ニャルラトホテプの矛盾の仮面


                       







 冷たい風の見えざる手に押され、キィ……と軽く軋む音を立ててドアがほんの少し開いた。暗い廊下に一筋の光が差し、部屋の中から凍えるような冷気が吹いて来る。

 その光に反応するかのように闇の一部が一層暗くなった。闇は濃さを増し、やがてゆるゆると人の形を取り始める。ほんの数瞬後、そこには堂々とした体躯の男が邪悪な笑みを浮かべて存在していた。

 闇の中で、その男の大型の爬虫類を思わせる目がぎょろりとあたりを見まわす。そこだけ闇を切り取ったかのように鮮やかな金色の瞳。それはとてつもなく邪悪で、そして美しかった。たとえその本性が何であろうと魅かれずには居られないであろう金色の光。

 その金色の光が消えた。男がゆっくりと瞼を閉じたのだ。再び瞼を開いた時、そこには光は無かった。邪悪な笑みが消え、まるで仮面を取り変えたかのようにがらりと表情は変わり、男の顔には自信に満ちた優しい微笑みが浮かんでいた。

 ゆっくりと手を伸ばし、ドアのノブをつかむ。

「淳、どうかしたのかい? 」

 艶やかで低い、耳に心地よい声が男から発せられた。相手を心底心配しているかのような声。いつの世も、邪な存在が誰かをそそのかす声は心地よく甘い。

 「淳」と呼び掛けられた人物は部屋の隅にいた。広い部屋の隅、ほの明るい光が届かなくて少し暗い窓際。壁のほとんどを占める大きな窓を開け放ち、窓の外をぼんやり見ているのだろう、床に座ってぐったりと壁にもたれている少年の姿が男の目に入った。

 表情は後姿で見えない。だが、淳と呼び掛けられた人物は男の声に反応してゆっくりと声のした方向を振り返る。こちらを向いた少年の小さな顔は、硬質で美しく整っていた。芸術家が命を込めて引いたようなカーブの細い眉、伏せた切れ長の目は憂いに満ちている。形の良い唇は寒さのあまり色を失い、ほっそりとした手足を力無く投げ出している。白と黒のぴったりした服を身につけたその姿は、セピア色の薄暗い光に照らされて、部屋を飾る豪華な調度品の一部のようだった。まるで等身大の人形のようなその少年が男を見てうつろに微笑む。

「ああ、父さん……」

「どうした? 窓を閉めなさい。夜風は体に障る」

「星を……見てたんだよ」

 優しくそう会話を交わしながら男は淳と呼ばれた少年のもとへ歩み寄り、身を切るような冷たい風が吹きこんでくる窓を閉めた。少年は止めようとも手伝おうともせず、小さく何かを呟いたまま無気力に男がそうする姿を見ている。

 その姿を不審に思ったのか、男が少年の前にひざを付き、目線を合わせて瞳を除きこむ。

 やわらかな光は整った淳の顔に優しい陰影を付け、尖った硬質さを包み込んでいつもよりずっと儚く見える。

 悲しみに濡れた無気力な瞳の奥に自分が映っているのを見つけ、男が薄く笑う。

「ご機嫌斜めのようだな、淳は」

 そう言うと、その少年、淳を軽々と抱き上げて立ちあがった。不安定な態勢から、細いと言えども少年の体を抱え上げるさまはまるで重力など男には関係無いかのようだった。ほっそりとした淳の体は横抱きに抱きかかえられ、淳は甘えるように腕を男の首に回してしがみついた。大きくてたくましい男の胸に顔をうずめ、不安な子供のように首に回した細い腕に力を込める。

「なにか悲しい事を考えてしまったのかい? 目が赤い。ウサギみたいだぞ? 」

 男がからかう様に耳元でそう囁き、淳を抱きかかえたままベッドへと歩み寄った。

 そのまま優しくベッドへ淳を横たえる。離れたくなくないのだろう、淳の体をベッドに横たえて体を離そうとした男の首に回した腕を離そうとしない。

「淳、私は何処にも行かないよ。良い子だから離しなさい」

 男の顔を見ないまま小さく嫌々している淳に諭すようにそう囁きかけた。男の声に安心したのか、それでも不安そうに嫌々ながら手を離す。

「私の目を見なさい、淳? 」

 ベッドに体を横たえた淳の傍らに座り、淳を見つめながら男がなおも優しく囁くと、淳がおずおずと濡れた瞳で男を見上げた。男が優しい微笑を浮かべながら大きな手で淳の前髪をかき上げる。

「また悩んでいたのか? いつも言っているだろう、私の言う事を聞いていれば間違いは無いと。淳は私の言う通りにすれば良いんだよ? それとも私を疑うのかね? 」

 男がいつものように甘い毒のような言葉を淳に注ぎこんだ。それが彼のやり方だった。自分への信頼と愛情を盾にゆっくりと淳の自我と思考を奪い、辛い現実から目をそらさせ、自分に都合の良い様に創られた甘い甘い虚構の世界に誘い込んでいく。少しずつ毒を注ぎこんで神経を麻痺させ、朦朧としてるうちに自分好みのマリオネッテに仕立て上げるのだ。

 時折薬が切れたかのように自己を取り戻して悩む淳には、定期的に毒を投与してやらなければならなかった。完璧な人形にしては面白くない。自分の与える毒が切れては悩み、また優しい言葉をかけてやれば安心する。細い糸の上を目隠しで綱渡りするような淳の脆さを男は愛していた。脆く、儚く、美しい彼のマリオネッテ。その純粋さと愚かさを彼は目を細めて愛でた。彼のマリオネッテは男にとって道具であるだけではなく、手間をかけて育てた最高の愛玩物でもあった。

「父さん、そうじゃないんだ。僕は……」

 眉をひそめて言いかけた淳の言葉を男は相手にせず、適当に遮った。

「ああ、判ってるよ。淳が私を信じないはずはないからね。今日はまた何を思い出したのかい? それともお前が犠牲にしてしまった人に対して罪の意識でも感じているのか? 良いから私の目を見てお休み。楽にしてあげるよ」

 そう言いながら、男の目がうっすら金色に輝き始める。淳がそれに気が付いた訳でもなかったのだが、耐え切れないと言うようにぎゅっと目を閉じた。

「違う! 父さん、違うんだよ……」

 次の瞬間、再び目を開けてそう叫んだ。先ほどの無気力な状態からぷつりと糸がきれ、そこからなにかが迸るかのように淳の中に注ぎこまれる。綺麗なガラス玉のような瞳に光が宿った。命を吹き込まれた人形は男の目をまっすぐ見据える。

 その瞳に宿ったのが怯えなのを見て、男が馬鹿にするかのように少しだけ口の端を吊り上げた。だが、その奥に流れるもう一つの光を見つけ、あざ笑いかけた表情が一瞬止まる。怯えにしろなんにしろ、それでもその光だけはたしかにマリオネッテ自身のものだった。

「では、なんだい? 」

 男の瞳の色が変わった。子供を適当にいなすような態度をやめ、いつのまにかまっすぐ心の底を見とおすような瞳で淳を見た。

「父さんは何故僕に優しくしてくれるの? 」

 淳にはもうその目をまっすぐ見る事ができなかった、伏目がちでおずおずとまるで一人ごとのようにそう呟くのを見て、やはり思い違いだったかと再びあざ笑いかけた男の動きが、今度こそ驚きで一瞬止まった。

「父さん、いや……、貴方はだれ? 」

 おどおどとしていた態度から一転し、弾かれたかのようにいきなり男の目を見上げたかと思うと、いきなりそう言ったのだ。

 彼が創り上げた、無垢で美しく愚かなマリオネッテはそこにはいない。瞳には知性と意思が宿り、それと引き換えに現世の罪と汚れにまみれた一人の人間がそこにいた。

 知恵の実を食べ、知恵と引き換えに無垢さと純粋さを失った人間を神は楽園から追い出した。自我を捨てた愚かな無垢と純粋さのまま楽園に住み続けるのか、苦しみ汚れ、罪を犯しながらも自我を持つのか。数千年前からのその問いかけに対して答えを出そうとしている淳に興味を持って男の目が少し細められた。

「お前の父親だよ」

 その問いに答えながら、にぃと男が笑った。これまで父親の仮面をかぶりとおして見せた事の無かった自らの本性のほんの一端を淳の前にちらつかせて威嚇する。これまで淳が見た事の無いような悪意に満ちた微笑み。この程度の威嚇で問いを止めるのなら本当の事はなにも知るまい。自分が発した問いの重要さに気がつかないまま、またもとの美しく愚かなマリオネッテに戻るだろう。

「それが本当の父さん? もっと良く見せて」

 だが、マリオネッテがひるむ事は無かった。逆にがばと飛び起きたかと思うと、男の顔を両手で包み、その顔を良く見ようと顔を近づけた。淳の真剣な視線が、誰も到達した事の無い男の深遠にふと触れる。

「あなた、さっき初めて僕を見てくれた。『僕』を見てくれたんだ」

 淳は怯えるどころか熱に浮かされたような目で男を見、その堂々とした体躯にすがる。

 その意味する所に気が付いた男の目が再び金色に光った。もはや正体を隠そうとはせず、父親の仮面を脱ぎ捨て、這いよる混沌としての本性を露す。あたりの空気は邪気に揺らめき、生けるものもそうで無い者も恐れて息をひそめた。その中で淳だけが彼を恐れず、巨大な爬虫類を思わせるその瞳を夢中になって覗き込む。

 無知ゆえのその行為に淳以外の全ての存在が心底怯え、邪神の怒りを恐れてざわざわと震えた。

 だが、邪神はその行為を咎めようとはせず、信じられない事に再び淳に声をかけたのだ。

「何時から気がついていた? 」

「最初から」

 地のそこから響くような割れた声が男から発せられた。声の余韻が部屋を震わせ、あちこちに反響する。その声に淳が即答した。うっとりとその金色の瞳の美しさに酔い、男が道具としてではなくほんの一瞬でも自分を見たことに興奮して我を忘れている。

「最初からだと? 」

「最初からあなたが僕の父さんじゃない事は知ってたんだ」

 恐ろしい目で淳を見る邪神の正体を垣間見ても、マリオネッテの態度は変わる事はなかった。自分の父親だと信じていた男を見る目と同じ、信じ切った眼差しを邪神に向ける。

「いくら真実を記憶の底に閉じこめて甘い夢を見ても、本当は僕は覚えている。冷たい夜に神経が研ぎ澄まされた時、病気で心細くていろんな事を考えてしまう時。僕はほんとの事を思い出す」 

 淳の言葉に邪神の目が細められた。どうやら記憶を封じる暗示は浅すぎて上手くかかってなかったらしい。マリオネッテは完璧にではないだろうが、あの頃の記憶を持ち、それを隠しながら自分に従っていたというのだ。

 腑に落ちなかった。記憶を持っているのなら、何が正しくて、何が正しくないという事も判るはずだ。何よりも、自分がしている事の罪深さを知ってるはずだ。

 淳はもうマリオネッテでは無かった。いつのまにか男と同じ目線で言葉を交わす。

「では何故私に付いて来た? 私が何者か知っているのか? 」

 邪神がそう問い掛けた。帰ってきた返事は悠久の時を存在し続け、星の数ほどの人間を見てきた存在でさえ理解しがたいものだった。

「さっきはそう聞いたけど、あなたが何者だろうと僕には関係無いよ」

 男とは正反対の微笑みを浮かべてそう淳が何気なく言った。淳の言葉は素直で、真実の色が含まれていた。現世の罪と汚れに満ちた存在として彼のマリオネッテに選ばれた存在は、清らかで無垢な微笑みを浮かべ、いまや邪神の存在と正反対と言っていい程遠かった。

「なんだと? 」

 邪神がぎろりと淳を睨みつけた。淳は全く意に介さず、この異常な状況の全てを受け入れているような表情を浮かべる。

「僕を見てくれるのはあなただけだから……。どんな形にせよ、僕を必要としてくれるのはあなただけ。だから僕はあなたについてきたんだ」

 にっこりと微笑んで淳がそう言った。淳にとって、男が幼い頃に淳がついた嘘を取り返しがつかない事にまでそそのかした恨みや恐怖などはなかった。むしろ、あの時手を差し伸べてくれて自分を救ってくれたという思いが嬉しくて今まで付いて来たのだ。

 誰にも顧みられる事がなかった自分に初めて誰かが手を差し伸べてくれた。厄介者扱いされ、空気のように自分の存在を消す事ばかり考えていた淳にとって、その手が黒かろうが、冷たかろうが関係なかった。淳に差し伸べられた手はただ一つ。その手を離す事はできなかった。たとえ何をしても。どれだけ罪を犯しても。

「ククク……、面白い。お前は自分が何をしているのか判っていて私に付いて来たと言うのか? 自らのエゴと知って他人を犠牲にしてきたと言うのか? 何という愚かで罪深い人間なのだ! 」

 淳を嘲笑うかのようにそう言ったが、今まで邪神がさげずみ、嘲っていた生き物は、本当はもっとしたたかで強い生き物だった。それに気がつかずに彼は淳を薄っぺらい無垢さと愚かさの人形の中に閉じこめようとしたのだ。だが、それは無駄だった。マリオネッテの本質は、誰にも汚す事ができない。創られた人格などにはマリオネッテは収め切れず、男が作った人形という型をやすやすと壊し、綺麗な瞳でまっすぐ邪神を見据えるのだ。善悪など関係無く、何もかも受け入れる微笑みは、自分さえも受け入れようとしているのだ。

 男は焦った。いくら汚し、その瞳を貶めようとしても、淳の瞳は男を見るのを止めない。

「『僕』を見ただと? 必要としてくれてるだと? 馬鹿を言うな。お前は私にとってただの使い捨ての人形に過ぎぬわ。愚かな人間ごときが戯言を……」

 どんな言葉ももはや淳を傷つける事はできない。だが、邪神はそれを認める事ができなかった。それは、自分自身に芽生えた気持ちを認める事にもなるからだ。淳の前で男の言葉が空回りする。淳はそれを見透かすように言った。

「あなたが僕を選んだから僕もあなたを選んだんだ。僕は自分の意思であの時あなたの手を取った」

 騙されたのではない、自分の意思で判断し、対等の立場であなたの手を取った。と意味する淳の言葉に邪神の怒りが爆発した。

 ただの愚かな人間のくせに、神たる自分と対等の立場でいると考えている不遜な生き物には罰を与えてやらなければいけない。

「調子に乗るな! 」

 男の声と共にすさまじい鬼気が淳をなぎ倒した、得体の知れない力によってベッドに押し付けられ、何か空気の塊のような物に押し潰されて動く事も叫び声を出す事もできない。頭上に伸ばされた両手が手首のあたりで交差し、何か黒いくて細長い物が巻きついていた。黒光りするその何かがぬるりと動いた。なにか生き物の動きだ。ちろちろと赤い舌を出すそれは、不思議な模様の入った黒い蛇だった。空虚な瞳のその生き物が淳の細い手首に巻きつき、動きを封じて恐るべき力で締め上げる。

 冷たい金色の光がその姿を見下ろした。まるで実験用のマウスを観察する科学者のような冷酷な瞳。その瞳に男が自分とは明らかに違う存在だと言う事を淳が思い知らされる。

 ならば、試してやろう。

 男はそう思った。何時まで淳がそのくだらない戯言を言えるのか試してやろうと。

 淳を見る男の目が残虐な光を帯びる。 

 す……と男の指が淳の喉に付きつけられた。そのままゆっくりと指を下ろしていく。その動きに合わせて淳の服がはらりと左右にはだけた。骨ばった体が冷たい空気に触れ、青白く薄い肌の下に青い血管が透けて見える。

「ん……」

 苦しいのか、恐怖からか、淳が少し身動きした。なまめかしく白い腹部が白蛇のようにうねり、加虐心を煽る。

 淳の瞳をまっすぐ見据えながら男の顔が近づいてきた。たまらずに淳が目を閉じる。目を閉じた瞬間、唇に男の唇がかぶさるぬるりとした感触が淳を襲う。口腔に侵入を許しながら苦しそうに息を止め、淳の心まで犯そうとするかのような男の舌に翻弄される。男の口付けは乱暴でおぞましく、それでいて優しくて甘い。やがて淳もおずおずと自分の舌を男の舌に絡めて答えた。男は獣じみたおぞましい欲望で淳を汚し、長い間そうしていたが、やがて淳の唇を開放した。本来の思惑と外れたのか、少しも抵抗しなかった事に男が少し眉をひそめる。

「言ったでしょう……。どんな形であろうと、必要として欲しいって」

 淳の赤い唇が動いた。お互いの唾液でべとべとに汚れた口元が卑猥に濡れている。ぼんやりと光る照明を反射してぬらぬらと光る口元を見て、男は無言だった。

「父さんの好きにしてよ。僕は応えるから……」

 淫靡な微笑みさえ浮かべてそう言った淳を見て、男の中で何かが動いた。

 次の瞬間、ゾクリと冷たい感触が淳の肌を襲い、余りの冷たさに心臓のあたりがキリリと痛んだ。男の指が淳の胸元に触れたのだ。トクン、トクンと何時もより少し早い規則的な鼓動が、皮膚を通して男に伝わってくる。生きていると言う事の判りやすい証だった。その鼓動を指先で感じた後、何を思ったのかおもむろに男が淳の左胸に指を幾本か付きたてた。指が左胸に少し食い込む。そのままずぶずぶと指を付きたてるつもりだった。血管を引きちぎり、びくびくと痙攣するマリオネッテの血まみれの心臓をつかみ出し、ふざけた事を言うこの愚かな人間の前に見せてやるとどういう反応を示すだろう。そう思って男が口を歪めた。

 だが。

 邪神はそうしなかった。

 壊れた玩具などすぐに元に戻せる。そうでなくても、変わりの玩具などいくらでもある。そのはずなのに、その玩具を壊す気にはなれなかったのだ。

 再び仮面を変えたかのように男の表情が変わった。

「全てを知っても私について来るのか? 苦しかろう? 」

 枕元に立つ男の金色の瞳に、ちっぽけで脆く愚かな生き物を哀れむ光が宿った。先ほどまで同じ生き物を蔑みあざ笑っていた男の急な変貌に淳が真意がつかめずに戸惑う。

「淳、私と一つになるかい? 大いなる物と一つになる快楽を与えてやろう。お前はちっぽけな存在から、全知全能の私の一部になるのだ」

 そう優しくベッドに横たわったままの淳にそう言った。淳はまだ少し苦しそうに眉根を寄せ、息を乱して瞳を閉じている。うっすらと汗ばんだ額に幾すじかの黒髪が貼りついているのを男の指がそっと拭った。なすがままにされながら、目を閉じたまま淳が強く首を振り、優しい指の動きにうっすらと目を開け、苦しそうに口を開く。

「そうすると、僕は僕で無くなってしまうから……。あなたと一つになるのはとても魅力的だけど、僕は僕としてあなたを愛したい。僕があなたになってしまうと、僕はあなたを愛せない。あなたも僕を見てくれない」

 淳がそう言って男の方を見ると、男も無言で淳を見ている。その瞳には、蔑みも、軽蔑も、なんの感情も浮かんではいなかった。ただ金色に美しく輝くその瞳を見て、淳がかすかに笑った。

「僕は、多分凄い我侭を言ってるんだろうな。こんなちっぽけな僕をあなたに見て欲しいなんて。でも、僕はあなたに見てもらえないのなら、あなたに逆らってでもあなたに僕を見て欲しいんだ。フフ、あなたに歯向かってあなたに殺されるのが僕の望みだよ」

 苦しげに目を伏せてそう言うと、男の反応を見るようにちらりと男の方を見た。相変わらずその表情に何も浮かんでいないのを見ると、反応を探るようにその瞳をじっと見詰める。

「だから、好きにして良かったのに……」

 淳がなまめかしく媚びるような視線を男に送った。男が先ほど戯れに淳の心臓をつかみ出そうとしたのを気が付いているかのように。そして、男がそうできない事を見透かして言っているかのように。

 淳のその言葉が終わるか終わらないかのうちに、男が淳の顎を持ち上げた。気配を消したすべらかな動きに淳がそうされてから気がつき、驚いて目を丸くした。

「んんっ……」

 ベッドにぐったりと横たわったまま、男に再び口付けされ、自分の中の熱い塊のような物と男に翻弄される。快感に頭の奥が痺れてきて、だんだん意識がぼんやりとしてきた。思考をまとめようとしても上手く行かない。目の前がだんだん白くなっていき、やがて、自分が今何をしているのかもおぼろげになっていく。

 あれ、僕、何を……?。

 そう思ったのを最後に、淳は深い眠りに付いた。再び目覚めた時には、今ここであった事も、幼い頃の記憶も全て消えているだろう。今度こそ男が深く閉じこめた。最後の時にのみ淳がその記憶を思い出すように。

「お前がそう言った事は私一人が知っていれば良い事だ」

 本物の人形のようにコトリとも動かなくなった淳に男が一人ごとのようにそう囁いた。 

 彼か囁き、そそのかした人間の誰も淳と同じ事を言う物はいなかった。自らの欲望に都合の良い夢を見させ、大勢の人間を犠牲にして破滅させる行為に飽いた男にとって、淳は何度めかの玩具でしか無く、他の人類と区別のつかないどうでも良い肉人形だったはずだ。

 だが、決められたかのように同じ事を言い、型にはまったように同じ破滅の道を行く人間と淳は明かに違った。男の邪神としての力を欲した人間は数え切れないほどいたが、男その物を欲した者は誰もいなかった。彼のマリオネッテを除いては。

 馬鹿な。だから何だと言うのか? 

 ちっぽけで愚かな生き物が足元にじゃれついてきただけだ。蹴飛ばしてしまえば良い。

 …………。

 男が目を閉じ、数瞬後再び目を開けた。

 なぜ淳の記憶を奪ったのか自問自答する。その問いの答えの中に、愚かなマリオネッテであれば、苦しむ事も無い。と、淳の苦しみを取り除きたかったからという理由があるのを男は認めるだろうか?

 淳に差し伸べられた手は本当は一つではない。淳がそう気がつく前に、男が大切な人たちから淳を引き離した。淳を一人にしたのは、淳が信じているこの男自信なのだ。

 ついにそれを男が淳に言う事は無かった。

 自分に逆らい、自我を持った人間を神は追い出した。同じく彼に逆らい、マリオネッテになることを拒否して自我を持った人間を邪神はどうするのだろう?

 やがてゆるゆると男の輪郭が崩れ始めた。寝息を立てる淳の傍らで、矛盾に満ちた存在は混沌の闇に解けて行った。


 ニャルラトホテプの仮面の一つはマリオネッテを蔑み。

 ニャルラトホテプの仮面の一つはマリオネッテで世界を壊し。

 ニャルラトホテプの仮面の一つはマリオネッテを愛す。


                         

ENDE



20060226 再録
発出 20020212 仮面党アンソロジー「子守唄は地獄から」

                            

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