地獄極楽五嶺戯
退屈を紛らわせるために……とエビスが調達してきたものは、トランプだった。
退屈だ退屈だと言いながら、明日の執行の打ち合わせはまだ行っていない。
エビスは何か言いたげに魔法律戦略図をチラッと見たが、なにも言えずにおどおどと手にした物を五嶺に差し出す。
なんだいこれは、こんなもんしかなかったのか、この豚! と罵ってみたものの、ここは田舎の温泉旅館、おまけに外は土砂降り。どんなに文句を言ったって、これしかないものはない。
エビスを罵倒するのにも飽きると、五嶺は苦虫を噛み潰した顔のままトランプを切り出した。上司に怒鳴られて、首を引っ込めた亀みたいになっていたエビスが内心でほっと安堵のため息をつく。
一枚ずつ交互にカードを配り終えると、五嶺は無言で同じ数字のカードを捨てる。それを見て、慌ててエビスもまねをした。
二人でババ抜きか……と思わないでもなかったが、女主人の意向には逆らえない。
二枚、四枚とカードが捨てられていく。
外では、闇の中雨がざあざあ降っている。
目の前には、浴衣の裾からのぞく主の白い足。
エビスにあてがわれた部屋は隣だが、五嶺が下がっていいと言うまではいつも一緒だ。
退屈をもてあましてらっしゃる五嶺様には悪いけど、俺は悪くない気分だ。
捨てるカードを選ぶために目を伏せているのをいい事に、エビスは五嶺の端麗な顔をちらちらと眺めて、綺麗だなぁと内心ため息をつく。
「さぁ、これで最後だ」
エビスから引いたカードと自分の手持ちのカードをあわせて捨て、五嶺が唇の端を吊り上げて笑った。
五嶺の手には、二枚のカード。エビスの手には、一枚のカード。
「お前の待ってたエースはここにある」
楽しそうな五嶺の言葉。
ハートのエースを引けば、エビスの勝ち。
「え……と」
これか、それともこっちか?
五嶺の言葉に、エビスの心臓が緊張で高鳴る。
エビスは勘は鋭い方だ。賭け事にも強い。普段なら難なくお目当のカードを引き当てる所だが、今回は勝手が違う。
勝負事に勝つコツは、心の余裕だと誰かが言ってたが、今のエビスにはそれがまるで無い。なんせ、相手はエビスの上司、エビスの恩人、エビスの女神なのだから。
額に汗しながら、じっとカードを凝視する。左のカードから右のカードへ、こんどは逆に、手がうろうろと動く。
「早く引け。欲しいんだろぃ?」
せかす五嶺の声が、エビスをからかう。エビスはもっとうろたえ、顔を真っ青にしたり赤くなったりして、うんうんとうなる。
五嶺の先ほどの不機嫌はすっかり消え去り、かすかに微笑みさえ浮かべていた。
よっぽど、カードを前に焦る真剣なエビスが可笑しかったのか。
てっきり、早くしやがれこの豚! と罵られるんだとばかり思っていたエビスが、思わず五嶺の顔を見た。
「今のお前は、アタシしか満たせないんだねぇ」
嬉しそうに、くすくすと笑う五嶺を見て、心がきゅーんとする。頭がくらくらして、ぶっ倒れそうだ。
違うんです違うんです五嶺様、俺がこんなに必死なのは五嶺様が俺の欲しいカードを持ってるからじゃなくて、五嶺様は五嶺様だというだけで俺の全てをもって行ってしまうわけで、ほんとに俺は貴女の為なら命を含む全てを捨てます。
あれ、話がずれた。
思わず目の前のカードから意識が飛んでしまい、ええい、ままよと右のカードに手を伸ばした瞬間、ふっと部屋の明かりが消えた。
「!!!」
すわ何事かとエビスがぴんと緊張を張り巡らせると、窓の外でぴかっと稲光が光る。
部屋の中が一瞬雷の光で満たされた。
同じく、不測の事態に備えたのだろう。すばやく魔法律書を手にした五嶺が暗闇に浮かび上がる。
ほんの一瞬見えた、蒼白い光に照らされた、緊張した美しい顔がエビスの網膜に焼きつく。
再びあたりが暗闇に包まれたと思うと、地を揺らすかのような激しい音が鼓膜をつんざいた。
雷か!
ごろごろごろと雷神の太鼓の音が空に響き、気まぐれに雷の矢をあちこちに落とす。
そのたびに、すさまじい音と光が部屋中に満ちる。ちっぽけな人間は荒々しい自然に翻弄されて、おろおろするしかない。
「エビス……」
暗闇の中から聞こえる五嶺の震えるような声に、エビスがはっと声がした方へ向き直った。
いくら気丈だと言っても、五嶺様はかよわき女人、雷が怖くない訳が無い。
そう思って、五嶺を安心させるように慌てて声をかける。
「ごっ、五嶺様、大丈夫ですから!」
「怖い……」
暗闇の中から聞こえてくるか細い声に、エビスが五嶺を求めてそろそろと手を伸ばした。
エビスの手の先に、五嶺の浴衣の先が触れる。
ぴかっと稲光が光った。
袖を口元へ当て、不安そうな瞳でエビスを見る五嶺が見えた。
急いで側ににじり寄る。
「あんなものっ、すぐに治まります」
打算も損得もなかった。ただ不安そうな五嶺を勇気付けようと、必要以上に大きな声でエビスが言う。
「手を握って」
五嶺の言葉に、えっ!? と内心思ったが、暗闇の中で五嶺の手を探り当て、安心させるようにぎゅっと握る。
恐怖のせいか、手が少し冷たい。柔らかくて細い手を両手で暖めるように包み込んだ。
「あっ、明かりを……」
そういえば、エビスの持っている札には発光するものがあったはずだ。もちろん停電のときに使うものではないが、とりあえず光は得られる。
「そんなものいい。抱きしめて……」
解かれようとしたエビスの手を行かせまいと、五嶺が握り締めた。
まるで懇願するように言われた言葉の内容に、エビスが困惑する。
「えっ、はっ、はい」
ほんとうに、いいのか!?
恐れ多くて触れるのも憚られる五嶺様のお体にこうして触れるばかりか、抱きしめるなんて。
五嶺の言葉に戸惑いながらも、エビスは膝立ちになり、五嶺の頭を胸に抱きかかえるようにおずおずと抱きしめる。
「もっと強く」
ぎゅ……と五嶺のほうから、エビスに強く抱きついてくる。無我夢中で、エビスは五嶺を抱きしめた。
薄い布越しに、五嶺の体の柔らかさと、体温が伝わってくる。
それらは、普段なら雄の本能を著しく刺激するものだったが、それ以上に精神的な満足感がエビスを満たす。
雄の性よりも、ただひたすら腕の中の人が大事だと思うほうが勝った。
五嶺様が、俺の腕の中にいる。
か弱く震えて、俺を頼ってくださっている。
腕の中の柔らかい体を、ぎゅっと抱きしめる。
何があっても、絶対に五嶺様をお守りしますから。
貴女を苦しめる全ての事から、お守りしますから。
俺の命に代えても。
ただほんとうに愛しくて愛しくてたまらず、ただひたすら守ってやりたいと思った。暖かく優しいものに満たされ、使命感に燃え体が震えた。
全身を歓喜が貫き、このまま時が止まってしまえばいいとさえ思う。
「アタシを離さないで。ずっとそばにいて」
エビスの胸に顔をうずめながら、五嶺が囁いた。怯えているにしてはずいぶん声が甘い事にエビスは気がついていない。
「は、離しません。絶対に」
上ずった声でエビスが必死に言うと、五嶺が動く気配がした。
ようやく暗闇に慣れたエビスの目が、こちらを見上げる五嶺を映す。
「エビス」
囁きが驚くほど近くで聞こえ、かすかに唇に柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬、夢じゃないかと思うほどの短い間、五嶺の唇がエビスに触れたのだ。
「五嶺さま……」
口付けされ、呆けた顔で呟いたエビスから、五嶺の顔が離れる。
明かりさえあれば、白い頬がかすかに桜色に染まっているのが判ったはずだ。
しばし、視線が絡み合う。
五嶺が近くに感じられる。
十年もの長きに渡り共にたくさんの時をすごしたが、見栄や怯え、主従の壁に壁に挟まれ、本心を言えぬ事も多かった。
だが今、触れれば届くところに五嶺の心があり、エビスに触れられるのを待っている。
お互いがお互いを求めていると判る。
あの五嶺が、エビスに触れて欲しいと素直に願っている。
だが、それが、俺の勘違いだとしたら?
その思いが、エビスを押しとどめる。
ぐっと奥歯をかみ締めた。
大事すぎて、触れる事が出来ない。
愛しているなんて恐れ多くて、言えない。
俺は、五嶺様のことをそんなふうに思ってはいけない。
好きです。と思わず口走ってしまいそうな唇を血がにじむほどかみ締める。
思いを押しとどめるのは、身を切り裂かれるほど辛い。
一瞬の躊躇が明暗を分ける。
ちかちかっと天井の明かりが瞬いたかと思うと、ぱっと明かりが元に戻った。
姿を程よく隠し、心を素直にさせた闇は文明の利器に追い出されてしまった。良く見えすぎるというのも考え物だ。明るすぎて言えぬことは多い。
暴れるだけ暴れて気が済んだのか、いつのまにか雨も止み、窓から見える夜空には月さえ出ている。
「五嶺様、もう平気ですよ。ほら、明かりも点きました」
どこかほっとしている自分がいるのをエビスは気付いていた。
まさか、五嶺様が、そんな。俺なんかを。
そう自分を納得させ、逃げたのだ。
だが、逃げたエビスはすぐに後悔する事となる。
「……阿呆めぃ」
五嶺はエビスをねめつけ、低く怒りの声を漏らした。
はっとエビスが五嶺の顔を見上げる。
もし本当に五嶺様が俺を求めていたのだとしたら、俺はなんて酷い事をしたのだろう。
そのことにようやく気がついたのだ。
「ご、ごりょうさま、お、おれは」
「意気地なしは嫌いだねぃ」
怒った声でそう言うと、五嶺は振り向きもせずに部屋を出て行く。
言い訳しようと口を開きかけたエビスを、五嶺はばっさりと切り捨てた。プライドの高い五嶺の事だ、めったな事では許してはくれまい。
やっぱり、五嶺さまは誘ってらっしゃったんだ。
雷にかこつけて……?
雷に怯えていた姿が、本気だったのか、それとも演技だったのかすっかり判らなくなってしまったが、チャンスを逃したばかりか、五嶺を怒らせたという事は悲しいほどに判る。
失敗を悟り、見る見るうちにエビスの顔が青ざめ、腹の底が冷たく重くなる。
クソッ、俺のバカヤロウ、豆腐の角に頭ぶつけて死にやがれ!!!
百万回自分を呪いたい。壁に頭ぶつけて自分を罵りたい。
だが、そんな事をする前に俺が傷つけてしまった五嶺様にお詫びするのが先だと思いなおす。
「あ、どちらへ?」
「風呂!」
言い捨てた五嶺の後を追って、エビスが五嶺のお風呂用具を抱えて部屋を飛び出した。
しゅるっと音を立てて、半帯を解いた。
脱衣所の前では、エビスが番犬のように主人が湯に入るのを守っている。
浴衣を足元に落としたとき、ふと、目の前に大きな鏡に自分の体が映っていることに気がつく。
鏡に映った自分の裸体をまじまじと見る。
ぬばたまの黒髪に、透き通るような白い肌。すっと伸びた長い首に、鎖骨のくぼみ。
重たそうな乳房は形良く張り詰め、持ち主の性格に似たのか、桜色の乳首が生意気そうにつんと上を向いている。
そっと乳房に触れてみると、柔らかいが、五嶺の手を適度な弾力ではじき返してくる。
くるりと後ろ向きになり、今度は後姿を確かめる。
くびれた腰からヒップにかけてのラインは自分でも優美だと思う。きゅっと上がったヒップから、すらりと伸びた長い足まで、形良く美しい。
「悪くない……と思うんだけどねぃ」
思わず呟いた言葉に、はっと我に返った。
アホかアタシは!!
エビスに応えてもらえなかった事が尾を引いているのだと気がつくと、ますます腹立たしい。
あの阿呆めぃ。
なぜアタシの誘いに乗らん!
プライドを著しく傷つけられ、内心でエビスを罵る。自分に魅力が無いのかと、落ち込んでしまう。
他の女の胸を、呆けた顔で目で追ってたくせに!!
アタシには興味ないのか!
アタシが生娘だからか!?
いっそのこと、裸でエビスの布団に入り込んでやろうか。と腹立ち紛れに考える。
もちろんそんな事はしないけれど、やったとしてもきっと、エビスが土下座して畳に血が出るほど額を擦りつけ「お許しください」と言うのは目に見えてる。
明日の執行は、六十八手を使う。
迷っていたがそう決めた。
わざわざ五嶺の頭首を直々に呼び寄せられただけあって、明日相手をする予定の悪霊はかなり手ごわい。そのため、悪霊を体の中に閉じ込める六十八手はエビスの体に負担がかかりすぎると別の戦略を考えていたのだが、もうかまうものか。
「エビス、いいよ」
裸になると、犬を呼ぶように五嶺はエビスを呼びつけた。エビスの返事を聞かず、そのまま浴室へと歩を進める。
「ヘイ」
緊張したエビスの声がして、からからと脱衣所の戸が開いた。エビスは、五嶺の声が聞こえるこの場所で。かちこちになって五嶺に用事を言いつけられるのを待つのだ。
曇りガラスの向こうにある五嶺の姿をなるべく意識しないようにしながら、五嶺の脱ぎ捨てた浴衣をきちんと畳み終えた頃、露天風呂のあるガラス扉の向こうから、主人の声がエビスを呼ぶ。
「エビス、エビス!」
「な、なんですか五嶺様!」
名を呼ばれ、ドクンとエビスの心臓が脈打った。ガラスの向こうで、一糸まとわぬ五嶺がいるのだ。緊張しない訳が無い。
「エビス、早く!!」
五嶺の焦る声など、尋常で無い何かが起こってるとしか思えない。ためらわれたが、エビスは露天風呂に続く引き戸を開けた。
「し、し、し、失礼します。ゴリョー様」
濡れないように背側の浴衣の裾を腰の帯に挟み、時代劇に出てくる岡引みたいな格好でエビスが露天風呂のある場所に足を踏み入れる。
湯に浸かった五嶺が、不自然に固まったままエビスを必死の目で見ている。その目は、けして上を見ようとしない。
「エビス、アレ、動いてないかぃ?」
ひょこひょこと近づいてきたエビスに五嶺はそう言った。
恐怖のあまり、直視できないが、視界のはじで何か動くのは敏感に感じるらしい。
言いながら上を指差す五嶺に、エビスが目線を上げた。
ははぁ、アレか。
尋常で無い五嶺の怯えようも、ソレを見たら即座に理解できた。
五嶺の頭上にある木に、大きな女郎蜘蛛が巣を作っている。
天上天下唯我独尊な五嶺陀羅尼丸が唯一恐れるアレ。名前を呼ぶのも嫌らしい蜘蛛に出くわして、五嶺の目が泳ぎ、かすかに震えてさえいる。
「はぁ、動いてますねぇ」
いくら五嶺にとっては恐怖でも、エビスにとってはただの虫でしかない。のんきなエビスの返答に、五嶺が癇癪を起こした。
「はぁじゃないよ! このウスノロ豚がっ! こっちに来たらどうする!」
そんなに怖がって本気で怯えてるくせに、強気なんだからなぁ……とエビスは呆れたような感心したような気分で女主人を見た。
「判りました。殺しますよ」
一番手っ取り早い方法を口にしたが、五嶺が青ざめた顔でぶんぶんと首を振る。
「殺すな! 寝覚めが悪いだろぃ!」
多分、祟ると思ってるな、五嶺様……。
五嶺の必死な顔にそう思って、なんとか穏便に済ませる方法を考えるが思いつかない。
「…………」
「何してる、早くあっちに行かせろって言ってるんだよ、この役立たずが!」
どうしろってんだよとエビスは思い、とりあえず桶に入れた湯をぱしゃっと蜘蛛に向かってかける。
これで逃げていくだろう。というエビスの予想は確かに当たった。
蜘蛛は巣を捨て、ツツツ……と糸を出して下へ逃げてきたのだ。
ちょうど、五嶺の顔のまん前に。
あたりの空気が一瞬凍り、失態を悟ったエビスの顔が真っ青になり、五嶺の目が恐怖に見開かれた。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
露天風呂に女の悲鳴が響き渡り、凍った時間が粉々になって動き出す。
普段の高飛車で気丈な五嶺の口から出たとは思えない、絹を裂くような悲鳴をあげて、五嶺が湯から立ち上がる。
ざばっと水しぶきを上げながら、白い女体がエビスの目の前にさらされた。
五嶺様、乳でかい!
しかも美乳!
突然エビスの前に現れたそれは、乳にはうるさいエビスが客観的に見ても、これまで見た中で一番美しいものだった。
ばしゃばしゃと水しぶきを上げて、五嶺が恐怖に顔を引きつらせながら蜘蛛から必死で逃げ、エビスに近づいてくる。
普段はさらしで巻いているので判らないが、くつろいだ浴衣姿から結構あるだろうと密かに目測していた通り、エビスの目の前で豊かな胸がゆさっと揺れる。
う、わ!!!!
ついに目の前にきた五嶺の美乳に釘付けになるエビスだったが、五嶺はエビスに自らの裸を見られているという恥らいを忘れるほど動揺している。
「ば、馬鹿、この、ばかっ!! アタシを殺す気かっ!!」
恐怖のあまり涙目で、湯船のふちに呆然と立ち尽くしているエビスをぐいと引き寄せ、胸をぽかぽかと殴りつける。
「五嶺様、裸、裸!! はだかぁ〜〜〜〜〜」
俺が死ぬ俺が死ぬ俺が死ぬ、俺が死にます五嶺様ァァァァ〜〜〜!!!
膝を突き、五嶺のなすがままにされながら、揺れる乳房から目が離せないエビス。
五嶺が恐怖に怯えた目で後ろを振り向くと、ちょうど風が吹き、蜘蛛がふわっと風に乗って動く。
更なるパニックに陥り、五嶺がエビスにしがみついた。
「いやだエビスこっちに来るよ、いやぁぁぁっ!」
エビスに抱きつき、胸に顔をうずめて、五嶺はいやいやと首を振った。
エビスの浴衣の合わせ目がはだけ、五嶺の肌が擦り付けられる。豊かな胸をぐいぐい押し付けられるが、パニックに陥った五嶺を落ち着かせようと必死で、エビスもそれを楽しむどころではない。
五嶺の肩を抱き、落ち着かせようとぎゅっと抱きしめて、背中を撫で、大丈夫ですから! と何度も耳元で言う。
「大丈夫ですってば」
何十度目かにエビスが言うと、ようやく五嶺がこくんと頷いた。蜘蛛はとっくにどこかへ消えている。
「行った? もう行った?」
まるで子供のような五嶺を落ち着かせようと、もういちど優しく「大丈夫です」と言い切る。
ようやく安心したのか、五嶺の体からほっと力が抜けた。
「目を開けても平気かぃ?」
エビスの胸から顔を上げたが、ぎゅっと固く目を閉じたままの五嶺が可愛くて、ドクンと下半身がうずいた。
やべっ!!
押し付けられていた、乳房の柔らかい感触が、しっとりと吸い付く柔肌の感触が、エビスの体にしっかりと残っている。
強烈にそれらを意識して、みるみるうちに体の一部分に血が集まっていく。
「ダメです、目を開けてはいけません五嶺様!!」
「え? なんでだぃ?」
エビスの言葉が逆効果になり、ぱっちりと五嶺が目を開けると、エビスの股間が力強く布を持ち上げて己を主張しているのが目に飛び込んでくる。
「あっ」
思わず驚きの声を上げる。自分がどんな格好かを思い出して、エビスがこうなった理由を理解し、一瞬顔を赤くして俯いたが、俯いた五嶺の口から漏れたのは、地を這うほどに低い怒りの声だった。
「この豚が……」
恐怖のあまり変に息を吸い込み、ヒッ! とエビスの喉が奇妙な音をたてる。
死の予感に、全身の血が引いていくのが判った。
五嶺様の前でのこの粗相、許しては下さるまい……!
「アタシが本気で怖がってるのに、なにおっ勃ててるんだ、阿呆! 殺されてぇのか、この豚が!」
眉を吊り上げ、女夜叉と化した五嶺に、がばっとエビスが土下座した。
「申し訳ありません五嶺様!!! ですが、ですが!!」
五嶺様のお体を見せられて、勃つなと言われるのは無理な注文です!!
残りの言い訳は腹の中に仕舞い、エビスは床に必死で頭を摩り付ける。
「ですがなんだこの豚がぁ!!」
五嶺の手がエビスの浴衣を掴み、声と共に凄い力で湯の中に引きずり下ろした。
温泉の濁った湯の中に沈められ、したたか水を飲む。鼻の中に水が入ってツンとする。五嶺の手で湯から引き上げられて、大量の水を吐き出しながら思いっきり息を吸った。助かった。と思った瞬間、また湯の中に沈められる。それを何度か繰り返された。
俺、死ぬ!! マジで死ぬ!!
お花畑が見えかけた時、五嶺がエビスの体を湯から引き上げ、乱暴に放り投げた。
湯の中でしばらくじたばたしていたが、口や鼻からげぼげぼと水を吐きながら、エビスは必死になって立ち上がり、空気を肺いっぱい吸う。
そのエビスの後頭部の髪の毛を、五嶺の手が鷲づかみにした。
このまま湯の中に沈められては、本気で死ぬ。
ぜいぜいと荒い息をしながらエビスの体が恐怖に凍りつくと、ぐいと顔を上向かせられた。
「そういえば、お前、巨乳が好きなんだってねぃ?」
残酷な笑みを浮かべた五嶺の体を下から見上げる。
仁王立ちの五嶺の後ろに、月が見えた。
肩、くびれた腰、女体のやわらかなラインが闇を白く切り取る。
かすかに浮いたあばら、形のよいへそ、重力に逆らって上を向く二つの乳房。
下から見上げる女体は、独特の威圧感がある。
ああ、綺麗だ……。
死にかけているにも関わらず、エビスはうっとりとそう思う。
「このさいはっきりしろ。アタシの乳はどうなんだ? このアタシが側にいながら、別の女の乳ばっか見やがって!」
ゆさゆさと体を揺らされて、はっと我に返った。
そういえば俺、折檻されてる途中なんだった。
あ……、でも幸せ……。
「五嶺様、もうやめましょう。もうもちません! いろいろ限界ですから!」
ゆさっと揺れる乳房と、その上にある五嶺の顔を見ながら、エビスが必死で許しを請う。
ぱっと五嶺がエビスから手を離し、自分の両乳房を端から掴み、中央へ寄せて上げる。
「お前が欲しいのはこれか? ええ、これなのか! 好きなのか嫌いなのかはっきりしろぃ!」
本気で限界だったエビスの目の前に突きつけられた五嶺の胸に、エビスのなかでなにかがぷつりと切れる音がした。
「だ……すき。決ま……。で……すか」
ゆらりと、操られたようにエビスの体が揺れ、口からぼそぼそと何か言葉が漏れた。
「だ?」
五嶺が不審そうに眉根を寄せると、エビスの目がかっと開き、洪水のごとく勢い良く喋りだした。
「大好きです! 死ぬほど好きです! 五嶺様の乳でどんぶり五十杯はいけます! 申し訳ありません先ほどからガン見しています。見てはいけないと判りつつ両のまなこでしっかと見ています!! この記憶は心の中の一番大事なものをしまっておく小箱に大切にしまいました。百回生まれ変わっても忘れないほど強く記憶に焼き付けました。ああ見ましたとも、どうぞ殺してください! もういつ死んでもいいです!!」
完全にイった目つきで、マシンガンのように喋りだしたエビスに、ぎょっと五嶺が体を引く。
「そうかぃ……。そんなに好きかぃ。ならいいんだよ……」
あまりのエビスの壊れっぷりに、五嶺の怒りも吹っ飛ぶ。
ざぶ……と音を立てて、五嶺が体を湯に沈めた。今更ながら、体を見られるのはどうかと思ったのかもしれない。
浴衣のまま引きずり込まれ、魂を抜かれたようにそのままぼーっと湯に立ち尽くしているエビスと、二人並んで夜空の月を眺める。
多分、先の大騒動さえなかったら、エビスの鼻血の海になりそうなシチュエーションだったが、虚脱状態に陥ったエビスは、ぼんやりと月を見ながら口を開いた。
「五嶺様ぁ……」
「なんだぃ」
思わぬ混浴状態のなか、エビスがぽつりと五嶺の名前を呼ぶ。五嶺も疲れたように短く答える。ようやく、二人が落ち着きを取り戻す。
「明日も早いんだから、もう、仲良くしましょうよ……」
同じく疲れ果てた声でエビスが言うと、はぁ〜と五嶺が億劫そうにため息をついた。
「執行するより疲れたねぃ。もう指一本動かしたくないよ」
ようやく大騒ぎだった一日が終わる。とエビスがほっとしたのもつかの間。
「あっ、そーだっ」
急に目を輝かせ、五嶺が隣のエビスを振り向いた。
「アタシの見たんだから、お前のも見せろぃ」
はっ!?
いきなり何を言い出すんだこのお人は!!
五嶺の突拍子も無い言葉は、エビスを虚脱から引き戻した。
「えっ、俺の乳をですか?」
目を見開いて驚きを示すエビスに五嶺の鉄拳が飛ぶ。
「阿呆!! 誰がそんなもの見たいか」
じゃぁ、じゃぁ……。
嫌な予感に、エビスが後退ろうとすると、にたぁ……と凶悪な笑みを浮かべた五嶺の手が、エビスの浴衣をがしぃっと掴んだ。
「や、止めて下さい五嶺様、いけません、ダメですってば〜〜。セクハラですよセクハラ!」
どっちが女だか判らない台詞を無情に無視して、五嶺の手がエビスのトランクスにかかった。
「うるさい、見せろこの豚! どうせ貧弱なんだろ! 笑ってやるから見せやがれぃ!」
言葉と共に勢い良くトランクスを引きずり下ろした五嶺の目が、驚きでぎょっと見開かれた。
思わず動きが止まった五嶺の視線は、エビスの股間ただ一点にしっかりと固定されたまま微動だにしない。
「……エビス、お前」
息を呑んで自分の股間から目が離せない五嶺の反応に、エビスの顔がかぁっと赤くなる。デリカシーの無い主人の無遠慮な目線が死ぬほど恥かしい。臨戦態勢ではなく標準時であったのがまだ救いだと自分を慰める。
素っ裸で乱闘したさっきといい、自分の股間を遠慮なく見つめるその視線といい、五嶺様より俺のほうがよっぽど恥じらいがあるんじゃないかとさえ思う。
「なりに似合わずご立派様なんだねぃ……」
心底感心した様子の五嶺の声に我慢しきれず、「五嶺様のバカー!!」と内心で叫び、泣きながらエビスは逃げ出したのだった。
大いにプライドを満足させて上機嫌の五嶺と、寝た子を起こされて一睡も出来なかったエビスの執行人と裁判官コンビが、悪霊退治に大活躍するのは明日の話である。
終
20090427 UP
初出 20060812発行 世に五嶺の花が咲くなり
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