球部を退部処分になったに関わらず、佐久間はまだ、海王卓球部の部員のように綺麗に頭を丸めている。

 足掻いているのだな……。と風間は久しぶりに佐久間を見て思った。

 これまで生きる全てを卓球に捧げていたと言っても過言ではないのだ。捨てようと思っても、簡単にできるものではない。

「いや、いいんだ。話があるのだろう?」

 風間が、内心そう思ったのを隠して、鷹揚にそう言った。その横顔は、狭い窓から入ってくる、沈んでいく夕日の光に照らされている。

悟りきった僧のような物静かな雰囲気を湛えるこの男が、いざ試合になると阿修羅に変わる。その他を寄せ付けない圧倒的な強さも、自己を管理する事のできる強靭な精神力も、全てが佐久間の憧れだった。

佐久間が風間を呼び出した北校舎の端の誰も来ない倉庫はひんやりとして薄暗く、かすかに黴臭い。

その匂いを嗅ぎながら、数瞬迷った後、沈黙に耐えかねたように佐久間が口を開いた。

「月本を海王に呼ぶおつもりですか?」

「ああ……」

 佐久間の問いに、風間がゆっくりと頷いた。

恐らく、その話だろうと思っていたのだ。

 佐久間が、自分を神のように崇めているのを知っていた。

 だが、佐久間には才能が無い。

 だから、切り捨てた。

「自分はいつも、努力さえすれば、才能がある奴と同じところで戦えると思っていました。それを証明しようと誰よりも努力してきました」

 風間の返事を聞き、俯きながら、かすかに拳を震わせて佐久間がそう言った。

「知っているよ」

 殊更、ゆっくりと、感情を表す事無く、風間がそう言った。

「そして知ったのか? 君も。所詮、天才の前では、努力など全く意味をなさないという事を」

 風間の言葉に、はっとしたように佐久間が顔を上げた。

「飛べない鳥もいるという事を……」

 風間の低い声が耳に入ると、堪えきれないように佐久間が拳を握った。

 自分がその飛べない鳥である事。どれほど求めても、どれほど努力しても、得られぬものはあるのだと思い知った苦しみに、全身をわななかせた。

「我々がどんなに努力しても飛べないハードルを、易々と飛び越える後姿を見る。……たまらない事だよ」

「そんな事を言わないで下さい。貴方は選ばれた人間のはずだ」

 憧れだった風間が、まるで飛べない鳥である自分のような事を言うのは耐えられない。

 思わず、風間の言葉を遮り、佐久間はそう言った。

「そう思うかね?」

 明言はせず、曖昧に風間は言った。ずるい言い方だ。

「飛べない事は悲しむべき事かもしれないが、恥じる事ではない。君には卓球の才能がなかった。だが、君の努力する姿勢は素晴らしい。それは賞賛に値する。別の才能を持っていると言えるのではないかね?」

 そう言われて、鼻の奥がつんとした。風間なりに佐久間を慰めようとしているのは判る。

だが、口先だけだ。

「あなたは、どこまで俺に冷たいんですか?」

 堪えきれずに、俯いた佐久間の目から涙が一筋こぼれた。

「俺は、あなたと一緒に飛びたかったんだ。他のものなんか、いらなかったんだ」

 自分が、いらないと思ったものを捨てたように、風間にとって佐久間は要らないものだったから捨てられたのだ。

 どれほど求めて努力しても、自分は初めからいらないものなのだ。

「無理だよ。無理な事だ。最初から」

 風間の声が、遠く聞こえた。

風間さんは残酷で、とても優しい。

 佐久間がそう思った。風間は、一度も佐久間を期待させるような事は言わなかった。それが、佐久間にしてやれる唯一の誠意だと判っていたからだ。

 その優しさが悲しい。その厳しさが恨めしい。

 風間さんは、努力する俺を、どんな気持ちで見ていたのだろう?

 佐久間が、そう思ってぎゅっと握った拳に力を入れた。

「だから私は、君に情けをかけなかった」

 風間が、足掻く佐久間の止めを刺すようにそう言った。最後まで、一欠けらの希望も抱かせずに。

「失礼します!」

 風間の言葉か耳に届くや否や、佐久間は悲鳴のようにそう言って駆け出した。

 今まで積み重ねたもの、失ったもの、壊れたもの。憧れ、恐怖、絶望、羨望。様々な思いがどっと溢れ、佐久間をめちゃくちゃにした。

本当は、大声を上げて叫びたかった。何もかもむちゃくちゃにしたかった。だが、そうしなかった。風間の前でそうできなかった。

 その後姿を、風間が無表情で見ている。

 佐久間は、逃げたのだ。

 風間は、その後を追う事をしない。



 

体育倉庫の黴臭い臭い、ひんやりとした空気。

夕日をあびた風間の顔。

むちゃくちゃに走り出した自分。

胸の痛み。

あの時のことが遠い昔の事のようにも、ほんの僅か前の出来事にも思える。

本当はその中間くらい。忘れるというには早すぎて、だけどもう元には戻れないほどには時が経ちすぎている。


 インターハイ予選試合会場のトイレの個室前。

佐久間は体育倉庫での風間との会話をぼんやりと思い出しながら口を開いた。

「いつまでこんな所にいるつもりです?」

 試合の前には、風間は必ずトイレに篭る。

だから、広い大会会場でも、佐久間は簡単に風間の居場所を見つけることができた。

インターハイ予選、確実に勝つと思われている男が、こんな所に閉じこもっている。

 風間に話し掛けながら、佐久間も思った。

卓球を捨てたはずなのに、俺はどうしてここにいるのだろう。

 卓球を捨てた後気がついた。一日の長さに。

 自棄のようになって覚えた煙草はもう止められない。

女も知った。馬鹿みたいな髪型にもした。

だが、一日中ラケットを振りぬいていた頃の佐久間が、まだ風間を探してこんな所まで来させている。

「敗北は死だ。私はずっとそう教えられてきた」

 トイレの個室から、声が聞こえてきた。佐久間の問いには答えない。

汚い落書きだらけのここが、風間の逃げ場であり、聖地なのだ。

ここで何度風間は己を殺してきたのだろう?

「君は自由になったかね?」

 諦めきったような、落ち着いた声が佐久間の癇に障った。苛々とした気持ちが、瞬く間に心を覆い尽くす。

「私はまだ、こんなにも怯えているよ」

 風間のその言葉が、佐久間の理性を吹き飛ばした。

 怯える? 風間さんが?

 アンタはそんな事しちゃいけない人間なんだ。誰よりも高く飛ぶ、俺の憧れだったはずなんだ。そんな、ただの人間みたいな事言わないでくれ。

 アンタが俺と同じただの人間だって言うんなら、何でそんなとこで怯えてんだ?

 来いよ! 来い! 俺の所まで来い!! 俺のように堕ちちまえ!!!

 狂ったようにそう思った。激情が押し寄せ、止められない。

 風間の前から逃げ出した、あの時の気持ちが不意に嵐のように蘇ってきた。

 自分がまだ昔を引き摺っているのを思い知らされた。煙草を吸おうと、ケンカを吹っ掛けようと、まだ断ち切れない。まだ風間を断ち切れない。

 あの時はできなかった。壊せなかった。だが、今度はもう逃げたりしない。

 今やってやる。やってやるぞ!!

 狂人のように、破壊的な衝動がこみ上げた。言いたい事を言う事ができず、風間の前から逃げだした過去が、ずっと佐久間の心に突き刺さり、じくじくと血を流させていた。すっかり膿んだその傷は、あまりの痛みに佐久間をおかしくさせる。

「風間さん、開けて下さい、風間さん!!」

 トイレのドアを、ガンガン叩いた。風間がドアを開けないつもりなら、けり破るつもりだった。

 トイレの個室は、風間の牢獄。自らを閉じ込めた牢屋。

そのドアは、心を覆う壁、回りから自分を守る障壁。

 破ってやるぞ! あんたの心を。いくら俺が努力しても、いくら俺が懇願しても入れなかったアンタの心に、俺が無理やり入り、土足で踏みにじってやる。

 佐久間の予想に反して、風間は鍵を開けた。少しだけ開いたトイレのドアの隙間を、乱暴に佐久間が開き、中へ飛び込んだ。

 狭いトイレの個室で、佐久間は簡単に風間の体を捕らえた。肩を掴み、トイレの壁にぐいぐい押し付ける。 

「堕ちればいいんだ。お高く止まらずに、どん底まで落ちればいいんだ。それであなたは楽になれる!」

 佐久間が切羽詰ったようにそう言いながら、握った拳を風間の腹へ叩きこんだ。自分で自分が何をしているのかも良く判らない。ただ、このまま風間を試合に出すつもりは無い。

そう思っての行動だった。

試合に怯える風間が許せなかった。

落ちたことが無いから落ちるのが怖いんだ。いっそのこと落ちちまえ。そしたら楽になれる。

 俺のように!

「佐久間!」

 驚いたような風間の声が、余計に佐久間を突き動かした。

まさか俺が神のように崇めているアンタを傷つけるとは思ってもみなかったのかい?

甘ぇよ!! 俺は変ったんだ。

佐久間がそう心の中で叫んだ。

「ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう……」

一言ごとに重いパンチを風間の腹に打ち込んだ。このまま風間が倒れ、試合に出られなければいい。ボコボコに殴り返される事も覚悟していたが、風間は腕で腹を守っただけで、後は身動き一つぜず佐久間のパンチを受けていた。

堕ちろ! 堕ちろ! 堕ちろ! 堕ちろ! 堕ちろ! 堕ちろ!!!!!!!!!!!

人を殴る不愉快な音が汚いトイレの空間に広がった。

どれ位そうしていたのか、気がついたときには、拳は酷く痛んでいた。ぜいぜいと荒い息をつきながら、トイレの壁にもたれかかっている。

先ほどまでの狂ったような高揚感が急速に薄れていく。代わりに、虚脱感が佐久間を襲った。

風間は、最後まで抵抗しなかった。ただ、哀れむように風間を見ている。その目が、余計に佐久間を疲れさせた。

貴方が欲しかった。

でも駄目だった。

なら、壊してしまおうと思った。

だが、

一番壊したかったのは、昔を引き摺る自分。

なぜ俺は風間さんを傷つけようとする?

何も変りはしない。

無駄だったんだ、全て。


……何をしてるんだ、俺は?

佐久間がぼんやりと自問自答した。

こんな事では、風間さんは堕ちない。自分では、風間さんを救えない。馬鹿か、俺は?

また、間違えた。


一体どこで間違えた?

一体何に躓いた?


「これが君の言う同情かね?」

 顔色一つ変えず、ゆっくりと風間が言った。顔色一つ変えずに、いつものように淡々と。

「貴方は選ばれた人間のはずだ」

 風間に表情を見られぬよう俯いて、佐久間がそう言った。顎のあたりから、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。とめどなく落ちる。

 落ちたからといって、卓球を捨てたからといって……。

 俺が楽になったのかよ……?

 佐久間が自分に問い掛けた。答えは返ってこない。

「なぜ君が泣く?」

 暖かいものが肩に触れた。それが風間の手であるのに気付くのに少し時間がかかった。

 そんな事も判らないのか、貴方は?

 佐久間は心の中だけでそう風間に問い掛けた。

 永遠に埋まらぬ溝に、また泣けてきた。


「頂上に立たねば見えない風景がある」と風間が言った事を思い出した。

一緒に見るのは俺じゃない。俺には出来ない。と思った。

「無駄なものを全部殺ぎ落とすのだ」と風間が言った事を思い出した

風間が、自分を切り捨てたのを思い出した。

「錆付かないように研ぎ澄ますのだ」

 そう言う時の風間の目が、刃物のように青白いのを思い出した。


 空を飛べないものには絶対に手に入らない。

 俺はどこまで、傷ついた体を引き摺っていけばいいんだ?


 佐久間の心は、まだ彷徨っている。



ENDE

20041202 UP

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