君なくば








 地獄を守りし十八枚の陣、空に輝く時、地獄の門が開く。

 そは終われ無き死闘の始まり。

 響く音は、古い世界の終わりと新たなる始まりを告げる警告と合図。

 新しい世界の産声。


 全執行人よ、戒心し来たるべき戦いに備えよ。






 旅装束で前を行く五嶺から、美しいが、どことなく不吉な音色が響く。

「若、何かおかしな音が……」

 エビスが急いで駆け寄ろうとすると、ゆっくりと魔法律書を袂から取り出した五嶺が、空を指差した。

 音の出所が、五嶺の魔法律書だという事に気がつき、エビスが目を見開く。

 書から、音が!

 突然の出来事にエビスは驚いたが、五嶺は慌てる様子も無い。

「エビス、見てごらん」

 思わずつられてエビスが顔を空を見上げ、五嶺の指先の指し示すものに気がついたとき、再び驚きで目を見開いた。

 青い空に、キラキラと輝く鱗のようなものが、光を反射しながらあちこちへ飛んでゆく。その中の一つが、猛スピードでこちらへ向かってくるのだ。

 なんだ。と身構えるエビスと対照的に、五嶺は、つと笠に手をかけ、空を見上げて微笑んだ。

 空から降ってきた輝く印が迷いなく五嶺の手にある魔法律書に飛び込む。その瞬間、焼け焦げるような音と共に白い煙が上がり、五嶺の和綴じの魔法律書に、新ルールを告げる新しい印が記される。 

「これは、なんです?」

 キラキラと輝きながら飛んでゆく印と五嶺の魔法律書を交互に見て、エビスが驚いた声で言うと、隣の五嶺が落ち着いた声で口を開いた。

「トロイのベル」

 エビスに答えながら空を見上げる五嶺の表情は、どことなく嬉しそうな笑みを浮かべ、この状況を楽しんでいるようにも見える。

「肉体を使者に捧げる事を許可する合図だ。これでアタシは、もっと強い力を得られる。選択肢が増えた事は歓迎するよ」

 肉体を、捧げる?

 五嶺の言葉に、腹の奥から嫌な予感がした。思わず、心配げに眉を寄せてエビスが五嶺の横顔を見上げる。

「綺麗だねぃ」

 エビスの心配をよそに、五嶺は空を見上げながらのんきにそんな事を言い、ますますエビスは眉を寄せた。

 空を見上げ、不敵に微笑む五嶺の顔を見て、エビスが不安にかられる。

 選択肢が広がった。ということは、若は、肉体を捧げる事を選択肢の中に入れてるということだ。

 しかも、積極的にそれを受け入れている。

「でも、不吉です」

 得られる力に比例して、求められる代償も大きくなる。

 若は、その支払いを恐れぬ方だ。

 「男となるに必要ならば、なんでもやろう」マクベスの台詞のように恐れず危険に突き進む。

 新ルール云々よりも、その五嶺の気質を思うとエビスの胃が重くなる。必要ならば、ためらいなく自分の体を使者に捧げる五嶺を想像すると、目の前が真っ暗になりそうだった。

 絶対に、そんな事はさせてはならない。

「嫌な、予感がします」

 五嶺様の身に降りかかる危険は、どんな些細なものでも取り除きたい。

 そう思って口を開いたエビスの言葉にも、五嶺がふっと笑う。

「悪い予感がすると、わくわくするねぃ」

 エビスの予想通り、力の行使を恐れぬ五嶺は、笑みさえ浮かべながらそう言った。

「また若、そんな事を……」

「いつか滅びる身なら、やれるだけやってみたいじゃないか」

 エビスの言葉にかぶせるように言われ、エビスは抗議するように黙り込んで俯いた。

 若はいつもそうだ。

 俺の気も知らないで、笑いながら危険に突っ込む。

 そのたびに、どんなに俺がはらはらする事か。

「不満かぃ? エビスの」

 五嶺の問いに、ぶすっとした顔で答える。

「不満です」

 本当は、不満どころではない。殴ってでも止めたい。

「でも、ついてくるんだろぅ? アタシに」

 五嶺の声がからかうように言うと、言い返そうとしてエビスは顔を上げた。

 五嶺の表情を見て、言いかけた言葉が止まる。


 エビスとなら、大丈夫。

 エビスとなら、何でもできる。

 アタシは、そう確信しているから無茶するんだ。

 五嶺の顔がそう言っている。


 そんな顔をされては、何も言い返せない。


「若が無茶しないようにです」

 当初言いかけた不満を飲み込み、かろうじてそう言った。

「そんな事言いながら」

 エビスのぶすっとした声とは逆に、五嶺が甘えた声で囁く。

「アタシの自由にさせてくれるくせに」

 色っぽい流し目で見られ、エビスが盛大にため息をつく。

 なんて性質の悪いお人だろう。

 内心でエビスが呟く。

 五嶺は、エビスが胸も張り裂けんばかりに心配している事なんか百も承知なのだ。それでも、そんな事を言う。

 五嶺様には、適わない。

「……若は、よけいな事を考えずにお好きにされればいい」

 諦めたように、エビスは口を開いた。

「面倒な事は、俺が何とかしますから」

 五嶺様のお好きなようにすれば良い。

 五嶺様をお守りするために、俺が強くなれば良い事だ。問題ない。それで万事解決する。

 エビスは自分にそう言い聞かせ、不満を言うもう一人の自分を押さえつけた。

「それでこそアタシの側近!」

 エビスの返事に、五嶺が上機嫌で笑いながらばっと扇を広げる。

「でも、全部許すって訳じゃないですよ。駄目なものは駄目ですよ。止めますからね。肉体を捧げるとか、魂を捧げるとか。絶対許しませんからね」

 そう釘を刺すと、アラそうかぃ? とでも言いたげに不満そうに唇を尖らせた五嶺の表情が、次のエビスの言葉で固まる。

「俺の命に代えても」

 エビスにとってはあまりにも当然の事で、何気なく言った一言だったが、その言葉を聴いた五嶺の表情が変わる。

「……アタシは駄目でも、お前は良いのかぃ?」

 エビスに見られぬように背を向け、歩き出した五嶺の後をついて行きながら、エビスが返事をする。

「俺はいいんです。命に代えても五嶺様をお守りする。それが俺の役割だから。でも五嶺様は駄目です」

「…………」

「五嶺様には夢がおありになるじゃないですか。五嶺様の夢は、俺達の夢でもあるんです。みんな五嶺様の夢をかなえるために頑張ってる。だから五嶺様には、なんとしてでも生きて、それを果たしていただかねば」

 聞いているのか、いないのか、無言で先を行く五嶺の背を見ながら、エビスが言葉を続けた。

「俺達は五嶺様に生かされるんだって事、忘れないでくださいね。五嶺様がいなくなれば、みんな困るんですよ。自覚してください」

「お前がいなくなったら困る奴はいないってのかぃ」

 後ろのエビスに聞こえぬよう、五嶺が口の中だけで呟いた。 

 エビスの言葉の後、しばし黙っていた五嶺が唐突に口を開いた。

「……左近がねぃ」

 左近?

 突然出てきた名前に、エビスが首をかしげる。

 そういえば、俺が首になった時、アイツが五嶺様の側近だったんだよな。と思い出す。

 あれからあまりにもいろいろな事があったので、自分のいない間に何がおきたのか、まだエビスは把握しきれて無い部分がある。

「お前のいない間、アタシがあいつが止めるのを無視して無茶ばっかりするものだから、ついにキれちまってねぃ」

 「エビスさん帰ってきてください」という大量の泣きの手紙にも書かれていなかった、初めて聞く話だ。

 アイツ、キレちまったのか。

 その時の左近の心労を思って、しっかりしろと思う前にエビスは同情した。その気持ちはさんざんエビスも味わってきたので、どんなに辛くて大変かよくわかる。

「奴め、何て言ったと思う?」

 五嶺がエビスを振り返り、エビスがその顔を見上げる。

 五嶺様相手にキレるなんて、自殺行為もいいところだ。と思うのだが、五嶺の顔に浮かんでいたのは、怒りではなく呆れだった。

「『帰ってきたら、エビスさんに叱ってもらいますからね!』だってさ。お前はアタシのお母さんで、エビスはアタシのお父さんかってんだよ」

 左近!!

 何言ってんだおめーはっ!

 憮然とした顔で言う五嶺を見て、思わず笑いそうになった。

 なら、五嶺様は反抗期の息子って所か?

 左近の言葉を聞いた時の五嶺の顔を想像すると可笑しかったが、上手く五嶺を脱力させたからよかったものの、一歩間違えば死に繋がる危険な綱渡りだ。

 大体、追い出したのはそっちなのに、帰ってくる。と言うあたりといい、突っ込みどころ満載だ。

「で、何したんですか、若」

「え?」

 エビスが言うと、五嶺がぱちくりと瞬きした。

「お前、まだ左近のから聞いてないのかぃ?」

「聞いてません。退院してからばたばたしてましたからね。落ち着いたところでじっくりと叱ってもらおうと思ったんでしょうか?」

「……言わなきゃよかったねぃ」

 墓穴を掘った。と、後悔して呻くように言った五嶺を追求し、エビスが重ねて問う。

「何したんですか、若」

 せっかく左近に期待されてるんだから、きっちり叱っとかなければ。

 小言を言う気満々のエビスに、うるさいねぃ。という顔をして、五嶺はエビスを睨みつけたが、エビスは臆する事無く五嶺の顔を見返す。

 形勢が悪いと悟ったのか、五嶺はふいっと前を向き直った。

「エビス、今日は疲れたから早めに宿をとろうか? お前も病み上がりなんだし」

 あっ!

 誤魔化した!

「温泉に入って、美味しいもの食べて、ゆっくりして……」

 五嶺様め……! とエビスが思っていると、五嶺が振り返り、にっこりと笑った。

「ふふ……」

 エビスが、自分に弱いと知っている五嶺の、エビス殺しの必殺の笑顔。

「夜は、アタシを好きにしてもいいんだよぅ?」

 煉も魂も、肉体も、何もかも捧げても良いと思うような、五嶺の甘い誘惑。

 この手を使うことは読んでいたが、それでもついふららふらと罠に落ちてしまいそうになるのを、エビスは必死で堪えた。

 不意打ちだったら百パーセント防ぎきれないが、今回はあらかじめ心の準備をしていたのと、こればかりは絶対に譲れないという根性で乗り切った。

「かわいこぶっても駄目です」

 精神力を総動員して、なんとか甘い誘いに蕩けそうになる表情を隠し、エビスは平静を装って言う。

「宿で、ゆっくり聞かせてもらいますからね。左近裁判官補佐に口止めしても無駄ですよ。あいつは俺の味方ですから。日ごろから怒られる様な事をする五嶺様が悪いんです」

「お前、はなからアタシが悪いと決め付けて無いかぃ?」

 不満そうに言う五嶺に、エビスが即突っ込みを入れる。

「悪くないんですか?」

「エビスの、ほら、うぐいすだよ、可愛いねぃ」

 先ほどまでの会話など知りません。という澄ました顔で、五嶺が木に停まる小鳥を指差す。

 やっぱりな。五嶺様も自覚あるんじゃねぇか。

 返事をしない五嶺に肩をすくめ、二人で歩みを進める。

 無言で先へ進むたび、エビスの胸に暗雲が立ち込める。

 五嶺と二人で旅を続けるのは楽しい。

 だがこの旅の目的が目的な以上、一歩、また一歩と歩みを進めるたび、五嶺の身は確実に危険へと近づくのだ。

 それを思うと、不安に押しつぶされそうになる。

 ただでさえ一度五嶺を失いそうになったのだ。

 あのときの絶望、悲しみ、そして苦しみ、恐怖が、今でもまざまざと胸によみがえる。


 もう二度と、あんな思いはしたくない。


「嫌なんです、俺は」

 まるで独り言のように、唐突に呟かれたエビスの言葉を聞きとがめ、五嶺が不思議そうな顔をする。

「?」

「五嶺様、正直に言います。若が痛い思いしたり、嫌な思いしたり、苦しい思いするの、『俺が』嫌なんです。まして、若を失うなんて、耐えられない」

 不安に耐え切れず、思わず心の奥からあふれ出たエビスの言葉に、五嶺は思わず歩みを止めてエビスの方に向き直る。

「俺のわがままなんです」

 五嶺様の背負うたくさんの人たちのために。だなんて、五嶺様を引き止めるための聞こえの良い言い訳だ。

 本当は、俺が嫌なだけ、俺がそんな事して欲しく無いだけ。

 こんな事を言っても、五嶺様に不快な思いをさせてしまうだけだ。と思うが、不安を一度口にすると、堰を切った様に言葉がとまらない。

「無茶しないで下さい」

 エビスの目にある心配と不安の混じった光に、はっと五嶺が胸をつかれる。

「あんな思いは、もう二度と……!」

 五嶺を失いかけたあの時の事を思い出したのか、絶望と苦しみに満ちた悲鳴のような、エビスの言葉。

 エビスの目から逃げるように五嶺は早足で歩き出し、エビスがその後を急いで追う。

「アタシは、お前が見張っていないとどんな無茶するか判らないよ。煉の使いすぎで倒れるかもしれないし、変な魔法律家に浚われるかもしれない」

 エビスに背を向けながら言うので、五嶺の表情は伺えない。

 だが、エビスの不安をあおるような言葉に、エビスは嫌がって眉をひそめた。

「何で俺を脅すんですか……」

 思わず五嶺を責めるような言葉を口にすると、急に五嶺が立ち止まった。

 うわっと! と驚いてエビスが五嶺を見上げると、くるっと五嶺が振り返る。

「エビスだってさっきアタシを脅しただろぅ? 俺の命に代えてもだなんて言って!」

 エビスを振り返った五嶺のその表情が、まるで泣くのを堪えている駄々っ子のようで、エビスは驚く。

「いや、あれはそんなつもりじゃ……」

 何気ない自分の言葉を五嶺が思った以上に気にしていた。という意外な出来事に、エビスが驚いてしどろもどろになる。

「いいかぃ、お前には前科があるんだよぅ、エビスの」

 拗ねたような、怒ったような表情で、五嶺はエビスを指差して糾弾した。

「な、なんのですか……」

 心当たりの無いエビスが恐る恐る聞き返すと、自覚の無いエビスの言葉に、五嶺が苛立たしげに細い眉を吊り上げる。

「アタシを置いて死にかけただろぃ!」

 怒ってそう言った五嶺の言葉に、「あ」とエビスが思わず声を漏らす。

 五嶺の事ばかり気にしていて、自分のことなど全く気にしていなかったのだ。

「アタシが悪いのは判ってる! その件については謝る!」

 勢いに任せて五嶺は言葉を続け、エビスは、その、逆切れしながらも五嶺が口にした謝罪の言葉をぽかんとした顔で聞いていた。

 まさか、五嶺様が俺に謝るなんて!

 天変地異の前触れか。トロイのベルが鳴ったのは、この異変を予知しての事か。とエビスが真剣に心配すると、五嶺が、びっと扇子をエビスの鼻先に突きつけた。

「この際はっきりしよう。エビスの、言いたい事あらば今アタシの前ではっきり申せぃ!」

 なんとなく、お互い触れる事の無かった、あの大き過ぎる出来事を突然俎上にのせられ、エビスが硬直する。

「お前をおん出したり、殺しかけた、アタシの事、怒ってるかぃ?」

 柄に無く五嶺の緊張した声で発せられた問いだったが、当のエビスは、首を振って即答する。

「あ、いいえ」

 緊張感の無い声で返事をされ、五嶺のこめかみがぴくくっと動く。

「怒ってないはずがないだろぃ! 正直に言え、この豚!」

 問いただす。というよりは、脅迫する。と言ったほうが正しいような五嶺の目と口調だったが、やはりエビスは、なんでそんな大げさに……と思いながら、困ったように口を開く。

「怒ってません」

 素直に受け取ってくれたほうが嬉しいんだけどなぁ……。と思いながら、返事をする。

「本当かぃ?」

 五嶺の詰問にこくこくと必死に頷く。早くこの話は終わりにしたい。エビスにしてみれば、五嶺に気にされるほうが嫌なのだ。

「アタシに償って欲しい事は?」

 謝っているのに、上からものを言うような口調だったが、これが五嶺陀羅尼丸の精一杯なのだ。そしてそれはエビスもよくわかっている。

「特には……」

 給料あげろだとか、猫耳装備の上、語尾にニャン付けて話せとか、エビス愛護週間を設けろとか適当に言えばいいものを、エビスは馬鹿正直に言う。謝られているエビスの方が、なぜか卑屈な上目遣いで返事をすると、五嶺が突きつけていた扇子を下ろした。

「よし」

 よしって……。

 謝っているとは思えない高飛車な五嶺の言葉だったが、エビスがようやく尋問が終わったとほっと安堵する。

「じゃぁ、この話はこれで決着だ。いいねぃ。アタシももうこの事についてはくよくよしない」

 きっぱりとした口調で五嶺が言い、くよくよしてたんだ! とエビスは内心で驚いたが、胸のうちにしまっておいた。どこらへんが? という疑問もあったが、五嶺様なりに思うことがあったのだろうと思う事にして、こちらももちろん口にだす事は一生無い。

「アタシの禊は終わった。次はお前の番だ」

「え? 俺ですか」

 マヌケ面で返事をしたエビスの鼻先に、再び扇子が突きつけられる。

「アタシを置いて逝こうとした罪は重いからねぃ。一生かけて償ってもらうよ」

「あ……」

 その話か。

 さっきも、切羽詰った顔の五嶺からその件で責められた。

「お前はこれから何があろうと、ずうっとアタシの側にいるんだ。何があってもだよ!」

 エビスの死。というものを、初めて具体的に感じた五嶺にとってそれはトラウマらしく、その件について話す五嶺の顔は、普段の五嶺からすれば考えられないほど余裕の無い青い顔をしている。

 エビスは、五嶺のためなら本当に死ぬ。エビスがいなくなる可能性はありうる。ということを証明してしまったのだ。

 エビスがそのような事をほのめかすだけでも耳を塞ぎたくなる。想像するだけでも耐え切れない。

「絶対に許さないからねぃ、どんな理由があろうと、アタシを置いていくなんて。例えアタシのためだとしても、死ぬなんて許さない」

 見ているほうが胸が痛くなるような顔で五嶺は言い、エビスは、五嶺にそんな顔をさせてしまったことに対する罪悪感と、五嶺が自分の事を必要としているという嬉しさに全身が震える。

「はい……」

 涙で目の前がにじんだ。こみ上げてくる感情で、上手く声が出なかったが、五嶺を安心させるように、はっきりと返事をする。

「これからもずっと、お側にお仕えする事をお約束いたします」

 五嶺の求刑と執行に、エビスの異があるはずがない。

 エビスがそう言うと、五嶺もこみ上げてくる感情を必死で堪えている顔で頷き、すぐに前を向き直って歩き出す。

 五嶺様が、自分を大事に思ってくださっている。

 そう思うと、嬉しくて、嬉しくて、もっと強くなって五嶺様をお守りしようと改めて決意する。

 無茶などしなくても済むように強くなるのだ。

 とりあえず健康には気をつけよう。と思ったエビスが、目の前を行く五嶺の背に声をかけた。

「正直、びっくりしました」

「なにがだぃ」

「まさか若が俺に謝るなんて……」

 五嶺の顔が見たくて、少し歩きを早め、並んで歩きながらエビスが言うと、馬鹿にした表情で五嶺が隣のエビスをちらと見る。

「馬鹿。アタシが丸くなったとでも思ったのかぃ。勘違いするんじゃないよぅ?」

 か、勘違い?

 並んで歩くエビスの顔が引きつるのを見て、五嶺が前を向き直って言葉を続ける。

「お前に謝ったのなんか、アタシがすっきりしたいからに決まってるだろぃ。じゃなけりゃ誰がお前なんぞに頭下げるか。ずっともやもや罪悪感抱えて、お前に遠慮しながら生きてくなんてまっぴらごめんだ」

 五嶺は冷たい表情できっぱりと言い、すっとエビスより一歩前へ出た。

「もうお前に遠慮なんてしないからねぃ。あー、せいせいした」

 そう言いながらなぜかさっきより早足の五嶺の背を見ながら、エビスが一瞬立ち止まった。

 だがすぐに、小走りで五嶺の背を追いかける。

「若」

「なんだぃ」

 足の長さが違うので、五嶺と並んで歩こうとすると、エビスは自然ちょこまかと早足になる。

「おさすがです」

「恐れ入ったか、エビスの」

 ふふんと得意げに笑う五嶺の顔に、何時も通りの若だ。と嬉しくなる。

「若」

「なんだぃ」

 気だるそうに返事をした五嶺に、エビスが心の底からの言葉を口にする。

「だいすきです」

 唐突にかけられた言葉に、え? と五嶺の顔が驚いて、二三度瞬きする。エビスの言葉を理解すると、かぁっと五嶺の顔が赤くなった。

「馬鹿!!」

 照れてつっけんどんに言った五嶺の顔を見て、エビスの顔に笑みが浮かぶ。

 可愛いんだからなぁ、ほんと。

「なに嬉しそうな顔してるんだこの豚!」

「いや、若だなぁって」

 嬉しくて、可愛くて、思わずにやけた笑みを浮かべるエビスに、ますます五嶺の機嫌が悪くなる。

「なんだぃ? なんでアタシが負けたような気になるんだぃ? なんか腹立つんだよこの豚!!」

 怒って言うが、エビスのニヤニヤは収まるどころか、ますます蕩けそうなほどになる。

「そんな若の事が凄く好きです」

「なんなんだぃ、急に! 気色悪いねぃ。頭沸いてんじゃないのかぃ?」

「あの、俺、五嶺様が思ってる以上に五嶺様の事好きなんで。よろしくお願いします」

 何をよろしくしろってんだぃ! と怒る五嶺に、たまには美味しいエサを投げてください。それで俺はあと十年は戦えるんで。とエビスがジオン軍のようなことを真顔で言った。

「若の事置いて死ぬなんて絶対できないと、今すごく思いました」

 本心からしみじみとそう言うと、ビシィッと扇子で頭をはたかれた。

「イテッ!」

「お前、まだ言うか!! その気持ち悪い笑顔やめろ、殺されてぇのか!」

 本気で機嫌を損ねだした五嶺だったが、エビスはひるまない。

 五嶺の顔をまっすぐ見上げて、エビスが口を開く。

「いえ、俺若のために死ねませんので、殺すのは勘弁してください。キシシッ」


 再び、五嶺にビシィッと扇で叩かれても、エビスの笑顔が消える事は無いのだった。



 君なくばうき身の命何かせむ 残りて甲斐の有る世なりとも


 願わくば、あなたと過ごすこの時が、一日も長からん事を。







20060918 前半UP  20060928 完全版UP

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