ワーズワースの庭園









 運転手が来るまで少し時間がある。そう聞かされて、普段行った事の無いMLSの奥まで散策してみようと思ったのは、ほんの気まぐれだった。


 緑広がる小道を歩く。もうすぐ行われる執行人試験のことをつらつら考えながら足の進むままに行くと、きちんと手入れされた庭園が広がっていた。


 へぇ、こんな場所があったのか。

 アタシは感心しながら、庭園内に入る。ここが安曇野だという事を忘れてしまいそうな、英国式庭園。

 入り口の大きな木の上に、鳥がいるのに気がついた。

 あ、カッコウ。

 アタシは鳥をしばらく見つめていたけれど、その鳥がちっとも動かない事に気がついた。

 なんだ。置物じゃないか。

 ちょっとばかし残念に思いながら、アタシはふと頭に浮かんだ言葉を口に出す。


 O BLITHE New-comer! I have heard,

 I hear thee and rejoice.

 O Cuckoo! shall I call thee Bird,

 Or but a wandering Voice?


 詩の一説を口ずさむ。カッコウのことを歌った詩だ。

 言葉を口に出すと、執行人試験の憂鬱がさぁっと消え、以前に見た、息をのむほど美しいイギリスの湖が瞼に浮かぶ。



 自然に溶け込むように設計され、きちんと手入れされた庭園には花が咲き乱れる。大きな木から落ちる木漏れ日が、キラキラと踊る。


 Though babbling only to the Vale,

 Of sunshine and of flowers,

 Thou bringest unto me a tale

 Of visionary hours.


 「太陽の光にみち、花々のかおりにみち

 汝はわたしに、かの秘密の物語をかたる

 地上を離れた想像の時をもたらす」


 ああ、その通り!

 本物のカッコウが居ない事が残念だねぃ。

 アタシは、気持ちよく詩を口ずさみながら、扇を開いた。

 キラキラと落ちる木漏れ日を、扇で捕まえてみたくなったのだ。

 なんて綺麗なんだろう。

 扇の上で踊る木漏れ日を見て、目を細める。

 最近は試験勉強ばかりでピリピリしていたから、良い気分転換になった。


 ふふふ、ちょっとだけ、舞ってみようか?

 そんな気分になったのは、久しぶりだった。

 あまりにもここは綺麗だったから。

 ふわふわとアタシのところへやってきた蝶を相手に、即興の振り付けで軽く舞う。

 口ずさむのが英語詩なんて無茶苦茶だけどねぃ。誰も見て無いし、まあいいじゃないか。


 Thrice welcome, darling of the Spring!

 Even yet thou art to me

 No bird, but an invisible thing,

 A voice, a mystery;

 蝶のやつも興が乗ったのか、アタシの出鱈目に付き合うように、扇を手に舞うアタシの周りを、上へ下へとふわふわ飛ぶ。水仙の香りがあたりに漂い、夢心地だ。

 なんて気持良いんだろ。


 至福の時間を止めたのは、感極まった声と、割れんばかりの拍手だった。 


「いやーっ! すごい、すごい。美しいよ、ブラボー!」

 庭園の奥から、うっすら涙ぐんで紅潮した顔をして、手を赤くなるほど叩きながらやってきたその男をアタシは知っている。

 やたらアタシに絡んでくるトーマス先生だ。

 授業以外の場では会いたくなかった……。

 しまったとアタシは内心で舌打ちした。しかも変なところを見られちまった。かなり気まずい。

「私の生徒の中で、ワーズワースを諳んじることが出来るなんてきっと五嶺君だけだよ」

 むっつりと黙りこんだアタシの不機嫌さに気付いているのかいないのか、興奮で顔を紅潮させながら、キラキラ輝いた目でトーマス先生はアタシを見る。

「本当に君にはビックリさせられる。まさか、私のこの庭で、東洋の神秘そのものの君の、そんなに綺麗なクィーンズイングリッシュでワーズワースを聞けるとは」

 ああ、そうですか……。そりゃようございましたね。

 最悪な展開に、内心で投げやりに呟きながらアタシは俯く。

「『わたしにとって、汝はまさに 鳥ではなく、不可視の存在である。その霊妙な声は神秘の精髄である』……まさに五嶺君は私の理想だよ」

 先ほどアタシが口ずさんだ詩をトーマス先生はじっくり味わうように繰り返し、勝手に納得してはうんうんと頷いている。

 死んだ魚のようなうつろな目をして、アタシはここから一刻も早く開放されたいとそればっかりを願った。

「どうして判ったのかな? ワーズワースだって」

 一人で喋り続けるとばかり思っていたので、トーマス先生がアタシにそう問いかけた時、面食らってしまった。

「え?」

「私はこの庭を、ワーズワースの庭園と呼んでいるんだよ。ワーズワースをイメージして作ったんだ」

 どうして、判ったのだろう?

 自分でも判らず、アタシは黙りこくった。

 この庭園とカッコウを見て、ごく自然に口にしてしまったのだ。

 大嫌いなこの男の作った庭園で、なぜアタシはあんなに癒されたんだろう。

「でも嬉しいなぁ。五嶺君も私と同じことを感じてくれたんだ。魂の共鳴を感じるよ」

 アタシは感じない……。

 そう言ってやりたかったが、何か一言でも喋ると、こいつは全て自分の都合のいい事に解釈するだろう。それが判っていたので、アタシは黙って不愉快だという事をあらわそうとした。まぁ、無駄だったんだがねぃ。

「本当に五嶺君は、私の……に相応しい」

 ぼそぼそとトーマス先生は俯いて何かを呟き、次の瞬間、顔を上げてぱっといつもの人懐こい笑みを浮かべた。

「君を見るたびに、私の心は喜びでうち震える」

 芝居がかった仕草で大げさに言い、トーマス先生はアタシの顔を覗き込んだ。

「ワーズワースにとってのカッコウが、私にとっての君だ」

 はぁ……?

 アタシは取り繕うのをやめた。思いっきり不快感をあらわにする。だがトーマス先生は懲りない。

「君は私の霊感、尽きる事無い泉。君という名の泉を汲み、喉を潤し、渇きを癒したい。私にとって五嶺君は神秘そのもの、霊感の真髄。その涼やかな声も、その美しい顔も、その漆黒の髪も、君の向こうにある神秘の世界を思うと、陶酔して倒れそうになる」

 べらべらと途切れることなくトーマス先生は自分に陶酔しながら喋り続けた。

 多分、自分は褒められているのだろう。だが、聞けば聞くほど不快感が増すだけだ。

 それもそのはず、コイツはアタシなんか見ていない。

 理想のアタシを勝手に妄想して、それを褒め称えているのだ。むしろ、トーマス先生の欲望処理に利用されているという不快感にアタシは顔をしかめた。

「いつまでも私の手にとどめなきゃあ。君は私の腕の中で永遠になるんだ」

 気味が悪い。

 何を言ってるのかねぃ、こいつは。

「もうすぐ、時が来るのはもうすぐだよ。早い方がいい。泉に毒を入れる悪い輩がいるからね。そうなってはもう台無しだ」

 ぽかんとしているアタシを置いて、一人熱心にそう言うと、ひょいと顔を上げてアタシを見た。


「君だって、逃げたいんだろう?」


 不意打ちに、ドクンと心臓が大きく脈打つ。

 いま、なんて?


「この世界から」


 トーマス先生は、そう言ってにっこりと笑った。


「いいよ、私が連れて行ってあげる!」


 その言葉がアタシをどんなに動揺させたのか知ってか知らずか、軽くトーマス先生は言って、両手を広げた。

「わっ!」

 ひょいと体を横抱きに抱えられた。本当に軽々とトーマス先生はアタシをお姫様抱っこして、一段高いところへ座らせる。アタシは、戸惑った顔でトーマス先生を見下ろした。


「さぁ、私を踏んで」

 トーマス先生は、笑顔でそう言った。その口調は、今日の授業で黒板に答えを書いてくれと言ったのと全く同じ。だが、その内容は恐ろしく理解に苦しむものだった。

「先生、何を仰っているんですか?」

 アタシの質問は、極まっとうなものだっただろう。いや、まっとうすぎた。アタシはその場で恥も外聞も無く逃げ出すべきだったんだ。

「冷たい目で私を見て、罵ってもいい。いや、むしろそうしてくれないか?」

 戸惑っているアタシを無視して、トーマス先生は一人で喋り続けている。アタシは訳がわからず、トーマス先生の顔を見るだけ。

「ああ、そんな怯えた目をして、そんな君もいいよ。もっといろんな君を私に見せてくれ」

 気がつくと、トーマス先生はアタシの足を掴み、ぐいぐいと雪駄の底を自分の顔に押し当てていた。

 雪駄の底から変な感触が伝わってくる。多分、雪駄の底を舐めているのだ。その舌の気色悪い動きにぞっとする。

「でもいつか、五嶺君は私の女王になるんだ。私のカッコウ、私の泉、私の女王!」

 「女王さまに奴隷のキスを!」トーマス先生は楽しそうにそう言ってアタシの足に頬ずりし、はいつくばってアタシのつま先にキスをする。

 アタシは、トーマス先生の突然の奇行に驚き怯え、すっかり固まってなすがままにされていた。

 怯えて引きつった顔のアタシを見て、御しやすいと思ったのだろう、トーマス先生は更に行為をエスカレートさせる。

「ほほう、足袋とはこういう構造になっているんだね、とてもためになる。五嶺君は不思議でいっぱいだ。その一つ一つの謎を解き明かさねばね!」

 トーマス先生はさも楽しそうに言い、アタシの雪駄を落とした。足袋の受け糸からこはぜを外し、優しい声とは裏腹に乱暴に脱がせる。

「ああ、なんて美しい足だろう? 真っ白で、ぴくんぴくんと五嶺君の命が脈打っている」

 アタシの素足を、トーマス先生はまるで宝物でも見る目でじっくりと見て、おもむろにくるぶしのあたりで脈打つ血管に口付けた。

 ヒッと思わず喉の奥から声が出かける。

 反射的に足を引こうとするが、アタシの足を掴むトーマス先生の手はびくともしない。

 ぬるり……と暖かい肉色のナメクジがアタシの足を這い回る。

 全身を悪寒が走り、こみ上げてくる吐き気に口元を袖で押さえた。

「私の唾液で汚れていくよ、五嶺君の綺麗な足が。穢されてゆく、残酷だねぇ。君は無力だねぇ」

 足の指先にキスし、歌うようにそう言いながら、まるで赤子が母親の乳を吸うように、トーマス先生はアタシの足に夢中でむしゃぶりつく。

「い、や」

 恐怖に固まっていたアタシの口から、奇跡的に声が出た。

 なんて薄汚い男。アタシを欲望を満たす道具としか思っていない。

 ここで止めないと、大変な事になるとアタシの本能が告げていた。

「嫌ですっ!」

 アタシは大声で叫んだ。

 トーマスが何をしたいのか、アタシにはさっぱり判らない。アタシの足を舐る事の一体何が楽しいのか判らないし、判りたくも無い。

 でも、薄汚い欲望の標的にされ、自分が汚されたということは良く判る。

 欲望の対象にされ、生理的な嫌悪感に、吐き気を催すほどだった。

「ああ、すまない。あまりにも五嶺君が素敵だったから、つい夢中になってしまった」

 叫び声が外に漏れ、誰かに見つかると不味いとでも思ったのか、トーマス先生は慌ててアタシの足から手を離し、ポケットから出したハンカチでアタシの足を拭った。

 そんなので綺麗になるはずが無い。気持悪い。

 怒りがこみ上げたが、トーマス先生は、唾液をハンカチで拭っただけで、そそくさと足袋と草履を元通りにアタシにはかせた。その誠意の無さに、ますます腹が立つ。

 早く家に帰って血が出るほど洗って消毒しなけりゃいけない。

「悪気は無かったんだ、本当にすまない」

 そう言ったトーマス先生の目から涙が大量に溢れ出してアタシはびっくりした。涙声で、哀れっぽくアタシに言う。被害者はこっちなのに。まるであべこべた。

「頼むよ、誰にもこんな事は言わないでくれ。君だって、こんな事されたって誰にも知られたくないだろう?」

 トーマス先生は大げさに泣いて謝りながら土下座して地に額をすりつけた。ゴツ、ゴツと額がレンガにぶつかる鈍い音がして、額が割れて滴った血がレンガにしみこんだ。それでも、壊れたからくり人形のようにトーマス先生は頭を地に打ち付けている。

「止めて下さい!」

 アタシは半ば恐怖にかられ、反射的に叫んだ。

 アタシの叫びに、土下座しながらにやりとトーマス先生が笑ったような気がした。

「じゃぁ許してくれるかい?」

 涙に濡れ、額から血をどくどく流しながら上目遣いでトーマスは言った。

 その猫なで声は、まるでアタシに甘えるよう。

 こいつ、異常者だ。

 ぞくっと背筋が寒くなった。とにかく、一刻も早くこの場を離れたい。この異常者から、一秒でも早く遠ざかりたい。

「二度と、二度とこんな事はしないでください」

 アタシが吐き捨てるように言うと、トーマス先生の顔がぱっと輝く。

 こいつの思う壺だと思っていても、これ以上コイツに関わりたくないと思う気持の方が強かった。

「ああ、しないよ」


 反省してる。というような哀れっぽい顔でトーマス先生は言った。


 嘘だ。

 馬鹿にしやがって。

 上辺だけの適当な謝罪。それが判っているが、アタシにはどうしようもなかった。


「君はなんて優しいんだ!」

 トーマス先生は、感激した! と言わんばかりに両手を広げそう言った後、性懲りも無くアタシの頬に触れようとした。びくっと体が震え、思わずその手を払いのける。

 しまった。と思った。今のは、教師に対する態度としてはかなり問題がある。だが、トーマス先生は相変わらずニコニコと笑っているだけ。

 今のは、明らかに過剰な反応だ。アタシは自分が怯えている事を知られたくなかった。

 奥歯を噛みしめ、アタシは「失礼します」と言い捨ててその場を後にした。

 一刻も早く逃げ出したい。駆け出したい。

 その衝動をぐっと理性で押さえつけ、アタシはトーマス先生の庭園からゆっくりと歩いて出た。

 逃げ出したい衝動を抑え、ことさら何でもなさそうに歩く。細い道はこんもりとした木々に覆われ、視界をさえぎる。

 もうここなら、見えない。

 そう思うと、我慢ができず、アタシは必死に走って逃げた。


 凄い形相で走ってきたアタシを見て、運転手が驚いた顔をしている。

 それでも自分の職務を忘れず、後部座席のドアを開けると、アタシは急いで車に乗り込んだ。

「若、御髪が……。紐はどうされたんです?」

 運転席に座った運転手が心配そうにそう言うまで、アタシは気がつかなかったのだ。

「紐?」

 鸚鵡返しにしながら、はっと気がついた。

 髪を結んでいた、白い紐が無い。お祖母様から頂いた愛用の奴だ。

 はらりと広がる髪の毛に気がつかぬほど、アタシは動揺していたのだ。


 まさか!

 アタシは、胃の辺りが締め付けられるのを感じた。

 最後にアタシに触ろうとしたあの瞬間。

 あの瞬間に、盗られ……た?


 怒りがこみ上げ、恐怖を塗りつぶす。


 馬鹿にしやがって。

 二度としないとアタシに泣いて謝まりながら、アタシの髪紐を盗ったのだ、あの男は。


 馬鹿にしやがって!

 

 虚仮にされ、これ以上無い屈辱を覚えた。


「若、顔色が悪いです。真っ青だ」

 運転手が心配そうな声で言う。アタシは、なんでもないよ。と微笑んでみせたが、上手く笑えない。


「アタシはあいつなんか怖くない」


 エンジンをかけた車の中で、小さな声でアタシは呟いた。

 アタシが弱いと、あいつが付けこむ。

 アイツは、アタシの心の闇を知っている。


 車の窓からふと外を見ると、いつのまにやって来たのか、少し遠くの木陰にトーマスが立っていた。

 アタシがこちらを見ていることに気がつくと、人懐こい笑顔でアタシに手を振った。

「さよなら。また明日」

 その声までが聞こえてきそうな笑顔。


 手を振りながらアタシの髪紐に口付け、見せつけるように匂いを嗅いでいる。

 アタシの髪紐を盗った事を、隠そうともしないのか。


「絶対に恐れるものか!」


 悔しくて怖くて、そして怒りで、涙が溢れそうになるのを堪えた。

 自分に言い聞かせるようにそう言う。


 あの庭に一歩足を踏み入れた時、すぐに、ワーズワースだと判った。

 多分、トーマスの言うように、トーマスの魂とアタシの魂は、ある部分でとても近いのだろう。


 どうしてワーズワースだと判ったのか? とアイツは聞いた。


 アタシだって聞きたい。


 どうして知ってる?

 アタシが逃げ出したいと思っている事。


 執行人試験からも、五嶺の家からも、この世からも。


 一番知られたくない奴に、アタシの一番知られたくない秘密を知られている。

 その恐怖が、アタシの体の中でどろどろと渦巻いた。

 

 誰にも知られてはならない。

 トーマスと自分はこんなに近い。


 アタシはずうっと前から知っている。あの男は、どうしようもない悪人だ。

 だがそれを、アタシが黙っているのは、自己の保身のため。

 だってどうして知っている? なんて聞かれたらどうする。

 アタシがあの男が悪人だとわかるのは、アタシがあの男の闇を知っているから。アタシもその闇を持っている同族だから判る。

 トーマスとアタシが近いと知られるのが怖い。


 反吐が出そうだ。

 だが、あたしの心の闇はトーマスを求めている。

 蛾が火に誘われるように、近づいてしまいそうになる。

 だから怖い。

 トーマスは知ってる。アタシが、この世界から逃げ出したいと思っている事を。向こう側に憧れている事を。


「髪紐を返してあげるよ。

 だから、私のところへおいで」


 きっと、そう言われても逆らえない。


 アタシは、その時が来て欲しいと思っているのか、それとも、永遠に来ない方がいいと思っているのか。

 アタシはぎゅっと目を閉じ、どうしようもなく感じるカタストロフィの予感に身を震わせた。


 時は近いと、アタシの本能が告げている。

 

                      


20090124 UP
初出 20060812発行 世に五嶺の花が咲くなり

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