或る下僕の一日
「起きろ。もう朝だぞ」その冷酷無慈悲な命令口調の女の声で、私は心地よいヒュノプスのまどろみから現実に引き戻された。
ぼやけた焦点が合っていく中で、目覚めて最初に見たものは、寄せて上げて盛り上がった形よい女性の胸の谷間で、おおこれは見事なと寝ぼけた頭で感心していると頭をはたかれた。
「どこを見ている。早く起きろ」
ようやく脳細胞が活動しはじめ、周りの状況を把握するよう努める。嫌々ながらベッドの上で上半身を起すと、目の前にキシリア様の顔のアップがあった。
何事だ……。何事なのだ……。
私はまだ目覚めきってない頭で必死に考えた。なぜ休日の午前中、前日に散々夜更かしをしてまだ寝ていたい時に、私の家の私のベッドの上に上官であるキシリア様がいらっしゃるのだろうか?
キシリア様は私のベッドの上で、私の体をまたぐように四つん這いになって私の顔を上から覗き込んでいた。このような起こし方はレディがする事ではない。心臓に悪い。見るなといわれても白い胸の谷間に目が行ってしまう。
言葉の出ない私を気にする様子もなく、キシリア様がにじにじとベッドから降りた。側のテーブルに置いてあったプレゼント用に包装された大きな箱を次々と私の方へ放り投げる。
「三十分だけ待ってやるから、早く支度をしろ」
「何の……ですか?」
急な展開になんとかそう言いながら大きなリボンのついたその箱を開けてみると、そこには真新しいスーツとシャツが入っていた。他の箱にも靴から靴下にいたるまでがすべて用意されている。
「お前は私の買い物に付き合うのだ」
「私、今日明日は休みなのですが」
「そうか、それがどうした?」
「当然の権利としてもっと寝ていたいのですが」
まるで後光のような朝日を背にキシリア様はゴージャスな笑みを浮かべていたが、私が愚図愚図とベットから出ようとしないのを見ると、ぴくっと眉が動いた。
「そうか、寝ていたいのか」
そう言うと、キシリア様は、寝る前に大事に愛でていた私の壷を手に取った。嫌な予感がすると身構えた瞬間に、そのまま満面の笑顔でぱっと壷から手を離す。
うおぉぉおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!
思わず必死の形相で私は壷に向かってダイビングした。幸いな事に、私自身は大変痛い思いをしたが、壷は私の両腕にしっかりと確保する。
慌てふためくなどみっともない。必死になるなど格好悪いと思っていた私の信条をも曲げて、寝起きのくしゃくしゃの頭で、腫れぼったい目で、それこそ人生でもっともかっこ悪い姿を人生で一番見せたくない人の前で見せた。
宣戦布告から実行までのあまりの時間的猶予の無さにキシリア様の恐ろしさ改めて思い知らされる。交渉の余地どころか脅迫すらも無かった。
「なんだ、起きられるではないか」
「ええ、起されましたとも!!」
大切な壷を抱きかかえ、切れそうになりながら私は立ち上がった。
さすがに腹を立てながらキシリア様を見下ろすと、キシリア様は悪びれもせず、その魅力的な唇に、美しく、悪魔的な笑みを浮かべながらこう言った。
「休日手当ては払う。心配するな。お前の上官はけちではないぞ」
私は何度キシリア様に騙されたら気が済むのだろうか?
休日の優雅な予定を変更して慌ててシャワーを浴び、急いで着替える。身なりを整えてお待たせしているキシリア様の元へ行くと、キシリア様は優雅にモーニングティーを楽しみながら、アボガドとエビのサラダを胃に納め、レバームースとブラックペッパーのサンドイッチを口にした所だった。
「お前の所の家政婦はなかなかに料理が上手いな。朝食を取っていなかったから助かったぞ」
紙ナプキンで口元を拭いながらキシリア様がそう仰った。それならばせめてゆっくりと朝食をお取りになってから来ていただきたかった。そうすれば私ももっとゆっくり眠れたし、朝食を食いはぐれる事も無かったのに。
「で、私の朝食は?」
私がそう言うと、キシリア様は一口かじったサンドイッチを私の口の中につっこむ。
憮然としながらもぐもぐと口を動かし、ぬるい紅茶で流し込むと、ふらりと部屋から出て行ったキシリア様が戻ってこられた。手にはワックスの瓶を持っている。
「なんですか?」
私が間の抜けた顔をしてそう問うと、キシリア様はワックスを少し手にとり、手のひらに広げて私の髪の毛になじませた。
キシリア様のお手が私の髪の毛にもぐり、狼狽してしまって私はなすがままだった。キシリア様は二歩三歩後ずさって、真剣な目で品定めするようにしばらく私を眺める。とても落ち着かない気持ちでいると、難しい顔でキシリア様が私のシャツのボタンを上から二番目まで手早く外した。
「よろしい、行くぞ」
ようやく満足そうに頷き、わが女王は下僕(私だ)を従え、颯爽と歩き出した。
歩くたび手に持ったいくつもの紙袋ががさがさとかさばる。反対の手に持った帽子の箱、靴、等々の箱の高さは既に私の頭を越えようとしている。もう十軒は楽に回っているはずだ。
有名ブランド店に行ったかと思えば、三坪ほどしかないような店にも突然入る。あっちに行きたい、こっちに行きたいとその足取りは予測もつかない。大きな店に入れば、キシリア様のために小ファッションショーが催され、気に入ったものがあれば、値段も見ずに利用限度額無限大のカードを使ってサインする。私はというと、店員の哀れみとも羨望ともつかぬ視線を後に店を出るたび荷物は増えていくのだ。
わが女王は、ヒールの高い靴という魅力的な枷を自らに課しておきながら、疲れる様子もなく、花から花へ飛び回る蝶のように店を巡るのを楽しんでいる。快楽を得るために必要な、辛く、苦しく、くだらない雑務とは無縁で、享楽にのみ生きるわが女王のなんと足取り軽く、晴れやかで美しい事か。
……その代わり、その辛く苦しくくだらない雑務は私に課せられているわけだが。
私は一歩うしろから付いて行きながら、キシリア様のほっそりとしたうなじや、その細腰や高い位置にあるヒップ、スカートから伸びたすらりとした脚を下僕の特権として思う存分心の中で賛美したりしていたのだが、もはやそれで気を紛らわせるのも限界に来ている。
手にバック一つすらも持たずに、手ぶらで楽しげに前を行くキシリア様に遠慮がちに声をかけた。
「キシリア様……」
「………………」
沈黙が返って来る。聞いてない。その心は次に何を買うか楽しい想像だけでいっぱいらしい。荷物もちをしている私を振り返りもしない。一度もだ。
「キシリア様!」
「何だ?」
少しきつめに声をかけると、本日初めて、キシリア様が私を振り返った。
「もう十軒は回りましたが?」
「あとバッグとアクセサリー、ガルマへのプレゼントと、下着……はこの前三連星と行った時に買ったからいいか。香水と化粧品だけだから我慢しろ」
なんとかこの辺りで勘弁して欲しいと思っていた私の望みは無残に打ち砕かれたばかりでなく、驚愕の事実までもが発覚した。
「三連星!?」
「選ばせてやったら嬉しそうにはしゃいでな、可愛かったぞ」
なんであの馬鹿どもがそんないい思いをして私がこんな苦しい思いをしなければならんのだ!!! 理不尽さにはらわたが煮えくりかえりそうだ。
「マ・クベ、あっちへ行きたい」
そんな私を気にもとめず、キシリア様はまたもう一軒、道の向こう側の店を指差した。
「大変申し訳ありませんが、もう持てないのですが……」
「ン?」
恐る恐るそう申告すると、キシリア様が先ほどスタンドで買ったクレープを口にしながら、上目使いでこちらを振り向いた。なんというか、気の張っていない、無防備な、普段は絶対に見られない上機嫌なかわいい仕草に眩暈がしそうだ。「たまには羽目を外したい」と仰っていた言葉通りに、今日のキシリア様はかなり浮かれている。軍人であるキシリア様しか知らない人間が見たら別人であるかと思うほどに。
冷たく厳しい女王であるキシリア様も素敵だが、このような我侭でお可愛らしいキシリア様も割と、いやかなり素敵だ。
キシリア様が食べかけの苺クレープを私に差出し、私は一口それに食いついた。
ああ、情けないことに言い出そうとしたなにかがス〜っと消えていく。
「いえ、行きましょう」
私は自らの墓穴を自らで掘るような行為を喜んでするのであった。
「キシリア様、料理が来ましたよ」
「んー……」
私が声をかけても、キシリア様は雑誌を読みながら生返事を帰す。
腹が減った、夕食を取りたいとホテルに入り、レストランへ行くのかと思ったらいきなり最上階のスイートへ直行する。そこでレストランのルームサービスを取り、有能なスタッフが可能な限り迅速に料理やワインを運んでくるのだが、当のキシリア様は、またふらっと立ち寄った怪しげな古本屋で買った土星人来襲シリーズという内容のムック本に夢中だ。好奇心旺盛なのはいいが、キシリア様の場合、一般的に変だと思われているものにまで心惹かれるらしく、薬局の前の象やかえるを熱く見つめるキシリア様を引っ張って行ったり、色々変なものを法外な値段で買おうとするキシリア様を止めるのが大変だった。
もう一度声をかけると、キシリア様が私の方へちらりと視線を向け、口を開けた。その艶かしいピンク色の口腔に、食べやすいよう切った肉や魚を運ぶ親鳥のような役目をする。ずいぶんお行儀が悪くて横柄な雛鳥ではあるが。しかし、いくら行儀が悪くても様になるのは、育ちのよさが出るからなのであろう。
「お行儀の悪い!」
しばらくしてもそうしているので、私が叱ると、キシリア様はむっとしたように私からフォークを取り上げた。ぴんと背筋を伸ばし、完璧なテーブルマナーで残りの食事を続ける。キシリア様の食べる姿(食べる姿だけではないのだが)は大変お美しい。仕草が洗練されていて美しいのだ。
怒らせたかと内心焦っていると、それに気が付いたのか、キシリア様が済ました顔のまま優雅な仕草で私に自分のフォークで鴨を食べさせたり、スプーンにスープをすくって差し出してくる。私が目を白黒させていると、私を振り回すのが楽しくてしかたがないというように上機嫌に笑った。
「今日はつき合わせて悪かったな。おかげで楽しかった」
食事……というか、じゃれあったというか、とにかく皿が全て下げられた後、キシリア様が食後のコーヒーを手にしながらそう仰った。
「キシリア様に喜んでいただけるのならいつでも。ただし早朝の襲撃はお止めください」
私がそう言うと、気をつけようと仰ってキシリア様が笑った。
「休日を潰した埋め合わせはする。休暇をやろう。明後日まで出てこなくていいぞ」
キシリア様はそう仰ったのだが、私は少し考えてこう言った。
「……いえ。明後日は出ます」
出る理由が、キシリア様に会いたいから……。という理由は伏せて。
「何故?」
意外そうにそう言われ、いろいろ問い詰められたが、忙しいからとか何とか適当な理由をつけてキシリア様をはぐらかす。いい年をした大人の男が、そんな青臭い理由を言える訳が無い。
その後は二人で仲良くワインを飲みながらこの間見たオペラの話をしたり、私が必死になって運んだ買い物を早速広げたりと、夢のような楽しい時を過ごした。
「泊まっていくだろう?」
夜も更け、何となくお互いがそんな気分になったのを見計らって、会話が一瞬途切れた瞬間にキシリア様がそう仰った。
「もちろん……」
私がそう言うと、キシリア様が立ち上がり、私の唇に軽く触れるだけの口付けをした。シャワーを浴びてくる。と色っぽい目線を投げかけ、私の期待は最高潮に高まる。
シャワーを浴びた後のバスローブ姿のキシリア様をそのまま愛してしまいたかったが、なんとか我慢して入れ違いにバスルームへ行く。
うきうきとはやる心を押さえきれず、バスから出てきた私に、キシリア様はベッドの上でしどけない姿で私を誘う……のではなくて。
寝ている。
昼間の疲れが出たのか、半裸の状態でそれはもう、おだやかに、すやすやと。
ある意味誘っていると言えなくは無い。但しショーウィンドーの向こうにある商品のようなもので、入り口が閉ざされている以上絶対に手に入らないのであるが。
「キシリア様、酷い……」
思わず恨み言が口から出た。涙も出そうだ。私はご褒美を楽しみに今日一日耐えてきたのだ。それが、期待した挙句、美味しそうなキシリア様を目の前にしながらお預け。これ以上の酷い仕打ちがあるだろうか!
「疲れた。眠い……」
私の声が聞こえたのか、キシリア様が少しだけ身を起こし、こっちを見てそう言った。私の返事を待たずに、またぱたんとベッドに倒れこんですやすやと寝息を立てる。
絶望に打ち砕かれ、世の中を呪いたい気分で私は隣のベッドへと行こうとした
「マ・クベ、お前もこっちへ」
またもむくっと起きて、キシリア様が眠そうな顔で自分の隣をぱふぱふと叩いて私を呼んだ。死霊のような足取りでキシリア様のベッドに潜り込む。
キシリア様は、寝床を決める犬のようにもぞもぞと私にすりより、寝心地のいい場所を探すと、すぐさますうすうと寝息を立て始めた。
抱き枕状態の私は、地獄である。
何故だ……。なせいつもはコトが終わるとあっちヘ行けと追い出される事もあるというのに、今日は甘えたい気分なのだ……。
キシリア様の柔らかくて暖かい体を側にして、私は心の中でさめざめと泣いた。
こうして私は、神から与えられたご褒美なのか、悪魔から与えられた罰なのか判らない状態のまま、もんもんと夜を過ごすのであった。
ENDE
150401 UP
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