near and far



「美しいですね」

 誰にともなくキシリア様がそう仰った。

私とキシリア様がいるここは、展望台のように前面が大きなガラス張りになっており、キシリア様が眺める向こうには沈んでいく太陽が最後の光を投げかけていた。金色の混じった透明な茜色の光は、オデッサの砂漠を、工場を、見張り台を、鉱山をそれ一色に染め上げる。

 美しいものをお見せします。とキシリア様をこちらへご案内したのは間違っていなかったようだ。

返事を期待しているわけではないのだろう。コロニーには無いその美しさに魅入られたように夕日を見つめるキシリア様の白いお顔も、今は柔らかい光に照らされている。

 キシリア様のご気分を害さぬように返事は返さず、その横顔をそっと盗み見た。

 このような間近でキシリア様のお顔を見るのも久しぶりだった。ここ地球に降りて来てからは、キシリア様にお会いする事自体が難しい。

茜色に染まった端正な横顔は、瞬きもせずに夕日を見つめている。長い睫毛や、形のいい唇、そのお姿は、私の記憶にあるものと寸分違わない。

だが……少しよそよそしいような感じがした。私が変わってしまったのか? キシリア様がお変わりになってしまったのか?

 キシリア様が月からオデッサへいらっしゃると聞いた時は狂喜乱舞した。久しぶりにお会いできる嬉しさに、子供のように眠れずに目がさえた。

 だが、大きすぎる期待というものは、時として現実の前に必要以上に落胆を感じさせる。

 キシリア様は視察にいらっしゃったのであって、私に会いに来たわけではない。

 こんなごくあたりまえな事を数日前の私が何故気がつかなかったのか。

 いや、判っていたが、それ以上に期待しすぎたのだ。

 

遠くなった。と思った。

 貴女と私の間は。とても遠い。

 地球に降りてきた瞬間から、貴女はもう別の誰かに取り囲まれている。

手に地図や設計図を持って技術的な説明をする技官達、取り巻きの将校達、ここぞとばかりにキシリア様に近づこうとする企業のお偉方。

義務的な挨拶の後はキシリア様と私の間にはあっという間に人の壁ができてしまい、貴女は人の波の中に飲み込まれてどんどん遠くなる。

別に二人になれるだろうという甘い考えは抱いていなかったが、貴女は私一人のものではないのだという現実を見せ付けられるのは、辛い。長い間貴女に会えなかっただけに、余計に。

子供のような感傷だと自分を笑う気にもなれなかった。

数ヶ月前、貴女の隣には私が居た。だが、今はもう別の誰かがさも当然のようにそこに居座っている。貴女の瞳に映る、私ではない別の誰かにいちいち嫉妬してしまいそうで、居てもたってもいられず、キシリア様の側を離れてしまった。

もちろん、それはほんの一瞬の事で、すぐに気を取り直してキシリア様のお側に戻り、オデッサの責任者としてご説明などをして差し上げたが、どことなく他人行儀なキシリア様の態度に、期待していたのは自分だけだったのだと奈落にでも落とされたような気分だった。

 私は貴女の事を考えていても、貴女にはそんな暇も余裕もないと何故気が付かなかったものか。

月と地球という物理的な距離だけが怖いものではない。と思い知らされる。

埃っぽいこの地球で、過労とプレッシャーの中で、私は何を失い何を得たのだろう。

キシリア様のすぐ側にいるのに、貴女が近くに居ると感じられない。触れたいのに、触れる事が出来ない。

そう思うと、キシリア様のお顔を見るもの辛くて視線を他に移した。

「マ・クベ」

不意に呼ばれて伏せていた視線を上げると、ふわっと空気が動き、不意に柔らかいものが私にぶつかって来た。

キシリア様が私に抱きついてきたのだと理解する前に、不意打ちのように唇が重ねられる。驚くより前に、パブロフの犬のようにキシリア様のキスに反応する。

待ちかねたように私を求めてくるキシリア様の舌に答えながら、柔らかい体を抱きしめた。

キシリア様が思ったよりもずっと小さい事が抱きしめてみれば判る。冷静沈着なキシリア様が、二人で居る時だけこんなにも激しく他人を求める情熱を見せてくださる。私にはまだその特権が残されていたのだと判って狂喜した。

「そんな顔をするからです」

 ようやくお互いを離すと、ハァ……と小さく息をつきながらキシリア様が私の耳元でそう囁いた。キシリア様の息が熱い。キスで少し足元が頼りなくなったキシリア様が、私に一層強く抱きついた。

 キシリア様のお言葉に、そんなに物欲しげな顔をしていたかと少し焦る。

「スキだらけだぞ、お前」

 私の腰に腕を回し、私の顔を見上げて笑いながらそう仰る。

「それで貴女に口づけて頂けるのなら、それで構いませんな」

 そう言った私の言葉に、キシリア様がじっと私の顔を見つめ、やがて目を伏せた。とんと軽い感触がして、私の胸のあたりにキシリア様の額が触れた。

「私を置いていった薄情者のくせに。……地球に来て私のことを忘れたか?」

 私に顔を見せないよう俯いたままそう仰る、拗ねたようなキシリア様の言葉に仰天した。

「申し訳ございません、そのようなつもりでは無かったのですが、つい……」

 慌ててそう言うと、きっと顔を上げたキシリア様の鋭い眼光が私を射る。曖昧な答えで満足されるような方ではないのだ、この方は。自分の子供じみた感情を暴露するのはかなり抵抗を感じたが、キシリア様の詰問に嘘を通せるわけが無い。

「つい、なんです?」

「つい、取り残されたような気持ちになりまして……」

 そう正直に答えると、キシリア様の目が驚いたように見開かれた。

「拗ねたのか? お前」

 楽しそうにそう仰ると、可笑しくてたまらない様子でくすくすと笑い始める。

自分でも馬鹿らしいとは思っていたので、笑われるのは仕方が無いのだが、ここまで笑う事はないのではないか? でも、これでキシリア様のご機嫌が良くなるのなら本望のような気もする……。

「キシリア様、そこまで笑わずとも……」

「だって、可笑しいじゃないか」

 私が耐えかねてそう言うと、笑いすぎて少し息を切らしながらそう仰った。

「でも、まあいい。私もお前に冷たくされたと思って拗ねたからな」

 ようやく笑うのをやめ、満足そうに私を見るとそう言って微笑んだ。

「とんでもございません!」

 「冷たくされた」という言葉に異議を唱えようとむきになって言いかけたが、キシリア様は手を上げて私の発言を遮った。

「お互いつまらない意地を張っていたというわけか、馬鹿らしい」

 ふう……と一つため息をついて、自嘲ぎみに仰る。貴女がそんな顔をされる事は無いのに と慌てて何か言いかけた私の唇を、キシリア様の指が制止した。

「言い訳よりも、素直になった方がいいな」

 苦笑しながらそう仰り、つ……と私の唇を指でなぞる。甘美な痺れが私の背中から腰のあたりに走った。

「『許す』と言って頂ければ」

 キシリア様のお言葉に、そう返した。

「言うとどうなるのか?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、そう私を見上げて尋ねられる。その表情に、私の体の中で先ほどの痺れが熱を持ち始める。

「秘密にしておいた方が楽しいでしょう」

 そのような事はおくびにも出さず、ポーカーフェイスで済ましてそう言うと、好奇心旺盛なうさぎが罠の中に飛び込んでくる。

「では、『許す』」

 人に命令することに慣れきった高飛車な口調、全く私を舐めきって油断しきっているキシリア様に、ちょっとした逆襲をしかける。軽く足払いをかけると、そんな事をされると想像もしていなかったキシリア様が大きく体勢を崩す。

「きゃあっ!」

 意外と可愛い悲鳴に小さな満足を覚えるが、これだけでは物足りない。体勢を崩したキシリア様の体を素早く横抱きに抱え上げ、そのまま廊下を歩き始める。

「ば、馬鹿者、お前、何をするのだ!」

 キシリア様の怒った声が聞こえるが、かまうものかと妙に強気な気分になるのは、恐らくもうすでにキシリア様に酔っているからだろう。

「せっかくお許しを頂いたので、自分に素直になってみようかと。自分で言うのもなんですが、珍しいのですよ、私がこういう事をするのは」

 自分でも驚くほどずうずうしくそう言ってのけると、空いている会議室の前で電子錠のコードを入れ、開いた扉から素早く入ってロックをかける。

これから二時間は何が起きようと一切連絡不要と短くウラガンに伝え、狼狽して目を剥くウラガンにお構いなしで一方的に通信を切った。

「お前、地球に来てから変わったな」

 会議室の机に腰掛けて呆れたようにキシリア様がそう仰ったが、その手はすでに私のネッカチーフを手早く外して、軍服の上着のボタンに手をかけている。

「そうですか?」

 と返す私の手もキシリア様のガーターベルトからストッキングを外しにかかっているからお互い様か。

 

今の私の全てである目の前の女性にもっと近づきたいと、その柔らかい肌に口づけを落とす。キシリア様も私を求め、腕を伸ばして私を抱きしめた。

私をかき抱くキシリア様の熱い体温に理性が融けてしまいそうだった。

肌と肌が触れあい、体温が一つになる。

疑惑と嫉妬の代わりに、甘やかな情熱が変わって私を支配する。

 深いため息は苦痛からではなく、快楽からのもの。

 肉の身を纏う以上、どんなに願っても一つにはなれぬ苦痛を味わうと同時に、魂の奥底を共有する狂おしいほどの一体感と喜びを感じる。

 触れあう指の柔らかな感触から、小さな吐息と顰められた眉から、私は知る。

今の貴女は、こんなに近い。



 ENDE


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