月下美人









 ぴくり。と毛の生えた耳が暗闇の中で動いた。

 かすかな気配を見逃さず、顔を上げたのは、一匹の剣牙虎。音を立てずに立ち上がり、のそりと自分にあてがわれたねぐらから外へ出る。

 外は昼間のように明るい。

 暗闇から外へ出て顔を上げると、満月を背に、長い体をもてあますようにくねらせる神龍が目に入る。

「こんばんは。いい月夜ですね」

「坂東殿ではありませんか」

 驚いた声が剣牙虎から漏れた。正確には声ではなくて思念だが。

「こんな夜更けに御用ですか? 直衛を呼んできましょう」

「いえいえ、今宵は新城殿にではなく、貴女に会いに、千早姫」

 思念と共に、阪東がゆっくりと地上に降りて、楽なようにとぐろを巻く。

 神龍の落ち着いた声に、千早と呼ばれた剣牙虎が首をかしげる。

「まぁ、何の御用でしょうか」

「これは寂しい事を」

 ふ、ふ、ふ。と笑いの思念が千早に伝わる。

「貴女に会いにくるのに理由が必要とは」

「本当はなにか御用があるのでしょう? 何か言いたそうにおひげがぴくぴくしておりますよ」

「かしこい貴女に隠しても無駄ですね」

 千早は阪東の冗談をあっさりとかわし、阪東は肩を竦めた。(人間風に言うのならば)

「本当は……、こんな事を言いたくないのですが、どうしてもと泣きつかれておりますので」

 歯切れの悪い阪東の言葉に、千早がじっと見つめる視線で先を促す。

「実は、どうしても貴女に会いたいという剣牙虎がおりましてな。先日の行軍のおり、貴女を見かけて一目ぼれしたのだそうです。ま、ご迷惑ならすぐにお忘れいただいて結構です。私は貴女に会いに来たついでにしょうがなく伝えただけですので」

 一気に言って肩の荷が下りたのか、ふうとため息をついて、気分を変えるように阪東は軽口を叩いた。

「貴女を妻にと望む男はさぞ沢山いることでしょう?」

「いえ……」

 俯いて返事を返す千早に、阪東が言葉を続ける。

「いや本当に。強く美しく、優しくて情が深い。貴女ほどの女性はおりません。貴女を妻にと望む男が殺到するのも無理からん事。貴女ほどの女性に愛されて、新城殿は幸せ者です」

「妾を妻に、ですか」

 ぽつりと呟いた千早の声ににじむ切なさに、阪東がおや? と片方のひげをあげる。

「そんなわずらわしい事を事を考えなくてよかった頃が懐かしい」

 さざなみのように切なさが広がり阪東に伝わる。人間ならば、寂しそうな顔で笑みを浮かべていることだろう。

「妾は、直衛の子が欲しかった。笑っていただいても結構なのですけど、幼い頃は、将来妾は直衛の妻になり、直衛の子を生むのだと信じて疑っていませんでした」

「笑ったりいたしませんとも」

 阪東の口調は暖かくて、千早はありがとうございますと思念を返す。

「ですが妾は剣牙虎。それは叶いません」

 きり。とどうしようもない辛い思いが胸を刺す。

「誤解なさらないでいただきたいのですが、妾は人間になりたいと愚痴をこぼしているのではありません。確かに、直衛の愛を受け、直衛の子を生む事の出来る人間の女は羨ましい」

 月光の下で肩を落とす剣虎兵の姿は悲しくて、見ている阪東の胸が痛んだ。

「ですが、剣牙虎として戦場で直衛の隣を駆け、一人でも多く直衛の敵を殺す。妾は直衛の役に立つ事が出来る、剣牙虎である事に誇りを持っております」

 一呼吸置いて千早は続けた。

「妾は、直衛のために子を残したい」

 強い意思を持った瞳が、阪東を見あげる。

「かつて妾の母がそうしたように」

 直衛のために。とその瞳が強く訴える。

「強い強い剣牙虎の子を」

「貴女の、新城殿に対するお気持ちの強さに心を打たれました」

 千早の言葉を噛みしめるようにゆっくりと頷いて、阪東は思念を送った。

「貴女は、新城殿の素晴らしいパートナーです、魂と魂が結びつきあう、種族を超えた素晴らしい関係を保っておられる。ですが、私は時々夢想します。貴女が人間であれば、どんなに新城殿のお心の支えになったかと。人、獣の境なく私が見るに。新城殿の隣には、貴女が一番相応しい。貴女ほど強く、優しく、新城殿を愛している女性は他におりません」

 優しく、暖かい思念が千早の心を包む。

「貴女が神龍であれば、きっと私は貴女を妻にと望んだでしょう。そうしたら、私と新城殿は恋敵になるのでしょうか? ふ、ふ、ふ」

 阪東が千早を元気付けるように軽口を叩き、思わず千早が笑った。自分を気遣ってくれる阪東の気持ちが嬉しい。

「では妾は貴方が剣牙虎でなくてよかった。と申し上げておきましょうか。直衛と貴方、どちらも愛してしまえば妾の心は二つに引き裂かれるほど苦しかったでしょうから」

 ようやくいつもの千早らしい茶目っ気の有る返事を返し、二人で顔を見合わせて笑う。

「あ」

 さぁっと地上が暗くなったのを見て、千早が空を見上げた。

 綺麗に晴れていた空が雲に覆われ、月の光をさえぎったのだ。

「雲が……。お天気が心配です、坂東殿」

「おお、本当だ」

 阪東も空を見上げ、空気の匂いを嗅いだ。湿った臭いがする。これは雨が降るかもしれない。

「お名残惜しいですが、今宵はこれで帰るといたしましょう」

「はい」

「月夜のたわごとにお付き合いいただいてありがとう」

 丁寧にお礼を言って、長い体をふわりと浮かせる。

「お話できて楽しかったですわ」

「私も、千早姫」

 好意的な笑いの思念を残し、雲の上へと向かい空を登る坂東の姿が、再び顔を出した月光に反射して銀色に光る。千早はその後姿を見送っていたが、やがて月はすぐに雲に隠れ、地上を闇で覆い隠す。

 再びほんの一瞬だけ辺りが明るくなった時には、剣虎兵はすでに姿を消していた。

 先ほどまで千早がいた場所にぽたりと一粒水滴が落ちたかと思うと、次の瞬間にはざぁっと雨が降る。

 その夜に再び月が出る事はなかった。




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