Fly Me To The Moon
真っ白なシーツの海の上に豊かな紅茶色の髪が広がる。重なり合ったシーツの隙間から白い滑らかな肌が見えた。
柔らかく曲線を描く背を向け、ややうつ伏せにベッドに横たわっている。背骨に沿った美しいくぼみに触れたかったが、数瞬迷った後、なんとかその欲望を押さえる事に成功した。シーツに隠れて見えないが、その下には、ビーナスのえくぼと豊かなヒップがあるはずだ。
朝の光がまぶしくて気に入らないのか、顔までシーツで覆っている。寝顔は見せてもらえない。
「キシリア様、鍵は置いていきますよ」
女神のまどろみを邪魔したくなくて、聞こえるのか聞こえないのか判らないほどの小さい声でマ・クベがそう言った。返事が無い事で、起こしてはいないと安心しつつ、また一方で残念に思いながら、そっとドアを開け、カチャリと小さい音をたててドアが閉められる。
規則的なブーツの音がやがて部屋を遠ざかっていき、エレベーターが来た事を知らせる高いベルの音を最後に、また静かな朝に戻った。
また何かお気を煩わせるような事でもあったのだろうか? とマ・クベはここ数日の記憶を探った。
心当たりは多すぎる。彼の上官は鉄のように強靭で鞭のようにしなやかな精神の持ち主だったが、日々与えられるストレスは常人の耐えられる域を遥かに越えている。
普通の人間なら絶えられずに根を上げる所を耐え、それでもオーバーしてしまう時は、彼女は少しだけ他人を頼る。
ふらりとマ・クベを誘い、少しだけアルコールに酔い、マ・クベに抱かれる。何時もなら夜の明けきらぬうちにいなくなってしまうのだが、今日は少し違った。
これ以上は送らなくていいと強く言い、まだ夜が色濃く支配する暗い道を行くキシリアの背を見るたびに、マ・クベは何とも言えぬ喪失感を覚える。先ほどまで確かに感じていた熱い女体は、その瞬間からマ・クベの手が届かぬ別なものになる。
また次いつ与えられるのだろうか? 明日か? それとも数ヵ月後か? 背中につけられた傷が癒えるまでに、新たな傷がつけられる保証は無い。
ただ、ひたすらにキシリアの気まぐれを待つ日々がどれだけ長い事か。
以前はそうではなかった。敬愛と尊敬、あこがれと服従。上官として、一人の人間として、マ・クベがキシリアに捧げる愛に、見返りなど求めてはいなかった。
女性として見ていなかったと言えば嘘になる。だが、マ・クベにとってキシリアは神聖な存在だった。女として以上に、乱世の英雄としてのキシリアの才能に酔い、彼女に全てを捧げると誓い、事実そうしてきた。
男として見られる事よりも、彼女の覇道のために働くことに喜びを見出した。
私はそれで十分幸せだったのだ。私を貴女に見ていただければ。貴女のために何かできるだけで私は満足だった。
マ・クベが心の中でそう呟いた。
だが、貴女は超えてはいけない壁を越えてしまった。
私があんなに警告し、拒否したにもかかわらず。
貴女は残酷な人だ。
言えぬ言葉が、マ・クベの胸のうちでエンドレスする。
マ・クベが、一瞬、苦痛に耐えかねるように目を閉じて眉をひそめた。
ふと、初めてキシリアを抱いたときのことを思い出す。
懸命に自制心を抑え、自分とキシリアを守るために拒否したにもかかわらず、唇は重ねられた。「私が嫌いか?」と問い掛けられ、白い蛇のようにしなやかな腕を首に回され、弱々しい拒否の声は熱い吐息と共にキスに飲み込まれた。
「女である事を思い出させてくれ」
そう囁きながら、髪を解いた。生き物のような動きで長い髪が広がり、広がった女の髪の甘い香りが脳髄を痺れさせる。
薄い闇の中で、一糸纏わぬ姿となり、誘うように、挑むように両手を差し出した。
私を求めるほの白く浮かぶしなやかな腕。触れられるのを待っている二つの乳房。ベッドに組み伏せた艶かしい太股。小さな笑い声。
それは尊敬する上官でもなく、神聖な女神でもない。肉の体を持った現世の欲望の対象。
あなたの白い体に私は溺れた。
そうキシリアを想うマ・クベの胸が痛む。
同時に、甘い。
初めから与えられぬものと思っていれば、まだ耐えられたものを。
貴女は私に禁断の果実を食べさせた。
貴女が欲しいなどと大それた事は望んでいなかったのに!
一度味わってしまった甘い果実を、欲しがるなと言うのは残酷すぎる。あなたを得られぬ禁断症状がどれほど苦しいか、あなたはお判りか?
いや……。
キシリア様にはそのような事、思っていただきたくない。
理性がそう思い直した。
私のキシリア様は、気まぐれに抱かれた男の気持ちなど考えるような小さな御方ではない。覇道を行く女王。私はキシリア様の忠実な騎士でなければならない。
……小さな感傷など踏み潰してしまえ。
理性が力ずくで感情をねじ伏せ、胸の痛みを義務感で押し隠した。
キシリアを独占したいという自分の感情が浅ましいと思う。本当ならば、敬愛するキシリアにそんな感情を抱きたくは無かった。
私の時間も、私の力も、全てはキシリア様のために。もっと大きな事のために使わなければならぬ。つまらない事に煩わされている暇は無いのだ。
私などの事よりも、心配なのはキシリア様だ。
キシリア様ほどお強いお方が、私を求めるのは、あの方のお心がよほど傷いている事にほかならぬ。
私はキシリア様の憂いを取り除き、その道を少しでも平坦にしなければならない。
早急に原因を突き止め、対処せねば。
そう気を引き締め、オフィスにつくまでには完璧にマ・クベが有能な軍人の顔に戻った。
何事も無かったように振舞うのは、不文律だった。昨夜の事はまるで夢だったかのように、上司と部下としての関係に戻る。提出する予定の報告書を持ちながら、別の報告を受けているキシリアをちらりと見た。
同じく報告書を持ってきた若い士官を厳しい表情で叱咤激励し、指示を与えている。まだ新米なのか、キシリアの言葉一つ一つに青くなったり赤くなったりしているその士官に、昔の自分を思い出して苦笑した。
オデッサを失ってから、またグラナダでの勤務に戻り、キシリアと会う機会も増えた。
だが、何故だろう。前よりずっとキシリアが遠い。
マ・クベが望んだキシリアの栄達。
皮肉な事に、その望みが適えば適うほど、キシリアとの距離は遠くなる。マ・クベの存在は大勢の一人となってゆく。
あなたはどんどん遠くなる。
キシリアを見ながら、マ・クベがふとそう感じた。最近そう感じる事が多くなった。
目を伏せ、感情の赴くままに思考を連ねる。
あなたの喜びは私の喜びだった。
ぽつりとマ・クベの心が呟いた。
キシリアを守り、支え、才能を開花させていく姿に狂喜した。あの時のキシリアとの一体感、狂おしいほどの達成感と喜び。
階級が上がるたび、私にも貴女にも無駄なものが増えた。貴女の副官として、貴女の事だけを考えていればよかった時代が懐かしい。
キシリアが自分が知らぬ部下に囲まれているのを見るたび、何かが変わったと思う。自分の知らぬキシリアの表情を見るたび自分がいない間何があったのだろうと思う。以前は感じる事が無かったつまらない嫉妬がマ・クベを蝕む。
貴女の側に居たかった。
マ・クベの本音が、脆くなった心の隙間から這い出した。
だれよりもキシリア様のお役に立てると信じて地球に降りた事さえ、後悔したくなるのだ。
オデッサを失った事はマ・クベの心に重い影を落とす。鉱山責任者としての責務は十分に果たしたと自負している。連邦に比べて圧倒的に劣勢だったと言い訳もできる。
だが、どう言い繕うとも、心の奥の敗北感だけは拭い去る事が出来なかった。キシリアに用済みだと言われる恐怖からは逃れる事が出来なかった。
キシリア様は、オデッサの敗退後も私を一番側において下さるではないか。
気を取り直すように、そう思った。
だが、キシリア様の側近くに居るのは、私だけではない。
思った側から、マイナスの思考が生まれてくる。胃の辺りがぐっと重くなった。
たとえば、シャア・アズナブル。
シャアとマ・クベは、その立場や役割がある意味とても似ているのだ。
同じものは、ふたつもいらない。
冷酷で無慈悲な暴君が、そう宣言して首を挿げ替える妄想がマ・クベを苦しめた。
そんなはずは無い。
いや、もしかして……。
その様な思考がじりじりとマ・クベを焼き、苦痛に苛む。
キシリアの目が、自分よりもシャアを見るのは耐え切れなかった。シャアよりも下に見られたくないという自尊心と、男としての嫉妬が何かを狂わせる。
キシリアを想う気持ちは変わらない。だが、なぜキシリアを疑うようになってしまったのだろう。
バランスが少しずつ崩れている。嫌な予感がする。
マ・クベの理性が警告する。以前は見過ごしていた事が、心に引っかかる。余裕がないと自分でも感じる。
私が地球にいる間、キシリア様は誰にその柔らかな体を任せていたのだろう。
そんな下世話な想像が、マ・クベの心を犯した。キシリアの相手が自分ひとりではないと想像しただけで心がじりじりと焼けるようだ。それでいいと思っていたはずなのに。それ以上の事は望んでいなかったはずだったのに。
上手くいっているときは気にも留めない事が、弱くなった今、マ・クベの心を蝕む。
オデッサを失っただけなら耐えられたはずだ。
男としてキシリアの関心を失うだけなら耐えられたはずだ。
だが、その両方を受け止めるには、今のマ・クベにとってこの二つはあまりに重すぎた。
弱くなった心から、疑惑と嫉妬が這い出す。キシリアを疑いながら、またそんな自分に嫌気が差す。負の連鎖を断ち切れず、マ・クベは負の感情の渦巻く暗いうねりの中に飲み込まれた。
思考の端に、目障りな赤い軍服が引っかかる。
マ・クベを更に揺るがす赤い影。
自分の考えに耐え切れず、思わずマ・クベが目を閉じ、顔しかめて小さなうめき声を上げた。
シャアが、単なるキシリアの愛人なら、または、単に仕事上の競争相手なら、マ・クベはここまで追い詰められたりはしない。
だが、シャアはマ・クベの根幹をなす両方を脅かす。さらにキシリアへの独占欲がそれに拍車をかける。オデッサを失った事が影を落とす。
奴だけは許せぬ。
キシリア様は何故奴ばかりを重用するのか!
マ・クベが思わずそう思ってうめいた。
他の誰でもなく、なぜシャアなのか。
相手がシャアでなければ、マ・クベはここまで苦しみはしない。
シャア・アズナブルとは最初から馬が合わなかった。必ず、奴はキシリア様に仇を成す。そう確信できた。
奴の目は、危険だ。
シャアの中にある禍禍しい匂いをマ・クベは嗅ぎ取っていた。シャアとマ・クベは心に同じ闇を持っている。
目的のために人を犠牲にできる冷酷さ、越えてはならぬ一線を踏み越える事のできる闇色の意思。
だから判る!
だが、私は少なくともキシリア様の前では人間だった。お前のように、誰にでも仇成す狂った怪物ではない。
マ・クベのシャアに対する評価は感情的なものだったが、ある意味マ・クベの勘は確かにシャアの本質とキシリアの未来を掴んでいた。
マ・クベとシャア、反発するのは、違いすぎる二人の性分だけでも、キシリアの関心を失う事を恐れる嫉妬心だけでもない。二人に共通する闇。自分も心の中に闇を飼っているからこそ、相手の心中の闇を敏感に嗅ぎ取る。一種の同族嫌悪が互いの存在を不快にさせた。
キシリア様は何度進言しても、シャアを甘やかせる。
貴女ほどの方が、なぜ奴にはあんなにも甘いのか?
なぜ私の言葉を信じていただけないのか?
長い間貴女を支えてきた私よりも、シャアのほうが大事だと言うのですか?
いや……、私よりもシャアの方が有能だとは思えない。
ならば、
何か他に理由があるのですか? キシリア様。
耐え切れずに、強く息を吐きながらまた目を閉じた。
シャアが、キャスバル・レム・ダイクンであり、だからこそキシリアがよりシャアを重用視していたと、神ならぬ身では知ることができない。
キシリアが自分の進言を受け入れてくれない事が何よりも疑惑の根源となる。それが一番苦しい。マ・クベを何よりも苦しめた。
疑いと恐怖と、心の底を焦がす嫉妬という名の緑色の炎が、マ・クベの理性を少しずつ少しずつ狂わせる。
他の誰でもなく。なぜ、シャアなのか!
そう思い、思わずぎりっと歯を噛み締めた。押し寄せる負の感情の波がマ・クベの理性を押し流し、うたかたの悪夢へと導く。
瞼の奥に浮かんだのは、キシリアの白い裸体を抱くシャア。マ・クベを馬鹿にしたように笑いながら、血まみれの手でぐったりと目を閉じたキシリアの白い喉を締めてゆく。
……どうかしている。
自分が見たイメージに、マ・クベが自分の弱さを嘲って笑った。
疑惑と嫉妬の迷路から抜け出せない己の愚かしさを嘲った。
「マ・クベ」
急に声をかけられて、思考に没頭していたマ・クベが慌てた。
「……あ、キシリア様、申し訳ありません」
そう言いながら急いで視線を上げると、だいぶ叱られて落ち込んでいる先ほどの士官を放っておき、キシリアがマ・クベに近づいてきた。
「よろしいのですか?」
マ・クベがちらりと彼を見ながら小さく問うと、キシリアが小さく笑った。おそらく、わざと強く叱ったのだろう。キシリアにそうしてもらえたと言う事は、彼は結構将来有望な士官と言う事だ。
「かまいません」
彼には見えないよう、マ・クベにだけ悪戯っぽく笑う。だがやはり気になったのか、表情を変えて彼の方を振り向いた。厳しい瞳が緩み、優しくフォローする。
目を丸くする彼の労をねぎらって「さがってよい」と声をかけると、「ありがとうございます!」とひっくり返りそうな声で言う。
先ほどの落ち込んだ表情が嘘のように顔を真っ赤にして敬礼し、部屋を出て行った。
微笑ましい光景に、マ・クベの口元もほんの少しだけ緩む。
「お前こそ、早く声をかければよかったのに」
キシリアがそう言うと、マ・クベの中に喜びが生まれる。まるで十代の子供のようだと笑われようと、キシリアの些細な一挙一動が、マ・クベを殺しもし、生かしもする。
「いえ、たいした用ではありませんでしたから」
「私は、お前の用がたいしたこと無いと思ったことはありませんよ、マ・クベ」
そう言いながら、キシリアの唇が意味深に笑った。まるでキスの後のような妖艶な瞳でマ・クベを見る。一瞬マ・クベが息を呑むと、す……と手が動いた。
白い手袋の指先が、キーをつまんでいる。白い蛇のようなゆっくりとした動作で、マ・クベの腰から胸元を撫でながら手が這い上がり、長い指がまた別の生き物のように動いて、鍵を胸ポケットへ押し込んだ。
ベッドの中のキシリアの手つきを思い出させるその行為に、マ・クベの体に甘い痺れが走る。
「また今夜、お前の所へ行ってもいいだろうか?」
聞こえるか聞こえないかの小さな声でキシリアが囁いた。執務室の隅では、トワニングが書類をチェックしている。キシリアが背を向けているため、あまり良く見えないだろうが、それでもキシリアの大胆な行為に少し気が焦った。
軽い背徳感をスパイスに、キシリアが遊んでいるのだ。上手く振舞わないといけないと思うが、気の聞いた台詞も思い浮かばない。他の女になら、このような事は無いのに。
「……お待ちしております」
見て見ぬ振りをしているのかもしれないトワニングに気付かれないように、やっとそれだけをマ・クベが囁いた。伝えたい事は山ほど有るのに、いざキシリアを目の前にすると、何も言う事ができない。
マ・クベの狼狽した顔が面白かったのか、くすりとキシリアが笑う。
「ならば、どうぞ、鍵を差し上げます」
キシリアのくれた甘い痺れに酔わされて、うわ言のように自然に言葉が口から出た。
キシリアがねだらなければ、マ・クベはキスをしない。
どんなに激しくキシリアの体を愛撫しても、なるべく触れた証を残さない。
そのマ・クベが、初めてキシリア見せたキシリアへのほんの些細な執着。
私の心に入ってきてくださいという小さなメッセージ。
キシリアに鍵を渡せば、ひょっとしたらキシリアが居るかもしれないという甘い夢を見られる。キシリアの手に鍵がある限り、次の逢瀬も、その次の逢瀬も有るのだと信じる事ができる。
部屋の鍵は、次の約束の証。キシリアがほんの一時でも自分を心に留めてくれたのだという証拠。
「……約束はできません」
キシリアの声に、はっとマ・クベが我に返った。
先ほどの勝気が嘘のように、悲しそうに目を伏せ、儚げな笑みを浮かべている。
女性とは何故、こんなにも色を変えることができるのだろう?
悲しむより先にそう思った。慈悲深く残酷、強く儚い。素直でいて強か。キシリアの見せる色の一つ一つにマ・クベが強く魅かれる。
貴方一人に束縛される事は出来ない。次の約束は出来ない。
それがキシリアの返事だった。
ずるい人だ、貴女は。
そう思っても、マ・クベにはキシリアを恨む事など到底出来ない。ただ、口元でだけ無理やり笑って、感情を飲み込んだ。
私には、心など無いとお思いですか?
そう、心の中でだけ問いかけ、目を伏せたままのキシリアの白い顔を見つめた。
拒否したのは貴女の方。夢を見る事さえ禁じたのは貴女の方。
なのになぜ、そんなに悲しい顔をするのですか?
「もう剣を引け!」
白いモビルスーツのパイロットの必死の叫び声がギャンのコクピット内に響く。会った事など無いが、ずっと以前からその存在はお互い痛いほど感じている。まだ若い少年の声に嘘は無かった。
「シャアを頭に乗らせないためには、ガンダムを倒さなければならんのだよ!」
マ・クベの返答も、狭いコクピット内に響いた。
テキサスコロニーの赤い砂が舞い上がり、砂煙が二機のMSの姿を煙らせる。ビームサーベルとビームサーベルの十数合の打ち合いが、捨てられたコロニーの物悲しい風景の中繰り広げられる。
すでに勝敗は明らかだった。パワー負けした機体は、打ち合うほどにじりじりと後退していく。
時間の問題だった。
だが、マ・クベに戦いを止める気はない。
ここで退けば、全ては終わりだ。失われた自己の存在意義の再生が出来ずに生き延びても、得た生に意味などは無い。嫉妬と猜疑にまみれ、ゆっくりと死んでいく位なら、まだキシリアを想いながらここで果てた方が何倍もましだと。疲れた心がそう言った。ヤケにでもなったかのように、ただがむしゃらにガンダムに突っかかっていく。
喜びも、悲しみも、澱のように溜まっていく。全てを昇華させるには、私はこうするしかなかったのです。
マ・クベが、遠く月にいる彼の女神に囁いた。
シャアを頭に乗らせないために……、それだけではなく……。
マ・クベが激しさを増す戦いの中で、そう思った。ガンダムを倒すと言う事は、もう一度貴女に私を見てもらうということ。そして私の存在意義を確かめる事。あなたの側にいる資格があると証明する事。
ガンダムのパイロットの切羽詰った若い声に、マ・クベが少し笑みをもらした。もうすぐ彼の命を奪うであろうそのパイロットのその声は、敵であるはずのマ・クベにさえ誠実だった。シャア・アズナブルとは違って。
剣を引けと言われても、引けると思うのかね? ガンダムのパイロットよ。
私は自分の存在意義をかけて君を倒さねばならなかったのだよ。
たとえこうなる事が判っていても。
ガンダムのビームサーベルが二本に増えた。押し負け、揺らいだギャンの胴体部分に、二本の牙のように食込んだビームサーベルが動力炉を破壊する。
ああ、折角キシリア様から頂いたギャンが傷付いてしまう。
キシリアがくれた高貴なこの機体が傷つくのは悲しかった。こんな時でさえも。
回路がショートし、小さな稲妻がコックピット内のあちこちに走った。
キシリア様は、なぜオデッサに私を送ったのだろう。
こんな時にふとそんな事を考えた。
全てを狂わせてしまった元凶のように思える、オデッサ。
その時、神の啓示のように、一つの感情がマ・クベに落ちてきた。
びくっと体が震え、はっとその目が宙を見据えた。
私を信じてくださっていたからだ。
いくら信じようと思っても心を素通りしていたものが、急に心に落ちてきた。
シャアの派手さに惑わされず、自分の果たした任務の重要性を考えれば、そこに、キシリアの答えがある。近くにありすぎて、見えなかった答えが。
シャアに与えられたのは、成ればよしという奇襲作戦。
マ・クベに与えられたのは、絶対に外す事の出来ぬ鉱山からの資源発掘。今だけでなくキシリアの未来へ続く任務。
貴女は、私を同じ夢を見る相手だと認めてくださっていた。オデッサは、その証だったのだ。
貴女は十分私を愛してくださった。
はっきりとそう感じた。今この瞬間も確かに。
言葉でも理屈でもなく。疑惑と猜疑に満ちた黒い世界を、一筋の光が照らし出し、最後にその真実を示したかのようだった。
いままで側にあったものに、なぜ気が付かなかったのだろう?
あなたの眼差しに、貴女の仕草に、貴女から頂いたものに。貴女が私にしてくださった全ての事に。
私が求めていた形でなくとも、キシリア様の愛と信頼は惜しげもなく私に与えられていたではないか。
疑う事を覚え、猜疑の果てに、その意味を不意に知る。
皮肉か、救いか、今この瞬間に。
死に逝くものの錯覚でも構わなかった。だが、そう強く確信していた。
今になってそれがようやく判ります、キシリア様。
それでも私は自分が許せなかったのです。私自身の弱さが、私の破滅を招いたのです。
愛されたいと望んだ瞬間から、私は堕落する。
キシリア様に捧げたはずの無償の愛は、その瞬間から汚される。
私は貴女への忠誠を証明したい。たとえ、愚行だと笑われても、命を落とそうとも。
残念ながら、私はもうあなたのお役には立てそうもありません。
私の行動を理解できないと貴女は仰るかもしれない。
私がこのような行動に出たのは、漢のメンツ……だと言ったら貴女はお怒りになるだろうか。
貴女を信じられなった弱い私を、功を焦り、間違った私をなじってくださるだろうか?
願わくば烈火の如く私を叱ってくださる事を。
冷たく一瞥され、見捨てられては、私の肉体ばかりではなく、心までもが死んでしまう。
冗談めかしてそう思い、口元にかすかに笑みを浮かべた。
負けるつもりは無かった。勝つための算段は十分した。
やるべき事を全てやって、それでも勝てなかったのだから、それが私の運命だったのだ。
私の最初で最後のわがままをお許しください。貴女の進むべき道を共に行けぬのが残念です。
マ・クベがそっと最愛の女性に別れを告げた。最後の言葉が絶叫となり、爆発と共に消えてゆく。
もし、キシリアが見せたあの儚くて悲しげな顔が、マ・クベの前でしか見せないものだと知っていたら、何かが変わっただろうか?
テキサスコロニーの赤い砂が舞い上がる。
彼はもう居ない。
一つの遺言を残して。
心ならずも貴女とお別れするのは、貴女を信じる事が出来なかった私に与えられた罰なのでしょう。
私が最後に貴女に託す品。あれが経てきた年月と同じ年月が経てば、貴女は私を許してくださるでしょうか? 私はもう一度貴女にお会いできるでしょうか?
今はただもう一度貴女にお会いしたい気持ちで一杯です。
貴女が許してくださるまで、冷たい陶器に思いを託し、私は千年でも待ちましょう。
どうか、あなたの前に輝ける道が開けますよう。
ウラガン、私の愛をキシリア様に届けてくれよ。
マ・クベの想いが、花が散るようにゆっくりと降り注ぎ、届けられる事の無いテスタメントとなって砂埃と共に風に吹かれて散っていった。
テキサスコロニーの赤い砂が舞い上がる。
彼はもう居ない。
肉体を失った思念が、ただ訳も判らぬまま愛する人を求めて彷徨っている。ばらばらに砕けていたそれはやがて集まって男の形を取り、男はずっと待ち続ける。
どうやって先に行った事を詫び、拗ねる彼女をなだめようかと思いながら、口元に笑みを浮かべ、こうして貴女を待つのも悪くないと、彼女の手を再び手に取る日を待っている。
その手を離すことはもう無いと心に誓いながら。
ENDE
20041224 UP
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