残香
コトっと小さく音を立て、ムヒョがチェスの駒を盤上に置いた。
「おや、そうきたかぃ」
動かしたムヒョのコマを見て、向かいに座る五嶺が嬉しそうに言って身を乗り出す。
「じゃ、アタシは……」
白魚のような指先で駒をつまみ上げ、「あそこに置かれると厄介だナ」と思う場所に的確に進めてくる。
「ヒッヒ。嫌な手使いやがる」
言いながらムヒョは悪くなさそうな顔をしている。すうっとその顔から笑みが消え、真剣な眼差しで盤上を探るムヒョを見ながら、五嶺がぽつりと呟いた。
「六氷のがアタシのものならいいのにねぃ」
「ああ?」
ムヒョが思わず顔を上げ、ゲームの最中らしからぬ突然の言葉に訳がわからず顔をしかめた。
「魔法律戦略図を広げながらねぃ。お前さんがアタシの駒ならどういう戦略を使えるか……って考えるのが最近のアタシの楽しみなんだよぅ」
ムヒョの顔を覗き込み、五嶺がにっこりと笑う。
「……息抜きの時まで魔法律のこと考えてるたぁ、おめェもよっぽどの魔法律バカだな」
「六氷の。こんな時はねぃ『オレの事考えてたから楽しかったんだろ』って言わなきゃねぃ」
呆れたように呟いたムヒョにまぜっかえした五嶺の細い手首を突然つかまれる。
「六氷……の」
ぐいっと引き寄せられ、ムヒョの顔と息がかかりそうな近さで正面から見詰め合う。
唇が、触れちまう……。
近づいてくるムヒョの顔を見ながら、五嶺の顔が戸惑いと微かな期待を浮かべたその瞬間、台所からのんきな声と共に、ポットを持ったロージーがひょこっと顔を覗かせた。
「五嶺さん、お茶のお代わりどうぞ」
「アラ気が利くねぃ草野。ありがとう」
五嶺が、先ほどまでの戸惑った顔から、一瞬にして元の落ち着きを取り戻した。いつもの余裕たっぷりの顔でロージーを見て微笑み、尊大な態度で礼を言う。
「ムヒョー、僕出かけるから」
ロージーはテーブルの上にポットを置くと、ムヒョを向き直ってそう言った。
「草野、アタシがこのポットの茶を全部飲んじまったら、誰がお代わりの茶を煎れてくれるんだぃ?」
「少なくとも俺じゃねェナ」
「もームヒョ、そんな事言わないで! 紅茶の缶は、上の戸棚の中、隣はクッキーの缶だからね。五嶺さんをちゃんとおもてなししてね」
ロージーが念を押すようにムヒョに言うが、ムヒョがそんなめんどくさい事をするわけが無い。
「こんな押しかけもてなす必要ねェ」
素っ気無く言って、駒を動かす。
押しかけてきた当人は、ロージーの煎れた茶を口にして、満足そうににっこりと笑った。
昼下がりの六氷魔法律事務所。
久しぶりのノックの音に、依頼者かなっ! とロージーが顔を輝かせてドアを開けたら、五嶺家頭首が立っていた。
しかも一人で。
一応手土産を持って来てくれたのだが、茶碗という六氷魔法律事務所にはかなり微妙なチョイスだったので、「ああ、エビスさんとケンカしたんだぁ……」とロージーはムヒョと顔を見合わせた。
完璧に何か訳ありの逃避行中なんだろうなぁと思われたが、五嶺は涼しい顔で、「近くまで来たから遊びに来てやったんだよぅ」と微笑んだ。
「ゴリョーさんせっかく来てくれたのにごめんなさい」
「ああいいよ別に。アタシが勝手に来たんだからねぃ。気にせずいっといで」
ロージーが申し訳なさそうな顔で五嶺に言うと、五嶺はにっこりと笑って言った。
六氷魔法律事務所のソファーに寛いで座り、愛用の扇を弄ぶその姿は、突然押しかけてきた客とは思えないほどリラックスしている。
ゴリョーさんがいると、なんだかうちの事務所が豪華に見えるなあ……。とロージーは思った。安物のソファーだが、五嶺がこうも優雅に寛いでいると、革張りの高級品に見えてくるから不思議だ。多分、ネギ丼を食べさせたらネギ丼が高級料理に見えるに違いない。
「ゴリョーさん、エビスさんに黙って来ちゃったんですか? もしかしてケンカしたとか……?」
「あの豚の名前は聞きたくないねぃ」
ロージーの言葉にとたんに不機嫌な顔になった五嶺が、ぷいとそっぽを向いた。
あまりの判りやすさに、ロージーが苦笑する。
「……今頃エビスさんが半泣きでゴリョーさんの事探してますよ」
「知らないねぃ」
「全く、迷惑なやっちゃナ」
頑なな態度をとる五嶺に、ムヒョが文句をつけるが、どこ吹く風とばかりに聞き流している。
ロージーがこの二人はうまくやっていけるのか心配しながら外出すると、緩衝材のなくなったムヒョと五嶺の間にしばし沈黙が下りた。
「おい、ゴリョー」
「何だぃ?」
ムヒョになんだかけんか腰で返事をするが、その態度をムヒョはふんと笑って蹴散らした。しょせん毛を逆立てた猫の虚勢、撫でてやれば喉を鳴らすとムヒョは知っている。
「前会ってから、ずいぶんと来るのが遅かったじゃネェか」
「……六氷のがアタシのところに来たらいいじゃないか。アタシが忙しいのは知ってるだろぅ?」
「やなこった」
広げた扇で口元を隠しながら、五嶺が言うと、ムヒョが即答する。
思わず五嶺がむっとした表情を浮かべると、ムヒョが次の言葉をすかさず口にする。
「俺は、焦れたお前を見るのが好きだからナ」
「ったく、六氷の、お前さんほんとに良い性格してるねぃ。呆れたよ」
ぱたぱたと自分を扇ぎながら五嶺が言うと、ムヒョがヒッヒと笑った。
「ゴリョーに言われるとおしまいだナ」
「ああ本当に腹が立つねぃ。事務所を返してやらなきゃよかった。ずーっと居座ってやればよかったんだ」
本当に腹を立てたらしく、少し怒った表情で五嶺が言い、チェスの駒を進める。
「居座ってんだロ」
「つまらん言いがかりはやめろぃ。いつアタシが居座ったってんだ。事務所なら返してやっただろぃ。人聞きの悪い」
腕を組んで次の手を考えるムヒョの言葉にますますむっとした表情をすると、ムヒョがちらっと五嶺を見上げた。
「オメェ、俺の中に居座ってんじゃネェか。ずうずうしく」
そう言って再び顔を伏せ、何事も無かったかのように盤上を無表情で見つめる。
「え……」
さらりと言われた言葉に五嶺が戸惑い、何事も無かったかのような表情で駒を移動させるムヒョを見ながら、反芻するように五嶺が先ほどのムヒョの言葉を呟いた。
「アタシが、六氷の、なか、に?」
六氷の意図を察し、五嶺の顔がぱあっと明るくなる。
「いいきみだねぃ。一生出て行ってやんないよぅ」
嬉しそうにくすくす笑い、扇で顔を隠しながら、色っぽい目線をムヒョに送る。
余裕の表情を浮かべていた五嶺の動きが止まる。
「減らず口叩いてんじゃねェ。いつまで俺を待たす気だ、ゴリョー?」
「……六氷の」
気がつけば、ムヒョはテーブルの上に立ち、大きな黒い瞳で五嶺を見下ろしている。その瞳に逆らえずにいると、ムヒョは五嶺の前に降り、無言で着物の紐を解く。
「着せられねぇくせに脱がすんだからねぃ」
「着られネェなら裸のままずっとそこにいろ。俺は全く困らんからナ」
着物の知識など全く無いムヒョの脱がす手はめちゃくちゃで、五嶺が呟くと、ムヒョは五嶺の皮肉を意にも介さずそう言った。
「六氷の、お前さんがアタシの初めての男だって、抱く前から……。いや、最初から判ってたのかぃ?」
「まあな」
ムヒョは、五嶺の着物を襦袢ごと肩から下げ、上半身を露にさせている。腰の辺りをごそごそ探っているのは、袴をどう脱がすのか判らないのだろう。
これ……と五嶺の手がムヒョの手を袴の紐に導くと、遠慮なしにムヒョの手がその紐を解く。その傍若無人さは蝶よ花よと大事にされてきた五嶺にとって不愉快なものであるはずだが、相手がムヒョだと快感となってしまい、素直に従ってしまう。
「最初ッから俺のものにしてやろうと思ったから、傷ひとつつけなかった。他の奴なら死んでるゾ」
「馬鹿をお言いでないよ。アタシのライドウをこてんぱんにしたくせに」
五嶺が言い返すと、そういえば……とムヒョが思い返す。そんな事もあったな。
「そいつあ忘れてたな、ヒッヒ」
「お前さん、やけに大人しく事務所を渡したかと思ったら、腹のそこでアタシを組み敷いてやるって、そんな事思ってたのかぃ?」
「どんなにむかつくヤツでも、いずれ泣かせてやると思えば可愛いもんだロ?」
「何て奴だぃ」
呆れたように言うと、どさっとソファーに押し倒された。
すでに上半身は空気に晒され、袴も引き摺り下ろされている。もちろん、着物が皺になるからきちんと畳んでおくという気遣いは無い。テーブルの上に投げ出されている。
「ゴリョー、照れてるのは判ったから、もう黙れ。往生際の悪いやっちゃナ」
「…………」
図星をつかれ、五嶺が黙ってそっぽを向いた。裸なのに、扇子だけ後生大事に手にしている。
「違う声聞かせろ」
「六氷、の……」
やがて、五嶺の手から力なく落ちた扇子が床に転がる。扇子が再び五嶺の手に拾われるには、いま少し時間がかかった。
外出していたロージーが帰ってきたのは、すでに夜もだいぶ深けた頃だった。
五嶺とエビスのケンカが長期戦になる事を覚悟していたが、五嶺はすでにおらず、ロージーは五嶺にネギ丼を食べさせることにならなかったのをほっとすると共に微妙に残念に思いながら事務所を見回した。
ソファーの上では、相変わらずムヒョがつまらなさそうにジャビンを読んでいる。
いつもの事務所なのに、いつもと違う。
違和感を感じて首をかしげたが、その原因に思い当たり、ムヒョに話しかける。
「ムヒョ、なんか良い匂いするよ……?」
普段、サバミソだのネギ丼だの、庶民的な匂い漂う事務所内に、優雅で幽玄な、場違いに高貴な香りが立ち込めている。
「すっごい良い匂い。高そうな。あっ、これ、ゴリョーさんの匂いだ」
くんくんと鼻を動かして首をかしげていたロージーが、はっとした表情で言った。
香りの持ち主の事を思い出していたロージーが、香りの出元を探っているうちに、素っ頓狂な声を上げた。
「えームヒョからなんでゴリョーさんの匂いがするの?」
くんくんとムヒョの周りをかぎまわると、いっそう香りが強い。たしかにこの香りはムヒョから漂っている。間違いない。
「……おめェ、遠慮したんじゃネェのか?」
ムヒョはロージーの疑問に答えずに、ジャビンから目線を外して呆れたように問いかけた。
「え? 何の話?」
やっぱり、このアホにそんな気の効いた事できるわけネェと思ってたんだ。
ロージーの返事にそう思いながら、再びジャビンに目を落とす。
「ゴリョーに聞け」
「なんなのさぁ! 僕だけ仲間はずれにしてぇ」
ロージーがぷうっと頬を膨らませて抗議したが、ムヒョはロージーなどいないかのように無視を続けている。
諦めたロージーがぷりぷりしながら台所に消える後姿を確かめると、ムヒョはそっと自分の匂いを確かめた。
甘く深い香と五嶺の肌の匂いが混ざった、えもいわれぬ蠱惑的な香り。
油断すると、誘うような目線や、赤い舌、汗ばんだ白い肌と甘い声がムヒョにまとわり付く。
「ゴリョーめ……。本当に居座りやがったナ」
小さく呟いて、ムヒョは軽いため息を一つついた。
終
初出 200708発行「蓮華を我が胸中に開かん」 20080718UP
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