修羅雪一振







 江雪にいさまは土を掘る。月に照らされ土を掘る。
 やがて額に玉のような汗が噴出して、それが頬まで伝うと、汚れた手の甲でぐいと拭うものだから綺麗な顔が土で汚れる。
 ひとつ大きな穴を掘り終えると、江雪にいさまは苛立たしげに体にまとわりつく白い髪を掴んだ。
 長い髪を乱暴に引っ張ってまとめる。細い絹糸のような髪が千切れて絡まり、めちゃくちゃになるのを気に留めようともしない。江雪にいさまの頭が鳥の巣になるのを宗三にいさまが見たら悲鳴をあげるに違いない。
 夜中に一人抜け出す江雪にいさまを追って、僕ははじめて知った。
 遠征の道すがら江雪にいさまが死者を弔っているのを。
 死者をせめて安らかに眠らせてあげたいのです。
 そう言って江雪にいさまがいくつ墓穴を掘っても、掘っても、野ざらしの屍は見渡す限り転がっている。
 この世は地獄ですと呟いて、それでも江雪にいさまは土を掘る。雪のように白い手足を土でどろどろにして、もはや一人の力ではどうにもならぬ死者の群れに無謀な戦いを挑んでいるようだと僕は思った。
 またひとつ墓穴を掘り終えて、江雪にいさまは屍の側にひざをついた。合掌してお題目を唱えると、深々と頭を垂れ、無念の表情で空を睨みつけている戦死者の目をそっと閉じさせる。
 首から先のない死者も、すでに肉が腐り異臭を放つ死者も、江雪にいさまは丁重に扱う。
 ほうっておけば、そのうち蟻や蠅が群がって真っ黒になり、鴉や野犬に食い荒らされる。
 戦わされて、死んで、そんな最後はあんまりです。
 震える声で江雪にいさまが言うのを聞いて、僕はあいまいに頷いた。僕は江雪にいさまを手伝いたいだけだから、そういうのはよく判らない。虫に肉を食われたあとの骨は真っ白でとても綺麗なんだけどな。


 東の空から月が出て中天を巡り、西の空にかかるころに、せめて一人でも多く弔ってやりたいと江雪にいさまが作った土饅頭に僕が拾ってきた石を乗せた粗末な墓がいくつも並ぶ。
「小夜、あなたはもう帰って休みなさい。明日も早いのですから」
 江雪にいさまはそう言ったが、僕は首を横に振った。
 盗賊の持ち物であった僕は知っている。人の心を捨てた奴らにとって、死体から物を盗むのは楽で実入りのいい仕事だと。
 もしそんな奴がいたら、江雪にいさまが見つける前に切らねば。そう思って、手伝いをしながら慎重にあたりを見回す。
 ああ、いた。
 月が隠れた隙に乗じて蠢く人影を見つけて僕はため息をついた。闇を味方につけたつもりだろうが、月を被う雲も僕の妨げにはならない。
 幸い江雪にいさまは夜目がきかない。気づかれる前に僕が消す。
 僕は足音を消して走り出した。相手は飛びかかってきた僕の姿を見てヒッと呻き腰を抜かす。
 みすぼらしい格好をしてひどく痩せ、子供の刃に怯えている。
 夜盗じゃない。近くの村の人か。
 戦で村を荒らされ、生きるために命がけで金目のものを探しに来たのだろう。それでもここに江雪にいさまが居る限り許す事はできない。
 僕は戦場荒らしの首にひたりと刃を当てた。
「消えてよ。ここは僕らの縄張りだ」
 僕がそう言うと、男はこくこくと頷き這うようにして逃げていく。
 会った事もない、この世の誰かの苦しみを我が事のように嘆き悲しむ優しい江雪にいさまにこれ以上汚いものを見せたくない。
 一人追い払って安堵のため息と共に汗をぬぐった僕は、やめなさいと叫ぶ江雪にいさまの悲鳴のような声を聞いてはっとした。
 失敗した!
 仲間がまだいたんだ。
 怒りと焦りに僕は目を血走らせ、火を灯した蝋燭を手に硬直している江雪にいさまの元へ走る。
「ああ、なんて事を……。なんて事を」
 小さな明かりに照らされる、死体を漁る人影が、ひとつ、ふたつ。隠れる気もないらしく堂々と死体をまさぐっては自分の懐へ入れるのを、江雪にいさまが絶望の表情を浮かべて見ていた。
「やめなさい! 死者のものを盗ってはいけません」
 再び叫んだ江雪にいさまの悲痛な声に、最初の制止を無視して死体を漁り続けていた人影がゆっくりと立ち上がった。
 ひとつは男と、ひとつはまだ小さい、子供。
 このまま立ち去って欲しいと思ったが、男は抜刀し、江雪にいさまへ刃を向けた。
 ああ、やる気なんだな……。
 なら仕方ないね。
 心の奥にある黒い淀みからゆらりと殺意が立ち上る。目の前にいる敵をほふる事で頭と体がいっぱいになる。
 僕は手にした短刀で蝋燭の芯を切り飛ばした。ひゅっと空気を切る音がして再びあたりは闇に包まれる。
 月が雲に隠れているうちにやってしまおう。
 僕が飛び出した瞬間、強い風が吹き雲が流された。月が姿を現し、さぁっと銀の光が江雪にいさまを照らす。
 男は江雪にいさまの姿を認めると、見てはいけないものを見たかのように慌てて逃げ出した。僕は抜いた短刀を鞘に戻す。なんだか知らないが、お互い大事な物を傷つけずに済んだようだ。
 僕は懐から柿を取り出し、男に置いて行かれた子供のほうへ投げた。投げるのは得意だ。狙い過たず柿は子供にぶつかり地へ落ちる。
「あげるから、食べなよ」
 怯えて戸惑う小さな子供は僕の声を聞くとさっと柿を拾い上げた。僕があげた柿を大事そうに胸に抱いて、何度も振りかえりながら遠ざかってゆく。
「よかった。判ってもらえたのですね」
 和睦の道はあったのだと、心の底から安堵したように言う江雪にいさまを見上げ、僕ははっと息をのむ。
 江雪にいさまの手に、鞘から抜かれた太刀が握られている。
 人を殺す道具を手にして嬉しそうな江雪にいさまの顔に嘘はない。一瞬驚いたが、すぐに、江雪にいさまは自分が太刀を抜いた事に気づいていないのだと僕は悟った。
 僕らは武器で、戦う者だ。気配を感じれば勝手に体が動く。
「……違うよ」
 僕が呟くと、江雪にいさまが不思議そうに首をかしげた。
「あいつは江雪にいさまの太刀が怖かったんだ」
 僕の言葉を聞いて、江雪にいさまは自分の手へ目線を移した。その手に抜き身の太刀があるのを見て呆然としている。
「そんな……、つもりでは……」
 己を恥じるあまりか、江雪にいさまは言葉を詰まらせその先を言えなかった。そんなつもりは無くても、脅したことには変わりない。
 月が雲に隠れ、暗闇の中で夜目もきかない、だからよけいに江雪にいさまは戦いの本能に動かされてしまったのだろう。
 江雪にいさまの手にある江雪左文字は、刃に月の光を受けて白く輝いている。凍るような冷たい光を放つ美しいその刃は、遠目からでもさぞ恐ろしく見えたろう。
 いや、実際それはとても恐ろしい。
 誰よりも戦いを嫌う江雪にいさまは、皮肉なことに誰よりも強い。ひとたび戦に出れば、ただ一人で敵の軍勢を残らず地に切り伏せる。
 雪のような肌に赤い返り血をあびて、もはや動くことのない敵の骸を冷たい目で見下ろす姿はまるで修羅のようだ。 
 慈悲と修羅とが江雪左文字という一振りの中にある。
 そのどちらも心に宿して、江雪にいさまは揺れ動いている。僕は、そんな江雪にいさまが好きだけれど、今のような時に江雪にいさまは酷く自分を責める。
 暴力を嫌う自分が暴力で人を脅してしまったのだとみるみる悲しそうな表情を浮かべる江雪にいさまに、うまく言いたい事を伝えようと言葉を捜す。
「飢えは苦しい、とても。人が獣に変わってしまうくらい……」
 唐突な僕の言葉に、江雪にいさまは一瞬悲しむのを忘れて僕を見た。
「そういうのを、僕はたくさん見てきた」
 昔、飢饉が起きて、人が飢えて、大勢死んで、お殿様がみんなを救うために僕を売った。
 それを知っている江雪にいさまは僕にうなづき、やさしく肩に触れる。
「あなたは、その身をもって人々を飢餓から救ったのでしたね」
「復讐を求める心も、飢えも、苦しい」
 そうだ、僕の腹の奥にも、復讐を願う気持ちが渦巻いている。たった今でさえ。
「だめだと言われてもとまらない。だって苦しいんだ。その気持ちが僕にはよくわかる」
 江雪にいさまの顔にまた悲しみが広がる。僕の苦しみを自分のもののように受け止めているのだろう。眉を寄せて、唇をすこしだけきゅっと引き結ぶ。
「だからあいつらを許してやって」
 僕はそう言って、自分では笑ったつもりだったけれど、口の辺りがこわばってひどくぎこちない顔をしていただろう。
「飢え」
 ぽつりと江雪にいさまは呟いた。口の中で転がすように。
「私は……。飢えた事がありません」
 少しの間沈黙が広がり、やがて、江雪にいさまが体の奥から搾り出すように声を出した。聞いている僕が苦しくなるほど、真摯に、思いつめたように。
「そんな、私が……。偉そうに死者を冒涜するな、などと……」
 自分を責めすぎて息が苦しいのか、胸の辺りを白い指が掴む。深い後悔と絶望にさいなまれた顔をした江雪にいさまを見て、なんて素直なんだろうと思った。
「うん。でも、江雪にいさまが気に病むことはないよ。生まれや育ちが違うのは当然だし、江雪にいさまは彼らが罪を犯そうとしたのを止めたんだ」
 僕は頷きながらそう言うが、江雪にいさまは頑なに首を振った。
「江雪にいさまみたいな優しい人がいなくなったら、この世は本当に地獄になってしまう」
 僕はそう言って江雪にいさまの手をそっととった。見てみれば、いくつも墓穴を掘ったためにできたまめが潰れ、手のひらに血がにじんでいる。
「ああ……。小夜、小夜!」
 僕は江雪にいさまを励ましたつもりだったのに、江雪にいさまはよけいに悲痛な声を出した。しゃがんで僕をぎゅっと抱きしめる。
「あなたはそれほどまでの苦しみを味わい、この光景を前にしても、まだ、ここが地獄ではないと言うのですね」
 僕は、やっぱり江雪にいさまの言うことがよく判らなかった。でも、これで江雪にいさまの気が済むのなら別にいい。
「私は自分が恥ずかしい」
「なんでそんな事を言うの? 江雪にいさまは偉いよ?」
 僕は、僕の肩に顔を埋める江雪にいさまの後ろにいくつも並ぶ土饅頭を見ながらそう言った。



 南無喝囉怚那
 なむからたんのー

 哆囉夜耶
 とらやーやー

 死体の腐臭と掘った土の匂いがたちこめる戦場跡、夜が終わるという薄闇の中に、江雪にいさまが死者を弔い唱えるお経が流れる。
 僕は江雪にいさまを見よう見まねで合掌しぼんやり立っていた。僕はそういうのはよく判らない。でも、心を込めてお経を読む江雪にいさまの白い横顔を盗み見ているうちに僕の心も少しずつ変わっていった。
 張りのある江雪にいさまの声が、夜の闇を払うように空が少しずつ明るくなってゆく。
 江雪にいさまの死者を悼む優しい気持ちが、ほんの少し僕にも移ったのかもしれない。
 どうか、安らかにお眠りください。
 江雪にいさまのお勤めを毎日聞いているので少しだけ覚えている、拙いお経を読む僕の声に気づいた江雪にいさまが僕へ向けてとても嬉しそうに微笑んだのを見て、僕はすごく綺麗だなと思った。

2015.12.20 UP
発出 2015.06.14 pixiv

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