あれからどれ位時間が経ったのか。


 庭の紅葉がひらりと優雅に落ち、池に波紋が広がる。静けさを保っていた部屋に、早足の足音が近づいてきた。


「キスならいいです!」


 赤木の部屋に入るなり、いきなりひろゆきはそう言った。


「あ?」

「キスが限界です、俺のっ……! ギリギリっ……!」

 あぐらをかいて本を読んでいた赤木の前にすとんと正座し、ひろゆきはそうまくし立てると、ぐっと唇を噛み締めて下を向いた。

 顔を真っ赤にして、汗を浮かべている。さんざん悩んだ末の結論だと言う事は思いつめた目で判る。

 すぐに先ほどの話の続きだと理解した赤木がにやりと笑う。

「じゃ、キスでいい」

 あっさりとそう言うと、赤木は手元の本に視線を移した。

「え?」

 あまりにもあっさりとそう言われ、逆にひろゆきの方がうろたえる。

「お前の必死さに免じて、それで許してやるよ」

 ページをめくる手を止め、赤木が手を伸ばしてひろゆきの腕を取った。ひろゆきの腕時計で時間を確かめると、クククっと笑う。

「お前が悩んでたのが一時間半か……、半荘二回って所かな? それなら打ってやるよ」

 そう言ってひろゆきの腕をぐいと引き寄せ、呆然としているひろゆきの唇に軽くキスをした。



「おう、どうだったよ? ひろ」

 部屋でのんびりとくつろいでいた天が、帰ってきたひろゆきにそう明るく問いかけた。

 ひろゆきは、どこかふわふわと夢見ているような顔で天の前に座る。

「半荘二回ならやってもいいそうです」

 なにげにひろゆきがそう言った途端、天と原田の間に衝撃が走る。

「……マジで?」

「ホンマに?」

「はい」

 信じられないといった表情で二人がひろゆきに迫るが、ひろゆきは軽く返事をして頷いただけだった。そのままぼーっとしている。

「ひろ、お前ホンマに凄いわ」

 そう言った原田は、すでにひろゆきを尊敬の眼差しで見ている。感心したように、凄いわという単語を繰り返し呟いている。

「素直にOKって言いよったんか? 言わなかったやろ? あのヒネたおっさんは」

 自分の経験から、赤木があっさりと要求をのむはずが無い事はわかりきっている。原田がひろゆきにそう尋ねると、ひろゆきが頬を染めた。

「なんというか……。お前も犠牲を払うならいいって」

「何要求して来よったん?」

「は、初めは体とか冗談言ってたんですけど、ほら、赤木さんよく無理難題吹っ掛けてこっちが困ってるの見て楽しむ事あるじゃないですか? それで最終的にはキスで……」

 赤木とのキスを思い出し、赤くなってしどろもどろに言うひろゆきを、天と原田が複雑な表情で見ている。

「で、キスしたの?」

 要領を得ないひろゆきの言葉に、単刀直入に天が聞くと、ひろゆきがこくんと頷いた。

「……しました」

「へぇ〜……」

「ほんまぁ……」

 天と原田が、それしか言えないといった風情で呟き、後は目配せしあって黙りこくる。

「ち、ちょっと! 他に何か言って下さいよ。軽くですってば、唇に触れるか触れないかって位の」

 深刻な二人の態度に、ひろゆきが慌てて弁解するが、二人の態度は変わらない。

「ひろ、お前前も酔った赤木さんにされたとか言ってなかった? 赤木さんとけっこうキスしてるのか?」

 逆に、呆れたように天がそう口に出した。

「初めてキスしたのは、ハ、ハワイでかなぁ……? なんか、一瞬だったし、やらしい感じとか全然しなくて、すっごく自然にしてきたから、あんまり抵抗が無かったというか、最初はもちろんびっくりしましたけど、なんか一回しちゃったら、次されても平気になっちゃって、これまで四回……位したし、これで五回……、あっ、なんか結構してますね、おかしいな、おかしいですよね?」

 赤木が、下心の気配を完璧に消したキスでひろゆきの警戒をすり抜け、段々深みにはまらせていく様子と、すでにそれにはまっているひろゆきの様子が明らかになり、天と原田は再び黙り込んだ。

「ふーん……」

「そうなん……」

「引くなぁ!!」

 ひろゆきの悲鳴のような言葉に、そりゃ引くよ……と二人は言いたかったが、哀れなひろゆきにそこまで言うのは酷だと黙った。

「ひろ、お前、強く生きろよぉ。お前用心深いようでいてどっか致命的に抜けてるからなぁ……」

「こんな若い身空で、あんな不良中年に目つけられるとはなぁ。人生めちゃめちゃや、気の毒になぁ……」

 天と原田が、ひろゆきを慰めるように優しくそう言い、力づけるように背を撫でてくる。

「なんなんですか!!」

 意味ありげな二人に、ひろゆきが顔を真っ赤にして叫ぶのを、天と原田が慈愛に満ちた目で見守る。

 まだ自分の状況に気が付いてないひろゆきの様子が痛々しい。

「大丈夫だよ、赤木さん多分優しくしてくれるから。初めてでも痛くないよ、多分」

 天の言葉に、ようやく二人がどう思って自分を見ていたのかに気がつき、ひろゆきが慌てた。

「ちょっ、それはないですから!!」

「ないとかそういう問題じゃないんだよ。お前の意思は関係ないんだよ……」

 なにげなく天は酷いことを言った。

 ひろゆきがどう足掻こうと、もう赤木のペースにはめられているのだ。ひろゆきは、操り人形のように赤木の思うままに踊るしかない。

 だが、その予想はひろゆきの大声によって覆された。

「だって俺、彼女いるしっ」

「え?」

 予想外の展開に、天が目を丸くする。

「せ、正確にはまだ彼女じゃないかもしれないですけどっ、仲良い女の子から来週一緒に二人で旅行に行こうねって……」

 真っ赤になってそう言うひろゆきの両肩を、がっと天が掴んだ。

「なんだ心配したぜ俺は。おめでとう、ひろ! そう言えばお前、大学生だったんだったな。サークルとかコンパとかそういう世界に居るんだったな!」

 ひろゆきの快挙を心底嬉しそうに天がそう言い、ごそごそと自分の財布を探った。

「じゃ、これやる」

 声と共に手渡されたものに、なんでこんなもの持ってきてるんですか! とひろゆきが叫ぶ。いつ使うか判らないからさー。と天が悪びれもせず渡したのは、コンドームだった。

奥さん達に悪いと思わないんですか! 他の女に使うとは言ってねぇだろ! とまるで漫才のような掛け合いをする天とひろゆきを横目に見ながら、原田は、それは、ひろゆきが使うのではなくて、ひろゆきが使われるのではないかという疑念を拭い去れずにいた。




 頭を冷やしてきます! とひろゆきは一人京都の町へ出かけ、残された原田と天は、好き勝手に二人を肴に話しはじめる。

 ああでもない、こうでもないとさんざんネタにしたあと、天が言った。


「赤木さんの性格からしてさ、ひろゆきに彼女が出来たら、もう手を出さないと思うんだよね」

 天の感じでは、赤木はそれほどひろゆきに固執していないように見える。恐らく、どっちでもいい、位にしか思っているのではないか。

 むしろ、ひろゆきを落とすというより、ひろゆきをからかって楽しんでいるような素振りの方が強いのだ。

 それならば、ひろゆきに彼女ができれば深追いしてくる可能性は低い。

「せやな」

 原田も同じ考えらしく、煙草を片手にそう答える。

「多分赤木さんが本気出したら、ひろゆきなんてひとたまりも無いよ。そうしないのは、あの人、遊んでるんだよ。恋ってさ、くっ付いちゃう前段階が一番面白いからさ」

 まったく、困った不良中年だ……。

 そう思うが、さすがの天も赤木を止める事は出来ない。赤木の良心(?)に頼るしかない。ひろゆきの命運は、全て赤木の気まぐれにかかっていると言っても過言ではないのだ。

「その余裕が命取りってやつやな」

「そうそう。今の大学って学府っていうか出合いの場だからなー」

「盲点やろなー」

 一部の大学生は、夏はテニスに冬はスキーというようなサークルに所属し、サークルでコンパ、友達とコンパ、他大学とコンパと遊びまくっている。彼女が欲しい男と、彼氏が欲しい女の子が、勉強そっちのけで恋に現を抜かしている状態だ。

 ひろゆきの性格からして、そんな派手な輪には加われそうにないが、浮かれた風潮に少しは恩恵に預かったとしても不思議ではない。

「これでひろが彼女確定したらさー。逃げ切りだよ。あの赤木しげるからさ。彼女アンコってダマテンしてたなんて、結構やるなあいつ」

 ひろゆきが、彼女(予定)と京都にまた来るつもりだと言っていたのを天が思い出しながら言った。さっき一人飛び出していったのも、旅行の下見でもしてくるつもりなのだろう。

 なんつーか、ほんと真面目だよな、あいつ。

 ひろゆきに彼女ができるのは当然めでたいのだが。変な話、あまりにも普通すぎるのが天は少し気に入らなかった。

 いっそのこと、赤木にひろゆきの固い部分をめちゃめちゃにされたら、あいつももっと視界が広くなるんじゃないかなーなんて思っている。

「なんやその例え……。にしても、恐らく連戦連勝の赤木しげるが、ひろに土つけられたらどんな顔するやろなー」

 原田がそう言った時、襖が開き、離れの部屋にいる筈の男の声が聞こえた。

「そうなった俺の顔が見たそうだな、原田?」

 あってはならない出来事に、無駄口をたたいていた天と原田の体が硬直する。

「ひろに彼女ね……」

「赤木さん、聞いてたんですか今の話!?」

 驚きのあまり飲んでいた玉露を噴出し、ティッシュに手を伸ばしながら天がそう言った。

「聞いていたというか、お前の声はでかい、天。大声で人の話されて気分良い訳ねえだろ」

「……すいません」

「確かにな、俺がうかつだったぜ、天」

 自分のへまにがっくりしている天を一瞥し、赤木は薄い笑みを浮かべて背を向け立ち去りかけた。

「いや、赤木さん? ここは一つ見逃してやりませんか?」

 慌てて天が立ち上がり、歩きかけた赤木の前に回ってそう言ったが、赤木は冷たい笑みを浮かべたままだ。

「そりゃひろが選ぶ事だろ?」

 そう赤木は全く相手にせず、手でぐいと目の前に立ちふさがる天を退かせると、そのまま去っていく。

 だから、あんたの手にかかっちゃひとたまりもないだろ……?

 そう天は頭を抱えたい気分だったが、赤木の背からはどうするつもりなのかは全く伺えない。

「否定はしないんやな……」

 二人のやり取りを見ていた原田がぽつりと呟いた。

 赤木は、話の内容を肯定も否定もしなかったが、あれでは肯定しているのと同じことだ。

「やべー」

「あーあっ。ばれたな、ダマテン」

 天が、うっかり余計な事を赤木に聞かれたことに焦っているのを見て、原田がわざとらしく言った。

「原田ぁ〜」

「俺は知らんでっ!」

 天が、泣き付くように原田にすがるが、ごつい男にすがられて嬉しいはずが無い。邪険に天を振り払った。

 お前冷たいよーと泣き言を言う天に、原田はしばらく考えてから口を開いた。

「……さっきのお前の例えな、俺今回ひろはあがりを見送るんやないかなーと思うで」


 彼女アンコってダマテン。次順あがり牌の旅行をツモるのは確実。


だが、ひろゆきはあがり牌をツモっても、そのままあがりを見送るのではないかと原田は思う。

「は? いまさら断るって事?」

「ひろのやつ、赤木の可能性もちょっとは残してるんと違うか?」

「ん、まぁ、そりゃ、あいつ見てると、そうとも思えるがよ、だからってこのあがりを見送るかあ……」

 ひろゆき位の年の男の子にとって、彼女のできるできないは人生で大事な事のかなり上位に食い込むはずだ。それを見逃すなど、普通はありえないと思う。


 だが、相手はあの赤木しげるだ。

 今回ばかりはどう転ぶか判らない。鉄板をフイにして、狂気の沙汰に踏み込むかもしれない。

「けっこう揺さぶられてるからなー」

 原田がそう言うと、急に元気になった天がにじり寄った。

「ひろがどっちに転ぶか、賭けねえ?」

「赤木やな」

 天がそう口に出すや否や、原田が即答する。ヤクザだが、天よりずっと常識のある原田は、彼女を取ると言うかと思いきや、すぐに赤木を選んだ。

 なんというか、よく判るのだ。普通の人間が狂気に憧れる気持ちが。ひろゆきは赤木に惹かれている。そして、その気持ちに抗えないと知っている。

「あ、俺も」

「それじゃ勝負にならへんがな」

 そう言って二人で苦笑する。

「……で、そうなったら俺たちどうすればいい訳?」

「さぁ……」

 苦笑が収まった後、改めて天はそう言ったが、原田は首をかしげた。天とて、なにかいい考えがあるわけでもない。

「応援……してもいいのか?」

「さぁ……」

 すっかり二人が無言になり、どちらもなにも言えないでいると、天の腹がくぅーと可愛く鳴った。

「腹減ったな」

「俺もや」

 天の腹の音が沈黙を破り、そう言いながら天は立ち上がった。つられて原田も立ち上がる。

「飯食いがてら飲みに行こうか?」

「せやな」

 うーんと伸びをし、先ほどの会話がまるで無かったかのように天は振舞う。原田も追求はしない。

 問題を全く先送りにし、現実逃避した二人は夜の京都へ消えていくのだった。


ENDE


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