貴女と見る月







「マ・クベ、お前のおかげだ、感謝します」

 頬を上気させたキシリアが、ワイングラスを手にマ・クベに言った。

 上機嫌なのは、アルコールのせいだけではない。

 オデッサの採掘権を手に入れたことは、キシリアの今後にとって、重大な意味を持っている。

 オデッサの鉱山は、突撃機動軍に与えられる。

 その吉報を受けて、とっておきのワインでマ・クベと祝杯をあげたキシリアは、ことのほか上機嫌で、杯を重ねてゆく。

 そんなキシリアを、マ・クベが満足げに見つめている。マ・クベにとっては、そのキシリアの上機嫌さこそがなににも勝る褒美なのだ。

「ありがとうございます。過ぎたお言葉ですが、ありがたく受け取っておきましょう」

 キシリアの言葉に、マ・クベは奢る事無く、優雅な仕草で頭を下げた。大げさな、少し時代がかったその仕草がいかにもマ・クベらしく、キシリアは笑った。

「そうしてくれ」

 そう言って、くいとワインを煽る。赤い液体を空になったグラスに注ぐマ・クベを見て、キシリアが唐突に口を開いた。

「マ・クベ、私はお前にどう報いてやればいい?」

 その言葉に、マ・クベがキシリアの顔を見る。

 普段はきついその目が、アルコールでとろりとした艶を含んでいる。その目が、誘うようにマ・クベを見つめる。

 先ほどまでの機嫌のよさはそのままだが、キシリアの声には、アルコールの戯言。と言うには、真剣な響きが含まれていた。

 酔いを理由に、普段聞けぬマ・クベの本心を聞きたかったのだ。

 そしてそれをマ・クベも知っている。

「その様な事、貴女が考える必要は無いのですよ」

 マ・クベは、そう言い、自分のグラスへ手を伸ばしかけた。

 マ・クベのその手を、キシリアの白い手袋をした手が、さっと握る。

「お前は何故、私にそこまで尽くしてくれるのです?」

 キシリアの真剣な目。マクベの手を握るキシリアの手の力。

 本当に聞きたかったこと。そして、胸に抱くかすかな期待。

 ともに同じ道を歩んでくれる男と、成功を祝って飲む美酒は、ことのほか美味だ。

 マ・クベとグラスを合わせて飲む美酒が、歓びだけでなく、胸を甘く締め付けるのは、上司と副官としての関係と同時に、もう一つの関係をも望んでいるから。

「余計なことはお考えになりますな」

 マ・クベははぐらかす様に薄く笑って、彼独特の震えるような声で優しく囁いた。

 まるで、聞き分けの無い子供を諭す大人のように。

「答えて、マ・クベ。私には大切な事です」

 キシリアは、はぐらかそうとするマ・クベの本心を聞き出そうと、手をぎゅっと握る。

 マ・クベの手を握るキシリアの手は力強かったが、ほんのかすかに震えていることにマ・クベが気がついた。

 不安を感じていらっしゃるのか? このお方が。

 常に自信に満ち、触れれば切れるような鋭い知性と、男をも凌ぐ豪胆さを持つこのお方が……。

 いや。

 とマ・クベは思いなおした。

 マ・クベを導く、何よりも信頼のできる、頼もしく力強い手。

 強いとばかり思っていたその手。

 今マクベの手を握るキシリアの手は細く、柔らかい女の手だ。

 そんな当たり前のことに気付かされる。

 これは、私が愛し、慈しみ、尊敬し、崇拝する女性の手だ。

 そのキシリアが、自分を求めているのだと思うと、支えて差し上げなくては、という思いが心の底から湧いてくる。


 そう私は……。

 キシリア様を愛している。


 上司としても、そして女性としても。

 

「そうですね…」

 マ・クベは、腕を組んで、顎をつまみ、しばし考え込んだ。

「貴女は私に『与えて』下さいます。それで、私の理由は充分です」

 生きる意味を、生きる楽しみを。

 マ・クベにとってそれはキシリアにしかできない事だ。

 顔を上げ、キシリアに告げたマ・クベの顔に、キシリアが近づく。

「いけません、キシリア様」

 蠱惑的な赤い唇の誘惑を、マ・クベが鉄の意思で払った。

 キシリア様と同じ夢を見るだけでいい。それ以上踏み込んではいけない。

 私はキシリア様を守る騎士なのだから。

「私はお前に口付けがしたいのだよ」

 マ・クベの内心を知らず、キシリアは意地悪く魅力的な表情で、マ・クベの耳元で囁く。

「キシリア様、酔ってらっしゃる」

 キシリアのくすくすという笑い声が耳元で聞こえる。マ・クベは困った顔をしながらキシリアを軽く手で押し留めると、キシリアがマ・クベの目をじっと見つめる。

「なぜしてはいけない事がある? 私はお前に口付けがしたいのだよ」

「どうして私を困らせるのです…」

「私が嫌いか?」

「私の気持ちを判ってそう仰る。貴女は酷い女性だ」

「だって、お前が素直にならぬだもの。私を愛しているくせに」

 マ・クベの顔に自分の顔を近づけて、目を見つめながらはっきり言う。

「越えてはいけないものはあります」

「私はそうしたいのだよ」

 キシリアはそう言って、マ・クベの唇に赤い唇を重ねた。

 重ねた唇がゆっくりと離れ、閉じていたキシリアの瞼が開く。

「お前の望みは何?」

 キスとアルコールで、ほんのりと赤い目元。ちいさな囁き声。マ・クベの耳元をくすぐるキシリアの甘い息。

「貴女の一歩後ろをずっとついてゆく事をお許しください」

 ずいぶん飲んでいるはずなのに、マ・クベの声はまだしっかりと固い。

 だがそれが、酔った勢いなどで言ったのではない、マ・クベの誠実な本心。

「それだけか?」

「充分ですよ」

「この私がお前の望みを聞いてやろうというのに、張り合いが無い」

 キシリアが不満そうに唇を尖らせると、マ・クベがふっと笑って目を伏せた。

 顔を上げて、キシリアを見る。いつも余裕たっぷりで、自分の内心を見せぬマ・クベの顔が、一瞬ドキッとするほど真剣な目をしてキシリアを見た。

「ならばキシリア様、戦争が終わったら……。一緒に月を見てくださいますか?」

「月?」

 首をかしげるキシリア。キシリアにとって、月とはグラナダ基地であり、自らの拠点であった。

「幼い頃、祖父が話してくれました。私の先祖はシルクロードを旅する商人だったと。私は私の遠い先祖も見たであろう砂漠の月が見たいと常々思っておりました。それを一緒に見に行ってくださいますか?」

 マ・クベの言葉に、そうか、お前は今から地球に行くのだったな。とキシリアは呟いた。

 地球から見る月は、どのようなものだろう。と想像をめぐらせる。

「いいだろう。お前と一緒に月を見に行こう」

 キシリアはマ・クベに向かって、微笑みながらそう言った。

 リアリストの癖に妙にロマンチストのマ・クベの夢を、かなえてやろうというのだ。


 戦争が終わったら。とマク・ベは言った。

 それはいつの事になるのだろう。


 もしかしたら、それは永久に来ないのかもしれない。


 その頃私達は、どうしているのだろう?


 マ・クベの、ささやかだが、果たされないかもしれない願いが胸を締め付ける。

 それがかなえられない望みかもしれないと言う事をマ・クベはよく知っていて、それでも望んだのだ。


「ならば、迎えに行きますから、私の手の届く所にいてください」

 マ・クベが少し苦しそうな切ない微笑を浮かべた。

 キシリアの元を離れ、地球へ行くマ・クベの切実な願い。

 月と地球と、離れていても、いつでも貴女を側に感じていたいという思いを込めたマ・クベの言葉。

 貴女さえいれば、私はどんな事にも耐えられる。

 マ・クベの想いが、キシリアに伝わらぬはずが無い。

「約束しましょう。お前と一緒に月を見に行くと」

 キシリアが言い、きゅっとマ・クベの手を握った。マ・クベのよく知る、力強い手。

 貴女の言う事ならば信じられる。

 その思いを込め、マ・クベがキシリアの目を見ると、キシリアが悪戯っぽく笑う。

「ジオンが勝っても、勝たなくても!」

 き、キシリア様、それは……! と狼狽するマ・クベを横目に、キシリアは、よいであろう。と済ました顔をする。


 たとえジオンが負けるような事があっても、私はお前と共に往こう。


 キシリアの言葉に、目頭が熱くなった。



 夜の沙漠に風が吹き、砂に模様を描く。

 地平線の向こうまで見渡しても、誰もいない。

 砂の上に、足跡が二つあるだけ。


 銀色に輝く月を頭上にした貴女が前を行く。私は一歩後ろをついてゆく。

 貴女はふと立ち止まり、月を指差す。貴女の身に纏ったヴェールが風にはためく。

 私は微笑んで、貴女と、その後ろにある月を眺める。


 目を閉じていたほんのわずかな間マ・クベが見た夢。

 叶えられぬかもしれぬその思い。


 キシリアの言葉を胸に、もうすぐマ・クベは地球に降り立つのだ。 


 願わくば。とマ・クベは思った。

 貴女の夢と私の夢が叶うように。



ENDE


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