The other side of love










「もうすぐ執行人試験だね」

 カレンダーを見ながらトーマス先生が呟いた。

 トーマス先生が勝手に丸をつけた日付が近づいている。

「五嶺君の成績はとても良い。試験合格間違いなしだ。私が保証するよ!」

 くるっとアタシを振り返り、トーマス先生は我が事のように嬉しそうな顔で言った。最初の頃は、この無邪気さと邪悪さのギャップを恐ろしいと思ったもんだけどねぃ、付き合いの長い今となってはあたりまえになっちまった。慣れとは怖いもんだ。

「そうそう、卒業式の答辞の準備もしなくちゃね。早いもんだねー」

 成績優秀、品行方正、同期生の中では一番の有望株と見なされているアタシは、卒業式の答辞を任されていた。

 卒業式。

 アタシとトーマス先生にとって、単にMLSを卒業するということだけには終わらない。

 この日が近づくというのは、アタシとトーマス先生の関係が変わる、新しい決断を迫られるということにもなるんだからねぃ。

「先生にはずいぶん酷い目にもあわされましたがねぃ……」

 良い機会だと思い、アタシは口を開く。

 前々からずっと考えていたことだ。

「どちらかというと、感謝しています」

「ありがとう」

 先生はにっこりと笑う。

「先生、アタシの卒業後は、どうされるおつもりです?」

 さりげなくそう言って先生を伺う。先生はまたにっこりと笑った。アタシがどんな話をしようとしているのか判っているのだ。

「五嶺君と会えなくなるのは寂しいなぁ。これからもこうして会ってくれると嬉しいんだけど。私は五嶺君を手放す気は無いし」

 アタシは先生の返答を聞いて内心でほっと息をついた。事はアタシの予想したとおりに動いているようだねぃ。


 トーマス先生とアタシの関係はなんだったのだろう。とずっと考えていた。

 アタシはトーマス先生が嫌いだった。うるさく付きまとわれるくらいなら、大人しく抱かれてやろう。というのがそもそものきっかけだったのに。

 むしろ、ストレス発散や、肉体的な快楽を求めたのはアタシの方だった。

 トーマス先生にとっては、アタシを抱く事は、肉体的な欲求の解消よりも、精神的なもののほうが大きかったようだ。

 狂ったように寝たのは目新しいものに夢中になった最初の頃だけ。

 トーマス先生との関係が早々に破綻しなかったのは、当初のアタシの思惑と違って、体の関係はあまり重要にはならなかったからだと思う。体だけなら飽きたら終わりだ。

 トーマス先生にとっては、アタシを抱く事はもちろん好きだったようだが、それも教育のうちだったように思う。思えばアタシはずいぶんトーマス先生に大事に抱かれていたと今なら判る。

 あくまでもトーマス先生の基準でだがねぃ。

 トーマス先生は、アタシの体はとても丁寧に扱ったし、欲望のままに求めて傷つけるような事はしなかった。(それに気がついたのは、トーマス先生はどうやらそういった欲求はよそで発散しているらしいと気がついた時だった。トーマス先生曰く、『相手を使い分けている』らしい)

 お寺の稚児は観音菩薩の化身と見なされていたんだよ。と、アタシを初めて抱く前に唐突にトーマス先生は言った。

「稚児と交わるのは、菩薩と交わる神聖な行為とみなされていたからやってもよかったんだ。だから、稚児なら誰でも抱いていいって訳じゃない。きちんと、稚児灌頂という儀式を受けて、観音菩薩の化身となった稚児としかやっちゃいけないんだ。なんて言っても、稚児灌頂ってようするに坊主と稚児の初夜さ。稚児灌頂を受けたお稚児は、名前に丸をつけられるからすぐ見分けがつくんだよ、五嶺陀羅尼丸君。丸がつく子は坊主のお手つきって訳さ」

 アタシが露骨に嫌な顔をしても、トーマス先生はこの話を続けた。

「私も君とセックスする時には、いつでも観音菩薩とヤってるって思うことにするよ。そう思うとちょっと非日常っぽくて面白いと思わないかい? 私にとって君はとーっても神聖な存在なんだ」

 アタシを抱くのさえ、先生のお好きなごっこ遊びの一つ。アタシを道具に毎夜楽しいお遊び。

 アタシは、トーマス先生のこういうところがものすごく嫌いだ。

 今でも、嫌いな部分はあいかわらず嫌いだ。ただ、慣れた。

 長く一緒にいると情も湧く。嫌いな部分を我慢できるほどには好きになった。

 我慢できたのは、トーマス先生は、学校以外でもアタシの「先生」であり有益な存在であったという打算的理由からだ。

 トーマス先生は、アタシにいろいろなことを好んで教えた。魔法律のこと、音楽のこと、草花の知識、世の中の綺麗なもの、汚いものの事。トーマス先生自体がとんでもない人間としての生きた教材みたいなところもあったが……。

 アタシは先生から学ぶ事を楽しみ、トーマス先生は教える事を楽しんだ。

 不愉快な気持ちにさせられることも、喧嘩する事も多かったが、それすらも糧になった。腹を立てたり、普通の人間と付き合っているだけでは体験できなかったろうとんでもない事を乗り越えるたび、アタシは、成長したなぁとしみじみため息をついたもんだ。

 アタシにとってトーマス先生は、面白い刺激であり、有益な人。それでまぁ、あんまり言いたかねぇが、好きだった。何でこんな奴を。と自分でも思うが。この社会不適合者を庇護してやらなければと思う一方、思いがけぬかっこよさを見せられると、アタシの心は揺れた。後から思えば、それは若さゆえの過ちだった。自分よりほんのちょっと大人の教師に憧れる女生徒となんら変わりは無かった。若く経験の浅かったアタシには、ちょっとしたことでもかっこよく大人に見えたし、良いように振り回されたもんだ。

 どんなに嫌な顔をしても、邪険にしても、五嶺君が好きだよ。と堂々と言い、アタシを求めるトーマス先生にいい気になってたのも確かだ。トーマス先生と寝るのは気持ちよかったってことも有る。

 おそらく、トーマス先生にとっての楽しみは、アタシを育てる事。言い方を変えれば、自分のした事が、どうアタシに影響を及ぼすのか見るのが好きなのだ。

 自分が教えて成績が上がる事も、自分が触って感じやすい体にする事も。

 その点で、アタシは先生の作り上げた作品と言えるだろう。よく頑張ったねとアタシを褒める言葉は、それを作り上げた自分にも向けられている。

 師匠と弟子という上下関係が、一方でアタシを求めるトーマス先生という上下関係に逆転する。本当はどちらが上なのか。考えれば考えるほどおかしな二人だ。


「私はMLSが気に入っている。できればこの生活を失いたくないんだ。これまで私が騒ぎを起こさなかったのは、ひとえに五嶺君のおかげだと思う」

 トーマス先生は満足そうに言った。

「愛してるよ、五嶺君。君は嫌がると思うけれど」

 にっこりと笑ってトーマス先生は言った。

 アタシは、良くも悪くもトーマス先生に育てて貰った。トーマス先生はとんでもない人だが、それだけははっきり言える。それについては感謝している。

 トーマス先生に愛されたか? と聞かれれば、そうだ。と答えるだろう。歪んだ自分勝手なものだが、愛情を注いでもらった事は確かだ。

「いえ、最近はそうでもありません。慣れたんでしょうかねぃ」

 アタシの言葉に、おや? といった表情を浮かべるトーマス先生。

 アタシは自信をつけていたのだ。トーマス先生とこのまま上手くやっていけるのではないかと思い始めていた。

 アタシは先生を好きになりかけている。

「アタシは最初に先生とはキスはしないと言いましたが、あれは撤回します」

 一呼吸置いて、アタシは宣言した。

「新ルールの発動を希望します」

「五嶺君は昔私に言ったよね。好きじゃない人とキスするのは絶対に嫌だと。私とキスするのは真っ平ごめんだって。あの時とは心境が変わったと?」

「そういう風に取っていただいて結構です」

 すました顔でアタシが言うと、沈黙が広がった。

「今まで楽しかったね」

 少し黙り込んだ後、先生は唐突にそう言う。

「ええ結構。もう少し続けたいと思うほどには」

「五嶺君、おねがいだよ、止めてくれ。思いとどまってくれ。私と君の関係を壊すのは止めてくれ。私にはとても大事なものなんだよ。私たちは今まで上手くやってきたじゃないか。これ以上を私は望まない」

 先生の意外な言葉にアタシは驚いた。これ以上を望まない? どうして?

 先生は、アタシに先生を好きになって欲しくはないというのか。

「今更何を言うのです?」

 それまでアタシをみっともないほど求めていた先生の言葉とは思えなくて、アタシは眉をひそめ問い返す。

「いやだ。私はこのままが良いんだ。五嶺君、私を侵すのは止めてくれ! 私をかき回さないでくれ!!」

 駄々っ子のように先生は言った。こんなに切羽詰った先生を見るのは初めてで驚いた。

 だけど、アタシは引くつもりは無い。予想外に拒否されて、意地になった。

「先生、サロメは、ヨカナーンがキスを拒んだ時諦めましたか?」

 アタシがそう問いかけると、先生は恐怖さえ浮かべた顔で首を振った。

「いいや、彼女は諦めなかった。愛するヨカナーンを殺してでも、キスをした」

 そう、その通り。

 アタシもサロメのように、自分のしたいことを押し通す。

「なぜしてはいけない事があるのです?」

 アタシは薄い笑みを浮かべた。先生は怯えた表情を浮かべている。

 手を伸ばして、アタシは先生に触れた。両手で頬を挟み、笑った顔のまま口付ける。

 先生は抵抗しなかった。

 唇を離すと、アタシの目に入ってきたものは、絶望に満ちたトーマス先生の顔だった。

「五嶺君が私を殺した! なんて酷い子だ」

 トーマス先生は悲鳴をあげる。アタシは予想もしないその剣幕に驚いて後退った。

「今までの私は切り捨てないと! 君を愛してしまったからだ。ああでもよかった。大丈夫大事には至らない。君を愛してしまった私が全身に広まる前に切り捨てればいい、まだ他の部分は侵されて無いよ。大丈夫、私はまだ私だ」

 トーマス先生の目はすでにアタシを見ていなかった。瞳孔が開いた目をして、ぶつぶつと独り言を呟いている。

 大丈夫、私はまだ私だ。

 その言葉を繰り返し繰り返し呪文のように唱える姿を、アタシはあっけにとられて見ていた。

 トーマス先生が壊れてしまったのではないかとアタシが本気で心配になった頃、トーマス先生は、目に涙を一杯に浮かべ、顔を上げてアタシを見た。

「残念だ。とても残念だけど。五嶺君とはこれで終わりです」

 悲痛な声で告げられた言葉に耳を疑った。

 アタシが必要だと言った舌の根が乾かぬうちに、正反対の事をトーマス先生は言ったのだ。

 まるで悲鳴のようなトーマス先生の声。いや、実際その声はトーマス先生の悲鳴だった。

 顔は真っ青になり、体は病人のように震えている。心労のため目の下に青黒い隈が出来て、一瞬のうちに十以上も年を取ったように見えた。

「終わりとはどういう事なのです」

「五嶺君はタブーを犯した!! 愛してはいけなかったのに!」

 ぽろぽろと涙を流しながら、トーマス先生は老いさらばえた老人の顔で、駄々っ子のようにアタシを糾弾する。

 これまで見たことの無いトーマス先生の変わりようにアタシは混乱して言葉も無い。まさか、キスごときでここまでトーマス先生がうろたえるとは夢にも思っていなかったのだ。

「五嶺君は私を愛し始めた。五嶺君にとって私が人間になってしまった」

 それの何が悪い。だんだんアタシはいらつきはじめた。アタシはなにも大それた望みを口にしたつもりはない。ペットと飼い主というごっこ遊びではなく、ただ対等にトーマス先生を好きになり始めただけだ。なぜそれを責められなければいけないのだろう。トーマス先生だってそれを望んでいたのではないのか?

「いや、それよりも、問題は私の中で五嶺君が人間になってしまう事だ。駄目だ、それは駄目だ、駄目なんだよ」

 頭をかきむしり、トーマス先生は慟哭した。人相がみるみる悪くなる。優しい教師の皮を脱ぎ捨て、おぞましい本性が露になる。ぞっとするような醜い顔にアタシは思わず顔を背けた。

「私は五嶺君を愛してしまう」

「これまでは愛していなかったとでも?」

 アタシはうすうす、自分が間違っていた事に気がつき始めた。

 やはり、こいつには心を許してはいけなかったのだ。最初の直感は正しかったのだ。

「違う。君はちっとも判っていない!」

 トーマス先生は苛立たしげに叫んだ。

「私は君を愛していた。私の今まで集めたどのコレクションよりも深く愛していたよ。とても深く深く深く、私の主人として愛していた。でももう、君は私のご主人様じゃない。君が私のご主人様である事をやめてしまったんだ。あのキスでそれが判ってしまった!」

 トーマス先生は、アタシを責める。

 コレクション、ねぃ。

 トーマス先生の「ごっこ遊びのご主人様」でないアタシはいらないというわけか。とアタシは皮肉な笑みを浮かべた。

 トーマス先生が愛したのは、アタシではなく、トーマス先生の生み出した偶像。

 それは最後まで変わらなかった。

 コレクションに相応しく無いアタシはあっさりと捨てられた。

「キスはしないと言っていたのに。五嶺君の嘘つき! 主人としてなら私はもっと長く君を愛し続けられたのに。君のせいだ」

 アタシは先生が嫌いだったけれど、その気持ちは変わった。アタシと先生は、ずいぶん近くなったと思ったが、そう思っていたのはアタシだけだったらしい。

 先生は変わってなどいなかった。最初から、何一つ。

 アタシは大いなる勘違いをしていた。トーマス先生に必要なのは「ご主人様」でなくて「アタシ」だと。

 トーマス先生がアタシをちやほやするのは、アタシがトーマス先生の欲望処理に都合の良い存在だったからだ。相手をするのは都合の良い間だけだったのだ。

 ガキだったアタシは、それに気がつかなかった。自分が無様に利用されるだけの存在だと気がつかなかった。

「アタシが、先生を愛したのは迷惑だったと?」

 心が冷え切り、アタシは自分でも驚くほど冷たい声で問いかけた。自分が先ほど口にした事をすっかり後悔している。

「そうだよ!」

「なぜです?」

「私は自分が大事だ。君よりも。かき回されるのはごめんだ。自分が自分でなくなってしまうのは嫌だ」

 必要なのは、トーマス先生の望みどおりに動く人形。

 はっきりと宣告された。トーマス先生が愛したのは、自分を脅かす事の無い人形。自分が上手く操れる格下の相手しか先生は相手にしない。

 アタシを変えるのは好きだが、変えられるのは真っ平ごめんなのだ。

「先生は、アタシに変われと言ったくせに、ご自分は変わる気が無いのですね」

 声が震える。全ては最初から願ってはいけないものだった。最初からこいつはアタシを対等に愛す気など無かった。

「安心で安全で、なにも変化のない自分の世界から出るおつもりは無いのですね」

 悔しさに涙が出そうになるのを必死に堪えた。答えは判っているのに問いかける自分の愚かさ、問いかけられずにいられないアタシの愚かさを噛みしめていた。

「このアタシが頼んでも」

 アタシは、みっともなくトーマス先生にすがった。生涯で初めて、プライドを捨てて懇願した。

「だめだよ」

 先生は首を振る。

「ゲームオーバーだ」

 アタシの捨て身の願いを、トーマス先生は切り捨てる。

「君が凄く惜しいよ。君を手放したくない。でもだめなんだ。何人たりとも私を侵してはならない。たとえ君でも。どうして私を愛してしまったんだ?」

 人形でない君は要らない。先生ははっきりとそう言い切り、アタシは屈辱と絶望にさぁっと血の気が引くのを感じた。

「先生は最初から、アタシ自身を愛してくれる気は無かったんですね」

「最初から言ったじゃないか。ペットになりたいと。君の恋人になりたいなんて事、一言も言わなかった」

「馬鹿な人です。先生、あなたは。アタシも大概馬鹿だったけれど、先生ほどではなかった」

 アタシはつくづく人を見る目が無かった。こんな男に心を捧げようとするなど。未遂に終わって本当によかった。

 私は孤独だと先生は言った。一人は寒い。寒くて辛いと。

 一人でずっとそこにいれば良い。誰も救ってはくれない。いや、救えない。何しろ本人が望んじゃァいないんだから。

 孤独に真っ向から向き合おうとせず、人を使い潰すことでつかの間の孤独を忘れる事しかしない先生にはお似合の地獄だ。 

「今更こんな事を言っても負け惜しみなんでしょうが」

 驚くほど気持ちが冷めるのが自分でも判った。人間とは薄情なものだ。どれほど一緒に居ても、ほんの一瞬で気持ちなど冷める。

 いや、所詮アタシとトーマス先生の関係などそれまでだったという事だねぃ。

 なんとまあ、アタシとトーマス先生は薄っぺらい関係だった事だろう。

 これ以上アタシは先生を変えようという努力をする気は全く無かった。

「先生なんてこちらから願い下げです。二度と顔も見たくない」

 アタシは吐き捨てるように言って、部屋に閉じこもった。

 今後何があろうと、アタシは二度と先生に好意を抱く事は無いだろう。


 こうして、アタシとトーマス先生の関係は、後味の悪さを残し、MLSの卒業を待つまでも無くあっさりと解消された。


 トーマス先生に未練は全く無いのだが、あまりの変わり身の早さと自己保身に嫌悪を感じ、アタシをずいぶん不愉快にさせたが、きっぱりとトーマス先生を思い切る事が出来た。

 高い勉強料だったが、もうどうでもいい。

 思えば始まった時から破滅のにおいがする関係だった。後悔はあるが未練は何一つ無い。

 

 卒業も近くなったある日の事。勉強道具の整理をしていた時に、ノートの間から一枚の紙がひらりと落ちた。

 なんだろうと拾い上げると、見慣れた字にアタシは顔をしかめた。

 トーマス先生の字だ。

 とっさに読まずに捨ててしまおうかと思ったが、アタシは思いなおして字を目で追った。いつのまに置いたものか、それはトーマス先生からの手紙だった。

 五嶺君を傷つけるつもりは無かった。との一文にまた腹が立つ。最初からアタシを踏みにじるような愛しかたしかしなかったくせに。

「愛してるよ。君は嫌がるだろうけど。君を愛した私を切り捨てるのはなぜだかとても悲しい。でもその気持ちは失恋を三日泣いて忘れるように消える。君があっさりと心変わりをしたように」

 腹の立つ自己保身の言い訳の後に、こう記されていた。

「消える前に最後の忠告。私はきっと君を諦めきれない。五月兎のように逃げて!」


 言い訳を書いていたときの整った字と違って、その部分は殴り書きされていた。

 トーマス先生がこれまでしてきた事を思い出し、トーマス先生が何を考えているのか大体予測した。

 お前なんか怖くない。アタシはもうお前に良いようにされていた子供じゃない。

 捨てられたせいか無性に反発を覚える。

 判らないのは、トーマス先生は、なぜ自分のたくらみを邪魔するようなこんな手紙を残したのだろうか。ということだ。自分の欲望を満たす事を最優先とする先生が。

 トーマス先生の言う、「アタシを愛したトーマス先生」は、アタシに危害を加えたくないと思ってこの手紙を残しのだろうか。この手紙を残したトーマス先生は二重人格のようにちぐはぐだ。

 大人になれば、自分の事はなんでも判るし、律する事が出来るのだろう。と思っていたが、そうではないのだと思った。トーマス先生は、いや、大人というものはみんなそうかもしれないが、アタシが想像していたよりずっと大人ではない。矛盾を沢山孕んで、こんな手紙も残す。

 自分の幼さゆえに完璧に見えるだけだったのだ。


 トーマス先生は、トーマス先生なりにアタシを愛していた。ただしそれは、自分を傷つける事の無い、人形としてだけどねぃ。

 トーマス先生にとってはアタシにいままで危害を加えなかった事自体が異例だったろう。しかもこんな手紙をのこすなんて、今までの自分からは考えられない事だろう。

 アタシは、トーマス先生を揺らしたのかもしれない。

 トーマス先生の愛と、アタシの愛は、絶対に交わる事は無いのだと思っていた。結果としてそれは紛れも無い事実だったのだが、もしかすると、触れそうなほど近くをかすめ、また遠ざかっていったのかもしれない。単なるアタシの想像だけど。

 不確かな想像と違って、これだけははっきりと判る。

 時が経てば経つほど、二人の心は離れていくだろう。

 アタシは、もうトーマス先生に簡単に騙されるような、都合の良い子供じゃないからだ。

 トーマス先生の飾り棚を飾る物言わぬ剥製となるか、魂を食われた生き人形となるか。アタシがもしトーマス先生のコレクションとなるならば、アタシの心は絶対にそこにないと断言できる。人としてではなく、モノとしてしかトーマス先生はアタシを所有できない。


「若、どうしたのですか?」

 手元の手紙に目を落とし、じっと動かないアタシを不審に思い、エビスが声をかけた。

「いや」

 手の中の手紙を、くしゃりと握りつぶし、アタシは顔を上げる。

「何に負けたのか、判らないことが悔しいだけさ」




                                             終

20080426 UP
初出 20070818発行 「蓮華を我が胸中に開かん

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