腕の中に抱き、二人向かい合ってただお互いの鼓動を聞いていた。

 情事の後の気だるい疲れに、まどろみながら至福の一時を過ごす。

 素肌が触れ合うのが心地よく、相手の体温がたまらなく愛しい。


「あれほどまぐわったのに、ぬしの体から離れるのが辛いのう……」

 ゆっくりイサビの腕を退けて、陀羅尼丸が起き上がったので、イサビが呟いた。

「魔性じゃな。ぬしの体から離れられん。好きな女と情を交わすのがこれほどよいものだと、ぬしに教えられたのう」

 イサビがしみじみと呟くと、襦袢をはおりながら陀羅尼丸もふふっと笑った。

「アタシもですよぅ。現実なんかほったらかしにして、二日も夢の中でイサビ殿と過ごしてしまいました。エビスがさぞ青い顔してるでしょうねぃ」

 さ、と促すと、イサビがしぶしぶ起き上がる。不満そうに夜具に胡坐をかいていたが、陀羅尼丸の手が髪の中にもぐり、櫛で髪をとかすと、すっかり満足した表情で大人しく髪を梳かれ、猫のように目を細めた。

「その櫛、ずいぶんと古いようじゃが、新しいものをねだったらどうじゃ?」

 イサビの髪を綺麗に梳いて、陀羅尼丸が仕舞おうとした櫛を見てイサビが言った。

 陀羅尼丸の手にある櫛は、かなり古いものだった。螺鈿や蒔絵が施され、もとは素晴らしく美しい櫛だったのだろうが、使い込まれて古ぼけている。美しく豪華な調度品の中で、古ぼけたその櫛はみすぼらしく見え、なぜそんなものを使っているのかと首をかしげた。

「いえ、大事なものですから。それに新しい櫛をねだれるかどうかも判らないですしねぃ。夢ででも、抱いて頂けて本当に嬉しかった」

 陀羅尼丸は寂しそうに笑って、大事そうに撫でた後、櫛を仕舞う。

「夢から覚めれば、イサビ殿はアタシに会って下さらぬ……」

「またそんな事を言う。何度愛しているといえば判る? なぜ信じぬのか……。ぬしの体は、存分にわしに愛されてきた体じゃ。わしにどれだけ大事に思われておるかすぐ判る。わしが命をかけて望み、大事に愛しんできたぬしを手放す訳が無かろう!」

 怒った顔でイサビがきっぱりというと、ようやく陀羅尼丸が微笑んだ。

「アタシが愚かでした。アタシ、久しぶりにイサビ殿にお会いしてよく判りました。アタシこそイサビ殿を愛しております。もし他の女に取られたのなら、取り返すまでのこと。そんな事にも気付かなかったとは、長い間甘やかされ、ずいぶんと鈍っていたようですねぃ」

 一瞬、陀羅尼丸の瞳が金色に輝き、瞬きするとすぐに元の目に戻った。

「ぬしにそう望まれる今のわしがなんだか羨ましいの〜。がんばったのはわしなのに」

 悔しそうな顔で言うイサビに、くすくすと笑い、目を伏せてふうっとため息をつく。

「冬の初めにイサビ殿の元から飛び出して、もう冬が終わります。仲違いしたままイサビ殿に会えぬのがこんなに辛いとは」

 ぎゅ……とこぶしを握り締めた。

 すぐに追いかけてくれるだろうと思っていたのに、いまだにイサビは姿を見せない。なぜ来てくれないのかと思うと、どす黒い疑惑が胸を覆い、嫉妬と悲しみにさいなまれる。

「ぬしにそんな辛い思いをさせるとは不甲斐ない。わしは今一体何をしているのかのう……?」

 イサビが腑に落ちぬといったように腕を組み、首をかしげる。

「文を送りましたが、返事は来ません。勝手に飛び出したアタシを怒ってらっしゃるのでしょうかねぃ……?」

 探しに来てくれると思ったからこそ、飛び出したのに。

 愛されていると自惚れていたのだろうか。追いかけて来てくれると思ったのは、調子に乗り、思い上がっていたのか。

 イサビを強く信じていた心が、時が経つにつれ揺らいでくる。

「イサビ殿は新しい女達と仲良くやっていると聞きました……。アタシは捨てられたかと思うと、辛くて」

 寂しそうな言葉に、ふうむ……とイサビが呟いた。

「そっかー新しい女と……ってちょっと待て。誰がぬしにそんな事を言ったのじゃ」

 とうてい聞き捨てならない言葉に、イサビが血相を変えて陀羅尼丸に詰め寄る。

「はぁ、東海竜王殿のご三男、敖丙(ごうへい)殿というお方です。昔五嶺家の池に鯉のお姿で滞在してらっしゃったご縁で、アタシを水晶宮の一室に置いてくださっているのです」

 陀羅尼丸の返事に、みるみるうちにイサビの顔色が変わる。

「奴か! あの龍じゃな。わしは海は苦手じゃ。道理でぬしの居所が判らぬはず」

 ちっと舌打ちするイサビを見て思わず口を出す。

「でも文を出しましたよぅ」

「奴の手で握りつぶされたに決まっておろう!」

 憎々しげな口調でぶつくさと呟き、悔しがるイサビに口答えすると凄い勢いで言い返される。

 敖丙は、陀羅尼丸のために水晶宮の一角に美しい部屋を用意し、毎日のように贈り物を持って会いに来ては、無聊を慰めてくれる。

 イサビには阿呆と叱られるだろうが、完璧に友人として振舞われ、それが下心あっての行為なのか、友達思いの親切なのか判断しかねるうちに、居心地がよくてずるずるとすごしてしまった。

 だが、手紙を出せども来ない返事、どこへ行くにも、何をするにも監視するかのようについてくる侍女。外にも出られず、なんだかんだと理由を付けられ、イサビどころか、誰とも一切やりとりをしていない。

 一つ一つは些細だが、小さく引っかかっていた事をかき集めてみると、変だと思うには十分な理由があった。

「そう、いえば……。エビスも何かおかしいと漏らしておりましたが。ですが、変ではありませんか。なんのためにそんな事を?」

 眉をひそめて首をかしげる陀羅尼丸を見て、我慢できないといったようにイサビがしかりつけた。

「奴は、ぬしを二番めだか三番めだかの妃にするつもりじゃぞ!」

「でもそんなそぶりは全く!」

「わざわざ龍王の息子が、なぜ鯉なんぞに身をやつしてぬしの家の池におったと思っておる? 奴はの、昔っからぬしに懸想しておったのじゃ。まだ諦めておらんかったのか! 全く呆れたしつこさじゃ」

「そんな……」

「奴がぬしとわしの間を邪魔しているに決まっておる! 諍いの原因とやらも怪しいものじゃ」

 ぽかんとしていた顔をしていた陀羅尼丸が、イサビの最後の言葉に冷静さを取り戻す。

「いえ、喧嘩の原因は間違いなくイサビ殿のせいです」

「そ、それはそうとしてもこじれたのはそ奴のせいじゃ!」

 それは決め付けだったが、イサビには確信がある。

「人づてでなくわしの言葉を聴いたのか?」

 厳しい声で問いかけると、目を伏せ、ふるふると陀羅尼丸が首を振った。

「い、いえ。回りは海で、アタシは勝手に水晶宮から出られませんので……。外へ出して欲しいとお願いしてもなんだかんだと出していただけずじまいで」

 やはり変だったのだと思ったらしい。気まずそうに、おそるおそるイサビを見上げる。

「馬鹿者! うつけ! ぬしゃ他人のことはつまらん事までよう察するくせに、こと自分の事となると抜けてるのう。ぬしも迂闊じゃぞ! そのような奴にたぶらかされてわしを信じぬとは」

「申し訳ありません……」

「だがの、一番のうつけはわしじゃ!! みすみすぬしを盗られるとは!」

 しゅんとして肩を落とす。もっと怒られるかと思ったが、イサビの怒りは自分へと向けられていた。

「あ……」

 異変に気がつき、ぴく……と陀羅尼丸の眉が動いた。

「イサビ殿、早くアタシの夢からお帰り下さい! 誰かがアタシを無理に起こそうとしております」

 陀羅尼丸の言葉に、それは一大事。とイサビが慌てて立ち上がった。このまま夢が消えれば、イサビまでも消えてしまう。

「いいな、仲ようするんじゃぞ」

 もう一度念を押しすと、陀羅尼丸が力強く頷いた。

「……あんまり叱ってやるなよ、未来のわしを。ぬしに叱られるのは大の苦手じゃ。ちゃんと許してやるのじゃぞ?」

 心配そうな顔で言うイサビに思わず笑い出しそうになった。

「きっちりイサビ殿には落とし前をつけていただきますけど、でも、大丈夫ですよぅ!」

 にっこりと笑うその笑顔に、おや? と思う。

「アタシの名を呼ぶイサビ殿のお声がします。迎えに来て下さったんですねぃ!」

 涙を浮かべ、感極まったように言う陀羅尼丸に頷き、イサビは急いで夢から飛び出した。



 目を覚ますと、木々の間から日が差していた。木の上に作られた、巨大な鳥の巣のような場所で、酒を呑んだまま眠り込んでしまったのだ。

 首を横に向けると、イサビの隣で、一匹の山の怪がぐうぐうと寝込んでいる。

「……こら、何を一緒に寝ておるか」

 ぺしっとはたくと、山の怪が飛び上がった。

「時間になったら起こせと言うたじゃろうが」

 言いつけを忘れて眠り込んだことに気がつき、山の怪がおろおろとするが後の祭り。

「あんまりいい夢だったから寝過すところだったではないか……」

 着物の合わせ目に手を突っ込み、ぼりぼりと掻きながらふぁあっと大あくびをする。

 約束は夜だから、まだ間に合う。

「今なんどきじゃ?」

 イサビが起きたのを見て集まってきた山の怪に問いかけ、その返事を聞くと、イサビが固まった。

「やばいぞ、これは……」

 危機的状況に寝ぼけた頭が一瞬にして目覚めた。

 時間に間に合うどころか、大幅に過ぎてしまっている。

 約束の日は二日も前。

 約束を破った挙句、連絡もせずに二日も過ぎてしまったのだ。今頃陀羅尼丸はぷりぷり怒っているだろうと思うと頭が痛い。

「また陀羅尼丸に怒られるのう。しかも、ものすごくじゃ……。人に仲ようしろと言いながら自分が怒らせては世話ないの」

 呟きながらひらりと高い木の上より身を躍らせて、川へ水浴びに行く。冷たい水で体を洗いながら、考えるのはどうしたらいいかという事ばかり。

「なんとか怒られん方法はないかのー?」

 一刻も早く謝りに行かねばと思うが、怒られたくない。朝餉も取らず、寝ている間にぐしゃぐしゃになった髪を梳ろうとする山の怪に、うるさいほっておけと怒鳴りつけて八つ当たりをする。

「あーっ、もう、どうしたら良いんじゃ。わしは陀羅尼丸に怒られたくない! なにか良い案を出せ!」

 イサビが命ずると、イサビのために一生懸命言い訳を考えて、山の怪達がああでもないこうでもないとキーキーと騒ぐ。

 どうもまとまりそうにないので諦めて立ち上がろうとしたイサビの膝の上に、さっと飛んできた鳶がぽとりと文を落とす。

「お?」

 封を切り、丸められた手紙を広げると、イサビの顔がやったとほくそえんだ。


「ご注文の櫛、ご用意いたしました。きっと奥方様に気に入っていただける素晴らしいお品と存じます。つきましてはお届けにあがりますのでご都合のよろしい日時をご連絡下さい。源九郎狐商会」




「もうすぐ春じゃのう」

 縁側にだらしなく寝そべり、ほんのかすかほころびかけた梅のつぼみを見てイサビが言った。

 隣では、陀羅尼丸が男物の羽織に羽織紐をつけている。

 今日は一日、わしの側におれ。という約束どおり、のんべんだらりと二人で過ごした。イサビと戦え。と五嶺に無茶を言われて、「アダルトゴリョー殿」とやらに化けてイサビに押し倒された七面犬も地獄に帰り、数日前までの寒さがうそのような小春日和をまったりと楽しんでいる。

「むこうにも、ちゃんと春がきたじゃろうか?」

 ぼそっと呟いた言葉に、陀羅尼丸がイサビの顔を見る。

「え?」

 イサビがゆっくりと目線を上げると、幼さの残る愛らしい顔が、可愛らしく首をかしげてイサビを見ている。

 どっちも可愛ゆうて、優劣つけられんの……。

 夢の女を思い出して、イサビが心の中で呟いた。

 イサビを見る無防備な目も、誘うような色っぽい流し目も。

 どちらも自分のものだと思うと、笑いが止まらない。

 イサビが未来の陀羅尼丸と共有した夢は、あくまでも一つの可能性でしかない。そういう世界があるというだけで、今があの未来へ続くかどうかは誰にも判らないのだ。

 しかしこの小生意気なおぼこ娘があんな男泣かせの妖女になるとは、女とは怖いの〜。

 狂ったようにお互いを求め合い、身も心も一つになったあの夜をしみじみと思い出す。イサビの下で、無力に貪られるだけの獲物かと思いきや、油断させておいていきなりイサビを組み伏し、舌なめずりした顔を思い出すとぞくぞくする。

 今のイサビが再びあのような夜をすごすためには、まだ時が要る。

 はぁ〜と思わずため息をついた。

 お預けを食らった犬のように辛い。

 勘違いとはいえ「泣かされるのはイサビ殿!」と陀羅尼丸が言った時は驚いて笑ったが、やはり未来はああなるのかもしれぬと思うと顔がにやけた。

 このような女を見つけるとは、わしは富くじに当たるより運が良いぞとほくそえむ。

 絶対に手放すものか……! わしが他に女をつくって陀羅尼丸を捨てるなどあるはずがない。なにかの間違いじゃ。

 そう思っていると、邪な思考を感じ取ったのか、陀羅尼丸がむっとした顔をする。

「なんです、変な顔してアタシの顔をじろじろ見て」

「いや、ぬしのようないい女を妻に迎えられて幸せじゃと思うておったのじゃ」

 にこーっと笑うと、陀羅尼丸の顔が赤くなってぷいとそっぽを向く。

「なんじゃ、何を拗ねておる?」

「アタシの事、子供扱いしかしないくせに、妻などと」

 陀羅尼丸が言うと、寝転んでいたイサビが起き上がって腕を組んだ。

「わしが本気で求めれば、困るのはぬしじゃろう?」

 その言葉に、そっぽを向いていた陀羅尼丸がイサビの顔を見る。

「今のぬしでは、わしの想いを受け止めきれぬ。未熟な器が壊れてしまわぬよう大事にしているつもりだったのだがの」

「……アタシは、イサビ殿を満足させられない。という事でしょう?」

 暗い声にイサビが慌てて手を振った。

「違う違う、そうではないぞ! ぬしはあの梅のつぼみを見て満足できぬと不満を言うか? つぼみにはつぼみの、咲き誇る花には花の美しさがある。どれも優劣など付けられぬ、それぞれのよさがあって美しいものじゃ!」

 言いながらイサビが手を伸ばし、イサビをじっと見つめる陀羅尼丸の頬に触れる。

「今しかないぬしの初々しさをわしがどれだけ大事に愛でていることか。いつ綻ぶか、いつ咲くか、毎日楽しみに思っておるのじゃ」

 無邪気に笑うイサビには嘘が無く、信じたいけれど素直になれない陀羅尼丸が、どうして良いか判らなくて思わず目をそらす。

「なんじゃ、ぬしゃそのような事気に病んでおったのか!」

 イサビがからからと笑うと、陀羅尼丸がムキになった。

「別に病んでなんかいませんけどねぃ」

「案外、昔のほうが大事にされていたと文句を言うかもしれんぞ?」

 イサビが陀羅尼丸の目を覗き込んで悪戯っぽく言い、ごろんと膝の上に頭を乗せた。

「春はの、冬の間ケンカしとった男神と女神が仲ようすると来るんじゃ」

「アタシとイサビ殿みたいに?」

「そう、ぬしとわしみたいにの」

 柔らかい少女の膝の上に載せた頭を、優しい手がゆっくりと撫でる。

「喧嘩のあとのまぐわいは燃えるでのー」

 独り言を呟くと、怪訝な顔をしてイサビを見る目にぶつかり、笑って誤魔化した。

「まぁとにかく仲ようなって春爛漫じゃ。あたり一面桃色じゃ」

「アタシとイサビ殿みたいに?」

「そう、ぬしとわしみたいにの」

 うぐいすがつぼみの沢山ついた梅の枝に止まるのを見ながら、ゆっくりと二人の時を楽しむ。

 あまりの気持ちよさにイサビが目を細めてじっとしていると、「あ」と陀羅尼丸が声を上げた。

「そうだ、アタシ、鯉にエサをやらないと」

「鯉ィ〜」

 心地よい一時を中断されたのと、嫌な事を思い出してイサビが顔をしかめる。

「可愛いんですよぅ。一番大きい鯉なんか、アタシを見るといつも一番に寄ってきて! 池に指を入れるとエサと間違えてアタシの指を咥えるんですよぅ」

 嬉しそうに言う陀羅尼丸にイサビが慌てふためく。

「ばっ、馬鹿者! そんな事をしてはいかん!」

「え? なぜです?」

「どーしてもじゃ! あのエロ鯉めが、わしの陀羅尼丸にちょっかい出しおってからに……。石投げてやるぞ!!」

 憎々しげに呟いて、がばっと起き上がったイサビに陀羅尼丸が驚いて声を上げる。

「は? ちょっかい……? 鯉に石を投げるなんてかわいそうじゃないですか!」

「全っ然かわいそうじゃないわい! はらわたぶちまけて犬のエサにしても飽き足らんわ!」

 大股で池へ向かうイサビの後を、首をかしげながら陀羅尼丸が追うと、不意にイサビが振り返った。

「ほれ」

 ぶっきらぼうに言って手をさしだす。

「えっ!?」

「手じゃ」

「あっ、はい」

 恐る恐る差し出した手を当たり前のようにイサビが握り、ぐいぐいと歩みを進める。少し小走りになりながらその後を陀羅尼丸がついていった。









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