朝も夜も君があれなと日々思ふ







「イサビ殿はさぞお怒りだろうねぃ」

 見つからないように、ほんの少し。襖をかすかに開けている。そこから、別の部屋で地方の演奏するしっとりとした楽曲が漏れ聞こえてくるのを聞きながら、一人呟いた。

 夜も深け、使用人はすでに大半のものが休んでいる。広大な五嶺邸内の布団部屋は、人の気配も無く、密かに息を殺すには絶好の場所だ。

 五嶺家の当主ともあろうものが、使用人でさえ使わない布団部屋に隠れている理由は、手元にある手紙にあった。

 奔放で力強く、優雅な草書体で、「今夜そちらへ行く」という用向きの書かれたその手紙が、今、五嶺を悩ませているのだ。


 気性の激しいお方だ、居留守を使っていることがばれれば、この屋敷中を壊してアタシを探しかねない。


 そう思ってため息をついた。

 エビスが上手く機嫌を取ってくれれば良いが。と、手紙の送り主の事を思い、ふたたび何度目かのため息をつく。


 逢いたいと言われ、逢いたいのは山々。

 だけど……と頭を抱える。

 今夜行くと気まぐれに文をよこし、逢えば好きなだけ五嶺の体をむさぼり、満足すれば帰る。

 その、満足するまでが半端ではない。


 あの絶倫、朝になってもアタシを離しやしないのだから。

 いや、あの男は、朝になったって、昼になったって、アタシを離さない。

 

 イサビの手が自分の肌を愛撫する感触を思い出してしまい、五嶺がぞくりと身を震わせた。


 夜の闇の中で、好きなだけ五嶺の体に悪戯を仕掛けたくせに、朝の光の中でイサビの上に跨らせ、さんざん鳴かせる。

 昨夜の淫行の余韻の残る疲れた表情と、乱れ髪を見られたくなくて五嶺は嫌がるのだが、早うに終わらせたくば、動け。とイサビは笑いながら言うのだ。

 ほれ早うせんと、エビスが来るぞ、陀羅尼丸? このような姿、見られても良いのか?

 そう言われ、悔しさと恥かしさに震えながら、腰を動かし、イサビの精を搾り取ろうとするのだが、いつだって先に絶頂に達してしまうのは自分のほう。

 体の奥に熱い迸りを感じ、それでまたイってしまうのを、この男は酒を喰らいながら見て笑う。

 荒い息をつく五嶺に、杯の酒を口移しで飲ませ、飲み込めずにこぼれた酒を舌で舐め取る。

 片時も離したくないと言い、達した後も五嶺の体から抜かずに、抜かずの三発どころか数えるのも馬鹿らしくなるくらい精を体に注ぎ込む。

 腹が減れば食事すら閨に運ばせ、着物を改める事も許さない。 

 何度も、何度も、熱いもので貫かれ、体をまさぐられ、耳元で、イけ。と囁かれるだけで達してしまう。

 焼ける様な激情を体にも魂にも注ぎ込まれ、イサビでいっぱいにされる。

 これでは体が持たぬと一昼夜過ぎた後にたまらず許しを請うと、「情け無いのう」とイサビは平気な顔で、酒などあおる始末だ。


 一度気が済めば、狂ったように求めたのが嘘のように、五嶺の膝枕で大人しくうたたねなどし、二人で仲むつまじく書を読んだり漢詩を作ったりして、三日ほど過ぎれば再び山へ帰る。

 愛され、求められるのは嬉しいが、今の自分にはイサビを受け入れるだけの心と体の余裕が無い。

 日ごろの激務に加え、このところ体調が芳しくない。微熱が続き、だるく、体の節々が痛む。何より辛いのが、眠れない事だ。今日だって点滴を打って執行をしたくらいだ。

 疲れや痛みは、心も蝕む。

 重圧や、先の見えぬ不安に、弱音を吐きそうになる。


 こんな、なさけないアタシを見られたくない。

 イサビ殿とは、対等でいたい。

 弱い人間の癖にと言われても、心だけは対等でいたいという五嶺の意地が有る。


 そう思っていたのに、疲れた心が、イサビにすがってしまいそうになる。

 強大な力を持つイサビに、アタシを助けて欲しいと口走ってしまいそうになる。

 イサビの力を借りるのが悪いのではない。目の前の困難から逃げ、楽な方へ行こうとする自分の心の弱さが許せない。

 必要ならは、イサビの力を求める事もしよう。だが、今の自分の気持ちは逃げだと判っているから嫌なのだ。

 

 ここで逃げれば、アタシは駄目になる。これは自分の力で乗り越えなければいけないこと。


 それにイサビ殿は、弱いものがお嫌いだ。

 親しさに付け込み、過度に馴れ馴れしく甘えれば、嫌われるに決まっている。そのために近づいたと思われるのも嫌だ。


 だから逢えない。


 こんなに近くにいるのに。


 逢いたい……。


 人ならぬイサビの目。

 その指先。舌、唇。

 思い出すと、体が疼く。


「ん……」

 小さく声を漏らした。

 体の奥がじんと熱くなる。

 

 思わず、自分の手を、衣の下へ潜らせる。


「あ……」


 甘い快感に、切ない吐息を漏らす。

 抱いて欲しい。体も心もイサビで満たして欲しい。


「イサビ殿……」


 いや、抱いてくれずとも良い。一目だけでも良い、ただ逢いたい。

 声が聞きたい。

 名前を呼んで欲しい。

 

 そうすれば、少しは元気が出ると思うんだけどねぃ。

 手の動きを止め、ぼんやりと疲れた体と心でそう思う。

 再び、先ほどから何度も読み返した文へ視線を落とす。


 待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む


 早くお前の微笑む姿が見たい。

 用件のみ素っ気無く書かれた文の最後に書かれた歌が嬉しく、何度もその歌を呟き、口の中で転がす。同時に、居留守を使っているという罪悪感も煽る。申し訳なさに胸が痛んだ。


 こんなに近くにいるのにねぃ……。


 歌を口ずさみ、閉じていた目をあけると、かすかに開けた襖の隙間に立っている影を見て、五嶺がぎょっと目を見開いた。


 見つかった!


 いつもイサビの近くにいる木霊が、五嶺を見上げていたのだ。

 さっと駆け出そうとした木霊を、それ以上の速さで素早く掴み、襖を閉じる。

 キーキーと木霊は抗議するかのように叫び、じたばたと暴れる。最初は、掴んでいるのを嫌がっているのかと思ったが、五嶺を指差してぴょんぴょん飛び上がり、地団太踏んでいるのを見て、ようやく、居留守を使っている五嶺を責めているのだと気がついた。

「違うよ、お前の王さまが嫌いになったのじゃない。逆だよぅ」

 そう言うと、じゃあどういうことだ? と言わんばかりに、五嶺を指差し、キーキーと声を上げる。

「こんな弱いアタシを見せては嫌われちまうだろぃ?」

 疲れきり、弱々しい表情でそう言った五嶺の様子に気がついたのか、木霊は声を上げるのをやめ、五嶺の体によじ登り、その顔をじっと見つめる。

「少し、体調が優れなくてねぃ。こんなんでイサビ殿のお相手してはアタシの体が持たないんだよ。明日は大事な執行があるんだ」

 なだめるように頭を撫でながら言うと、木霊は心配そうに首をかしげた。

「側にいたら、アタシも欲しくなっちまう。意志薄弱な自分が恨めしいよ」

 ふうと大きなため息をつき、干されて太陽のにおいがする布団にもたれかかる。

 体がずんと重い。

「アタシは欲張りでねぃ、イサビ殿も欲しいし、五嶺の頭首としての勤めもきちんと果たしたい。だから、こうするしかないんだよ。ごめんねぃ」

 返事なのか、ごにょごにょと木霊は五嶺の耳元で何かを一生懸命伝えようとするが、五嶺には判らない。

「だが、イサビ殿は失っちまうかもしれないねぃ」

 悲しげな顔で微笑むと、木霊も俯いた。

「アタシがもっと強ければねぃ……」

 思わず自分を責めて独り言を呟き、はっとした表情の後、木霊に微笑みかける。

「おっと、弱音吐いちまった。今の言葉は内緒だよぅ」

 おどけて言うと、木霊は迷った様子だったが、こくんと頷いた。

 ごにょごにょ呟きながら、五嶺の顔を心配そうに撫でる。

「ふふ、心配してくれるのかい、優しいねぃ」

 そっと手のひらを差し出すと、木霊は素直に手のひらの上に移る。

「大丈夫、今だけちょっとへこんでるだけだよぅ」

 手のひらに載せた木霊と向かい合い、安心させるようににっこりと微笑んだ。

 その綺麗な笑みに木霊がぼーっと見とれる。

「少しだけ、疲れてるからねぃ」

 小さく呟き、目を閉じた。

「居留守使っといてなんだけど、声だけでも、聞きたいねぃ」

 目を閉じながらそう言って、片目だけ開け、木霊に問いかける。

「せめて、後姿でも一目、見られればいいんだけど、無理だろねぃ」

 木霊が言いにくそうにもじもじしているので、更に問いを続けた。

「怒ってたかぃ?」

 こくんと頷いた木霊がうなだれた。多分、相当怒っているのだろう。

「やっぱりねぃ」

 ふうとため息をつく。

「アタシはもう、嫌われたかもしれないから、内緒で口付けを届けておくれ」

 そう言って、五嶺は木霊の口にちゅっと軽く口付けた。急な口付けに、わたわたと木霊が慌て、恥かしいのか真っ赤になって、きっと伝えます。と言わんばかりにこくこくと頷く。

 その姿を見て、おかしそうに笑っていた五嶺が急に顔を伏せた。

「逢いたいねぃ……」

 感極まったかのように思わず呟き、手で目元を覆う。

 しばらくそのまま動かなかったが、理性でなんとか感情を抑えきる事に成功したのか、手の下から再び現れた五嶺の顔は、何時もと同じだった。

「お前は、いい匂いがするねぃ。イサビ殿のいる山の匂いだ」

 木霊にそう言い、きちんと畳まれ、並んで置かれた布団の上に、行儀悪くごろんと寝転んだ。

「アタシが寝るまででいいから、側にいてくれないかぃ?」

 頷く木霊からは、檜のような、心を落ち着かせるいい匂いがする。

 しばらく不眠に悩まされていたのだが、木霊の匂いに、急に眠気を感じてしまったのだ。

「久しぶりに、よく眠れそうな気がするよ……」

 眠そうな声で、そう言うと、ゆっくりと瞼が閉じた。




 エビスが、緊張した面持ちでイサビと木霊たちを見ている。

 一人、また一人と、五嶺邸内へ散っていた木霊たちが戻り、五嶺はいなかったとイサビに伝えている。

 まずい。これでは、見つかるのも時間の問題だ。

 エビスは脇の下に、じっとりと嫌な汗をかいた。



 「五嶺様は留守にしております」とエビスが言った瞬間に、「嘘じゃな」と返された。思わず口ごもったエビスを一瞥して、イサビは「陀羅尼丸を出せ」と命令する。

「出さねばお前も陀羅尼丸ともども後悔することになるぞ」

 用意された酒席につき、杯に酒を受けながらイサビはそう言った。山の神の怒りを買えば、どんな目にあうのか、想像するだに恐ろしい。屋敷を壊されるくらいならまだいいが、命まで失いかねない。

「お前たちも、陀羅尼丸を探してまいれ。抵抗するなら手荒に扱っても構わぬが、殺すなよ。わしを謀ろうとした罪、償わせてやるわ」

 怒りの篭った声で木霊たちに命じるイサビに、エビスの胃がきりきりと痛む。

 山神の怒りに、あたりの空気までもが揺らぐかのようだ。怒らせてはならぬお方を怒らせた。とエビスを後悔させる。

 イサビにしてみれば、五嶺に裏切られたと、軽んじられたと思っているのだろう。格上の相手を嘘をついて追い返そうとしているのだから、そう思われても仕方が無い。まして、相手はプライドの高いイサビ、愛しい恋人に逢いに久方ぶりに山を降りたのにこの仕打ち、怒らぬはずが無い。

「訳があるなら話す事じゃ。首と胴が繋がっているうちにな。真に留守なら、夜が明けぬ間に呼び寄せろ」

 平伏しているエビスにそう言い、ふんと鼻で笑った。

「ここに居るのは判っておるがな」

 エビスの額から、汗が一筋流れる。それでも、無表情を貫き通しているのはさすがだった。

「長く逢わぬ間に何があった? 陀羅尼丸は何をおいてもわしを待っていると思うたに」

 いらいらとしているイサビが、エビスが側にいるのを忘れて思わず呟いた。

 その言葉に、エビスが内心でおや? と思う。

「わしに会いたくないというのか?」

 独り言を呟き、ぐいと酒盃を空ける、イサビの余裕の無い表情。

「誰ぞ、他の男と……。まさかあのひげのじじいか」

 呻くように低い声を漏らすと、一瞬恐ろしい目をして、杯を叩きつけるように置く。

 これでは、まるで……。

 五嶺様の事を疑って、嫉妬しているみたいじゃないか?

 「イサビ殿は気まぐれなお方。少しでもアタシが機嫌を損ねれば、アタシなどすぐに捨てられるだろうよ」と五嶺様は仰っていたが……。

 もしかしたら、五嶺様は、五嶺様が思っている以上にイサビ殿に想われているのではないか……とエビスが内心でそう思う。

「エビス、ぬしゃなにか……。いや、いい」

 想像するのも腹立たしい。といったようにぎらぎらした目をしていたが、ふっとほんの一瞬だけ不安な色を浮かべる。

 エビスの疑惑が、確信に変わる。

 プライドの高い山の神たるイサビが、どうでもいい人間のためにここまで心乱される訳が無い。

 イサビ殿にそうさせるほど、五嶺様は愛されているのだ。

 生存の確率が上がった事に安堵を覚えるが、まだ絶対危機的状況にあることは間違いない。

 イサビはそのまましばらく黙り込み、側に控えていた舞方と、楽曲を奏でていた地方に手を振る。

「聞きとうない。不愉快じゃ、下がれ」

「ご酒のお代わりは……」

 恐る恐る申し出たエビスに、徳利が投げつけられる。

「足りぬわ、樽で持ってこさせろ!」

 慌てて平伏し、すぐに持ってこさせた一斗樽をイサビは両手で抱え、樽に口をつけてごくりごくりと飲み干す。

 瞬く間に空になっていく一斗樽にエビスが恐怖を覚える。

 まともじゃねぇ!!

 目をむくエビスに、イサビは据わった目をして、空になった樽を放り投げ、酒に濡れた口元をぐいと手で拭う。イサビはすぐに次の樽に手をかけ、エビスはますます恐怖した。

「陀羅尼丸は、まだか?」

 狂気さえ感じるその人ならぬものの目に、エビスが震え上がる。

 五嶺様!

 心の中で叫ぶ。

 絶体絶命の危機に、エビスにまた嫌な汗が流れた。





「一人足りぬな」

 イサビは集まった木霊を見回して言い捨て、エビスを振り返る事も無く部屋を出る。

「おっ、お待ちを」

 エビスが慌てて追いかけるが、聞くはずも無く、迷うことなく邸内の一角へ早足で歩を進める。

 エビスが小走りで必死に追いかけると、布団部屋の前でイサビが足を止めた。

 襖の前に立ちふさがるように一人の木霊が立ち、必死に首を振っている。

「退け、そこにおるのじゃろ?」

 イサビの言葉に、周りの木霊たちも、怒ったようにキーキーと声を上げた。

 襖の前の木霊が、それでも退かずに何かを言っている。

「いないじゃと? 見え透いた嘘をつきおって。なぜわしに逆らうか?」

 聞く耳持たぬイサビの衣の裾を必死に掴み、一生懸命何かを言っていた木霊が、急いで体をよじ登り、耳元でごにょごにょと囁く。

「言い訳などいらぬ。陀羅尼丸の口から直接聞く」

 一体何の話をしているのか……。

 内心はらはらしながらエビスが二人を見守る。

「わしに嘘をつくようなやつには、たっぷり仕置きせねばな」

 ついにそう言って、襖に手をかけたイサビの唇に、いきなり木霊がぶちゅっと自分の唇を合わせた。

「……なんじゃ今のは」

 さすがに今のは効いたらしく、複雑な顔をして唇を押さえたイサビに、先ほどの木霊が耳元で必死にごにょごにょと囁く。

「何?」

 予想外の事に怒りをそがれ、クールダウンしたイサビが、ようやくその木霊の声に耳を傾けた。

 エビスが、緊張した面持ちでイサビの表情を伺う。


「……莫迦め」

 イサビの口から漏れた低い罵倒の言葉に一瞬びくっとするが、その顔が笑っている事に気がつき、エビスが肺に溜まった空気を思いっきり吐き出して安堵する。

 どうやら助かった、らしい。

「陀羅尼丸の奴、そんな事を言うておったのか」

 先ほどの怒りはどこへやら、くっくっくと嬉しそうに笑い、イサビが襖に手をかけた。

 怒りに満ちた表情が、優しく緩む。何を言われたのか判らないが、相当嬉しい事だったのだろう。とエビスは見当をつけた。

 襖を開けると、布団部屋に並んでしまわれた布団の上で、五嶺が気持ち良さそうに寝息を立てているのが目に入った。

 ぐっすり眠り込んでいるせいか、少し体を丸めているせいか、その表情はいつもより幼く見え、可愛らしく感じられる。

「ぬしが寝かせたのか? ふん、ご苦労じゃったな。なに? 怒らぬわ。そんなけなげな事を言われれば怒る気も失せる」

 五嶺の寝顔を覗き込みながら、木霊と会話を交わす。その表情があまりにも優しくてエビスは驚いた。

「でかいなりをしているくせに、子供みたいじゃな」

 ふふっと笑い、五嶺の体を横抱きに軽々と抱き上げる。

 一人の木霊が、ぺちぺちと五嶺の顔を叩くと、イサビがたしなめた。

「これ、やめろ、起こすな。せっかく寝たというに」

 ん……と小さな声を上げて五嶺が少し眉を寄せたので、イサビの動きが一瞬止まった。幸いな事に、そのまま規則的な寝息を立てる五嶺に安堵の表情をし、廊下を五嶺の寝室へ向かって歩き出す。


「エビス!」

 五嶺を抱き、先を行くイサビが、背を向けたまま厳しい声でエビスを呼んだ。

「はっ!」

 急いで返事をし、半歩後ろへ駆け寄ると、じろりとイサビがエビスを睨みつける。

「少し、痩せたぞ」

「も、申し訳ございません」

 慌てて返事をする。誰の事を差しているのかはいわずもがな。

「ぬしじゃからと思うて陀羅尼丸を預けたに、なんじゃこのざまは」

 少しやつれた五嶺の寝顔を見る優しい顔と、エビスを睨みつける顔の差が激しい。

 五嶺の体調不良は、側近たるエビスの怠慢。それを責められて、エビスが恐縮する。

「次逢うたとき、これ以上やつれているようならば、わしの庵に連れ帰り二度と返さんぞ」

「心得ましたっ!」

 恐ろしい宣言に、エビスが震え上がった。五嶺グループの明日は、俺にかかってるぞ。と気を引き締める。

 思ったより、イサビ殿は五嶺様を見てるんだな。と内心でエビスは呟いた。

 五嶺の都合などお構いなく、傍若無人に求めるだけかと思っていたが、そうではない。

 小さな変化に気付いたり、五嶺を気遣う優しい手や仕草に、イサビの五嶺に対する細やかな愛情を感じる。

 イサビの言葉は恐ろしいが、五嶺様は、ちゃんと愛されてる。と思うと素直に嬉しい。

 禁魔法律家の慰み者。と陰口をたたくやつには、めちゃくちゃ愛されてるぞ! と言い返してやろう。 


 エビスは急いで先回りし、寝室に布団を敷いて待っていると、イサビが起こしてしまわぬよう慎重に五嶺を布団の上に寝かせる。

「余計な意地をはりおって……。少しはわしに甘えろ、莫迦者め」

 莫迦という言葉の割には、優しい口調でそう言った。人目を憚らず、眠っている五嶺に愛おしそうに口付けるイサビに、きゃっと周りの木霊たちが目を塞いで赤面した。

 そのまま袴の紐を解くイサビに、木霊が慌てて耳元で囁く。

「心配するな。抱きはせんわ」

 そう返事をしたが、イサビがエビスを含む周りの目が、あまりにも自分を疑っている事に気がついて憮然とする。

「なんじゃその疑いの目は!」

 信用度ゼロのイサビが、「わしを獣みたいに……」と不満そうに呟いたが、「獣でしょ?」と回りの誰もが思っている。





 久しぶりにぐっすりと眠る事が出来た。

 夜中一度目を覚ますと、愛しい人の顔がそばにあるのを見て、安心してまた夢の中へ落ちた。

 きっと、あまりにも逢いたかったので、夢の中で逢ったのだろう。


 うっすらと目を開けると、自分をじっと見るイサビの顔が目に入った。


「なんだ、また夢かぃ」

 昨日の夢の続きだと思って、小さく呟いて、イサビの顔を引き寄せて口付けた。

 夢なんだから、何をしても自由だ。

 そのまま安心して、エビスが起こしに来るまで寝よう。と思った五嶺の耳に、イサビが低い声で囁く。


「おい、わしの理性に喧嘩売ってるのか、ぬしは」


 夢じゃない!

 ばちっと目を開けると、目の前には、目が覚めても消えることの無いイサビの顔。


「イ、イサビ殿!」

 驚いて体を起こしかけると、いきなり唇をふさがれた。

「んっ、んっ!」

 舌を絡ませ、息も出来ぬほど口付けられる。

 ようやく離してくれたと思ったら、今度は両手首をつかんで五嶺の自由を奪い、首筋に舌を這わせている。

「イサビ殿、いけません」

 五嶺が悲鳴をあげると、自由を奪ったまま、イサビが冷たい目で五嶺を見下ろした。

「五嶺など、捨ててしまえ」

 その声に含まれている本気の響きに、五嶺が息を呑む。

「できません」

 だが、イサビを睨み付けるようなきつい目で見て、五嶺ははっきりとそう言った。

 二人の間に、見えぬ火花が散り、一触即発の雰囲気になった時、いきなり大きな声と共に襖がすぱーんと開いた。

「おはようございます五嶺様ぁー!」

 雰囲気をぶち壊すエビスの大声(もちろんわざとだ)に、教育番組と見まごうばかりにわーわー言いながら元気よく駆けて来る木霊達。

「ハイハイ、布団上げますからどいてください」

 エビスはちゃっちゃっと布団を片付け、木霊は遊んで遊んでーと二人にまとわりつく。

 思わず顔を見合わせ、一気に馬鹿らしくなって、二人で噴出す。


「なんじゃ、ぬしら、陀羅尼丸の味方か、裏切りものめ」

 なんのことかしら? と誤魔化す木霊に、まあよい。と呟いて、頭をぼりぼりと掻いた。

「陀羅尼丸を庵に連れて帰ろうと思うたに、とんだ邪魔が入ったわ」

 欠伸をしながらイサビが言う。本気なのか、そうでないのか、掴めぬイサビの態度。

「五嶺の当主を続けたくば、わしに付け入る隙を見せぬことじゃな」

 イサビの言葉に、五嶺が表情を引き締めた。

「一人で思い悩み、体を悪くしたあげくわしに嘘をつくなど愚の骨頂じゃぞ。辛くなればわしに頼れ、いいな?」

 思いがけぬイサビの優しい言葉に、五嶺の顔が少し驚いた表情を浮かべた。

「はい」

 素直に返事をし、にっこりと微笑む五嶺の笑顔に、一瞬イサビが動きを止めた。

 あ、今、可愛いと思ったな。

 こっそりと様子を伺いながらエビスがそう思うと、イサビが五嶺の耳元で何かを囁いた。とたん、五嶺の顔が真っ赤になる。

「お前、余計な事まで全部喋ったねぃ。このおしゃべりめぃ! 泣いてないよ、アタシは!」

「可愛い事を言うではないか、陀羅尼丸」

 真っ赤になった五嶺に責められ、ご、ごめんなさい! といった感じにもじもじする木霊。

「毎日、昼も夜もずっと愛して欲しいんじゃろ?」

 からかうようにイサビが言うと、五嶺が顔を赤くしたままぶんぶんと首を振った。

「そ、そんな事は言うておりませぬ!」

 言っては無いけれど、心の中では思っていた。

 それを見透かされたようで、ますますうろたえる。

「そいつが言ったぞ? わしに嘘をついた侘びに、お前がわしの事を存分に楽しませてくれるとも言うとったぞ」

「お前っ、イサビ殿にそんな事言ったのかぃ?」

 言って無いよぅ!! と手と首をぶんぶんふって否定するが、イサビを止めようとした木霊がついた嘘なのか、イサビが五嶺をからかったのか、どちらにしろ頭を抱えたくなった。


「楽しみじゃ」

「お待ち下さい、イサビ殿!!」

 笑いながら部屋を出て行くこうとするイサビの背に、慌てて五嶺が声をかけると、くるっとイサビが振り返った。

「エビス、今回は長く世話になるぞ」

「はっ!」

「陀羅尼丸」

「はい」

 イサビは五嶺を引き寄せ、耳元で短く何かをささやき、部屋を出て行く。

「イサビ殿はなんと?」

 エビスが五嶺を見上げると、イサビの背を目で追いながら、五嶺が呟く。


「朝も夜も君があれなと日々思ふ」


「へ?」

 訳がわからず、エビスが顔をしかめると、少し頬を赤くして五嶺が口を開く。


「アタシがいれば、それでいいってさ」






                                                               終

20090801 UP
初出 20060812発行 世に五嶺の花が咲くなり

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