昔の男
「沢田さん、お願いがあります」
思いつめた顔をしたお前がそう言いだしたときから嫌な予感がした。
神妙な顔でわざわざ俺の部屋に来て、しばらくもじもじしていたお前が言った言葉がこれだ。
お前に頼まれちゃあ、俺は大抵の事は何だって聞くね。お前はそれを知って言っているのかな?
「なんだ? ひろ」
俺は平静を装ってそう言い、お前の目線から逃げるように目を伏せて煙草を手にとった。内心は余裕どころじゃねえ。だがお前の前ではみっともないところなんざ見せられん。
そんなつまらねえプライドで俺はお前の顔をまともに見る事が出来ない。まるで泥棒のようにおまえを盗み見る。
相変わらずひろは綺麗な顔をしていやがる。
今は野暮ったいが、磨けば光ると組長は俺に言った。ひろには妙な色気がある。好きな奴にはたまらないだろう。だからたとえ麻雀が駄目でも、ひろゆきは違う手で金の卵を産む、手放すなと組長には言われていた。
以前、俺は男を抱いた事がある。組長が飼っている、特別な客にのみ提供される少年、男を楽しませるために特化された最高級の男娼をだ。
たしかに、ひろはその少年たちのような色気も、男を喜ばせるテクニックもねえ野暮ったい奴だ。
だが、俺はそのままのひろが好きなんだ。
美しく着飾り、女のようにしなを作り、喜んで男に跨るようなひろは見たくない。
俺の機嫌を伺う男娼の卑屈な目より、お前の俺をじっと見つめる怖いもの知らずの目が好きなんだ。
その目に見つめられていると思うと、俺はいつでも胸が高まって仕方がねえ。
気持ちが昂ぶって煙草を持つ手が震えないように気をつけ、プライドと理性を総動員してなんとか火をつけた。
ひろの前では、俺は十代の少年に戻っちまう。
そんな俺の気持ちを知らず、ひろは口を開いた。
「僕を抱いていただけませんか?」
じっと俺を見つめ、そう言ったひろの言葉に、心臓が止まるかと思った。
思わずひろの顔を見つめかえす。
心拍数が上昇する。喜びと警戒心が俺の心をぐちゃぐちゃにする。
こいつ、自分が何を言っているのか判ってるのか?
もてねえおっさんをからかう性質の悪いジョークだったら、ショックで立ち直れねえぞ、俺は。
「何故そんなこと急に言い出す?」
俺は、精一杯の虚勢を張ってそう言った。
ひろゆき、お前、もしや知っているのか?
俺が、お前を好きな事。
そして、お前も俺を……好いてくれているのか?
不意にわき起こった奇跡のような幸運に、俺は頭がくらくらした。天にも昇る気持ちってのはこういう事を言うのか?
まさか、そんな事はねえだろう。いや、でも今ひろは確かに俺に言った。
抱いてくれ……と。
じわじわと喜びが体の奥から湧いてきた。
ちくしょう、泣きてえほど嬉しいぜ。
ひろ、俺は絶対お前を幸せにしてやる。お前を守ってやる、お前が欲しいものなら何でも与えてやる。お前が死ねって言うのなら死んでやるよ。
だってお前は、こんなおじんでしがねえヤクザの俺のものになってくれるって言ってくれたんだからな。
「僕、あなたが好きだったんです」
ひろは、照れたような笑顔のままそう言った。
好きだった?
俺の心に、かすかに嫌な予感が矢のように突き刺さった。負け犬の悲しい性だ、単なる言葉のあやかもしれねえこんなささいな事も無視できねえ。そいつが楽しい気分に影を差し、喜びが風船がしぼむように消えていく。
なんだ、何だってんだ?
クソ、嫌な予感がする。
「過去形なんだな」
俺は声が震えないように細心の注意を払い、そう言った。
俺はお前が好きだよ、ひろゆき。今でも。多分未来も。
お前もそうだろ。
言うな、この先は言ってくれるなよ、頼むから。
嫌な予感に、心臓が握りつぶされるような錯覚さえ覚えた。額から脂汗が流れてくる。
負け犬の俺はこの感じを良く知っている。
破滅の予感だ。
些細な喜びを叩き潰され、絶望と苦しみをもうやめてくれと幾ら懇願しても口の中に突っ込まれ、げろが出るまで腹いっぱい食わされるんだ。
神様、いるのなら頼むからひろにこの先を言わせるのをやめてくれ。俺の幸せな気分を奪わないでくれ。
俺の願い空しく、ひろは、憎らしいほど愛らしい笑顔で口を開いた。
「ええ、今の僕には天さんが居ますから……。だからご迷惑はかけません。一度だけでいいんです」
その言葉を口にしたひろは、俺にとって、羽を持った天使にも、大鎌を持った死神にも思えた。
俺の必死な懇願は神には届かなかったようだ。
まあ……、いつもの事だ。
いつもの事でも、この最低な気分は幾ら喰らっても慣れない。ちくしょう、相変わらずだな、この失望ってやつは、くらくらするほど強烈に苦しいぜ。
ためらわず言えばよかったのか? お前が好きだって。側に居てくれって。
かかあや子供にも逃げられたしがないヤクザが、二回りも年下のお前に。
お前の気持ち、知った時が終わりだなんてな。
一ヶ月前だか一日前だか知らねえが、ひろの心は確かに俺のものだったんだ。
その時俺はなにしてた?
ぐじぐじうだうだ。自分の心に言い訳だ。
そして今俺はひろを失った。
誰のせいでもねえ、俺の不甲斐なさのせいだ。
我慢するのが美徳と思ってる、欲しいものを欲しいと言えない、昔気質の馬鹿な男。
だから攫われたんだ、お前を。
「天がいるのに、どういうこった?」
俺は喉が乾いてからからだった。かろうじて言葉を口に出す。
天はお前になんて言った?
きっと奴の事だから、俺には到底出来ない直球で勝負に来たんだろう。欲しいものをほしいと言える、強い男だからな、あいつは。
「僕、明日天さんに抱いてもらうんです」
幸せに溢れた笑顔で、少し照れながらひろゆきはそう言った。愛し愛され満ち足りた者のみ浮かべることができる笑み。心に染み入るような、綺麗な笑顔。だが、ひろにそんな顔をさせているのは、俺じゃない、天だ。
「でも、僕の最初の人は貴方であって欲しいんです。思い出にけりをつけて、天さんの所に行きます。じゃないと、いつまでもあなたに未練を持ちそうだから」
ひろの言葉から、俺に対する信頼と友愛が伝わってくる。
俺は、それだけは疑っちゃいねえ。
あの不動産の権利書を賭けた勝負の後、俺は心を鬼にして天を切った。お前にクズだと思われるのは承知で。でも俺は切ったよ、ひろ。
人のために何度も損な役をしてきた。そのために俺は誤解され、色々な物を失い、傷付いた。
俺が好きでやった事だと強がっていても、多分誰かに認めてもらいたかったんだな、俺は。
だから、ひろがまた俺の事務所に来た時には驚いたさ。
「ばかやろうなんて言ってごめんなさい」って、わざわざ謝りに来たひろを見て、俺は奇跡かと思ったよ。ひろに軽蔑されると判っていて、あえて天を切った俺の気持ちをひろが汲んでくれていた。俺はそれが死ぬほど嬉しかった。
「沢田さんの為なら、三日や四日寝ないで麻雀打つくらいなんでもありませんよ」
土地ゴロとの勝負の時にそう言ってくれたひろの言葉は俺の宝物だ。あの言葉が貰えて、俺はどんなに嬉しかったか。正直勝負なんか二の次だったぜ。
ひろは本当に俺を好いてくれているんだ。本当に俺を信頼してくれているんだ。
だが、そのひろの思いが俺を殺す。ひろが無邪気に俺を傷つける。
ひろは、もう俺を必要としていねえ。自分でも判っているんだろう。俺への思いは、はしかみたいなもんだったと。ひろは、最初に出会った俺を好きだと勘違いしてただけなんだ。ひろは自分でそれに気がついた。そして、「本物」の天を見つけた。
俺がお払い箱になるのは、必然だったんだな。
「思い出……か……」
自嘲の苦笑いをして俺は呟いた。
俺は既に過去の男だ。
お前の中で、俺は綺麗な思い出になって、お前はすっきりした気持ちで明日天に抱かれるのか。
当然だ。ひろは悪くない。
だって俺は何もしなかった。
ひろに好きだとも言えず、ひろに触れることも出来なかった、自分が傷つくのを恐れていた臆病者だ。
ひろは、俺を相当買いかぶっているようだ。俺はつまらねえ人間だ。それがひろに判って失望されちまう前に、綺麗な思い出としてひろの中に残るのならその方がずっといい。
俺は、ひろを抱きしめた。
最初で最後。
急に抱きしめられ、ひろは一瞬俺の中で体を硬くした。だが、やがておずおずと俺の背に腕を回してくる。
俺たちは抱き合った。目を閉じてお互いの体温を感じた。
ずっと、このまま時が止まっちまえばどんなに良かったか。
こんな最低な事でもなければ、俺はきっとひろに触れもしなかった。そのうち何か途轍もねえ幸運が来て、ひろが俺を見てくれるんじゃないかと馬鹿な夢を見ていた俺に、いつか来る事だったんだ、この悲劇は。
これは、俺には上等すぎる恋の結末だよ。
ひろは俺の腕の中にすっぽり納まり、俺はひろの愛しい体温を感じ、そのかたちを、匂いを、忘れないように心に焼き付けようときつく抱きしめた。
「沢田さん、僕が言いたいのはそうじゃなくって……」
あまり長い間そうしていたものだから、俺の胸の中で、ひろが遠慮がちにそう呟いた。
俺が勘違いしてるんじゃないかと心配している。
少し時間をくれよ、ひろ。俺が自分の恋を叩き壊す前に。
「判ってるよ」
俺はひろの貝殻のような小さな耳に囁いた。
抱いてやるよ、お前を。
誰よりも優しく。誰よりもお前を想いながら。
だって最後なんだ。俺には一度しかないんだ。お前は天のものだから。
この腕の中にいるひろは、俺のものじゃない。俺はそう自分に言い聞かせた。
今なら、今ならまだ間に合うんじゃねえか?
ひろ行くなよって、今ならまだ言えるんじゃねえか。
あれほど焦がれていたひろゆきは、俺の思っていた以上に甘美だった。
その手触りも、匂いも、体温も……、息使いすら。
俺はそれを手放したくないと激しく思った。俺の心に残った未練が、そう騒ぎ出してきた。
馬鹿野郎、そんな事言ったら、ひろが苦しむじゃねえか。
俺はそう自分の心を押さえた。
ひろはもう心を決めたんだ。
俺は、ひろを抱きしめる腕に力を入れた。
「ひろ、お前残酷だよなあ」
ひろに聞こえないほど小さな声でそう呟いた。
「え?」
「なんでもねえ」
俺はそう言って不思議そうな顔をしているひろを横抱きにし、ベッドまで運んだ。
ひろの体を優しくベッドに横たえ、緊張しているひろの髪を優しく撫でる。
笑って見送るよ、お前を。俺がお前を好きな事、お前にゃ絶対悟らせねえよ。
好きだからな。
お前が他の男のところに行くのを見ても、まだ愛してる。
俺を置いて前へ進め。もうこれっきり後ろを振り返るんじゃねえぞ、ひろ。
……俺は、お前を抱いた一夜を永久に彷徨うだろう。
これは……?
臆病な俺が受けた罰か?
馬鹿だよなぁ。
お前に少しでも優しさがあるのなら、立ち止まってる俺を見られたくないから、どうか振り返らずに天の元へ行ってくれ。
昔の男なんか、ぼろ雑巾の用に捨ちまえ。
ENDE
20050728 UP
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