恋知月 1
選んだのか、選ばれたのか。
歴史を守る力を求める審神者に呼応した一振りの刀が、火の力と鋼の力を借り、人へと姿を変えて現世に降りる。
その美しさであまたの人々を魅了し、千年をこえる時を愛され大切に守られ続けた三日月の名を持つ刀。
瑞雲をたなびかせ現れた三日月宗近を審神者と共に出迎えた石切丸は、柔らかな微笑をたたえた菩薩のように美しい男と目礼を交わした。
初めて会ったはずなのに、この懐かしいような、離れがたいような想いは何だろう?
今剣や岩融に感じる親愛の情とはまた違う。
まるでずっと求めていた半身とめぐり合ったような……。
すっかり舞い上がった審神者が三日月に話しかけているのをいいことに、近侍としてついてきた石切丸は物思いにふける。
生まれた時期も、土地も、生みの親も、近しいとは知っている。おそらく、互いの身を成す玉鋼もほぼ同じものだろう。
だけど、それだけでなく。
三日月と私はとても近い。
そう思った自分に気がつき、はっとする。なぜそんな事を思ったものか。その美貌にはとても似つかないのにと石切丸は苦笑する。
さっそく三日月を強化してくると別室に向かう審神者と別れ、石切丸は近侍の執務室へ歩みを進めながら胸の奥を引っかかれるような甘いうずきに戸惑う。
ようやく会えたと体の底から強い喜びが湧き上がり、手が震えそうなほど。
私たちは、遠い昔、生まれたばかりの刀であった頃に共にいたことがあるのかもしれない。
そんな風に思いを馳せる。
一目見たときから三日月が胸から離れないのはきっとそのせいだろう。
審神者からの頼まれごとに予想外に手間取り、約束の時間より幾分遅れて広間へ向かう。気配を抑えてのぞいてみると、三日月のお披露目はもう始まっているようだった。
邪魔にならぬように、新しい仲間を歓迎する仲間たちの後ろへそっと体を滑り込ませる。三日月を見ようと前を向いたとたんに目があった。
目があった瞬間に、それはもう、心の底から嬉しそうに三日月が笑った。
大輪の花がいくつも開き、ぱっと香気を放つように幸せを振りまいて、無邪気な子供のように石切丸へ駆け寄る。
驚きにざわっと気配が揺れて、三日月に男士たちが道をあける。
まるで、凍った湖を恋した男神が渡る神渡り。
夜のはじまりのような瑠璃色に、黄金に輝く二重の月を浮かべた衣がふわりと靡くのが、石切丸には時が遅くなったかのようにゆっくりと見えた。
この刀は、なんて美しいのだろう。
とても自由で、おおらかで、まっすぐ素直な心が、その美貌より三日月を輝かせている。
気がつけば、三日月は美しい顔に満面の笑みを浮かべ、石切丸の手をとって審神者を振り返った。
「あるじ」
突然走り出した三日月にあっけにとられていた審神者が、その呼びかけにはっと我に返る。
「俺はこれがいい。これが欲しい」
どこかずれた言葉にかすかに違和感を覚える。審神者もそうだったのか、さきほど説明した三日月さんの教育係のことですかと首をかしげた。単なる言葉のあやと思ったのか、まあいいでしょうと審神者が言うと、三日月の顔がぱっと輝く。
「やぁ嬉しいな。こんなに綺麗な大太刀が俺のものだ」
石切丸の両手をとり、にこにこと微笑みながらどうも思考があやしい三日月に、教育係としてさっそく指導が必要そうだと石切丸は直感した。
困ったことに、そう言われるのが嫌じゃない。私はモノではないよときちんと教えないといけないのに。
三日月と私。先に手を差し出したのはどっちだろうと石切丸は思った。
2
青ざめた顔で困ったように笑う姿も美しかった。
桜が咲き乱れる庭から、縁側に座る石切丸へとゆっくりと近づいてくるたびに、深い海のような、宇宙のような色をした瑠璃色の衣が揺れる。
額にじっとりと汗をかき、浅い呼吸とともにすがる様な目をしてゆらりと近づいてくる三日月の艶美な姿に心を奪われる。
目が離せなかった。
うららかな春の日に桜の花びらが舞う中、病んだように暗く美しい微笑みで「腕が上がらん」と言われるまでは。
「触るよ」と言うと、三日月が頷いた。
「うむ、触ってよ、し……ッ」
三日月が言い終わる前に、情け容赦なくひじをねじる。コクッというくぐもった音が体の奥で響くと同時に、うそのように腕から激しい痛みが消えた。
「はい、治ったよ」
「すごいな石切丸は!」
手際よく三日月の整復を済ませた石切丸がぽんと背を叩くと、ぽかんとしていた三日月の顔が輝いた。
「今剣さんと遊んでいてまさか腕が抜けるなんてね……。子供ならよくやるけれど」
いくさのときに、ぼくとあそぶとひあそびではすまないって、いいましたけど、いいましたけど……。
そういうのじゃないと言いたい気持ちと、怪我をした三日月を心配する気持ちがない交ぜになった今剣のなんともいえない顔を思い出す。
「ふむ。じじいがいつのまにか若返ったか」
気取った声でふざけた事を言う三日月の目が笑っている。
「そうきたかい」
ずいぶん老成した子供だねと言いかえしてやろうと思って、ふと気が変わる。
いや、あながち間違ってはいないのか?
「君は人の身を得たばかりだから、そうと言えるかもしれないな」
少し考え込むように言うと、三日月が目を伏せてふと唇を釣り上げた。いつもような快活な笑みではない、どこか陰のある笑みが心に引っかかっていると、三日月が口を開く。
「いや、やっぱりじじいだな」
苦笑しながら石切丸を見る。美しい三日月の浮かぶ瞳に吸い込まれそうになる。
「体が動かん」
悪戯っぽく言う三日月の言葉に、石切丸の表情がわずかに曇った。
「できるなら若返りたいものだ。少しは往時に戻れば、俺も戦に出られるだろう?」
石切丸の表情を見てか、三日月がいつもの屈託のない笑みを浮かべる。それが本心からなのか、石切丸のために作ったものなのかはわからない。
「いやなに、畑仕事や馬の世話を軽んじているわけではないのだが、俺も刀だからな」
「体が動かないのは、慣れていないせいだよ。私も他のみんなもそうだった。私なんて箸を折らずに使えるようになるまで一苦労でね、君は一振りだけ遅く来たから気になるんだよ」
なだめるように言う石切丸の言葉を三日月が無言で聞いている。その手をそっととって、石切丸は三日月の目をのぞきこんだ。
「三日月宗近は強い。とても。私には判るよ」
特別に美しい瞳の奥の三日月を見つめながら、石切丸が力強く言う。
「気遣ってくれるか。やぁ嬉しいな」
石切丸の言葉に喜んでか、大輪の牡丹がいくつも咲き誇るような、豪奢で輝くような笑みを浮かべる。好意と喜びに満ちたその端麗な笑みと、浮かれたように明るい声を向けられてまともでいられる者はいない。
「気遣いではなくて、私は本当のことを言っているだけだよ」
その微笑みも、その声も、見るものの目をくらませて理性を奪うと君はよく知っているね。
石切丸はそう思い、三日月の手をぎゅっと握りながらことさら冷静に言うと、三日月から笑みが消え、神妙な顔で目を伏せた。
どうか私に君の心を隠さないで。その必要はないし、そうして欲しくもない。
どうすればその事を伝えられるだろうかと内心でため息をつく。心というものはとても繊細で、ただ正直に言葉にするだけではかえってうまくいかない事がある。
「すぐに一振りでなんでもできるようになるし、戦でも活躍するようになる」
「ん……。そうか」
素直に頷いた三日月の素の顔が、本心を隠すための華やかな笑顔よりも石切丸の欲しかったものだ。
「石切丸は、俺より俺のことを知っているようだ」
「そうだよ。私を信じなさい」
「頼もしいな」
石切丸がすました顔で大幣を降るふりをしながら言うと、三日月がはっはっはと声を上げて笑う。
「君がこうして私に頼ってくれるのも今だけだろうからね、遠慮なく世話を焼かせてもらうよ」
縁側に並んで腰かけた二振りが目を合わせて微笑みあうと、三日月がおやと視線を庭へ向けた。
一羽の小鳥が、立派な尾を上下に振って餌を探している。石切丸と三日月を怖がりもせず、ときおりぴょこぴょこ尾を動かしては物怖じせず足元まで近づいてきた。
「なにやら妙な動きをするトリだな。さては鶴丸の友達か?」
三日月が、妙な奴でトリと鶴丸を雑にくくり、どちらからも文句を言われそうな事を言う。
「あれはセキレイだね。日本書紀にも出てくるんだよ」
「ほう、今度読んでみるか。本を読む時間ならたっぷりあるからな、主や歌仙にいろいろ借りて読んでいるところだ」
それはいいねと自分のように喜んだあと、石切丸が、「あ!」と楽しそうに声を上げた。
「こんど二人で本を買いに行かないかい? 美味しい甘味のお店に寄るのもいいね」
「ふむ……。デートというやつか?」
「そうじゃないよ。ただ本を買いに行くだけだよ」
三日月の言葉を冗談と受け取ったのか、石切丸がくすくすと笑いながら否定すると、三日月が石切丸の笑顔を優しく見ながら、そうかすまんなと小さく呟く。瞳に落ちた影が月を隠したのを、石切丸は気づかない。
一瞬、満開の桜を嵐のような風がざぁっと揺らした。わぁと声を上げ、顔を手で覆いかけた石切丸が、幾千もの花びらが舞う春の庭へ目を奪われる。
三日月は桜を見なかった。
自分を見ない、優しくて残酷な御神刀の横顔を食い入るように見つめ、重ねた手をぎゅっと握る。
石切丸に知られぬように、桜に目を奪われているうちの、ほんの一瞬。
「すごい風だ。桜の花びらがたくさん舞って夢みたいに綺麗だったね」
てっきり三日月も桜を見ていたものだとばかり思っている石切丸が無邪気にそう言うと、三日月は無言で笑みを返した。
「三日月?」
「……じつはな、胸が苦しい」
様子のおかしい三日月に石切丸が不思議そうに声をかけると、三日月は唐突にそう言った。
「日がたつにつれ痛みが増してな。今もおかしい」
三日月の言葉を聴く石切丸の顔色がみるみるうちに変わり、ふわりとした表情が厳しくなる。
「まあだから、俺は死ぬのかと、ならばせめて戦で折れたいと焦ってしまったようだ」
「……おかしいね。腫れ物や病なら私に判るはずだけど、君にそういった影はない」
御神刀の顔をした石切丸が、すっと手を伸ばして三日月の首筋に触れ、三日月の体がびくりと震える。
一度主に相談してみようと言い、石切丸は三日月を安心させるようににっこりと笑った。
「心配しないでも大丈夫だよ。君はいたって健やかに見えるし、体が思うように動かない事をすこし気にしすぎているのかもしれない。体は心に引きずられるからね」
くすぐったそうな、困ったような顔で石切丸の触れた首筋に手を沿えていた三日月が黙って聞いているのは、不安なせいだと思っている石切丸が三日月を安心させようとできるだけ優しく言う。
「もどかしいかもしれないけれど、畑仕事も馬当番も、心を育てて体をうまく使えるようになるためのいい訓練になる。今は体と心が望むことを何でもしてみるといい。私も手伝うよ」
「体と心が望むことか……」
ふむと考え込んでしまった三日月が、組んでいた腕を解いて石切丸へ向き直る。
「自分でもよく判らんのだが、してみたくてたまらないことがある。付き合ってもらってもいいか?」
もちろんだよとにっこり笑った石切丸の首に三日月の腕が回され、ぐいと引き寄せられた。
気がつけば、息がかかりそうなほど近くに三日月の綺麗な顔がある。
三日月は、石切丸の顔を見つめて数回瞬きしたあと、石切丸の唇にそっと唇を重ねた。
優しく触れたかと思うと、角度を変えて少し強く唇を押し付けてくる。
嫌ではなかった。まるでそうするのが自然だというように石切丸は三日月を受け入れ、二つが一つになる幸福に身をゆだねる。
ただ求められるのに応え、求めて受け入れられるのがこれほど気持ちがいいと初めて知った。何も考えられなくなるほどの幸福感に浸っているうちに、ふと、三日月が悪戯するように石切丸の下唇を強弱変えて咥えるのは石切丸の唇の柔らかさを楽しんでいるのだと気づき、急に羞恥が襲ってくる。
思わず身を引いて逃げようとした石切丸を三日月が捕まえる。あ……と漏れる声ごと深く口付けられ、息の続かなくなった石切丸が苦しそうにもがくと三日月が名残惜しそうに唇を離した。
「これは何なのだろうな?」
首をかしげて呟くと、三日月が胸の辺りをぎゅっと掴む。
「なんだ本当に胸が痛いぞ? やはり俺は死ぬのではないか?」
右へ左へ不思議そうに首をひねる三日月の頬を両手で挟み、石切丸がぐいと上向かせる。
「三日月、触るよ」
「うむ、触ってよ……」
言いかけた言葉は、石切丸の唇に阻まれて消えた。
三日月の唇を舌でこじ開け、密着しながらくいと上へあげて軽く吸う。
ちゅ……とかわいい音をたてて唇が離れ、真っ赤になった石切丸が肩で息をした。
「わたしも、死んでしまうかと、おもったよ!」
なら俺は二回は死んでいるなと、はーっと大きく息を吐き、ぐったりとしている石切丸を横目で見ながら三日月は思った。
「こういうときは、目を閉じるのが礼儀だと聞いたけれど」
石切丸がそう言って、ちらりと三日月へ視線を向ける。
「しかしそれでは石切丸の顔が見られないぞ」
ごく真面目な顔で三日月はそう返し、石切丸の頬へ手を伸ばした。
「石切丸はなぜこうしたくなるのか知っているのか? これは何なのか教えてくれ。頭も体も酒に酔ったようにふわふわする」
顔も声も戸惑って、救いを求めるように石切丸に言う。
「人の身というものは難しいものだな」
途方にくれた三日月がかわいくて、石切丸は思わず笑った。
「私も長い間人の営みを見てきたから知識として知っているだけでよくは判らないんだ」
「うむ、そうか。困ったな。これを何度もおまえにしたくなって困るのだが」
「私は困らないよ」
深くため息をついた三日月の動きが、石切丸の声を耳にして固まった。
「もし、三日月がそれ以上の事もしたくなっても、私にだけしてほしい」
「石切丸にしかしたくない」
石切丸の言葉が何を指すのかよく判らなかったが、三日月はそうきっぱりと言うと、石切丸へ切なげな目を向ける。
「お前をもっと触りたい、お前にもっと触ってほしい……」
この想いはなんなのだろう?
ただとても苦しくて、とても幸せで、二振りでもっと高いところへいける気がする。
「ふふ『いいぞいいぞ、触って良し』だねっ!」
考え込んでしまった三日月の内心を知らず、石切丸が楽しそうに笑ったあと、はにかんだような微笑を浮かべる。
「その、君が私の特別になってくれて、私が君の特別になってもいいのならだけど」
「特別……。そうか特別か! 一つ謎が解けたな」
石切丸の言葉に、霧が晴れたような気がした。三日月が声を上げ、嬉しそうに石切丸の手をとる。
「お前は誰にでも優しいから、俺に優しいのもみなと同じ、平等なのだろうと、そう思うと、胸が痛くなった。今は、胸がむず痒いような感じできゅうきゅう締め付けられて、幸せでおかしくなりそうだ。お前もそうは思わんか?」
私もそうだよと微笑んだ石切丸が、次の瞬間にふと顔を伏せてさびしそうな笑みを浮かべる。
「君はすぐに私など必要としなくなるのに、何も判らない君を縛り付けるような気がして、自分がした事が正しいことなのかどうか判らないんだ」
「俺はおまえの特別になりたい。本気になってもかまわんな?」
石切丸の不安を祓うように、三日月がその手を強く握り締める。三日月の、真剣な、張り詰めた声に、石切丸が思わず頷いた。
その瞬間の、地上のすべての花より美しい三日月の笑み。魅入られて、飲み込まれて、何も考えられなくなる。
へたへたと力が抜け、縁側に寝転んでしまった石切丸の顔を三日月が覗き込んだ。
「よろしく頼む」
嬉しそうにそう言うと、顔を傾けて唇を求めた三日月を石切丸の手がぐいと押しとどめた。
「待った」
「なんださっそくお預けか」
三日月の不満そうな声に負けぬよう、石切丸が強く言う。
「君に一つ約束してほしいのだけれど」
「なんなりと」
艶やかに笑う三日月の、その、綺麗な笑みに自分は本当に弱いのだと思い知らされる。
「死ぬかも。と思っているのに平然と受け入れないでくれるかい!」
「しかしなあ、形あるものはいつか壊れるというのはこの世の真理だぞ」
「私が泣くよ!」
「ああ、いや、あいわかった。お前に泣かれるのもお預けも困る」
慌てて承諾した三日月に満足して、組み伏せられたまま手を延ばして三日月の頬へ触れる。
「私が知っていることなら教えてさしあげるよ」
石切丸がそう言うと、大胆な小鳥が縁側にとまって石切丸と目をあわせた。
「お、またセキレイが来たぞ」
「セキレイは恋教鳥ともいうんだ……」
三日月はかわいいなと言って目を細めたが、石切丸は、首をかしげて二振りを見るセキレイがイザナギとイザナミに恋のしかたを教えた謂れを思い出して赤面する。
きっとすぐに三日月も知ってしまうだろう。川から海へ水が流れるように、季節が巡るように、自然に、石切丸を求めてくるだろう。
求めてもいいと言ったのは自分だ。いや、そうされたくて、その時を待っている。
「どうした? 顔が赤いな」
不思議そうな三日月の声を聞きながら、三日月がこの先を求めてきても、きっと自分はすぐに受け入れてしまうだろうと石切丸は思った。
終
2016.06.26 UP
発出 2016.02.05 じじ石創作発表会石 お題「触ってよし」
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