朝月夜
文机に突っ伏していた顔を上げた。
冷え切った空気が濡れた頬に触れる。
待つのに疲れたアタシの心もすっかり冷え切ってしまった。うつろな目で、開け放たれた戸から空を見上げる。
闇はとうに薄れ、蒼いグラデーションが広がる西の空に、まるで水母のように頼りない月が浮かんでいる。
訪れがすぐに判るようにと開けた戸から、朝月を見上げる。
待ち人が待てども来ない朝月夜。体も心も冷え切ってしまっただけ。
イサビ殿に約束をすっぽかされた。
約束の日から二日も過ぎた頃、鳥の巣のように頭をぐしゃぐしゃにしてイサビ殿は現れた。髪に枯葉が絡まっていたから、またどこぞの森の中で寝ていたんだろうねぃ。
「すまん。寝過ごした」
「今までずうっと寝ていたのですか?」
「寝てたのう……」
案の定そう言われて、アタシは俯いた。寝て起きたらあっというまに十年経っていた。という事もあるぞ。と前に言っていたので、二日で済んだのはむしろ幸運だったのかもしれないねぃ。
イサビ殿に悪気は無い。時間にいいかげんなところがあるのは前から知っている。それに約束は一度きりという訳でもない。また約束すれば良いんだから。
アタシは自分に言い聞かせるように、心の中でいろいろ呟いた。
でもアタシは。
凄く楽しみにしていたんだよぅ。
いちいちこんな事にこだわるのは子供っぽい。とまたアタシは自分の心に言い聞かせた。いつものアタシなら怒ってイサビ殿に文句を言うのだけれど、今日は怒るよりも悲しかった。
だってアタシはイサビ殿との約束を凄く楽しみにしていたので。
「どうせアタシの事なんか」
アタシの事なんか、どうでもいいのでしょう?
思わず恨み言を口にしようとして、アタシははっと押し黙った。
別に、欲しくて娶った訳でもない、何かのついでに貰った女なんてどうでも良いに決まっているじゃねぇか。ずうずうしい事を口に出して恥をかくのはアタシだ。
そう思うと悲しくて悲しくて、アタシは涙が出てくるのを見られたくなくて立ち上がった。泣くなんて久しぶりだねぃ。しかもこんな事で。
でも悲しくて仕方がない。
二日間が抑えていたものが溢れて、我慢ができない。自分でも卑屈になっていると思うけれど、今は駄目だ。ただでさえ惨めなのに、これ以上惨めな思いも悲しい思いもしたくないので、アタシは逃げる事にした。
「もうよろしいです。お気になさらず」
理性を総動員して、アタシはにっこりと微笑んだ。自分でもよくできた笑顔だと思う。イサビ殿の前でみっともなく泣くなんて絶対にごめんだ。それくらいなら、謝ってもらわなくていいから一人で歯を食いしばって泣いたほうがずうっとまし。
「怒らんのか?」
イサビ殿が意外そうな顔で問いかける。イサビ殿の知るいつものアタシならそうしたろう。いつものアタシと違う、めそめそしたアタシを悟られてはいけない。
「次またやったら怒りますからねぃ。イサビ殿、アタシ急用を思い出しましたので、失礼しますよぅ」
そう言った後、イサビ殿と目をあわさずにアタシは部屋を出る。
「イサビ殿が、また来てくれてよかった」
「なに?」
すれ違いざま、ちょっと立ち止まってアタシはイサビ殿を見上げて言った。
「イサビ殿にはほんの少しでも、百年寝過ごしでもされたら、アタシなんかこの世にいないですからねぃ」
冗談めかして明るい口調で言ったのだけれど、みるみるうちにイサビ殿の表情が固くなった。
「陀羅尼丸、行くな」
声と共に差し出されたイサビ殿の腕をすり抜け、アタシは部屋の外へ出た。
「ごめんなさいイサビ殿」
振り返ってそう言う。笑顔が引きつらぬように、声が震えぬように細心の注意を払った。
「わしが愛した女は、みなわしを置いていくのう」
イサビ殿が呟いた言葉を背を向けて聴いた。その声の悲しい響きが心に引っかかったが、アタシにはその言葉の意味を考える余裕は無かった。自分の事で精一杯だったからねぃ。これ以上ここにいたら、みっともなく泣いてイサビ殿を責めてしまう。
イサビ殿はアタシに優しくしてくださる。でも、いくら大事にされてはいても玩具はしょせん玩具。可愛がられるのも捨てられるのもイサビ殿次第。イサビ殿にとってはほんの少しの間の退屈しのぎ。
イサビ殿は最初は物珍しくアタシを構うだろうが、すぐに飽きる。それまでの我慢だと、仮祝言の前に父上はアタシに仰った。地獄の住人にとって、人など退屈しのぎの人形に過ぎないと。
最初は早く自由になりたいと思っていたけれど、今はその日が来るのが怖い。怖くて悲しい。心が張り裂けてしまわぬよう、アタシは覚悟をしておかなければいけない。
玩具として愛されるだけでも幸せだと自分に言い聞かせて、玩具の分際を越えぬよう自分を戒める。 だけどイサビ殿が気まぐれで優しさをくれるたびに、アタシはどんどん欲張りになる。玩具の分際でイサビ殿が欲しいと望む。かといって優しくしないでと言う勇気も無い。
玩具は、いや。
弱くなると、心の隙間から誤魔化しきれぬ自分の本心が這い出す。
地獄の住人と人間。圧倒的な力の差に、流れる時の早さも違う。
イサビ殿にとっては瞬きするほどの時でも、アタシはすぐに若さを失うっていうのに、アタシはどうしたいというのか。
好きになれば好きになるほど辛くなる。
キーキーと山の怪がアタシに向かってしきりに声をかける。アタシの袴の裾を引っ張るのと、指で蝸牛のような角を出す仕草を交互に繰り返す。イサビ殿が呼んでいるというのだろう。一瞬どうしようかと迷ったが、勉強もちっともはかどらないので、アタシは教科書を閉じて離れへ向かう。
もともと離れはアタシが普段生活する部屋なのだが、イサビ殿は家へ来るたびに客間ではなくアタシの部屋で一緒に寝起きしている。ただ今はちょっとイサビ殿の顔を見るのが辛いので、何やかやと理由をつけて昨日からアタシは母屋にいるのだ。
会いたいけれど、会うのは辛い。
仲直りをするきっかけがつかめなくて、アタシは憂鬱だった。拗ねた態度を取ってしまったアタシを、イサビ殿は不愉快に思っているだろうか。と考えると気が重い。
「陀羅尼丸」
縁側に座ったイサビ殿が、アタシを見つけると手招きした。
「何か欲しいものがあれば選べ」
指差した先には、風呂敷に包んだ荷物を背負い、服を着て二本足で立つ狐。イサビ殿の前には、すでに沢山の薬草が並べられている。
「お初にお目にかかります奥方様。源九郎狐商会と申します。お目にかかれて光栄です。イサビ様にはいつもごひいきにしていただいております」
深々とアタシに向かって頭を下げた狐に面食らったが、丁寧な挨拶の後また狐はイサビ殿に向き直り、大黄だの人参だの、鬱金だのの話を熱心にしている。
「イサビ様のお薬は大変よく効きますのでひっぱりだこなんでございます。久しぶりにお薬の材料をお求め下さったので、私どもにも少し卸してはいただけないかとうちの人がはりきってしまって……、少しの間だけイサビ様をお貸しくださいませ」
気がつくと、アタシの隣にもほっそりとした美しい狐が立っていて、あたりまえのように話しかけられて驚いた。
「イサビ殿はお薬を調合なされるんだねぃ」
「はい、お薬だけでなく、もののけの体の事ならなんでもご存知でいらっしゃいるご高名なお医者様でございますよ。私どものお客様から、イサビ様に治療していただきたいので紹介して欲しい、お薬がどうしても欲しいといつも熱心に言われております。お気が向かれたときしかお仕事をなさらないので、いままでずうっとお断りしていたのですが、なにかご気分の良いことでもおありになったのでしょうかね?」
ま、お仕事の事は殿方に任せて、女同士で楽しくお話しいたましょう。とにっこり微笑む。
「さぁ、奥方様はこちらへ」
アタシの知らないイサビ殿に驚いて立ちつくしていたが、狐に促され、アタシは部屋の奥へ入る。
「年頃のお嬢様にお気に召していただけるような小物を数多く取り揃えてございます」
可愛らしい髪飾り、小物入れ、珊瑚の帯留に歌留多におはじき。何でもございます。よい香りのする一筆箋は? お化粧に興味がございましたら蛤の貝紅はいかがでしょう? もちろんお似合いになりそうなお着物もお草履も取り揃えてございます。ああ、甘いもの、羊羹でもお出しいたしましょう。
狐は引き出しのついた小さな物入れを開けたり閉めたりするだけで、引き出しの中から次々にいろいろなものを取り出す。羊羹に和三盆の干菓子、金平糖に干し芋。さぁさぁお召しあがりくださいとお菓子を薦めながらさまざまな品を見せてくれるのが面白くて、アタシの沈んだ心が浮き立ってくる。
「あの……」
「はいなんでございましょう?」
「羽織紐、あるかねぃ?」
「もちろんございますとも」
アタシが聞くと、すぐに引き出しから沢山の羽織紐を取り出す。とんぼ球のもの、ガラスのもの、アタシの前に次々と並べられるカラフルな女物の羽織紐を見て、慌てて口を開いた。
「いや、あの、アタシのではなくて男物の……。内緒でイサビ殿に羽織を仕立てたのでついでに欲しいんだけどねぃ」
「まぁ」
狐はアタシの言葉に茶色い目を見開くと、「差し出がましいようですが事情をお伺いしておりますので一言申し上げます」と断ってアタシの耳元でこそこそと囁いた。
「殿方とは不器用なものでしてね、こんな形でしか好きなおなごに許してくれと言えないんでございますよ。せっかくイサビ様が仲直りにとああ仰っているのですから、遠慮なさらずご自分のものを選ばれませ。こんな時はかえって、目が飛び出るほどたかーいお着物や、たかーい宝石なんかを我侭にねだられる方が殿方はお喜びになりますよ。ましてこんなに可愛らしい奥方様のお願いですから、なんでも聞いてくださるに違いありません。」
ひそひそ話をする狐の長いひげが頬に当たり、くすぐったくてアタシはちょっと目を細める。
「奥方様のご機嫌を損ねてしまったとずいぶん嘆いてらっしゃいました。殿方とはいくつになっても子供っぽいもの、お腹立ちかとは思いますが、ここは奥方様が大人になって許してさし上げてください。奥方様に甘えて欲しいんでございますよ」
ね? と悪戯っぽく片目をつぶる狐につられてアタシは笑った。
「では、櫛を」
「櫛……でございますか」
アタシが口にした単語に、狐は顔を曇らせる。
「櫛はございますが、あのう……。ほかの何でもよろしいのですが、櫛はいけません。ほかのものになさいませ」
「どうしてだぃ?」
アタシが聞くと、ますます狐は困った顔をした。
「ねぇあんた、奥方様が櫛をご所望ですよ」
イサビ殿と熱心に薬の話をしていた旦那狐に声をかけると、ぱんと旦那狐が両手を打った。
「おお一番大事なことを忘れていた。イサビ様、ご注文のお品をこれに。黒漆塗りに蒔絵と螺鈿を施した、素晴らしいお品でございます。さぞ奥方様にお気に召していただけるかと……」
懐から大事そうに包みを取り出し、狐が恭しくイサビ殿に包みから出したものを差し出す。
「ふむ……」
イサビ殿は鷹揚にそれを手に取り、しばらく眺めると、満足そうに頷いた。アタシの方へ顔を向ける。
「陀羅尼丸」
「はい」
「やる」
素っ気無い言葉と共にぽんと投げられたものを慌てて受け取り、まじまじと眺めると、「あ」と小さく呟いてアタシは目を見開いた。
櫛だ!
黒漆の地に、薄く彫りを入れて立体的にした後蒔絵で美しい花が描かれている。螺鈿の蝶が飛ぶその櫛は見たことも無いほど見事で美しくてアタシは一目で気に入った。
なんて綺麗な櫛だろねぃ!
「欲しがっておったじゃろ?」
嬉しそうに顔を輝かせたアタシを見て、ふふんと得意そうにイサビ殿が仰った。
驚いて顔を上げる。そういえば、すっぽかされた約束を交わした日に、イサビ殿の前で櫛が欲しいと漏らした事があったのを思い出した。特にねだったわけでもなく、言った本人も忘れていたような些細な一言を覚えていてくださったのだ。
「あんな些細な事、覚えてらっしゃったんですねぃ」
「ぬしの喜ぶ顔が見たかったからの」
イサビ殿が澄まして言う。
アタシは櫛を大事に胸に抱き、イサビ殿の所へ行ってお礼を言った。櫛も嬉しいが、イサビ殿がそんなにアタシを気にかけてくださっているというのが一等嬉しい。
「嬉しいです。ありがとうございます。大事にしますねぃ」
「嬉しかったら甘えてもよいぞ。ほれ」
アタシをからかうように言って手を広げるイサビ殿。アタシは飛びつくようにイサビ殿の首にしがみ付き、ぎゅうっと抱きつく。
「おおっ」
まさか意地っ張りのアタシがそんな事をするとは思わなかったのか、イサビ殿の口から驚きの声が漏れる。ざまーみろだねぃ。驚かせてやった。
「珍しく素直じゃな」
「たまにはよろしいでしょう?」
拗ねていたのが嘘のように幸せに包まれる。好きになりすぎてはいけないと思うけれど、ああ、でも、今だけ、今だけ……。と心に言い訳をして甘えてしまう。
イサビ殿の魔力に囚われて、溺れてしまうんだよぅ。
薬の材料とアタシの櫛の代金として、イサビ殿は小さな袋を渡す。「頂戴いたします」と受け取った狐が恭しく中を広げる。
黄玉に瑪瑙に翡翠、青玉に紅玉の中からいくつか選んで残りを丁寧に仕舞った後、イサビ殿が釣りはいらぬと言うと「ちょっと頂いたお代が多すぎますので」と例の引き出しからお菓子を沢山取り出す。
アタシがこっそり選んだ羽織紐の代金を払おうとすると、奥方様からお代金を頂いてはイサビ様に叱られます。と言うので、狐が物珍しそうに見ていたエビスの作った人形みたいなのと交代した。俺のガンプラがーとか叫んでいたが代わりにこれをやるとアタシの舞扇を渡したらもみ手をしやがった。
その夜は昨日の夜のように母屋で休まず、いつもどおり自分の離れの部屋で休む事にした。寝巻き姿で部屋に入ってきたアタシを見て、酒を飲んでいたイサビ殿が嬉しそうににっこりと笑う。
……かわいいよねぃ。
「……あのな、約束破って悪かったのう。機嫌直せ」
「気になさっていたのですか?」
「ぬしに嫌われると、こたえる」
ぐび……と茶碗の酒を一口飲み、イサビ殿は言った。
こんな台詞をアタシなんかにまでさらりと言ってしまうあたり、イサビ殿は百戦錬磨の女たらしに違いないと確信したよ。しかも負け知らずのだ。だってアタシみたいな子供までイサビ殿は夢中にさせるんだからねぃ。
「アタシこそ、イサビ殿に嫌われたのではないかと思い、ずっと憂鬱でした」
アタシはじっとイサビ殿の目を見る。イサビ殿のお心を探る。アタシがじっと見ているので、ん? とイサビ殿が可愛く小首をかしげる。謝るのなら今しかないよねぃ。
「拗ねた態度を取って申し訳ございませんでした」
イサビ殿の前で正座をし、深々と頭を下げて顔を上げると、イサビ殿が手を伸ばし、くいと顎を持ち上げられる。
「それはもとはと言えばわしが悪かったゆえ不問に処すが、昨日わしをほって一人寝させたのは許さぬぞ、陀羅尼丸」
口調は重々しいが、その言葉の内容と、なによりイサビ殿の目が笑っているので、冗談だと判る。アタシもつられて口元に笑みを浮かべた。
「アラじゃあアタシがお許しいただくにはどうすれば?」
首をかしげると、ふむ……とイサビ殿が腕を組み、考え込むフリをする。
「明日は一日中わしの側で機嫌を取る事じゃな。ぬしに罰を与えるぞ、あすはわしに付き合って一日のんべんだらりとすごすのじゃ。どうじゃ、いつもあくせく働かねば気が済まぬぬしにはこたえる罰じゃろう?」
どうじゃ! と得意そうにアタシの顔を覗き込む。そんなご褒美みたいな罰があるもんか。でも明日だけは、アタシはイサビ殿にうるさく何も言わないでおこう。朝から酒を呑んでも、にっこり笑って酌をしてやろう。一日仲良くするんだからねぃ。
あ、でも……。
「……魔法律の勉強もしてはいけませんか?」
「役に立たぬ勉強ならよい」
試験が近いんだけどねぃと思い、アタシがちょっと考えた後聞くと、イサビ殿は即答した。
じゃあ明日は、初心者用魔法律書で七面犬でも呼び出して、イサビ殿にけしかけて遊ぶとしよう。
すっかり仲直りできたのが嬉しくて、アタシはイサビ殿の前から隣ににじりよってちょっとだけくっつく。べたべたするのは恥ずかしいから、ちょっとだけだよぅ。
「イサビ殿」
「なんじゃ?」
「アタシがどうして櫛を欲しがったか判りますか?」
「いや?」
アタシの問いかけに、酒を呑む手を休めてイサビ殿は首をかしげる。
「イサビ殿、あちこちですぐ寝ておしまいになるでしょう? イサビ殿のお髪はアタシのと違って細くて柔らかいですから、すぐ絡まってしまうの、気になってたんですよねぃ」
イサビ殿の綺麗な髪の毛を指でゆっくりと梳きながらアタシは言った。まるで絹糸のように細くて柔らかい。指の間をイサビ殿の髪が通り抜けていく感触がとても心地くて、アタシは何度も髪に触れる。
「ぬしゃ、わしのために櫛が欲しかったのかえ?」
「イサビ殿のお髪を梳こうと思って」
髪に触れたままこっくりと頷くと、「ああ、もう、どうしてくれようかのう」とイサビ殿は首を振って酒を一気にあおった。
茶碗を床に置くと、据わった目でそう言ったアタシの手をぐいっと引き寄せる。
「可愛ゆうて可愛ゆうてたまらんわ」
なぜかイサビ殿は怒ったように言い、アタシはイサビ殿に強引に抱きしめられてそれを聞いた。
アタシもぎゅっと抱きしめ返すと、きついほどアタシを抱いていたイサビ殿の手の力がようやく緩む。
「うーむ、これ以上の事が出来んのが不満じゃのう。早う大きゅうなってくれ。……ああでもこのままでいて欲しいような気もするのー」
アタシを抱きしめながらぶつぶつと呟くイサビ殿。
「イサビ殿は何がご不満なんですか? アタシは凄く満足なんですけどねぃ」
アタシはイサビ殿から体を少し離し、上目遣いで軽く睨む。アタシは幸せなのに不満だなんて水を差すような事を言われてむくれて言い返すと、イサビ殿の顔がずずいと近づいてきた。
近づきすぎてごちんとおでこがぶつかり、なんなんだよぅと思っていると、イサビ殿がアタシを責めるようなじとっとした目で言った。
「ぬしはわしの気も知らず酷い女じゃな。いつか鳴かすから覚えておけよ」
「なんだか知りませんが売られた喧嘩は三倍にして返すのがアタシの流儀。泣かされるのはイサビ殿かもしれませんよぅ」
売り言葉に買い言葉で言ったアタシに、イサビ殿は一瞬驚いた顔をした。
「悔しいからもう大抵のぬしの言う事には驚かんぞと思うていたが、無理じゃ」
生意気を言い過ぎたかと焦っていると、イサビ殿は心の底からおかしそうに笑い始めた。なにかおかしなことを言ったつもりも無いので戸惑う。
確かに、ちっぽけな人間であるアタシなんかがイサビ殿を泣かすなんて言うのはおかしいかもしれないけどねぃ。望みぐらい高く持っても良いだろぃ。そんな酸欠になるまで笑う事ないじゃないか!
「わしを泣かせてくれ。期待しとるぞ。ほんに楽しみじゃのー」
目に涙まで浮かべながら、くっくっくとまだ笑いながら言うので、アタシはむくれて敷いてあった布団を頭までひっかぶり、イサビ殿に背を向けた。
馬鹿にしやがって!
ほんとにアタシに泣かされたって許してやらないんだからねぃ!
手の中にある櫛で、あの時と全く変わらない綺麗な髪を梳く。
あれから数年後、その時の言葉の意味をたっぷりと体に教えられた後に「ぬしゃあの時わしをなかすと言っておったじゃろうが」と言われてあんな事やこんな事をさせられるとは露知らずアタシはみのむしのように丸まって憤慨していたのだった。
全く、イサビ殿は普段いい加減なくせに、こんな事ばかりよく覚えていてアタシをからかうんだからねぃ。
そう思いながら、大事に使い込んでいる櫛を仕舞う。アタシに髪を梳かれ気持ち良さそうに目を細めていたイサビ殿が、アタシが離れるとキセルを取り出し、火をつける。
アタシは少しだけ戸を開け、朝の冷たい空気を吸い込みながら空を見上げる。
西の空にぼんやりと残る月を見ながら、櫛を貰った時の事を思い出していた。まだ恨んでいるとか怒っている訳ではないけれど、あの朝月夜を見た時の悲しい気持ちはずうっと忘れないだろう。
この先、イサビ殿がアタシの前から居なくなってもだ。
悲しい思いも、喜びも、イサビ殿がくれたものを、アタシは忘れない。
一つ一つ大切に思い出を確かめていると、何かが心に引っかかる。
…………。
………………。
アラ?
……いや待て、あんな事やこんな事したけど結局泣かされて鳴かされたのってアタシだけじゃないかぃ?
先ほどさんざ乱れさせられたのを思い出して、顔に血が上る。と、同時に、イサビ殿は面白がっていはいたが泣いても鳴いてもいない事実に気がつき、愕然とするアタシ。
「騙された!!」
「なっ、なんじゃ急に!」
裸のまま美味そうにキセルで煙草をのんでいたイサビ殿が、びくっと体をふるわせる。
よく人を騙すが騙されるのは嫌いなアタシは悔しさに布団の上を転がり、イサビ殿に大丈夫かコイツはという目で見られた後再びみのむしになる。
アタシの耳に「ほんとにぬしはいつもわしの予想外の事をしでかすのう……」とイサビ殿の呆れた声が聞こえた。
終
20070302 UP
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||