◆Black Knight◆
「ブラックナイト、お願いだから大人しくしていてね」二本のお下げを揺らしながら、キシリアが腕の中の猫に話し掛けた。ブラックナイトと呼ばれた黒猫は、キシリアの言葉になーご鳴いて答える。
「ここがお父様の書斎、ご本が沢山有るの」
「ここががお客様用のお部屋。ブラックナイトもお客様だけど、ここじゃなくて私の部屋にいましょうね」
幼年学校の友人から預かった艶やかな黒い毛皮の猫に、広い屋敷の一つ一つ部屋を見せては丁寧に説明していく。
「ここはギレンお兄様の書斎。入っては駄目。私でも勝手に入ったら怒られるから、見せてあげられないけど」
暫く預かる予定の彼に、家中をいちいちドアを開けて説明していたキシリアだったが、その部屋の前だけはドアの前で説明を終えた。長兄の部屋は禁域で、キシリアも呼ばれてからしか入ったことが無い。キシリアの記憶では、大きな本棚と、マホガニーで作られたどっしりした机、仮眠用のベッドやちょっとした観葉植物などがあるはずだったが、ギレンはこの部屋に人が入ることを嫌った。前にキシリアが入った時は、机の上に沢山の字が書れた紙が散らばっていた。聞いた話では、本を書いているらしい。
なーごとブラックナイトがキシリアの腕の中で鳴いて、キシリアの顔を見上げた。どうして見せてくれないんだ? という抗議の声に、キシリアが困った声で言う。
「ここは入れないの。ギレンお兄様に怒られるから……。あっ!」
見せてくれないのなら、自分で見ると、ブラックナイトがすばやくキシリアの腕の中から飛び出した。慌てて追いかけるが、音も立てず廊下を軽やかに走り、二本の足で立ち上がってギレンの書斎のドアに体重をかけて開けようとする。
普段なら、その部屋は鍵がかかっていたし、きちんとドアが閉められていたなら、ブラックナイトが飛び上がってノブを回す前に十分キシリアが捕まえられるはずだった。
「駄目よブラックナイト!」
悲鳴のようにキシリアが叫んだ。ブラックナイトが体重をかけたドアは、ちゃんと閉められてなかったらしく、軽く木材がきしむ音と共に開いてしまったのだ。
自分が入れる十分な隙間を確保して、ブラックナイトの優美な黒い体がするりとドアの内側に消えた。
どうしよう!
キシリアが青ざめて立ちすくむ。
許可なく兄の書斎に入れば、後でこっぴどく怒られる事は間違いない。だが、中に入った猫が兄の書斎の大事なものをもし駄目にしてしまったら?
なぜしっかりと抱いていなかったのかと後悔しながら、慌ててキシリアが書斎のドアを開けた。
キシリアの心痛の原因は、キシリアの内心など知らずに、ギレンの机の上にどっかりと寝そべって、すっかりくつろいで赤い舌で体を舐めている。
「いい、ブラックナイト、そこを動いては駄目よ。大人しくして、お願いだから」
そう話し掛けながら、キシリアがじりじり近づいた。このままブラックナイトを連れてすぐに外へ出れば、勝手に入ったことはばれないだろう。書斎にあるものを少しでも動かしてしまえば、厳格な彼女の兄は気付いてしまう。慎重にしなければいけない。
「ブラックナイト、ね? いい子だから……」
自分の意図を悟られないように、両手を背中に回して見えないようにしながら、手の届く所にまで近づいてきたキシリアを、ブラックナイトが不審そうな顔で見上げた。一気に手伸ばして捕まえようとしたキシリアの意図などお見通しのように、手をすり抜けて机の上を走り、勢いよく本棚に飛びついてたたたっと駆け上がった。
「きゃあ!」
思わずキシリアが悲鳴をあげる。鋭い爪に引っ掛けられた本が何冊かばらばらと床に落ち、蹴り上げられた何枚もの紙が部屋中を舞い上がって、キシリアの頭上からひらひらと降りてくる。
「もう、あなた……なんて事してくれたの!」
涙声になってキシリアがそう言うと、本棚の上の黒猫をぴょんぴょん飛び上がって捕まえようとする。怒ってるキシリアを遊んでくれてると勘違いしたのか、猫が好奇心でキラキラした顔でキシリアを見たかと思うと、とんとキシリアの頭を踏み台にして床に下りた。
動きがすばやい猫と、幼い少女の追いかけっこは、猫の方が圧倒的に優位だった。幼年学校の制服のスカートをひらひらさせながら、部屋中を走り回り、あちこち飛び上がったり駆け上る猫を追いかけるが、動きが素早くてとても捕まえられない。むきになって捕まえようとするキシリアをからかうように、ブラックナイトが机の上を軽やかに駆けていく。
その瞬間、「ごとん」という嫌な音がした。
髪の毛が逆立つような嫌な感覚と共にキシリアの目が見開かれ、思わず両手を頬に当てる。
机の上に置いてあったインク壷が倒れ、こぼれたインクが何枚かの原稿の上に黒い模様を描いていた。
なんてこと!!
取り返しのつかないことになってしまった。
兄の大事な原稿を駄目にしてしまった!
そう理解した瞬間、キシリアの目から涙がぽろぽろこぼれだす。
気が強く、滅多に泣くという事しない、時には大人をへこますほどの気丈な少女だったが、そのキシリアが唇を噛み、目に大粒の涙を浮かべて俯き、肩を小さく震わせた。
兄に怒られるという事よりも、大変な事をしてしまったという罪悪感の方が大きかった。罰の鞭打ちや、お尻を叩かれる事の恐怖よりも、自分のせいでこんなことになってしまったと許せない気持ちが勝った。
ごめんなさいごめんなさい、ギレン兄様ゴメンナサイ! と胸の中で呪文のように唱える。
罪悪感と悔しさにしゃくりあげると、ふいに、落ち着いた声がキシリアの頭上から降ってきた。
「ふむ……、台風一過と言う所だな、これは」
「兄様!」
どきんと心臓が大きく脈打った。慌てて振り返ると、軍服姿のギレンがまるで他人事のように自分の書斎を見回している。
「ごめんなさい!!」
キシリアがそう叫ぶように言うと、ちらりとギレンかキシリアの方を見るが、またすぐ視線をめちゃめちゃに荒らされた部屋に移す。二十代にして、ギレンはすでに軍の要職についておりかなり忙しい身だった。この時間に屋敷に居ることなど珍しかったが、ドアが開いていたことから想像すると、少し前から何か用でもあって自宅に帰ってきていたらしい。
「ちゃんと、片付けします」
「当然だな」
キシリアが長身の兄を見上げながら言うと、冷静な無表情でギレンがそう応じた。
「兄様、怒らないの?」
その表情からはギレンの内心が伺えず、おそるおそるキシリアがそう尋ねた。
椅子や観葉植物は無残に倒され、部屋中に踏みつけられてくしゃくしゃになった紙が散らばっている。整然と並べられていた本はばらばらになって床に落ち、くず入れの中身はあたりにぶちまけられている有様だった。
これを厳格な兄が怒らないはずが無い。夕食抜きか、罰の鞭打ち位は覚悟しなければならなかった。
「怒ろうと思っていたが……」
そう言ってギレンがキシリアの顔をじっと見る。ギレンの顔をキシリアも見返した。
不意にギレンが片ひざをついて、キシリアと目線を合わせた。キシリアが吃驚していると、ギレンがかすかに笑みを浮かべながら大きな手でキシリアの頬に触れ、親指でキシリアの涙を拭った。
「お前の泣き顔など見るのは久しぶりだな」
ギレンの言葉にキシリアが恥ずかしさにさっと顔を赤らめる。
「キシリアを泣かすなど、たいした奴だな。……どれ」
そう言って立ち上がり、猫の方に向き直る。今度の敵は前の敵の比ではないと判断したのか、黒猫が威嚇するようにフーッと鳴いて毛を逆立てた。それを気にする様子もなく、ギレンがつかつかと猫に歩み寄った。威圧感を感じて逃げ出す前に、すばやくギレンが猫の首根っこを捕まえる。まさか捕まえられるとは思っていなかったのだろう、猫は暫くきょとんとしていたが、やがて抗議するように猛烈に暴れ始めた。それでもギレンが手を離す事は無く、暴れまくる傍若無人な黒猫を掴み上げ、自分の目線と同じ高さに持ち上げた。
「ミャオ!」
ギレンが猫の目を見ながらそう言うと、ギレンの殺気に遠目からでも判るほどびくっと身を震わせる。手を離すと、床に下りるか降りないかの内に必死になって逃げ出し、凄い速さでキシリアの腕の中に駆け上った。キシリアが慌てて猫を抱えなおすと、腕の中でやっと安心したのか、よっぽど恐ろしかったらしく、いつでも逃げられる体制を維持したままおそるおそるギレンの方を伺っている。
「ブラックナイトを怒らないでやって、ちゃんと捕まえていなかった私が悪いの。あとでこの子とちゃんと謝りにきます」
ブラックナイトの方は、もうギレンに関わるのはご免だという顔をしていたが、キシリアはそう言うと、ぺこんと勢い良く頭を下げた。長いお下げも勢い良く揺れる。
「ごめんなさい!」
そう言うや否や、ギレンが返事をする前に、ばたばたと駆けて行ってしまった。
「こら、キシリア!」
ギレンの声が後を追うが、元気のいい足音は遠ざかっていってしまい、キシリアがガルマを呼ぶ声が小さく聞こえた。
「…………」
後に残された惨状をギレンが無言で見渡し、仕方が無いと言うようにため息をついた。
部屋の明かりをつけると、机に突っ伏して軽く寝息を立てるキシリアがいた。足元では、黒猫がうずくまっている。ギレンが部屋に入ってきたのが判ると、みゃーおと一声鳴いて挨拶した。
何時ものように夜遅く帰宅したギレンに、使用人から「キシリアお嬢様が、書斎の後片付けをお一人でやっていらっしゃいます」と伝えられた。「お手伝いすると申し上げたのですが、私が一人でやると聞かなくて……」と心配そうに言われて様子を見に来たのだ。
ギレンを待ちくたびれて眠ってしまったキシリアを起こさぬようにそっと抱え上げると、う……んと小さく声をあげた。起こしたかと一瞬動きが止まったが、気持ちよさそうに寝入っているのを確認して、腕の中に抱きなおす。
なーおと心配そうに鳴いてギレンの足もとをブラックナイトがうろうろしている。昼間怖い目にあわされたギレンに抱き上げられて、キシリアの事が心配らしい。やりすぎたかとギレンが少し唇の端を上げた。
ふと、机の上に捨てたはずの原稿が置いてあるのに気がついた。隣には難しい単語が多かったからだろう、辞書が置いてある。キシリアのしっかりした字で書かれた、幼年学校の生徒には読むのも困難だったはずの原稿は出切る限りほぼ完璧に復元されており、妹の努力家ぶりと責任感の強さに、好意的な笑みが口元に浮かんだ。
キシリアを寝室に連れて行き、ベッドに先客がいるのに気が付きまた口元に微かな笑みを形作った。今度はギレンを待っていた姉が帰ってくるのを待ちくたびれて、ガルマが姉のベットに潜り込んだまま眠ってしまったらしい。キシリアの体を片手で抱き、もう片方の手で気持ちよさそうに寝ているガルマを少し端に寄せて、キシリアを寝かせる。お休みと小さく二人に囁き、部屋が暗くなった。遠ざかって行く足音を知らず、二人は夢の世界で遊んでいる。
怖い怪物からお姫様を守るナイトの重責を果たした黒猫が、赤い口を開けて欠伸をした。真っ暗闇の中で金色の目がきらりと光り、ひょいとベットに飛び乗ると、丸くなって寝息を立て始める。
ヒュノプスの優しい誘惑にまどろみながら、キシリアが力強い兄の手と広い胸を感じ、長かった一日が終る。
キシリアがちり一つ無く掃除したギレンの書斎の窓に、ドズルの蹴ったサッカーボールが直撃して突っ込んでくるのはまた明日の話である。
ENDE
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