◆アクエリアスの悔恨◆



 無慈悲な冬の女王の一閃があたりの大気を冷たく震わす。美しく澄んだ凍えた空気はぬくもりを求める恋人たちの距離を縮め、人々を大切な人が待つ温かい家庭へ急がせる。

 冬の女王のまどろむほんの一時の隙をついて、太陽が弱々しいが夏の狂暴さのないやさしい陽光で大気を暖めはじめた。光はもう一人の地上の女王の元へと急ぐ。太陽の光を取り入れるよう計算された大きな窓から、そこに立つすらりとした糸杉のような女王の姿に太陽は敬意を込めて光を投げかける。

 腰のあたりまで流れる豊かな黒髪。ほとんど肌を見せない深いヒスイ色の衣服を纏っているが、女性らしいふくよかな胸からくびれた腰の曲線が芸術的なまでに美しい。漂う気品と威厳は女王たるにふさわしく、匂い立つような上品な色気は見る者を魅きつけるも、 高嶺の花に近づく勇気のある者はいない。女王が時折投げる気まぐれな愛を手に入れようと飢えた獣のように群がっていた男たちも今はもういない。女王の思うはただ一人、だがそれを伝えることはできない。それは彼女が犯した罪への罰。

 

 キラリ……と仮面につけた緑色の宝石が光を反射した。彼女の美貌を覆い隠す仮面は罪の証。まるで涙を流しているかような黒い線がデザインされた仮面は、皮肉屋で悪趣味の悪魔が笑いながらお前にふさわしいと渡したものだった。誇り高い女王は逆らわなかった。むしろ自ら望んで仮面を受け取った。人目を浴びることが彼女の生きる意味であり、人々の賞賛、賛美、憧れの眼差を糧として生きていた彼女の人生を否定するかのような行動を自ら取るのを見て、悪魔は心底楽しそうに笑った。以来人前でその仮面をはずしたことはない。

「アクエリアス、ただいま」

 自分の思考に没頭していた女王がはっと声のしたほうを振り返る。彼女のいまの仕えるべき人であり、この部屋の主が戻ってきたのだ。華奢な体を対照的な白と黒でデザインされた体にぴったりとした服に包み、左手には脱いだ白い手袋を軽く持っている。

「お帰りなさいませ、ジョーカー様」

 彼女の方へ微笑みながら歩み寄ってきた少年が彼女の様子を敏感に察して心配そうに尋ねる。人の感情の動き、特に悲しみに敏感なのは過去に何があったからなのだろうか?

「どうしたの、アクエリアス? なんだが浮かない様子だけど……」

 そのつややかな黒髪も、神秘的な光をたたえた切れ長の瞳も、ビスク・ドールのような木目細かい肌もすべては彼女とうりふたつであることをこの子は知らない。すべてを打ち明けて抱きしめてやりたい衝動にかられながらアクエリアスが自分の感情を演技で押し隠し、大切な人を安心させるように微笑み返す。

「いいえ、ジョーカー様の身を案じていただけですから……。無事なお姿を見て安心しましたわ。ジョーカー様がご無事でよかった」

 仮面でその顔は見えないけれど、安心して微笑んだ気配が伝わってくる。それを感じて淳が心底嬉しそうに笑う。彼はこの女性が好きだったし、気にかけてくれるのは嬉しかった。 

「フフフ、アクエリアスは過保護だなあ。いつも僕を子供扱いするんだから。僕ってそんなに頼りない?」

 淳がその時ばかりは年相応の子供に戻ってアクエリアスに甘える。大人びた口調も、難しい理屈も、仮面党の棟梁としてのジョーカーという立場も、淳を背伸びさせ疲れさせる。心から安らげる彼女とともにいるのは淳の貴重な一時であった。

「あら、そんなつもりでは……。お気を悪くなさいました?」

 淳が少し気だるげな様子で部屋の大きなソファーにすわり、アクエリアスが差し出したホットチョコレートを受け取ってありがとうと礼を述べる。

「ううん。僕、よくこの外見のせいで馬鹿にされたり、なめられたりしたから、そういう風に思ってもらうのってつっぱって反発していたんだけど……、何故かな? アクエリアスに言われると素直に嬉しいよ」

 無邪気に微笑む淳にアクエリアスがほんの少しでも息子に気持ちを伝えようと震える心を叱咤し、彼女にとっては重い言葉を口に出す。

「わ……私にもジョーカー様ぐらいの息子がいて、その子に何もしてあげられなかったから……。ジョーカー様が自分の息子のように思えて、息子にして上げられなかったことをジョーカー様にして差し上げたいと……そう、思ってますわ」

「ああ、だからアクエリアスはお母さんみたいだったんだね」

 素直に口に出した淳の正直な気持ちにアクエリアスの心がかき乱される。罪が彼女に重くのしかかり抱きしめてやることさえできない。あの何か恐ろしいことを考えている男はアクエリアスに淳の母だと名乗り出ることも、仮面を彼の前ではずすことも禁じた。何かすごく嫌な予感が、仮面党に入ってから、否、橿原と名乗る自分の夫ではない男に会ったときからアクエリアスを襲う。

「母さんか……元気だと良いけど」

 淳の声のトーンが微妙に低く変わる。母という存在に人一倍思い入れのある淳が少し遠くを見つめ、しばらく会ってないと思っている母のことを思った。

「お母様を……恨んではないのですか?」

 演技しきれずに自分の声が震えるのをアクエリアスは感じた。淳に自分の罪を宣告してもらう時がきたのだ。仮面をかぶってでしか自分の罪を聞けないわが身を心底情けないと思い、変えようのない過去に今までの浅はかな自分を悔やんだ。しかしもう戻ることはできない。

「そうだね。恨んでないといえば嘘になるかもしれないけど。今はもう自分の道を選んだ母さんには幸せになって欲しい……と思うよ。だってね、僕にさびしい思いをさせたのに幸せになってくれてなかったら、『そりゃないよ! じゃあ僕は何のために我慢したのさ!』って思うよね」

 最後は冗談めかして言うと、アクエリアスが口を開く前にポツリとつぶやいた。

「ただ……やっぱりもう少し……もう少しで良いから僕にかまって欲しかったな。そうしたら僕ももっといろいろ母さんにしてあげることができたのに……。なんて、母さんが欲しいのは僕じゃないから、大きなお世話かな?」

「いいえ! 大きなお世話だなんてそんな事、そんな事絶対にないわ!」

「アクエリアス?」

 叫ぶように悲痛な声をあげたアクエリアスを淳が不信げに見つめる。その瞳から逃れるようにアクエリアスは横を向き、淳に苦しげに告げた。

「ジョーカー様のお母様もきっと後悔なさっていると思うわ……。自分の息子にしてあげられなかったこと、やってしまった過ちを思って心からジョーカー様にすまないと思ってらっしゃると思います。あなたに会って謝りたいと思ってるけど、何かの事情があってそれができないのですわ、きっと」

 仮面をかぶるっているからこそ言えることもある。仮面をかぶることによって、立場やしがらみを越えた一人の人間に戻ることができることもある。

「僕は母さんに何かして欲しいとか思ってるんじゃないんだ。ただ……僕の存在を許して欲しかっただけ。疎まれるのはつらいから。……ああ、なんだかすごく疲れたよ」

 心底疲れているのだろう。先ほどからやや精彩を欠いた淳が瞳を閉じた。

「私がおそばについていますからお休みなさいませ……」

「だめだよ……父さんのところに行かなきゃ。でも疲れたな……」

「顔色が悪いわ……」

 アクエリアスが心配して淳の頬に触れた。もともと色は白い方だが、今は蒼白といえるほどだ。先ほどのジョーカー様の儀式での呼び出しに応じたときから様子がおかしかった。淳の身に何かあったのかと不安にかられる。

「ねえ、アクエリアス。父さんには言わないでほしいんだけど……。今日、達哉達に会ったんだ……。すごく憎んでいたはずなのに、会ったら引き裂いてやりたいと思ってたのに。僕が何よりも激しく感じたのは懐かしさだったよ。すごく……すごく懐かしかった」

 十年前のあの夏の日々の思い出は、淳にとってもかけがえのないものだった。幸せの象徴のようなあの共通の思い出を持つ皆を見て思ったのは、淳が想像していた憎しみなどではなくあの日に帰りたいという押さえきれない感情、懐かしさ、大好きだった皆への思い。

「でも達哉達は僕のことを忘れてた……。僕はこんなに達哉のことを考えて気が狂いそうだったのに。すごく悲しくて、一人取り残されたみたいで、僕は一人ぼっちだった。皆楽しそうに昔みたいに仲間になってたのに、あんなに大事だったお姉ちゃんにした酷い事は都合よく忘れてたんだ!」

 憎しみと懐かしさと愛情と嫉妬と取り残された孤独感が淳の精神の負荷を越えてのしかかる。どれほど皆に会いたかったか会って初めて判った。会った瞬間から憎しみが薄れていくのがたまらなく恐ろしかった。だが、皆は自分たちの罪を忘れ、のうのうと生きていたのだ。淳が大切なものを失って苦しんでいたときに、その苦しみを与えた張本人たちは罪を償う事もなく、淳の苦しみも知らずに笑っていた。白々しくも旧交を暖めていたのだ。

 そんなの、そんなの許すものか……。

「疲れていらっしゃるんですわ……。お眠りなさい。お目覚めになったら熱いスープを用意しておきます。それを食べたらきっと元気になるわ」

 慰めてやれない事を悲しく思った。だが、淳が自分で乗り越えていくべき問題に余計な口出しをするべきではない。今彼に必要なのは、愛情と休息、そして栄養のある食べ物。彼女ができる範囲で精一杯の事をしてやろうと思う。

「ありがとう、アクエリアス。でも、父さんのところへ……」

「お父様には私から言っておきます。あなたに必要なのは休息よ」

 先ほどからしきりに父の元へ行こうとする淳を引き止めた。本当に淳が疲れているからという事もあるが、真の理由は淳の父だと偽るあの男のところへ行かせたくないからであった。淳を使って何か恐ろしい事をたくらんでいるあの男は何者なのだろうか? 何をしようとしているのだろうか? 恐ろしい予感に無駄だと判っているが、少しでも息子をあの男に近づけたくない。

「父さんに見つめられると頭がしびれたみたいになって、何にも考えなくても良い。父さんの言うことは正しいって思えるんだ。父さんは僕に力を与えてくれる。でも、今みたいに時々僕は酷い間違いを犯しているんじゃないかと不安になるんだ。ああ、だから早く父さんのところへ行かなくちゃ」

「だめよ! 自分で考えるのをやめてはだめ……」

 絶望的な思いでアクエリアスは呟いた。あの男の魔手は淳の心の弱いところから入り込み、たぶらかし、淳のすべてを操る糸を心の中に張り巡らせたのだ。淳はつらい事実から目をそらし、自分で考える事から逃げ出し、結果あの男に心をのっとられてしまった。淳の心に占める父の存在はあまりに大きすぎて、その毒牙はあまりに淳の心に食い込みすぎて、無理に引き剥がそうとすれば淳の心までも食い破ってしまうに違いない。たとえ彼の心が開放されたとしても他人からの借り物しかなかった淳の心は空っぽで何も残るまい。

「……すごく眠いよ。済まないけど、やっぱり貴女から父さんに後で会いに行くって伝えておいてくれるかい?」

 悲しみから逃れようと眠りの世界へ入ろうとする淳に、アクエリアスが安心させるためにやさしく口を開く。今この子に必要なのは人のやさしさであり、それを淳に与えてやれる事に感謝した。少しは母親らしい事をしてあげられただろうか?

「伝えておきます。それよりもそんな所で寝るのはいけないわ。ベッドへ行きましょう」

「やだ。ここでいい」

 淳が甘えてわがままを言う。傷ついた心がいつもより淳を幼くさせたのだが、アクエリアスはそんな淳を受け入れた。淳が彼女以外にはけして見せない自分を安心してさらけ出すのが純粋に嬉しかった。これが自分が知ろうともしなかった母親の喜びなのだろうか? だとしたら自分はつまらないものと引き換えに何と大きな物を失ったのだろう。

「まあ、しょうのない子ね。……では何かかけるものを持ってきますわ」

 自分の息子に無償の愛情を与える喜び、求められる喜び……。もう手遅れかもしれないが、最後に少しでも気づくことができた事に感謝する。

「そんなの後でいいから眠るまでそばにいてよ、良いでしょう?」

「ええ、もちろん」

 淳が幼い頃からあれほど欲しがっていたものがここにある。

「アクエリアス……、こんな事言って貴女の気に障ったのなら済まないのだけど、貴女は仮面をはずさないの?」

 やさしい睡魔に襲われてまぶたが下りてくるのを我慢しながら淳がゆっくり口を開く。大好きな彼女が仮面をかぶっている事が水臭いような、自分を信じてくれないような気がして少しだけ不満だった。アクエリアスが済まなそうに、悲しみを込めて短く返した。

「ええ……見せられるような顔じゃないですから」

「僕はアクエリアスがどんな顔だろうと貴女のことが大好きなんだけどな……。仮面のままじゃ貴女の目を見て話すこともできないし、声もよく聞こえない」

「御免なさい……」

「ううん、気にしないで。アクエリアスを責めてる訳じゃないんだよ」

 アクエリアスを困らせた事を少し後悔して淳が微笑む。踏み込まなければ知ることはできないし、踏み込みすぎても相手を傷つける。人の心に入るのはなんと難しいのだろう。

「やっぱり寒いかも……」

 淳がぶるっと小さく体を振るわせた。温かい室内とはいえ冬のさなかにソファーでまどろむのは少し寒い。

「ほら御覧なさい! 毛布を取ってきますわ」

 しょうがない……といいながらも嬉そうにいそいそとアクエリアスが寝室へ消える。彼女の息子のために。

 アクエリアスが戻ってきた頃には、淳は軽い寝息を立てていた。寒くないようにやさしく毛布をかけてやりながら、かりそめにも母親らしいことをしてやれることに喜びを覚える。

 アクエリアスが仮面に手をかけた。そのままゆっくりを仮面とはずす。仮面の下から現れたのは、血のつながりを感じさせる淳と同じ顔。ただひとつ不自然なのは、年齢に似つかわしくない若々しい美貌であった。自然の摂理に逆らいたいと願い、不自然な力に頼ってしまった自分を愚かだと思う。だが、そのおかげで気がついた。

 仮面党に協力するようにという橿原を名乗る男の頼みを断ったとき、自分の息子がジョーカーその人であることを告げられた。
 その事実は気丈な純子に衝撃を与えるのに十分であった。自分の息子でありながら淳が何を考え。どう行動し、どう生きているのか何も知らない。いや、知ろうともしなかった自分にはじめて気がついた。
 他人よりももっと遠くなってしまった息子、そうしたのは自分。拍手、憧れの眼差し、快哉、華やかで軽薄なものにばかり目を奪われてなんとほかの大事なものを見逃してきたのだろう。
 女優としての黒須純子、女としての黒須純子のほかに母親としての黒須純子という生き方があることを無視し続けてきた。周りに誰もいなくなったと世間を恨んでアルコールに逃避したときも、淳は母さんの声が聞きたいと時折電話をくれていたのに。

「どんな顔してあなたに会えというの……」

 純子の瞳に透明な涙が浮かんだ。私にはその資格がない、淳の母親だと名乗る事も、淳に愛情をかけてやるのも、淳に愛してもらう事も、「母さん」と呼んでもらうこともすべて。そう思ったとき、純子は仮面を欲した。差し出された仮面を自らの意思で受け取った。

「せめてもの罪滅ぼしにあなたと共に行くわ……」

 淳の寝顔を見ながら純子が小さく呟く。純子の中の嫌な予感が膨れ上がる。あの男は何か恐ろしい事をたくらんでいる、何か恐ろしい事に淳を巻き込もうとしている。破滅への道を行く息子とせめて共に滅びようとする私の選択は正しかったのかしら? ただの私の自己満足にすぎないのではないのかしら? 純子が自問した。
 もっとほかの道があったのではないか? 巨大な陰謀の歯車におとなしくつぶされるだけの道より何かが。だが、そこから抜け出す事はあの男を裏切る事、自分を裏切った者にあいつがどんな酷い事をするかと思うと身が竦む。逃げ出すだけの力のない無力な自分に純子が再び涙を流した。

 私では淳を救ってやれない、淳を幸せにしてやれない。

「母さんを……許してちょうだい」

 大粒の涙が純子の目から落ちた。息子の顔をもっとよく見ようと覗き込む。安らかな寝顔が悲しみに暮れることがないよう心を込めてキスした。

 どんなに操られ利用されても貴方の心は貴方のもの。どんなに絶望的な未来でも貴方の未来は貴方のもの。

 だから嘆く事はない。たとえ手のひらで踊らされていても、貴方が悩んだ気持ちは本物、思いは真実。貴方の大切な仲間たちが貴方を迎えに来たなら、迷わず私たちを捨てていきなさい。貴方の道を行きなさい。

 それが母さんが貴方にしてあげられる最後の事。

 過去は変えられなくても、過ちに気がつくのが遅すぎる事はあるまい。たとえ伝わらなくても、母の愛情に偽りはあるまい。どんなに嘲り笑われようとも、こっけいで愚かでもそばにいてやりたいと思う気持ちまでは汚されまい。

 アクエリアスの悔恨がひとしずく淳の頬を濡らす。

                                   
ENDE

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