恋知月 6
主から届けられた箱を開くと、透かし織りの入った瑠璃色の艶やかな布地に、金色の房のついた三日月の戦装束が目に入った。
袴も、足袋も、初めて隊長に任命された三日月のためにすべて新しく揃えてある。主の三日月への心遣いに、お前があけてくれと三日月に頼まれた石切丸も思わず微笑む。
明日、三日月が出陣する。
新しく現れた、誰も足を踏み入れた事のない戦場へ。
得たばかりの体が動かず、戦に出られぬもどかしさを吐露していた三日月が、隊を任されるほど強くなったことを嬉しく思うと同時に、教育係の役目が終わった事を寂しく思う。
箱から戦装束を取り出して丁寧に広げ、傷や欠けた小物がないことを確かめる。
主から贈られた新しい戦装束には、祝いとともに、武功をあげよとの期待と圧力がこめられている。
三日月は必ず主の気持ちに報いるだろうと石切丸は確信している。いずれこうなると思ってはいたが、三日月が隊長になるまであっという間だった。
戦に出なくてもいいと甘やかされる事は軽んじられる事。三日月は自らの力で己の存在を認めさせ、居場所を勝ち取った。
古い戦装束を捨てるように、弱く守るべき存在であった三日月宗近はもういない。石切丸が教える事はすでに何もなく、三日月は誰かに頼るのではなく、頼られる存在になった。
これから三日月は、一人でどんどん未知の新しいものに触れ、身も心もさらに強く変わっていくことだろう。
人の姿を得たばかりの三日月を審神者より任され、密に過ごした贅沢な日々が終わる。
そう思うと、寂しさに手が止まった。
もう必要とされなくなった古いものはどうすればいいのか。奥にしまわれたまま二度と日の目をみないよりは、捨てられたほうがいいのかもしれない。
かすかに胸に痛みが走り、顔をしかめる。
三日月が長い戦に出ることで、少し神経質になっているなと傍にいる三日月に気づかれぬように小さくため息をついた。
当の三日月は、石切丸がなにくれと自分の世話をやいてくれるのが嬉しいのか、自分の戦装束を手にしている石切丸を眺めては満足そうに笑っている。不安も気負いもなく、主からの期待を一身に背負い、危険な戦場に出るとは思えないほどゆったりと構えている三日月に、まったく自由だと石切丸が呆れた。
「石切、石切」
笑みを含んだ声に名を呼ばれて顔を上げると、ご機嫌な三日月が貰ったばかりの新品の足袋を手にかぶせ、石切丸に見せるように顔の横に掲げている。
「おや、さっき畑で妙な遊びをしてたかと思ったら、次は足袋かい」
三日月がクワで妙なことをしていたが、楽しそうにしているのでほっておいた事を思い出しながら言うと、三日月が笑みを浮かべて首をかしげた。
「俺の名は三日月ブタちか。天下五剣の一つにして、一番美しい豚足……」
ご丁寧に自己紹介まではじめた三日月に、思わず石切丸が噴出した。
石切丸が笑顔になったのを見て、三日月も嬉しそうに笑った。
「うん、どこから突っ込んでいいのか判らないけれど、君みたいな綺麗な豚足がいたら食べるのがもったいないね」
「まあそう言わず、食べてみてはどうだ?」
食べてほしそうな三日月が、あやしい笑みを浮かべて石切丸の腰を引き寄せる。
「まだ日が高いよ。さっきから何か考え込んでると思ったらいきなりどうしたんだい?」
腰から下を探ろうとした三日月の手が、ぺちっと音を立てて叩かれる。いけませんと教育的指導をうけて残念そうに引き下がった手でひそかに機会をうかがいながら、三日月は満面の笑みを浮かべた。
「いやなに、主がじじねたを探していると言っていたのでな! 一発芸というやつだ」
三日月がそう言うと、石切丸が不思議そうに首をかしげたあと、表情を変え、眉をひそめて考え込む。
「う~ん」
「面白くなかったか?」
三日月が石切丸の顔を覗き込むと、石切丸がええっとと言葉を濁し、三日月へ向き直った。
「時事ネタって、君のことじゃないよ」
そう言って三日月の手をとり、人差し指で手のひらに「時事」という文字を書く。
「……なんだ、俺の勘違いか」
じじはじじでもじじ違い。
主がなにやら俺に期待しているのでそれに応えたいとはりきっていたらしき三日月が、自分の空回りに気づいて肩を落とす。
「自分のことをじじいなんて言うからだよ。君がじじいなら私はなんなんだい?」
「じじいの愛人」
三日月と生まれの近い三条の他刀剣代表として一言物申すと、しょげた顔のままの三日月が即答する。
「じじいの愛人のじじいだよ!」
君みたいな古い刀は他にもいるんだよと叱られて頷くが判っているのかはあやしい。
それでも、浮かない顔の三日月を見るとどうにも心が痛んで、ぽんぽんと励ますように三日月の手を叩く。
「勘違いだけれど、君が主のために頑張った事を喜んでくれると思うよ。独り立ちのお祝いも頂いた事だし、戦で勝って気持ちに応えられるといいね」
「ん……。戦か、そうだな」
石切丸を心配させないようにか、幽かに微笑んだ三日月が無理に笑みを作ったように見えて、石切丸が三日月の手から足袋を取った。
「私も、腫れ物をこれで切ってしまおうかなっ?」
足袋を手にはめ、腫れ物を切っているつもりなのかちょきちょき動かしている石切丸が、三日月を振り向いた。
「あっこれちょっと楽しくなったきたね!」
はしゃいだ声で笑った石切丸が、石切丸をじっと見つめる三日月のつらそうな顔を見て表情をこわばらせる。
元気を出してほしいと思ったのに、からかわれたと思って気を悪くしたのかもしれない。
「ごめん。嫌だったかな」
「いや、すまん。そうじゃなくてな」
石切丸が慌てて三日月の顔を覗き込むと、ゆっくりと首を振り、三日月が深くため息をついた。
「お前は、ほんとうにかわいい奴だと」
大地と、炎と、きわめて優れた人の技と心をこめられて作られた、ほんとうにいい刀は、見るものに力を与えるのだと審神者が言っていた。その言葉が今ならよく判る。
石切丸は、疲れ傷ついたものには癒しと安らぎを与え、前へ向かうものには月にさえもいけるという気力を奮い起こさせてくれる刀だ。
どうか、俺のものになってほしい。
俺だけのものに。
石切丸が神社で長くそうしてきたように、その優しい手は、たくさんの人や刀に差し伸べられるべきだと理性では判っているのに、感情はそれを拒絶する。とても強く。
胸が締め付けられるような想いに突き動かされて石切丸に触れると、石切丸は三日月を信じきった目で不思議そうに三日月を見返してきた。
「気がふさいだのは、俺の勘違いのせいではなくてな」
そう言いながら、石切丸の背に腕を回し、圧し掛かるように押し倒すと、石切丸はさして抵抗もせず素直に仰向けに倒れこむ。
「三日月、あの」
石切丸の戸惑った声に、拒絶や嫌悪が含まれていないという事に、たまらなく優越を感じ、三日月は白い首筋に首筋を這わせた。
「私、畑の世話で汗をかいているから」
その気になれば三日月から簡単に逃げられるはずの石切丸が、だめだよと言いつつ三日月のなすがままなのも誘っているようで、雄の本能が煽られる。
「ますますそそるな」
禊だなんだのとおまえは綺麗過ぎて物足りないと思っていたところだと薄く笑って鎖骨に歯を立てる三日月に、石切丸がいやいやと首を振った。
「恥ずかしいよ」
石切丸の声が幽かに震える。嫌なことを自分のためにこらえようとしているのだと気づいた三日月が顔を上げた。
こうして抱くのは初めてだ。三日月のために体を清め、綺麗に支度を整えた石切丸しか知らない。
部屋へ行くと言えば、香を焚いて迎えてくれる。そんな、美しくて、優しくて、丁寧な石切丸しか知らされていない。
その奥を暴いて、もっと生々しいものが見たい。
もっと欲しい。
急に動きを止めた三日月を不安そうに見る石切丸に気がつき、三日月がにっこり笑った。
「ふむ、では、今剣から教えてもらった手遊びで勝負しようか。俺が勝てば許してくれ」
いきなりそう言うと、石切丸が頷く前に勢いよく手を振り上げる。
「そら! じゃんけん……」
「え? いきなり何だい!」
はいっ! という三日月の声に思わず出してしまった石切丸の手は足袋のままで、石切丸の出す手を知っている三日月が出したのは石。
「俺の勝ちだな」
「ずるいよ!」
勝ち誇る三日月に石切丸が抗議すると、石切丸をからかった三日月が楽しそうに声を上げて笑った。
「ははは、冗談だ。俺は気にしないが、お前がいやならやめておこう」
石切丸を組み伏せていた三日月が体を引き、石切丸の隣に胡坐をかいてそっと栗色の髪をなでる。
「俺が独り立ちして、おまえは次に来る誰かの教育係になるのか?」
「それはまだ判らないけど……」
「お前に縁のある源氏の刀もいつかここへ来るだろうと主が言っていたぞ。ああ、小狐丸もだな」
とつぜんそう言われて困惑するが、主は、石切丸がよくやってくれたと喜んでいた。おそらく次も主は自分に声をかけると思う。三日月もそうなると思っているのだろう。
三日月がぽつりと呟く。
「おまえは優しい」
石切丸は優しいと三日月は何度も繰り返す。そのたびに、私は私のしたいことをしているだけなのだけれどと不思議な気持ちになる。
「お前が俺のいない間に誰かに優しくするのかと思うと、焦る」
三日月の言葉に、石切丸がはっとした。
「近くにいれば、きっと、お前がほしくなる。それは俺がいちばんよく知っているからな」
優しい目の中に、痛みを滲ませて三日月が石切丸を見下ろす。そこには怒りも石切丸を従わせようという欲もなく、静かな湖面に映る月のように痛みを抱えて優しく微笑む三日月がいる。
「心というのは、難しいものだね。私は自分のことばかりで、君がそんな事を考えていたなんて思いもしなかった」
石切丸はそう呟くと、手を伸ばして三日月の頬に触れた。
「私は、新しい世界を知れば、私から君が離れていくのではないかと不安に思っていたよ」
「?」
石切丸の言葉が理解できず、不思議そうに瞬きする三日月の顔が戸惑い、わからないといった風に首を傾げる。
「君が私を好きだと言ってくれているのは、ひな鳥がはじめて見たものを親と思うようなものではないかと思って」
石切丸が言葉を連ねるが、三日月の中に入ってこない。沈黙のあと、困り果てた三日月が口を開いた。
「ふむ……。すまん、判らん。刀剣はあたまあれど、俺はお前だけに惹かれたのだがな」
とにかく俺がお前から離れるという心配だけは杞憂だぞと言った後に、石切丸に向かってにっこりと微笑む。
「まぁ、違うところや判らぬところがあるほうが面白い。そうだろう?」
「そうだね」
考えが違っていようが、汗だくのままだろうが、三日月ならすべて受け入れてくれるとその笑顔は思わせてくれる。
心配も、不安も、欠点も、おおらかな心を持つ三日月の前では、すべて些細な事に思えてくる。
「君はすごいね」
私は、綺麗なところだけを見てほしいと、壁を作っている。
三日月を信じて全部さらけ出せば、きっともっと高みに連れていってくれるのだろうと思った。
私に、ほんの少し勇気があれば。
「そうか? いや何のことかわからんが嬉しいな」
何のことかも判らないくせにはっはっはと笑う三日月を見ていた石切丸が、そっと手を伸ばして三日月の袖を掴んで引く。
た三日月がどうしたと声をかけると、顔を真っ赤にした石切丸が、三日月を見られずに目を逸らしながら呟いた。
「いいよ」
「いいのか?」
「戦に出ても、折れずに私の元へ帰って来てくれると約束してくれるなら」
ぎゅっと三日月の袖を掴む手が、戦に出る三日月の無事を祈る石切丸の気持ちを表しているようで、三日月はその手にそっと自分の手を重ねる。
「必ず」
力強く石切丸の手を握りしめ、ひきあうように互いを抱き寄せて口付けた。
優しい口付けを何度も重ね、ゆっくりと溶かされた石切丸が、とろりと欲に浮かされた目で「お願いだから、折れないで」と、うわごとのように何度も繰り返す。
三日月を愛しいと思うこと、どうか、私の前からいなくならないでと願う石切丸の心。
息を乱し、体を貫かれて目じりに涙を伝わらせながら、石切丸は三日月に懇願する。
「生きて帰って来さえすればお前を腕に抱けると思えば、どんな姿になろうと折れはせんさ」
焼け付くような恍惚と優越を感じ、三日月はそう呟いた。
終
2016.06.26 UP
発出 2016.03.04 じじ石創作発表会石 お題「足袋」
「狐月」再録
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