残心以開花
的を見ているのではなく、的の向こうにあるものを見ているのだと昔言っていた。まだ学生だった頃の話だ。
何も考えずに、好きであればそれでよかった頃。
顔を的の方へ向け、番えた弓と矢を、頭の少し上へ構える。
弓手を的方向へ伸ばし、半分弓を引いたような状態で、弓を下ろすと共に、両手で弦を均等に引ききる。そのまま数秒動きが止まった。
来る。と次の一瞬を息を呑んで待つ。
雨露利の離れ。溜まった雨露が自然に落ちるように、引き絞った弓の緊張が弾ける。気合と共に矢が放たれた。
弦を離すと同時に、馬手を大きく後ろへ振り、両手をちょうど大の字のように伸ばす。
静かな動きが、一気に躍動する。きりきりと溜め込まれたエネルギーが、技と気合の充実をもって爆発するのだ。
鋭い弦音が響き、吸い込まれるように矢が的へ中った。
勢いのある弓だ。と今井は思った。
五嶺グループ焼き討ちの後、今井はずいぶん五嶺の事を心配したが、このような気合の篭った矢を放つ事が出来るのなら、何も心配する事は無いだろう。
五嶺はじっと動かない。矢を放った気合のこもったまま矢所の着点をじっと見つめている。
射た矢は、的を貫き、更に無限のかなたを見通しているのだ。
残心のあと、馬手を腰にあて、同時に弓を呼吸と共に下へ倒し、五嶺の顔が正面を向く。
足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心。
なんて美しいんだろう。と思う。流水の如き一連の動作に、ため息をつく。
剣道と弓道と違うが、同じ武道を嗜む者として、相手の力量や美しさが良く判る。
気を張り詰めた凛々しい横顔、的を見る鋭い視線、射た後の、遠くを見つめる目も。
見とれてしまう。
ふっと全身から緊張がとけ、ようやく五嶺がこちらをじっと見つめている今井に気がつく。
「玲子?」
五嶺が不思議そうな顔をして言いながら、ささっと側にやってきた恵比寿に弓を渡す。
「約束の時間にはずいぶんと早くないかぃ?」
「なに言ってる。もう過ぎてるぞ」
「ええ、本当かぃ? つい夢中になっちまった。待たせて悪かったねぃ」
慌てて時計を見上げ、今井の言った事が本当だと気付くと、右手のゆがけを抜き取り、慌てて袖を上げていたたすきを取る。
「いや、久しぶりに陀羅尼丸の射を見る事ができてよかった」
今井は首を振り、そう言って五嶺の美しい弓に触れた。声をかけるタイミングならいくらでもあったのだ。でも、ずっと見続けてしまった。
「綺麗だな。陀羅尼丸の射は」
ため息をつきながら言う。
剣もそうだが、射には、射手の人間性が出る。
かわってない。こいつはちっとも。MLSに居る頃から。
そう思うと、甘く切ない想いで胸が満たされる。
五嶺グループの頭取として、ずいぶん汚い事をしていると風の噂で聞いていた。
手の届かないところで心配するくらいなら、なぜ離れてしまったのだろうとずっと後悔していた。
これほど綺麗な射ができるという事は、心の底から悪人になってしまったのではないという事だ。
だからと言って五嶺のやった行為が許される訳ではないが、五嶺の行為の目的は、あくまで、世界一の魔法律家集団を作るという夢のため、そして五嶺グループとその社員たちのため。
金が欲しい、権力が欲しいと、そんな下種な理由で動くような人間ではないと信じていたが、それが証明されたようで嬉しかった
「やっぱり、男なんだな」
「何言ってんだぃ」
急におかしな事を言い出した今井に、五嶺が肩をすくめる。
そんな事身をもって知ってるくせに。と。
消えたと思ってた。
終わったと思っていた。
あまりのことに我慢できず、今井が五嶺グループのやりかたに口を出し、喧嘩別れをした昔の日に。
あまりにも若すぎて、ゼロか、全てかの判断しか出来なかった。
アタシのやり方に口を出すなと言ってしまった。
私ではなく、グループを取ったと決め付けた。
お互いが嫌いになった訳ではない。ただ若かったのだ。
苦い思いと後悔を胸に、たまに協会で会っても、他人行儀な笑みを浮かべて他愛の無い話をするだけ。ただ後姿を見ては、遠くなったかつての恋人にため息をつく。
燠火のように燻った恋心を抱えてすれ違う関係が変わったのは、五嶺家焼き討ちという大惨事があったからだ。
禁魔法律家による五嶺家の焼き討ちのみならず、頭首である五嶺も命の危機に陥り、五嶺もだいぶ変わった。
不幸中の幸いというのは不謹慎だが、ようやく素直に、「今井裁判官」ではなく、かつてのように「玲子」と呼べるようになったのだ。
お前が私の名を呼んでくれたとき、どれほど嬉しかったか。
「酷い目にあったよ、玲子。お前さんの忠告聞いとくんだったねぃ」
そう言った五嶺があまりにも弱々しくて、今井は全てを許した。
五嶺もずっと後悔していたのだ。
「ようやく私に弱音を吐いてくれたな」と囁くと苦笑していた。
「ずいぶんと強い弓を使ってる」
背の高い五嶺の弓は、通常のものよりも大きい、四寸伸弓のものを使っている。
その弓の弦に触れながら今井が言うと、五嶺が気まずそうにちろっと舌を出した。
「そう言われると複雑だねぃ。しばらく引いてなかったから、前より弱い弓を使ってるんだけどねぃ」
「これでもか? 凄いな」
闇の中で見た五嶺の体が、予想に反して、細身だが綺麗な筋肉のついたものだったのを思い出して、少し赤面した。
見た目の優美さとまた違った男らしさを今井は知っている。
私も剣道のせいで筋肉がついているから恥かしいと言ったら、綺麗だと言ってくれたっけ。とぼんやり思い出す。
「ずいぶん射型が崩れてて、へこんじまったよ」
「そんな事無い。綺麗だ」
本気で落ち込んでいるらしく、ため息をつく五嶺に、はっと想像の世界から引き戻され、慌てて言う。
「玲子にそう言われると嬉しいねぃ」
にっこりと笑うその笑顔は、女より美しい。こんな時、なんだかやり辛いなぁ……と思うが、この笑顔が好きなので許してしまう。
「アタシに惚れ直したか」
「馬鹿言え」
冗談めかして言うので、つい張り合ってしまう。わざと冷たくしてしまった後で、これだから私は……と軽く自己嫌悪に陥る。
「アタシは、剣を持つお前を見るたびいちいち惚れ直すんだけどねぃ」
色っぽい目で今井を見ながら、五嶺は恥かしげもなくそう言った。
ドキンと心臓が脈打つ。
五嶺は変わった。
私も変わらなければ。
素直になれなくて後悔するのは、もうごめんだと何度も思ったじゃないか。
律儀にそう思い、ぎゅっとこぶしを握る。
「ちょっと待っててくれないかぃ。すぐ仕度するよ」
足早に去ろうとする五嶺の背に、今井が慌てて声をかける。
「あっ、ちょっと、ちょっと待ってくれ陀羅尼丸!」
不思議そうな顔で振り返った五嶺に、真っ赤になりながら言う。
「惚れ直した!」
きっぱりと男らしく言い切った今井の言葉に、思わず五嶺がぽかんとした。
一瞬の後、今井のその言葉を理解した五嶺が、可笑しそうにくすくすと笑う。
「全く、そんな事言うためにお前さんは……」
「言いたかったんだからいいだろう!」
二人の声が五嶺家の弓道場から遠ざかってから数時間後。
腕に抱かれ、再び笑い会える日が来れた事を感謝し、再び腕に抱ける日が来た事を感謝して一日が終わるのだった。
終
おまけの五今(今五?)妄想
「お前さん家の冷蔵庫には、ろくなもんが入って無いねぃ」
「し、しょうがないだろ、しばらく留守にしてたんだから。
陀羅尼丸、それより、私に襲われたくなければなにか着ろ!」
「やだねぃ」
「ああ、そうか。判った。お前はそのつもりなんだな。よーく判った。襲って欲しいんだな?」
「ち、ちょっと玲子!」
終
200900531 UP
初出 20060812発行 世に五嶺の花が咲くなり
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