孤峰頂上之人
「一人在孤峰頂上」
たっぷりと筆に墨を含ませ、真白い半紙にゆっくりと丁寧に文字を書く。
かたりと筆を置き、今しがた仕上げた書をまじまじと見る。
子供とは思えない達筆の見事な書だったが、本人は気に入らなかったらしく、すぐにそれは丸めて捨てられる。
「陀羅尼丸」
目の前に集中しているその子供に、か弱い声がかけられた。
消え入りそうな、細い声。
この世のものではない、かぼそい声。
「アタシに話しかけるな」
ゆっくりした動きの筆先から視線を動かさず、陀羅尼丸と呼ばれた子供は、冷たく言い放った。
こいつらに関わるとろくな事が無い。
菓子をくれとねだられたので何の気なしに落雁を一つやったら、うっかり見られてしまった。
霊はこの世にいてはならぬもの。除霊を生業とする五嶺の頭首が霊に情けをかけるなどとんでもない。先日もそう言われてこっぴどく叱られたばかりだ。あやうく土蔵に閉じ込められかけた。
「陀羅尼丸」
哀れっぽい声が、震えながら名を呼ぶ。無視を続ける陀羅尼丸の耳に、とうとうすすり泣きが聞こえた。
哀れっぽい、気が滅入る陰鬱なすすり泣き。いいかげんにしろ。と内心で陀羅尼丸が毒づく。
「陀羅尼丸」
「……増えた」
一人のすすり泣きに加え、もう一人の声で名前を呼ばれた時、陀羅尼丸は根負けしたように筆を置いた。
陰鬱なすすり泣きがやっとやむ。
「陀羅尼丸、死体を見に行こうよぅ……」
今にも消え入りそうな薄いもやが、かぼそい声でそう言った。
「死肉食いたいよぅ……。食えば大きくなれるよぅ」
陀羅尼丸に話しかける、紐のようなものを垂らしている薄いもや。
「見えるもの」が目を凝らせば、それが胎児の形をしており、長く垂れたものがへその緒だというのが判るはずだ。
「おおかた猫か犬の死体だろ? 勝手に食えばいいじゃないか」
「違うよぅ」
「人間だよぅ」
馬鹿にしたように陀羅尼丸が言うと、水子たちはムキになったように言い張った。
水子たちがあまりにも力なく哀れなのを見て、煉を抜いた人間を捨てた場所をとある霊が教えてくれたのだという。
疎まれ、罵られ、馬鹿にされ。
憎まれ、殴られ、ついには煉を抜かれて死んだ。
その人間の不幸な生い立ちを、水子たちは時折くすくす笑いながら、陀羅尼丸に楽しそうに話してくれた。
「陀羅尼丸にも分けてあげるよぅ」
「……アタシは死体なんていらないよ」
文机に頬杖つきながら話を聞いていた陀羅尼丸はそう言ったが、水子たちは楽しそうに笑い、陀羅尼丸の周りをふわふわと飛び交った。
死体が転がっている。というドブ川へ向かう車中で、水子たちは終始上機嫌でくすくす笑っている。
「見えない」運転手は、そのかすかな気配だけを感じたのか、不思議そうに首をかしげ、「寒くありませんか? 若様」と気を使って陀羅尼丸に言った。
「くすくすくす。脳味噌と足」
「くすくすくす。はらわたと腕」
「陀羅尼丸には目玉をあげるよぅ」
「ちょっとまて。だからアタシはそんなものいらないって言ってるだろ?」
小声で水子たちに言うが、全く聞いていない。
大体、食人は大罪なのだ。いくらなんでも食人の罪を犯せば、水子たちを黙認していた陀羅尼丸も、水子を地獄に送らざるをえないのだが、水子たちはそんな事は全く頭に無いらしい。
霊を裁く五嶺のしかも頭首の前でそんな事を言うなど、警察所長の前で犯罪の計画を立てるに等しい。
水子たちの頭の弱さに陀羅尼丸は呆れたように肩をすくめた。
「くさい……」
目の前のドブ川を見て、陀羅尼丸が不機嫌そうに呟いた。
運転手には、ちょっと出てくると待たせ、少し歩いてやってきたこの川の酷さは想像以上だった。
ポコンポコンとヘドロからくさいガスが湧き出し、淀んだ水に生き物の気配など一切感じられない。
親もいず、施設を転々として、盗みや強盗をするまで落ちたあげく、煉を抜かれこんな所に捨てられた人間。
水子たちとここに来たのは、その人間が哀れだと思ったからではない。
ただ単に、そういった人間の末路というのはどういったものなのだろうと興味がわいただけだ。
そしてそれは、思ったよりずっと最低で酷い。
水路の奥に、草が茂ってよく見えないが、たしかに人の手足のようなものが見えた。
こんな所で一人死に、死体も霊に食われちまうのか。
思わずゾッとして、ぶるっと体をふるわせる。興味本位でこんな所に来た事を後悔した。
どんな罪を犯したから、そんな死に方しちまうのかねぃ……?
神も仏も無いと陀羅尼丸は思った。同時に、自分とそいつは、何が違うのだろうと考えた。
「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、
夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり」
白骨の御文章の一説を思い出す。自分も、いつあそこに転がっている死体と同じ運命を辿るのか判ったものではない。そんな事をつらつらと考える。
「……まだ生きてるよぅ」
嬉々として死体に向かっていった水子が、陀羅尼丸の元に戻ってきてしょんぼりと言った。
力の弱い水子では、生きている人間を食う事は出来ない。こんな弱った人間さえ殺す事も出来ない。
「なんだって!?」
水子の言葉に、陀羅尼丸が思わず声のトーンを上げた。
「でも、もうすぐ死ぬよぅ」
濃く漂う死臭が、死が近い事を知らせてくれるのだという。
「もうすぐ? どれくらいなんだぃ?」
「線香半分、燃え尽きる時間くらいだよぅ」
急いで聞くと、水子はそう答えた。
「早く死ねばいいのに」
「死ねば食えるよぅ」
「食べて、おっきくなれば、鬼にも負けないよぅ。いくら石を積んでもいつも鬼に崩されるんだよぅ」
「鬼にも負けないよぅ」
これで生きてるとは、たいした奴だ。
水子たちのおしゃべりを聞き流しながら、陀羅尼丸は川へ続く小さな階段を降り、躊躇無くどぶ川へと足を踏み入れる。
半ば無意識だった。
どんな奴なのか見てみたい。
ドブ川に体を半分沈めた、惨めな姿。まだ若い。
落ち窪んだ目に、青い鼻、髪には枯葉やゴミが絡まっている。長い間水に浸かった肌は青黒く、みすぼらしい服装は、この男のこれまでのすさんだ生活を想像させる。
筋肉が弛緩しきっているのか、口元がだらしなく緩み、目は白目を剥いて全く生気を感じさせない。
これで生きているというほうが不思議だった。
お前は、捨てられたんだねぃ。
陀羅尼丸が、心の中でその少年に向かって呟いた。
親にも、世間にも。神にも、仏にも。
なら、アタシが拾ってやるよ。
お前もアタシも、見苦しいほど一人ぼっち。一緒だねぃ。
「お前ら、これはアタシに譲れ」
水子に言いながらしゃがんで少年の首筋に手を当てると、ほとんど脈を打っていない。だか、本当にかすかな煉の流れを感じた。確かに生きている。煉さえ流れていれば、何とかなる。
「嫌だよぅ」
「嫌だよぅ」
陀羅尼丸の言葉に、水子たちが抗議の声をあげて騒ぎだす。
「うるさいねぃ。地獄に行きたいか? クズ霊ども」
ドスの効いた陀羅尼丸の言葉に、水子たちが体を震わせて哀れっぽく泣き出した。
「酷いよぅ。陀羅尼丸、酷いよぅ」
哀れな声の二重奏に、まいったと陀羅尼丸が首を振る。
「判った判った、後でお菓子をやるからそれでかんべんしておくれ」
「歌も歌っておくれよぅ……」
「舞いも舞っておくれよう……」
「判った。歌ってやるし舞ってやるよ。だからこいつはアタシに譲るんだ、いいね?」
水子の要求を、なかば投げやりに承諾してやると、水子たちは嬉しそうに、裂け目にしか見えない口の端を上げて微笑んだ。
「陀羅尼丸、大好きだよぅ……」
「……別に好いてくれなくてもいいんだけどねぃ」
肩をすくめ、陀羅尼丸は懐から神通針を取り出した。
神通針を通じて、陀羅尼丸の煉が相手に流れ込む。
アタシの周りにはなんでもある。
陀羅尼丸が心の中で呟く。
だけど、それはアタシが自分で掴んだものじゃない。全て与えられたものだ。
いくら回りに人が居ても独り。
お前は、アタシが自分の手で得た初めてのもの。
誰の手も借りずアタシがこの手で助けてやるよ。
アタシの手をヘドロで汚し、アタシの煉を与え、アタシの肩を貸してやる。
だからお前は、アタシのものになってくれるよねぃ?
ずっしりと重い体を支えて、ドブ川を歩く。臭い泥が跳ね、顔を汚す。
この重みと体温はアタシのものなんだ。誰のものでもない、アタシのものだ。そう何度も心の中で呟く。
やっと見つけた。
「どうせ死ぬのならその命、アタシの為に使うといい」
終
20080314 UP
初出 20060812発行 世に五嶺の花が咲くなり
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