罪悪感に苦しむ達哉を少しでも楽にしてあげたいと思うには訳があった。達哉を見て思い出す事がある。ニャルラトホテプに捕らえられた時に、淳の閉じた瞼の向こうで起こった出来事。邪悪な声、悲鳴、闘いの音、悲しい判れ……。捕らえらて、そこで何が起きたかという事ははっきりと覚えてないが、その時に半覚醒のままおぼろげに誰かが必死に戦って傷だらけになっていたのだけが判った。あやまちを必死で償おうとしているのが判った。それだけをぼんやり覚えている。
そんなに苦しまないで。僕は君を許すから……。どうか苦しまないで。
捕らえられたまま覚醒していない意識の中で、苦しんで戦ってる誰かを許したくてそれだけを繰り返し思っていた。それが本当にあった出来事なのか、夢だったのか、達哉に会うまでは判らなかった、でも……。
今ならあれが誰だか判る。はっきりした記憶は無いけれど、僕が君に感じた感情や、懐かしい感触で確信するよ。
君なんだろう? 達哉。
僕はもうとっくに君を許してるのに。
もし自分が許したいとその時思った誰かが目の前の達哉でなくても良いと思った。ただの自己満足かもしれないし、自分にそんな資格はないのかもしれない、ひょっとしたら全くお門違いかもしれないが、あの時の誰かと同じように傷ついている目の前の達哉を苦しみから救いたいと思った。
それは、空の科学館で会った時からずっと想うのが目の前の達哉でなくても良いと言う想いと源は同じだった。ずっと彼の面影を達哉の中に探していた。
だけど、もういい。彼じゃなくても良い。目の前にいるこの達哉が好きだ。そう自分の心に気がつく。空の科学館で会った向こう側の達哉の力強い瞳はまだ淳の心を捉えて離さない。だが、自分の側にいる達哉にもたしかに魅かれている。
僕が好きなのはどっちの達哉なんだろう? そう自問自答するが、答えは見えない。いや、今は自分が好きなのがどちらなのかなんて今はどうでもよかった。傷付いた目をした目の前の達哉を抱きしめたいとだけ思う。
「綺麗ごとだ……。約束を破られて怒らないやつはいない」
達哉の唇にに浮かんだ微笑はすぐに消えて、再び辛そうな表情をして下を向く。
「そう、僕が言ってるのは綺麗事だよ。その時僕が本当に君を許す事ができるのかは判らない。でも、今僕は許したいと思う。それだけは信じて欲しいんだ。僕が許したって君が楽になるとは限らないけれど……」
淳が目を伏せたままそう言い、今度は視線を上げて達哉の方を見て言った。
「それに、僕は思うんだけど」
「何を?」
淳の言葉に達哉も顔を上げた。今にも壊れてしまいそうな達哉の痛々しい瞳をじっと淳が見つめる。達哉に自分の気持ちを上手く言えるかどうか緊張した。これまでずっと空の科学館で会った達哉の事を引きずっていた。空の科学館で会った人だと思ってたから達哉のことが気になっていた。でも、今は違う。あの時の彼じゃなくて、この人の事を知りたいとはっきり思った。
「僕達はお互いの事をまだ何も知らない。君がもし僕との大切な約束を破った時、僕は君を許せるかどうかとか、もし僕が君を傷つけてしまったら君は許してくれるのかとか……。僕と君の間にはまだ何もない。僕達にはもっとお互いの事を知る事が必要なんだと思う。迷惑だったら良いんだけど、僕は君のことをもっと良く知りたいんだ。君ともっと仲良くなりたいと思う。何故だか判らないけど君に魅かれるよ」
この思いが伝わって欲しいと祈るような気持ちでそう達哉に言い、制服のポケットからゆっくりと銀色に光る物を取り出した。
「だから……、これ、もらってくれる? 僕と君が出会った記念に」
差し出したのは銀色のジッポライター。あの時渡しそびれたことをずっと後悔していた。今ならあの時切れてしまった絆を再び戻す事ができるのかもしれない。今度こそ達哉が受け取ってくれる事を心の底から祈る。あの達哉に渡せなかった物を、彼とは別人らしい達哉に渡すのは違うかもしれない。と一瞬思ったが、とにかくなにか絆が欲しかった。たしかに二人は出会ったと言う証拠を残しておきたかった。何よりも、理屈なんてどうでもよくて達哉に受けとって欲しかった。
「良いのか?」
「良いよ、君にもらって欲しいんだ」
淳の言葉に少しびっくりしたような瞳で達哉が淳を見た。淳が頷くと、ゆっくり手を伸ばして淳の掌の上のジッポライターを達哉が受け取った。差し出した手が震えそうなほどの張り詰めた思いでいた淳が達哉の言葉でほっとする。達哉が拒否しなかった事が嬉しくて思わず微笑んだ。
今度こそ受け取ってくれた。
そう思うと、震えるほど嬉しかった。達哉が差し伸べた手を取ってくれたのが、自分に答えてくれたのが嬉しかった。
二度と、もう二度と離れたくない。
二度と? そう思った淳の心の中でかちりとなにかが引っかかった。「二度と」だなんて、まるで一度離れ離れになった事があるみたいではないか?
淳がその思いを達哉に気が付かれないように慌てて飲みこむ。おかしいと思われるのは怖くて嫌だった。達哉にも、自分自信にも。
「じゃぁ交換だ、これと。小さい頃からなんとなく大事に持ってる。動かないんだけどな。多分直せば大丈夫だから……。これをお前にもらって欲しい」
恥ずかしそうに、それでも嬉しくて淳が微笑むのを見て今度は達哉が少し笑いながらなにかを取り出し、ずいっと淳の目の前に軽く中に何かを握った手を差し出した。突然の事に淳がびっくりして達哉の顔と差し出された手に交互に視線を移す。差し出された達哉の大きな手の中にある物が何か判らない。促すように更に達哉が手を差し出すので、思わず戸惑いながらも淳も手を出してしまった。恐る恐る手を出すと、淳の手の上に金属の手触りとずっしりとした重みが加わる。なんだろう? と思って掌を覗き込んだ。
それは、向こう側の世界で幼い頃交換したあの時計。
「時計……、ありがとう。大事にするよ」
達哉がお返しに自分の大事な物をくれた。その心使いも嬉しかったが、それだけではなく、その時計はなにか大切な思い出の詰まった懐かしい物のような感じがした。少し目を細めて淳が掌の上の時計を見る。瞬間、あれ? と思った。達哉が動かないと言っていた時計がカチカチと動いてるのだ。
「あれ? 動いてるよ、これ」
「まさか? これ、十年ぐらい前からずっと動かないんだ」
淳の言葉に達哉がいぶかしげにそう言う。淳が嬉しそうに笑いながら時計を細い手首につけた。そのままよく見えるように腕につけた時計を誇らしげに達哉の目の前に持っていく。
「ほら、動いてる。どう? 少し大きいね。でもずっと付けとくよ。君からもらった大切な物だから」
不思議な事にそれはたしかに動いていた。らしくなく何か運命的なものを感じる。淳と出会ってから、なにかが動き出すのを感じる。時計が動き出したのもなにかの始まりのような気がした。嬉しそうに時計を見せる淳に思わず達哉も微笑み返す。
「ああ、ありがとう。俺もこれ大事にするよ」
淳があまり素直に喜んでにこにこと笑うのが可愛くて、無愛想な達哉にもつい笑みがこぼれる。今もらったばかりのジッポライターは、不思議なくらい達哉の掌にしっくりとなじんだ。以前にもなんとなくジッポを買って手遊びの道具にしていたが、淳からもらったジッポにはこれこそが俺の欲しかった物だという妙な確信があった。いつものようにカチンとライターを鳴らすと、なんだか懐かしい気さえした。あるべき物があるべき所にしっくりはまる気持ちよさを感じる。
「アハ、高校生にもなって子供みたいだね。お互いの宝物の交換なんてさ。ああでもなにか嬉しい。君と僕との間にこれから何かが始まるみたいだ。ワクワクするよ」
「これから何かが始まる……、そうだな、そういう気がする」
淳が相変わらずにこにこしながら達哉を見た。整った顔だちから普段は冷たい雰囲気さえするのに、笑うと印象ががらりと変わった。淳の笑みを少し眩しそうに見つめ、達哉がそう言ってかすかに頷く。確かに新しい何かが始まる予感がした。いや、期待と言うべきか?
「これからは一緒にいられるよね。君を初めに見た時から、ずっと仲良くなりたいと思ってたんだ。あ……、ごめん、変な事言って気持ち悪いかな? 僕、普段は結構人見知りするんだけど、好きな人には恥ずかしげも無く気持ちをぶつけちゃうから……、迷惑だったら言って」
軽く肩をすくめて淳がそう言った。思う気持ちが止められなくて自分でもびっくりするくらい積極的な事を達哉に言ってしまった気がする。達哉と再び(再び?)離れるのが怖くて、達哉が自分を受け入れてくれるまでかなり切羽詰っていたと思う。離れたくないあまりにかえって変な事を言いすぎた気がする。
僕、達哉の事が好きなんだ……。と淳が自分の気持ちに気がつき始める。達哉が好きと言う想いがじんわりと心の中に染み込んでいって切なくて優しい気持ちになる。
何故あんなに会いたかったのか、何故あんなに拒否されると悲しかったのか、何故あんなに受け入れてもらえると嬉しかったのか。何故あんなに達哉の事を求めてたのか。
空の科学館で会った達哉をただ追い掛けるのに夢中になってそれがどうしてかだなんて自分の気持ちをゆっくり考えた事がなかったが、出会って初めて達哉とこんなに沢山話をした。おかしな奴と思われるのが怖くて、自分の心を探るのも達哉の心の中に踏みこむ事もできなかった。ただの友達みたいにたわいの無い事を話しては勇気がなくて踏みこめない自分に内心ため息をついていた。
でも……、今二人きりで達哉の力強い目で見つめられるたび、その声や吐息を近くで感じるたびに体が震える。達哉の事が好きなのだという思いがじんわりと出て来る。
達哉にこの気持ちを知って欲しいという欲求と、軽蔑されたら怖いという思いが交差してぐちゃぐちゃになる。
でも、やっぱり知って欲しい。その思いがつのって、でも勇気が出なくてしばし迷ってると、達哉の声が頭上から降ってきた。
「いや、そんな事無い、俺はもっと変な事を考えてる」
「え? 変な事って?」
自分の思考に没頭しそうになっていた淳が達哉の言葉に顔を上げる。何気なく達哉の目を見ると、緊張している目で、それでもじっと達哉が自分を見てるのに気が付いた。
「俺、お前の事が好きだ。ご免」
なんだろう? と思っていると、達哉が淳に向かって、はっきりと目を見てそう言った。淳が一瞬理解できずに瞬きすると、淳に見つめられるのに耐え切れなくなったのが達哉が目を伏せる。
とうとう言ってしまった……。と達哉は思う。耐え切れなかった。淳のほっそりした指先も、初めて見た淳のあんな微笑みも。俺を挑発してるんじゃないかとまで思った淳の積極的な態度も言葉も達哉の理性を崩すのに十分だった。このきっかけを逃すと、いつまでも友達のままでずるずる行ってしまいそうな気がした。自分の気持ちをこれ以上押さえておく事ができなかった。
今すぐにでも淳の細い体を抱きあげて誰もいないどこか遠くへ行ってしまいたいような欲求に駆られて仕方が無い。だが、言った傍から後悔し始める。場所も雰囲気も考えずに勢いだけでそう言ってしまった事に口に出してから気が付いたのだ。
「なんで謝るの?」
情けないとは思うが淳の顔が見えない。淳の声はまるでこの世の終わりに神の裁きを告げる天使の声のように聞こえた。だが、余計な言い訳はしたくない。自分の気持ちに嘘はつきたくない。
「だって、迷惑だろ? 男に……」
考え無しの自分の行動に歯噛みしたい気分だ。だが、こうなった以上は仕方が無い。一瞬後悔したもののむしろ言ってしまった事で吹っ切れた気分にさえなった。なんとかフォローしたいが、良い言葉が浮かばなくて語尾を濁す。
「どうして僕の気持ちを君が決めるの? 」
淳の声に慌てて顔を上げた。
「あ……、済まない、そう言うつもりじゃ…」
慌てて言いかけると、淳が複雑な笑みを浮かべている。淳の少し困ったような笑みにそれでも見とれてしまう自分に少し呆れた。達哉が困って言葉に詰まると、淳がもう一度笑って言った。
「フフ、達哉って、いつもそう。いつも勝手に一人で決めちゃってさ、僕の気持ちはお構いなしなんだから。今度からは僕の意見も聞いてもらうからね」
「え……?」
淳が何を言いたいのか判らなくて困惑する。わざとなのかそうで無いのか、淳が焦らすように悪戯っぽくそう言って、にっこりと微笑む。淳が今まで座っていたピアノの椅子から立ち上がった。身長差がだいぶある達哉を見上げ、ゆっくりと口を開く。
「僕も、君の事が好きだって事だよ」
淳の言葉に強烈なボディブローが決まったような錯覚さえ覚えた。その言葉を聞いた瞬間、一瞬心臓が大きく脈打って、心拍数がどんどん上昇していく。淳はなにげなくさらりとそう言って済ました顔をしていたが、ちらりと達哉の目を見るとやっぱり恥ずかしかったのか照れ隠しにはにかんだ様子で笑った。一瞬頭が真っ白になったが、その表情で淳が自分の気持ちを受け入れてくれた実感がふつふつと湧いてくる。だが、ふとある事に気がついて喜びを押し殺して真面目な顔で淳に言う。
「言っておくが、好きって、友達としてじゃないぞ。俺はお前にキスしたいと思ってるし、それ以上の事もしたい」
「判ってるよ、強調しないでよ……。恥ずかしいなぁ」
達哉の言葉に淳がうっすら目じりを赤くして目を伏せて答えた。恥らう淳の様子が可愛くて今すぐにでもどうにかしてやりたい。達哉の方も余計な一言を言ってしまってがっついてるようで恥ずかしかったが、嬉しさの方がはるかに勝る。
「おかしいかな? 会ったばかりなのにね」
ふと淳が一瞬遠い目をしてそう呟いた。その言葉に達哉の心に嫌な暗雲が広がる。さっきまで感じていた不安がまた頭をもたげる。自分の心が自分の物ではなく、操られているような不安。淳を好きなのが、または淳が自分の事を好きだと思ってくれてるのが誰かに操られてそう思ってるんじゃないかという不安。自分も感じては押し隠していた感情なので、淳の言葉が胸に突き刺さった。不安に思わず声を荒げる。
「良いんだよ、会ったばかりなのにとかそんな事はどうでもいいんだ。きっかけなんて俺には関係ない! 俺はお前が欲しいだけ。それだけだ。だから、そんな事言うな、考えるな! 俺だけを見てくれ」
自分でも感じていた得体の知れないデジャ・ヴと不安。もし淳もそう思っていたらと思うとたまらなく怖くなった。淳がそれに惑わされて自分から離れていくかもしれないと思うと怖い。だから俺はデジャ・ヴよりも目の前の現実を信じる。そう淳に伝えたかった。
「達哉……」
淳が達哉の様子を見て小さく呟いた。淳の言葉をさえぎるようにまた達哉が口を開く。
「勝手だって事は判ってる。でも、駄目なんだよ、お前の前ではみっともない所見せたくないのに、我慢できないんだ」
一気にそう言い放つと、恥ずかしいのかぷいとそっぽを向く。みっともないと判っていても言わずにはいられない。みっともなくても苦しくても淳がいないよりはましだと思った。何に変えても淳が欲しい。
一気に言葉を吐き出した達哉を見て、淳もおずおずと口を開いた。
「君も、不安なの? 君もこんな気持……、デジャ・ウを感じてるのかい? 君に初めて会った時からずっと君の事を考えてるんだ。でも、君のことを考えてたら思い出したくない何かも思いだしてしまいそうで怖い。途切れた記憶みたいなのを感じたり、寂しさとか、怒りとか、そんな感情だけがふと浮かんだり……、実は、怖くてどうしようもないんだ……。それでも僕は君に魅かれるよ。君のこと考えずにいられないんだ」
そう言っていったん口をつぐむ。ずっと感じている不安を達哉に言うのは勇気が入った。笑われるかもしれないと思ってずっと一人で抱え込んできた不安を達哉も感じているのかもしれないと思って勇気を振り絞った。こんな気持ちを抱えたまま達哉と一緒にいるのは辛い。そう思って勇気を出す。
「僕も君のことが好きなんだよ、とても……。でも、これは本当に僕の気持ちなのか判らない、怖いよ」
情けないと思うが、それが本心だった。本当に自分の気持ちなのかはっきり判らない。デジャ・ヴだとか二人の達哉の記憶とか色々な物に惑わされて自分の本当の心が見えない
誰に会ってそう思ったんだよ。と達哉の心にチリリと嫉妬の痛みが走る。淳が自分ではない誰かに魅かれており、それを自分だと勘違いしていることは判っていた。そして、淳が少しずつ自分に魅かれてる事も。
「デジャ・ヴなんて俺はどうでもいいんだ。俺の目の前にいるのはお前で、お前の前にいるのは俺だ。俺は淳の事が好きでそれで良い。それじゃぁだめか? 頼むからここにいないデジャ・ヴの誰かを思うのなんか止めてくれ。お前の目の前にいるのは俺だ。俺を見ろ」
淳の心までまっすぐ見とおすような達哉の視線。淳が二人の達哉の記憶の狭間で迷っているのを見透かすようだった。どちらが好きなのかわからない。どちらに魅かれてるのか判らない。あるいは、両方とも好きなのかもしれない淳の心。達哉が再び口を開いた。
「きっかけが偶然だろうと故意だろうとどうでもいい。俺達は出会った。その事実を俺は信じる。お前はどうしたいんだ? デジャ・ヴなんかじゃないお前の本当の気持ちはどうしたいんだ? お前の心に従え、惑わされるな。おまえはどうしたいんだ? 」
僕の心……。そう淳が達哉の言葉を心の中で繰り返した。余計な感情を一切捨てて自分はほんとうはどうしたいのかと考えた。
迷いや不安を何もかも捨てて自分が望むのは何?
「僕……今とっても冷静に見えるかもしれないけど、ほんとはさっきからずっと震えてるんだ……。嬉しくて、怖い。フフフ、平静を装ってるけどギリギリなんだよ、ほんとは心臓が止まってぶっ倒れそう。自分でも顔面蒼白なのが判るしさ。君が僕の事を好きだと言ってくれて、とても嬉しかった。ほんとに……、我慢してないと嬉しくて涙が出そうだよ。でも、なんだか自分でも良く判らないんだけど怖い…。馬鹿だ……、ご免。でも好きなんだよ、君の事が。君にキスして欲しいし、傍にいて欲しい、抱きしめて欲しいよ」
深入りしちゃ傷つくと心が怯える。無意識の内にまた離れ離れになるような悲しい事は二度と嫌だと心が怖がる。それだけは今はどうしようもなかった。でも、好きで好きでどうしようもない。怖くても近くに行かずにはいられない。それが淳の真実、心が求めている事だった。
「大丈夫だ」
達哉がそう言い、淳を抱きしめた。それに応えておずおずと淳の手も達哉の広い背中に回り、ぎゅっと達哉を抱きしめる。まるでちいさな子供のように頼りない淳の姿に、達哉がかすかに震える淳の顔を上向かせ、瞳を覗き込んだ。お前を守る。もう悲しい思いをさせないと誓う。と目でそう伝えるとそっと口付けた。優しいキスに淳の瞼がゆっくりと閉じる。達哉が唇に何度も優しく口付けると、我慢できなくなったように今度は深くキスした。思いの激しさを伝えるように。お前の事が欲しいと伝えるために。そして自分の事で淳がいっぱいになるように。淳が他の誰かのことを考える隙間が無くなるくらいに自分でいっぱいにしたかった。
「達哉……、達哉……」
淳が深いキスの合間に何度も達哉の名を呼んだ。もう二度と消えてしまわないように、ここにいるのを確かめるように。達哉は淳が名前を呼ぶ度にここにいると教えるために何度もキスした。淳が満足するまで、何回も。
達哉にキスされて幸せだった。だけど、淳の心の中には秘密がある。
自分でも判らない、僕は誰が好きなのだろう? 空の科学館で会った彼?それとも、今キスをしてくれるこの人なのか?
たしかに目の前の達哉に魅かれている。それは本当。だけど、それが空の科学館で会った人の代償なのか、彼自身が好きなのかわからない。
それとも両方?
まるで自分の中に自分が二人いるようだ。一人はずっと空の科学館で会った達哉を求め、もう一人は目の前のこの達哉に魅かれている。
遠くの達哉の面影を抱いて側にいる達哉に抱かれている。
お願いだから、差し伸べたこの手を離さないで。僕の心が迷わないように抱きしめていて。淳がそう達哉に願った。僕はずるい、汚い。どちらの達哉も欲しがり、どちらも失いたくなくてどちらも裏切っている。
いつか、君だけを見るようになるから僕を許して……。
そう思ってキスを受けた。
いくら自分がずるいと思っても、達哉の手を離す事は到底できなかった。身を切るような罪悪感にかられてもこの腕の中にいたかった。達哉のキスで体が熱い。思考がぼんやりと遠のいて行く。二人の達哉に会ったしまったからこそ感じるこの感情をどうするのか、判らずにただ今は自分の心が求めるままに達哉の腕に抱かれていたかった。
たまらなく幸せで、たまらなく苦しい。
これからどうする?
果たされなかった約束の行方がおぼろげに見えてくる。
ENDE
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