1、独裁者の愛



「総帥はいらっしゃるか?」

 ドア前に控えている警備兵の敬礼と共に入室してきたキシリアが、セシリアに問いかけた。

キシリアが訪れることは先刻から承知している。だが、キシリアを見たとたん、不意にドクンと心臓が脈打って狼狽した。心の中で何かがざわめく。 

「はい、中でお待ちです」

 なんとか事務的に返事を返しながら、心のざわめきの正体を探ろうと、失礼にならない程度にキシリアを見る。

 きびきびとした動作が男のようにさっぱりしているかと思えば、ふとした仕草がとても女らしい。長身のすらりとした身体は、全体に細かったが、身体にぴったりとした軍服が豊かな胸やヒップを強調している。

 キシリアが投げかけた視線の鋭さに、ギレンと同種のものを感じる。きっちりと結い上げた髪にも、整った顔にも隙が無い。その美貌が今は緊張のためかやや強張って見えた。

 なにかが残像のようにセシリアの心に焼きついた。

 なにかしら? と思った。同時に、キシリア様、髪を解いてしまえばいいのに。と思う。

 不意に、キシリアの髪が解かれ、ふわっと広がる様を想像した。

 きっと、キシリア様が髪を解くのは、心を許せる人の前だけなのね。

髪を解けばきっと、もっと優しいお顔になるわ。

 おもわずほんの少しだがぼんやりとそう考えてしまって、はっと気がつき、私ったら何を考えているのかしら? と赤面した。慌てて表情を作り直す。

 キシリアは緊張のためかやや上の空で、セシリアの態度がおかしい事にも気がつかない様子だった。セシリアの言葉にかすかに頷き、総帥の執務室へ入ってゆく。安堵と、キシリアの緊張の原因を不思議に思いながらその後姿を見送っているうちに、またはっとした。先ほどの想像がまた広がる。

ふわりと広がる、炎のような赤い髪。

 燃えるような赤い髪の女……!?

 先ほどから心に引っかかっているものを、絡まった紐が解けるようにするりと理解する。セシリアがそう気がついた時には、キシリアの姿は既に消えていた。

 

「……お前が私の執務室に来るなど、珍しい事だな?」

 皮肉げにそう言ったギレンの視線の先には、執務室へ通されたキシリアがこわばった顔をしている。人払いをしており、赤を基調とした広い部屋には兄妹を遮る者は無い。

「……用件はお判りでしょう」

 硬い声でキシリアがそう言った。血の繋がった兄妹だというのに、いつからギレンと二人になる事を避けはじめたのか、こうして二人になるのも久しぶりだった。

「さて、何の事かな?」

 ギレンがそう言ってデスクから立ち上がった。

キシリアの言葉通り、ギレンにはキシリアの用件は判っていた。すでに駆け引きは始まっている。ギレンの返答にキシリアの眉がほんの少し動いたのを見逃さなかった。

「……マ・クベの処分です。死罪というのはあまりにも重すぎます」

 キシリアがそう言うのを、聞いているのかいないのか判らない表情をし、ゆっくりとした足取りで、二歩、三歩ギレンがキシリアに近づいた。探るような視線がキシリアを舐めるように見る。気圧されまいとキシリアもギレンを睨みつけた。

「マ・クベがこれまでどれほどジオンの為に尽くしてきたか兄上もお判りでしょう。MAの実用化、鉱山資源の確保、……核の使用とてジオンを思ってやった事。そこまで我々のために尽くしてくれたマ・クベを死罪というのはあまりにも道義に外れましょう」

「お前の口からそんな言葉が出るとはな……。ずいぶんと、奴を庇うものだ」

 キシリアを横目で見ながら、相手が理で説き伏せようと言葉を連ねるのを全く相手にせず、ギレンはそう言った。自分にそのような言い訳が通じるはずが無いと判っているはずだ。それでもそう言うキシリアに対して、ギレンが先制攻撃を放った。

「兄上!」

 キシリアの苛烈な瞳がギレンを焼いた。そもそも、キシリアがギレンの元へ嘆願にやって来たという時点で、キシリアの敗北はほぼ決まっている。本来ならば、そこまでしなければならなくなる前に、マ・クベを救わねばならなかったのだ。

 むろん、キシリアとて手を尽くした。だが、今回ばかりは、マ・クベの処分は総帥によって異例なほど早く強行され、キシリアは兄との力の差を思い知らされた。だから、最後の手段なのだ、これは。

ギレンを理で説き伏せるのは出来ないという事くらい彼女もとうに理解している。最後の悪あがきとしてそれでもそうせざるを得ないところにキシリアの弱さがあり、ギレンにそこをつけこまれた。

「お願いです、兄上。私の頼みを聞いてください。マ・クベは私に必要なのです」

 プライドを捨て、懇願するようにキシリアがそう言った。これまでギレンに対して隙を見せる事の無かったキシリアの切羽詰った声が、どれほどキシリアにとってそれが大事な事かを如実に現す。

「ならばはっきりと言ったらどうなのだ? キシリア。『私の男を殺さないで欲しい』と」

 嘲るようにギレンがそう言った。感情のままに動くのはみっともないとギレンの目が語っている。

 屈辱に震えながら、それでもキシリアは目を伏せる事をしなかった。美しい石像のように、ただギレンを睨みつけている。ぎゅっと握りしめた拳が僅かに震え、キシリアの悔しさが伺えた。

「まさかお前が情人の命乞いに来るとはな。それほどあの男が良いのか? 所詮お前も女だったという事か……」

 ギレンは歩みを止めず、そのままキシリアの側を通り過ぎる。すれ違う瞬間、殊更苛立たせるような事をギレンが言った。

キシリアが来ると知らされた時は、悪い気はしなかった。軽い優越感と自分でも良く判らぬ喜びがギレンの心を浮き立たせた。だが、今はどうだ。絶対的優位に立っているにもかかわらず、キシリアの口がマ・クベを庇うセリフを言うのを見ると、なぜか苛々する。ギレンらしくない下世話なニュアンスを漂わせ、キシリアを挑発した。

「私を侮辱するおつもりですか! 私とマ・クベは断じてそういう関係ではございません」

 きっとキシリアが振り返り、ギレンの背を睨みつけながら声を荒げた。これぐらいの会話の応酬などで地を見せるような女ではなかったはずだ。だが、調子を狂わされたようにむきになって食ってかかる。

 ギレンにそう言った事は本当だが、マ・クベが必要な部下だからという理由だけで助けたいのではない。女としてマ・クベを殺したくない。その本音があるのは確かだ。それをギレンに知られるのは嫌だった。その思いが、キシリアの冷静な頭脳を狂わせる。

 お互いが苛々している。何かが引っかかる。何か大事な事を言い出せずに、何か大事な事を聞きだせずに、遠まわしにお互いの腹を探るやり方がとても腹立たしい。だが、なぜそう思うのかはキシリアにもギレンにも判らなかった。

「……そうなのか。マ・クベも抱いた事もない女の為によくそこまで尽くせるものだ」

 ちらりとキシリアのほうを振り返り、拍子抜けしたようにギレンがそう言った。一瞬、ほっとしたような複雑な表情が浮かぶ。だがすぐに皮肉げな調子を取り戻した。

 認めたくないが、余計に苛々が募った。まだ、肉欲や恋情に狂ったキシリアが自分の男を救おうと、懇願に来た方がよかった。

 キシリアがマ・クベに向ける気持ちが本物なのだと認めるのが嫌なのだ。熱病のように狂った頭で考えたのではなく、冷静に勝ち目が無いと見て、それでもこうして来るほどにあの男の事が大事なのだと認めることが嫌なのだ。

「ふ……、そのような目で睨むな。変な気持ちになるではないか」

 一心不乱にギレンを睨みつけるキシリアの目に気がつき、ギレンがそう言った。少なくとも今、キシリアの心の中はギレンでいっぱいのはずだ。そう思うとたまらなく心地よかった。

 もっとキシリアの心に自分を焼き付けたい。身も心も自分で埋め尽くしたい。

 そう思った自分の心に一瞬驚いた。

とっさに目を背けかけた自分の心をギレンが掴み、逆に睨みつけた。

何故自分がキシリアに執着するのか?

キシリアとマ・クベの間に何もなかったと聞いたときのあの一瞬の安堵はなんだったのか?

ギレンが自分の心を探った。ある感情に突き当たった。 

つまりそういうことであったのかとその感情に納得した。単純な事だ、簡単なことだ。何故気がつかなかったのか。相手が妹だからか? 誰かに心奪われる自分を認めるのを許せなかったからか?

自分が滑稽で内心笑った。

禁忌など恐れるものか。つまらぬプライドなど捨ててしまえ。

次の瞬間には、その感情を認め、鷲掴みにして飲み込んだ。噛み砕いて、自分と一つにする。ギレンにはその強さがあった。

私にもこのような感情があったものかと他人事のように思い、おかしくなった。天才だの何だの言われても、このような時にはつまらない事であたふたしている。

 私の知らない私を引き出したのはこの女だ。その先に何があるのか興味がある。

 ギレンは自分の中に居るその女をはっきりと自覚した。認めた瞬間から、躊躇いもなくそれを手に入れようと思う。その瞬間、ギレンはキシリアにとって一層危険になった。

「からかわないでください」

 ギレンの内心を知らず、キシリアが硬い声でそう言った。

ギレンが落ち着きを取り戻している。かすかに雰囲気が変わった事にキシリアが気付いた。ギレンは口元に笑みさえ浮かべている。不安が一層大きくなった。だが、それを悟らせないようにぐっと唇を噛み締める。

「ふむ、だが可愛い妹の頼みだ。聞かぬでもない」

「兄上、では……」

 油断は禁物だと判っていたはずだ。だが、ギレンの甘い言葉につられ、警戒心が緩んだ。不安の反動で、信じたいという気持ちがあったのかもしれない。キシリアの声が弾む。ギレンはその隙を見逃さなかった。

「時にキシリア、お前は自分が何をしているのか判っているのか?」

 不意にギレンが声の調子を変えた。からかうような楽しげな響きが篭っている。明らかに、ギレンは楽しんでいた。自分の中にある未知の感情と、先ほどまでの自分でない自分を。

「は……?」

 キシリアが眉をひそめる。ギレンが何をしたいのか判らない。再び警戒心が警報を鳴らす。よくない事が起こりそうだと、様々な可能性とその対処法を素早く探り始めた。

「今のお前は、私の情にすがって自分の願いを聞いてもらおうとしているわけだ。判るな?」

 妹が自分の些細な変化を読み取り、警戒を募らせているのを見て、出来の良い生徒を見る先生のように、ギレンが益々上機嫌になった。

「……何が仰りたいのです」

 キシリアが低い声でそう言った。

「お前は私に逆らう事が出来ない」

「…………」

 そう言い切られ、否定できない。確かにその通りだった。キシリアが一番ギレンに知られたくなかった事実を目の前に突き出され、さしものキシリアも一瞬言葉を失った。

皮肉な事に、マ・クベを大事に思えば思うほど、キシリアは身動きが取れなくなってゆき、打つ手が狭まっていく。

「ただお前の願いを聞くのも甘やかしすぎるな。私に頼るのなら、私をある程度は満足させてもらわねば」

 ギレンは紳士的な態度を崩さなかったが、その笑みはとても獰猛で危険だった。ぞくっとキシリアの身が粟立つ。自分が、ギレンの獲物として狙われている。それをはっきりと自覚した。兄の牙の前に、その身を晒すというのがどういう事か、遅まきながら気が付き始めた。

「お前にチャンスをやろう、キシリア」

「チャンス……ですか?」

 思わず返事を返すキシリアの声がかすれた。弱みを見せては負けだと自分を励ます。

 今まで、兄は庇護者だった。兄に反発しているといっても、それはまだギレンの手のひらを出るものではなく、判っていなかったのだ、ギレンという男を敵に回す恐ろしさが。

 威圧感とプレッシャーがぎりぎりとキシリアの体を万力のように捻り上げる。冷や汗が流れ、口の中が乾く。

ギレンが怖い……。

認めたくは無いが、それは今のキシリアの本心だった。少しでも身を動かせば、崩れてしまいそうだ。ギレンは容赦せずキシリアを追い詰める。ギレンと対等になるというのはこういう事なのだ。

だが、同時にとても好戦的な自分が、ギレンに刃向かう喜びに震えている。己の全力をかけて、ギレンに挑むのを喜んでいる。

目を閉じてしまいたいような不安は霧を払うようにだんだんと薄れてきた、徐々に体の奥が熱くなってくる。頭が冴える。自分でも驚くような力が湧いてくる。

今確かにギレンは私を見ている。

他の誰でもなく、私を。

妹としてではなく、手加減も無く、対等に。

ぶるっと体が震えた。

武者震いだ。

 心地よい充実感。熱に浮かされたようでいて、恐ろしく思考は冴えている。

 なんだろうこれは? と自問した。これほどの快楽を与えてくれた男がこれまでにいただろうか?

 ギレンだからだ。

 ギレンだから、こんなにも恐ろしく、こんなにも気持ちいい。

 目も眩みそうな快感に震えるキシリアの目の前で、ギレンがさらに口を開いた。

「簡単だ。お前が嫌だと思えば嫌だと言えばいい。すぐに止めてやろう。ただし、その時はお前の頼みは聞いてやれぬ。最後まで耐えればお前の望みを聞いてやろう」

 ギレンの眼がキシリアを射る。キシリアが見た事の無いようなギレンの眼で。それだけ体がぞくぞくと震えた。

「判りました」

恐怖と、畏怖と、喜びと、対抗心。それらがない交ぜになって、どうにかなってしまいそうだったが、それでもなんとかそう言ったのはマ・クベのことがあるからだった。私が逃げれば、マ・クベが死ぬ。そう自分に言い聞かせた。その事実が、舞い上がりそうなキシリアの心を冷静にする。キシリアを支えている。

全意識を集中して自分を見ているキシリアに、ギレンがふっと笑い、口を開く。

「では、服を脱げ、キシリア。その身に何一つ纏う事許さぬぞ」

 ギレンの低い声に、びくっとキシリアの体が震えた。

目を大きく見開く。唇をかんだ。凍るような冷水を浴びせられたかのように、急速に心と体が冷えていった。

なんという事を言うのか!

信じられずに、ギレンを見た。

ギレンはキシリアの反応を予想していたらしく、憎らしいほど冷静な顔でキシリアを見下ろしている。

本気なのだ!

高揚感は急激に薄れ、ギレンに与えられた衝撃で息苦しくなった。ギレンの手によって高いところまで連れて行かれ、また突き落とされた。

よりにもよってギレンの前で女の体を晒すなどと!!

そうキシリアが狼狽した。

取るに足らぬ男の前でなら、恐れる事など無い。

だが、ギレンの前で……。

兄は私に何をするつもりなのか?

女として耐えられぬ屈辱的な命令に、本能的に怯えた。

鉄の女将軍だと呼ばれても、女の弱みまでは消せないのを思い知る。淑女たる教育を受け、プライドの高いキシリアにとっては、目も眩みそうに屈辱的だった。

 兄は私を女と思って馬鹿にしているのだろうか?

 とっさにそう思った。キシリアが「女」である。それだけの理由で、馬鹿にしたり下卑た視線を向けてくる男はいた。女を物としか思っていないその視線は生理的に不愉快だったが、軽蔑こそすれ、自分を脅かす恐怖など感じなかった。

 違う。ギレンはただ私に恥をかかせようとしているのではない。

 ギレンは確かに、私の一番触れて欲しくない所を正確に狙ってきたのだ。

そう思い、兄の残酷さに背筋が凍る思いだった。

ただ男の目に体を晒すという羞恥だけではなく、ギレンの言葉はキシリアのもっと奥深い精神的な羞恥を強烈に煽る。

男社会の中で有能であり続けるために、キシリアは女の受動的本質というものを男達の中で隠し続けてきた。いくら男と張り合っても、体を晒せと言われれば羞恥と恐怖を感じる。そのような、自分の意志ではどうにもできない「女」というものを、男を威嚇している裏で必死に隠している。それをお見通しだとギレンは言っているのだ。

女の本質そのものが恥ずかしいのではない、それを、隠していたというのが恥ずかしい。

キシリア本人でさえも目を背け、気が付かないふりをしていた、幾重にも必死に隠していたそれをギレンは抉り出した。

隠しているものを知られるのは恥ずかしい。恥ずかしいと思っている事を知られるのはもっと恥ずかしい。

 恐怖と羞恥に震えた。ギレンは、隠していた事を知られるという最大級の屈辱を強いて、キシリアを追い詰める。

「嫌だと思えば、拒むがいい」

 フッ……と兄が笑った。出来ぬだろう。とその目が言っている。

兄に許しを請わなかったのは、その笑みのせいかもしれない。心を支える柱をこのような手口で折ろうとしているギレンの仕打ちに怒りがこみ上げた。その怒りが恥辱と恐怖を上回り、キシリアの中の反抗心と矜持が、兄に屈するのを拒んだ。

「……兄上の言うとおりにいたしましょう」

 ギレンの見ているその前で、かすかに震える手を叱咤し、屈辱と怯えにがちがちと合わぬ歯の根をぐっと噛み締めた。指先が軍服を探り、ぷつりとホックを外す。静かな部屋に響く衣擦れの音がたまらなく羞恥をあおった。

 これからどうなるのか、判らない。もはや意地だった。

 膝が情けなく震えそうになる。だが、手を止めない。

ギレンは私を試しているのだ。

 キシリアが自分に力を与えるように、そう心の中で呟いた。

もしギレンに屈し、みっともなく泣き叫んで慈悲を請えば、あるいは他の方法が残されていたかもしれない。だが、その瞬間からキシリアはギレンに一生拭い去れぬほどの敗北感を植え付けられるだろう。ギレンの奴隷として生きてゆく事になるだろう。

 それくらいならば死んだほうがましだ。ギレンと対等になれぬのならば。

その想いが手を動かす。白い肌が徐々に外気に晒される。豊かな胸を包む下着が露になった。

 その手をギレンが掴み上げた。

「たかが部下一人の為になぜそこまでするのだ、お前は誰をも寄せ付けぬ誇り高き女であったではないか。それほどあの男が大事か!? キシリア!」

 ギレンが叫んだ。神の怒りの雷のように激しく、怒りに満ちた声がキシリアを打つ。

「痛……ッ。どうぞ私を兄上の好きになさいませ。私は何をされようと絶対に拒みはいたしませぬ!」

 キシリアも負けじと叫んだ。ギレンを見上げる目がぎらぎらと輝いている。追い詰められたものの必死さが痛々しいほどであった。だが、震えるほど不安なくせに、ギレンの庇護を求めようとはしない。プライドの高い美しい瞳がギレンを睨みつける。

貴方に屈しはしない。と宣言したキシリアに、ギレンの唇に冷酷な笑みが浮かんだ。暗い喜びが湧き上がってくる。

「……よく言った」

 声と共に、ギレンの手がキシリアの衣服を剥ぎ取った。あっとキシリアが小さい声を上げ、黒い下着に包まれた豊かな胸や、細い腰が男の目に晒される。反射的に顔を背け、ギレンの視線から逃げた。恥ずかしさにどうにかなってしまいそうだった。

「お前の虚勢を張る姿、愛しいと思うぞ」

 ククク……とギレンが喉で笑い、ぐっとギレンの手がキシリアの乳房を掴んだ。ゆさっと乳房が揺れ、ずっしりとした重みを手のひらに感じる。キシリアは拒まなかった。ただ、ぎゅっと唇を噛む。ギレンがぎりっと鷲掴みにした手に力を入れた。苦痛にキシリアの顔が歪む。

「お前は、神が私に与えた私に一番近いもの。私を愛せぬのなら、私を憎め。お前は私のものだ。他の誰にも渡しはせぬ」

 乳房から手を離し、ギレンの手がキシリアの顎を持ち上げてそう言った。ギレンの目にキシリアが、キシリアの目の中にギレンが。互いを瞳の中の牢獄に閉じ込めている。

「ギレン……」

 驚きが入り混じり、思わずキシリアがかすれた声で囁いた。無意識のうちの、媚を売るような、かすかに甘い声。

「私がお前に何をしてやれるか、まだ判らない。だが、私がお前を手に入れれば、今は想像もつかないことが可能になるだろう。私の理想が叶った時、隣に居るのはお前だ。キシリア、つまらぬ男に心を許すな」

 ギレンが目を細めた。そのままキシリアの唇を塞ごうとするのを払いのけ、キシリアが絶叫した。

「ならば私を見てください! 貴方にとって私は何なのです?」

 ギレンの軍服を掴み上げ、何かを探して必死にその目の中をのぞく。

「近いものと貴方は仰った。それは、同じ父の血を受けた私がお望みという事なのですか? ならばこんな体いりませぬ。私の心を愛してくださらぬのなら、私の体は貴方を愛しても、私の心は貴方を憎みましょう」

 もし、ギレンの言う「一番近いもの」が、ギレンの求めるものが、自分と共通する土台からくる安心感という意味であるなら。それはキシリアを愛しているということではない。ギレンは自分に似たものを集めているだけだ。

「キシリア……」

 キシリアの反応の激しさに、ギレンが驚いたように小さく呟いた。キシリアの拳が駄々っ子がするようにギレンの厚い胸を叩く。

「ギレン……、貴方、私などちっとも見ていないくせに。貴方は私ではなくて、自分に近いものを欲しがっているだけ。私を通してご自分を愛してらっしゃるだけ」

兄と同じ血を引くこの体が憎いとさえ思う。永遠に欲しがってはもらえぬキシリアの心がそう思う。

ギレンの胸でキシリアが涙を流した。私はずっとギレンに見て欲しかったのだ。と。その想いが、熱い涙となってあふれ出る。血の繋がった妹だからではなく、一人の人間として認められたかったのだと痛いほど思う。

泣きじゃくるキシリアの耳に、信じられぬ兄の言葉が飛び込んできた。

「それが、何が悪い」

 キシリアが兄を見上げると、倣岸不遜な目をしてギレンがキシリアを見下ろしている。開き直ったかのようなギレンの言葉、どこまでも冷たい独裁者の目に我慢できずに、思わずキシリアの手がギレンの頬を打った。

「何ということを! 貴方、自分しか見ていないくせに、なぜ私を惑わすのです。他人など必要でないくせに何故欲しがるのです?」

 怒りのあまり唇が震えている。衝動を押さえるように、ギレンを打った右手を左手が掴んで制止している。あまりに自己中心的なギレンの言葉に、少しでも心を動かされた自分が馬鹿だったと呪わしく思う。

「キシリア、何を怖がっているのだ?」

 宥めようとキシリアの腕を取ろうとするギレンの手を、邪険に振り解いた。毛を逆立てて暴れる猫のように手がつけられない。

「私を見てくださらぬのなら、私は貴方に背きます」

 ギレンの言う事を無視し、キシリアが激昂して叫んだ。殺したいほど憎いと本気で思っている目でギレンを睨みつける。豊かな胸の谷間が、荒く息をつくたび上下した。

「……背けばいい」

 ギレンを焼き尽くすほどの激情をぶつけるキシリアとは対照的に、ことさら冷たくギレンがそう言った。

「兄上、何と!」

 キシリアの目が絶望に見開かれる。信じられないという表情がその目に浮かび、耐え切れなかったのがぎゅっと目を閉じた。崩れ落ちてしまいそうになるのを理性で必死に押さえる。

俯いて震えるキシリアの頭上から、淡々としたギレンの言葉が降ってきた。

「お前が何度私に背こうとも、力ずくでねじ伏せよう。嫌がるお前の体を愛してやろう。お前が私の言葉を信じるまで、何度でも繰り返してやろう」

 はっとキシリアがギレンを見上げた。キシリアの表情が可笑しかったのか、ギレンがふっと口元に笑みを浮かべる。

「愛しい女が拗ねて噛んだ小指の痛みを、憎く思う男はおるまい?」

「貴方、何処まで私を馬鹿にするのです?」

 冗談めかしてそう言うギレンに、プライドをぼろぼろにされたキシリアの声が被さった。

 私なら、貴方の指を食いちぎってやる。と、その目が言っている。

「お前こそ、何故私を信じぬ?」

 頑ななキシリアに、ギレンが少し不満そうにそう言った。

「この私が、お前を愛していると言うのだぞ」

 キシリアの顎を指で持ち上げ、捉えるように目を覗き込む。

「人を愛した事など無い、この私が……」

「やめてください!」

 ギレンが自嘲気味にそう呟いた言葉を、耳にするのを拒否するようにキシリアが顔を背けた。その言葉を信じてしまうのが怖かった。

ギレンを受け入れれば、何もかも捨てて自分はきっと溺れてしまう。兄への対抗心を燃やし、今まで色々な犠牲を払って積み上げてきたもの、今まで大切だったもの、それを捨て、許されぬ道へ喜んでギレンと共に行ってしまう。無意識のうちにそう思い、耳を塞ぎたかった。信じたいと思う自分に気が付くのにも我慢がならなかった。

 キシリアの背けた顔を、ギレンが強引に自分の方へと向けた。キシリアの混乱を楽しむように唇を笑みの形に作り、ゆっくりと口付ける。今度はキシリアも拒否しなかった。いや、出来なかった。んっう……という呻きの後、キシリアの手がギレンの軍服を掴み、力が抜けたように離れ、またぎゅっと握り締めた。

長い口付けの後、そっと唇が離れた。キシリアの閉じた瞼がゆっくりと開くと、その目は甘い余韻に酔う事もなく、ギレンを睨んでいる。

「そうだ、その目だよキシリア。お前は私を愛し、そして憎んでいる」

 満足そうにギレンがそう言った。心底楽しそうに、くっくっくと笑いを漏らしている。

「灰色の世界に、お前だけが鮮やかな色をしているのだ」

 ギレンが肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべながら、夢見るような声でキシリアの耳元に囁いた。熱い吐息と、低い声にびくっと体が震える。そのまま首筋に口付けられると、ぞくぞくとした甘い快感が背筋を走る。たったそれだけで、足ががくがくと震えた。

体中が砕けてしまいそうな甘い感覚と、見た事の無いギレンの様子に、キシリアが戸惑う。

 キシリアの戸惑いも、今のギレンの喜びを押さえることは出来なかった。

ようやく手に入れたのだ。

モノクロの世界に色をつける女の存在を。引き金の赤を。

 ざっとギレンの手が執務机の上を払った。色々な重要書類が空を舞い、万年筆やインク壷が倒れるのを気にもとめない。途方にくれた子供のような目をしたキシリアの体を軽々と抱き上げ、デスクに座らせた。ほんの一瞬だけ確かめるように瞳を覗き込み、拒否の言葉がその唇から出る前に押し倒す。あっと小さな声を上げて、キシリアの目の怯えが濃くなった。

「色をつけてくれ」

「兄上、いけませ、ン……」

 ギレンが囁き、口付けられた。拒否の代わりに甘い声を漏らす。口の中を蹂躙されても、嫌ではなかった。ギレンの舌にキシリアも応えた。奪われるようなキスの後に、ギレンの唇が耳の後ろを探る。

 びくんと体が震えた。「弱いな」とギレンが笑いながら囁き、顔が赤くなった。

豊かな胸を覆い隠す小さな布を取られ、あ……と聞こえないほどの小さな声で抵抗し、身じろぎしたが、ギレンは簡単にその抵抗を封じ込めた。

 自分が今何をされているのか、十分に判っている。自分の罪も良く判っている。それでも、拒む事は出来なかった。

 いや、そうではない。どこか、こうなる事を自分は心のどこかで望んでいたのではないだろうか?

不安と期待で張り裂けそうになりながら、自分に問い掛ける。

この世に、ギレン以上の男がいるだろうか? ……と。



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